二 友か僕か

「さて、なぜ私が自ら足を運んだのか。その理由はわかっているな?」

 通された居間の上座で胡坐あぐらをかきながら、秋霖しゅうりん磊落らいらくにそう問うた。

ながれからの使者は何度も出したが、どうしたことか梨の礫。八十瀬衆やそせしゅうらも説得に訪れたというが、そのたびに追い返されると嘆いていたぞ。磊落殿……どうしてそこまで頑迷に我々を拒むのか、理由をお聞かせ願えるか」

 答えを促されるが、しかし磊落は畳に手を付き、何も答えず深々と平伏したままだ。苦笑混じりの「皆、おもてを上げなさい」という秋霖の言葉に、磊落、栗花落つゆり──そして同席を命ぜられた野火は、揃って顔を上げた。

 秋霖の精悍なまなざしが、野火たちを順番に、その黒曜石のような瞳に映し込む。障子越しの柔らかな陽が、秋霖の浅黒い肌に淡い陰影を落としていた。意志の強そうな太い眉は苛立ちに吊り上げられることもなく、人好きのする笑みを湛えながら、鷹揚に構えて 磊落の返事を待っている。

(……この笑みだ)

 膝に上で握った拳を、くっと握りしめる。

(この笑みの魔性に、皆心を絡めとられる)

 熒惑事変けいこくじへんで死地に赴いた兵たちも。狂暴化した一角狼へ怯える人々も。秋霖の自信に満ちた笑みと類いまれな指導力に、いつの間にか己の心を預けてしまい、勇み喜び追従する。しかし秋霖を受け入れがたい野火にとっては、彼の黒々とした瞳の底にある、沼の気配に身震いがするのだ。

(あの瞳の奥が……俺には、笑っているようには見えない)

 自分自身がよく本心を隠して、笑みを貼り付けているからだろうか。同類のみが感じ取る、僅かな含みを嗅ぎ取ることができるような気がするのだ。

 秋霖の顔に落ちる陰影の上を、いくつかの小さな影が通り過ぎる。庭で群れていた雀らが、一斉に飛び立った影であろう。チチチ、チチチと軽やかな、雀らの声が遠くなる。それが聞こえなくなってもなお、磊落の口は開かなかった。

「なるほど。流や八十瀬衆が手こずるわけだ」

 黙秘に怒りだすこともなく、秋霖は喉の奥でくつくつと笑う。

「ならば、私の話を聞いていただこうかな」

 胡坐をかいた膝をぽんと軽快に叩き、秋霖は前のめりに身を傾けた。

「以前使者に持たせた書簡でお伝えしている通り、この玉響狼舎たまゆらろうしゃは対帝国に備えた軍事拡張の要となる。天座あまくら連峰に繋がる弦ヶ丘は良い狩場であり、それを速やかに収容できる備え付けの狼舎と、屋敷周囲の広い土地も素晴らしい。繁殖場の建設や狼舎の拡張も、滞りなく行えるだろう」

(……繁殖場?)

 野火の前に座る磊落の背は強張っており、横に座る栗花落の拳は、膝の上できつく握られている。身の内から沸き上がる怒りに、懸命に蓋をして耐え忍んでいるように見えた。

「先日、八十瀬衆が体格の良い雄の一角狼の捕獲にも成功している。我が流に属する伏士ふせしも、修練を積んで熟達した。あとは、我が国が誇る資源を増やすのみ。──私が自らこの太白くんだりまで足を運んだのも、このためだ」

 背後に控えていた従者のひとりが、秋霖に一枚の書状を差し出した。太陽が如くからりと笑う秋霖に対し、背後に控えるふたりの従者は、影そのもののような不気味さがある。覆面で顔を覆っており、その表情を窺うことはできない。羽織の裾に描かれている渦巻く流水文様が、彼らがながれの者だという唯一の目印となっていた。

 受け取った書状を、秋霖は磊落の目の前に突きつけた。──接収令状である。

「兄上が病に伏してしまわれてから、早六年。私は乱れた政を正し、各地に八十瀬衆の屯所を設え、村々を一角狼の脅威より守る手筈を整えた。伏式ふせしきに必要な従針じゅうしんの製造も、概ね軌道に乗せることができた。磊落殿。ここが、私が理想とする国造りの詰めなのだ。──玉響狼舎、ならびにそれに連なる土地を、流が接収させていただく」

 滔々と語る秋霖の声が、次第に熱を帯びていく。対する磊落の額には、青筋が立ちはじめていた。

「お断り申し上げる」

 ようやく開いた磊落の口から出たのは、唸るように低い拒絶であった。

「殿下のおっしゃる理想は、人間の傲慢にございます。一角狼の自我を奪い、交配の末の従属、果ては人のための戦で命を潰えさせるという、神をも畏れぬような所業……道に外れた者の行いそのものではございませぬか」

 「そうだろうか」と、秋霖はさらりと反論する。

「では聞くが、心式で一角狼を戦場に連れ出すのと、伏式でそうするのとは何が違う? 前者は今まで何の問題もなく受け入れられていたではないか」

「心式で絆を結んだ一角狼は、自らの意思で朋友たる人間を守るという選択をいたします。ともに生きるために。しかし、伏式はそうではない」

「ともに生きるため、か。──そなたも、兄上と同じようなことを言う」

 くつくつと、喉の奥の笑いを深くする。ぞくりと、背に怖気が走った。それは野火には、嘲りを含んだ笑いに聞こえたのだ。

「私の理想が傲慢だというのなら、そなたの理想は無責任な感情論だ。ともに生きるという一角狼は今、戦線から遠ざかり、古巣の天座あまくら連峰に、我も我もと逃げ帰っているではないか。結果、我々人間ばかりが対帝国の矢面に立ち、この国を守るために死んでいく。それがそなたの言う、ことなのか? 山に籠る一角狼をことが?」

「それは、殿下が熒惑事変けいこくじへんで一角狼に無理を強いたから──」

「私があの作戦を実行しなかったら、今頃この国は帝国に蹂躙されているぞ」

 書状を畳に叩きつけ、秋霖は語気を荒らげた。

「それは土地を奪われ、言葉を奪われ、文化を奪われるということだ。六合人の尊厳は、塵屑のように踏みにじられる。一角狼という種族ひとつを守るために、そのようなことを許すわけにはいかない。この国でともに生きるというのなら──彼らにも戦ってもらわねばならない。感情論では、帝国は引き下がってはくれぬのだ」

 「しかし」と食い下がろうとする磊落を、秋霖は手をあげて制した。控えていた従者のふたりが刀に手をかけ、これ以上の反論には抜刀の気配を漂わせる。

「繁殖場及び狼舎増設の着工は、今日を含めて三日後だ。そのときに、改めてそなたらの意思を問おう。接収に応じるのか、なお拒絶するのか。なに、そなたらの生家を頂戴するのだ、相応の保証と報酬は考えている」

 張り詰めていた空気を溶かすように、秋霖は破顔して見せた。

「太白の片隅に代わりの住居の用意はすでにある。それから、代わりの仕事場も」

 秋霖が従者の男から、もう一枚の書状を受け取り、磊落の前へと畳を滑らせる。目を通した磊落が言葉を失い、書状と秋霖の顔を何度も交互に見る様子に、野火は嫌な予感がした。

「殿下、これは──何が、相応の保証と報酬か!」

 激昂して書状を握りつぶした磊落を、左右から野火と栗花落が咄嗟に抑えた。今にも 飛びかかりそうな真っ赤な顔をした磊落を、秋霖は涼しげな笑みを湛えたまま見据えている。磊落の手から書状を取り上げ、野火は中身に目を通す。文字に目を走らせるにつれ、さあっと血の気が引いていった。

「才あるそなたたちには、ぜひとも我がながれにご助力頂きたい。都の兵学所で教鞭をとられていた磊落殿は、八十瀬衆の武術師範としてお迎えする。元軍医である栗花落殿には、流の治療班に加わっていただきたい。それから、野火殿。磊落殿の客人は狼士ではないかと、八十瀬衆から報告を受けている。その証を、前髪を上げて見せていただけるか」

 促され、野火はしぶしぶ前髪をかき上げる。

(……屋敷に招かれた日に、栗花落さんと言い争いをしていたやつらの報告か)

 栗花落に襲いかかろうとしていたところを、足を払って倒し、刀を突きつけた。そのときに、額にある角の印が見えてしまったのだろう。

 あらわになった額を見て、秋霖は「やはり」と感嘆の声を漏らした。

「三角形の、角の印。狼士の証だ。ではそなたには、ぜひとも伏士となっていただきたい」

「な──、野火は関係なかろう!」

 磊落がかばうが、しかし秋霖は首を振る。

「我々は才あるものを迎え入れる用意がある。特に式の扱いに長けた者ほどありがたい。ともに民と民をつなぎ合わせて強固な国となるための、楔のひとつとなろうではないか」

 そう言って、秋霖はにかりと笑う。けれども、野火の背は戦慄していた。

(王弟の誘いなど断れば、俺は……反逆罪か、不敬罪か?)

 一角狼を狩り、自我を奪い、戦の駒として使役する。最も厭うてきた行いに、いまさら手を染めるというのか。

(俺は、伏士になど……)

 言葉を探しあぐね、強く歯の根を噛みしめた。秋霖の太い眉が、返事を促すように跳ね上げられる。永遠とも感じられる視線の攻防に、野火の心臓は鐘のように、身体の内で鳴り響いた。息が詰まる。ヒュウと息を吸い込んだ、まさにそのとき。

 すぱんと軽い音を立て、居間の障子が開かれた。少し着崩れた桜色の着物。結い上げられた髪に飾られた、六合菊のかんざしがきらりと光る。昼日中の白い陽を背負い立つ人物に、野火は言葉を忘れて瞠目した。

(──宵越!)

 昨日の八十瀬衆が来たときと同じように、狼舎の奥に隠れているようにと、しっかり 言い含めたはずなのに。刹那の戸惑いから初めに我に返ったのは、秋霖の従者であった。

 刀に手をかけ、大きく一歩、宵越の前へと躍り出る。咄嗟に野火も畳を蹴り、宵越をかばおうとふたりの間に割り込んだ。しゃらりと滑る刃の切っ先が鞘から離れ、野火の鼻先に迫る。斬られる。そう覚悟した矢先、「やめよ!」という秋霖の声に、従者のふたりはぴたりと動きを止めた。

「ふたりとも、刀をおさめなさい」

 従者らを下がらせ、秋霖はすっくと立ちあがった。野火を挟み、宵越と秋霖が互いを見る。衣を握りしめられる感触がした。振り返ると、宵越の小さな唇が、かすかに震えているのが知れた。

 そうしてぽろりとこぼれた彼女の言葉に、野火は耳を疑った。

「……叔父様?」

 その場のすべての人物が、宵越を注視する。今、宵越はなんと言ったのだ。

(この子は今……王弟を、叔父と呼んだのか?)

 つと、蟀谷こめかみに冷や汗が伝う。亡き母のものだという豪奢な着物や、幼いながらに心式を使いこなし、さらには医の心得を持つという高い教養。ぼんやりとではあるが、宵越はどこかの医者か、貴人の娘に違いないと思ってはいた。けれど、王弟を叔父と呼べる者は、この国にはたったひとりしかいない。──否、そのひとりすら、もう存在しないはずなのに。

 六年前。その者は狂暴化した一角狼に襲われて、無残に亡くなってしまったはず。だからこそ悲しみの余り九霄きゅうしょう王は心を病み、長いこと病床に伏しているのではなかったか。

──一角狼の群れに襲われて、必死で逃げたのに、でも私は、母様と細に守られて。

(襲われた? ……いつ)

──私と細は、生まれたときから一緒なんだ。山に籠った六年も、片時も離れたことなんてなかった。

(六年前? 縁切りも、ちょうどその頃だ)

──傷の手当てのやり方はね、母様が教えてくれたんだ。

(王妃は確か、もとは九霄きゅうしょう王付きの人医のはず。それが、あの子の母だと言うならば)

 すべてが、合致する。疑いようもない。

(宵越は……亡くなったはずの姫君か!)

 秋霖が宵越に歩み寄った。野火の陰から顔を覗かせる宵越に合わせ、腰を屈めて視線を交わす。瞬きを忘れた宵越の琥珀の瞳が、祈るように秋霖を見上げていた。

「叔父様、私だ。お願いだから、私のを……呼んでよ」

 搾り出した掠れ声に、秋霖の大きな手が伸び、宵越の頭を撫でる。そうしながら言われた言葉に、宵越の祈りは打ち砕かれた。

「申し訳ないが……私はお嬢さんの名は知らぬし、叔父でもない。私にも姪がいたが、もうずいぶん前に亡くなってしまったのだ。恐ろしい一角狼に、食い殺されてしまったんだよ」

 悲しそうに眉を下げながら、秋霖はかぶりを振ってそう言い切った。

「残念だが、他人の空似だろう。野火殿、この子は?」

 問われ、野火は咄嗟に申し訳なさそうな表情を張り付けた。

「ご無礼致しまして申し訳ございません。この子は俺の遠縁の子で、戦で家族を亡くしてしまい、俺が引き取り面倒を見ているのです。まだ礼儀を知らぬゆえ、奥に下がらせていたのですが……秋霖様のご尊顔に、亡き家族の面影を見たのでございましょう」

 つらつらと口をつく申し開きの言葉は、まるで自分の発したものではないような心地がしていた。宵越の言葉は、偽りには聞こえない。けれどもこの国の姫君は、確かに六年前に国葬されたはずなのだ。

(どういうことなんだ)

 ちらりと磊落と栗花落を見るも、ふたりとも困惑した顔をして、何を言ったらいいかもわからないようであった。

「可哀そうに……そなたのような子をなくすためにも、私はこの国のために力を尽くそう」

 かけられる秋霖の言葉にも、宵越はもう顔を上げなかった。ただ野火の衣を握りしめる手に、頑なな力が込められている。

(宵越の……姫君の身に、六年前、いったい何があったんだ)

──息を引き取る直前の母様に、言われたんだ。私の、……名を呼び、細が信頼を示すものが現れるまで、決して山を下りてはいけない。細とともに隠れていなさいと。

(なぜ、母親はすぐに山を下りさせなかった? そうすれば、姫君が生きているとわかり、誤った国葬などしなくてすんだのでは)

──あいつらは、逆印のやつらは私と母様を襲った!

 宵越が怒りとともに吐き出した言葉が、野火の耳の奥に蘇る。

(……逆印?)

 不穏な気配が、宵越の周囲に蜷局とぐろを巻いているような気がした。

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