二 友か僕か
「さて、なぜ私が自ら足を運んだのか。その理由はわかっているな?」
通された居間の上座で
「
答えを促されるが、しかし磊落は畳に手を付き、何も答えず深々と平伏したままだ。苦笑混じりの「皆、
秋霖の精悍なまなざしが、野火たちを順番に、その黒曜石のような瞳に映し込む。障子越しの柔らかな陽が、秋霖の浅黒い肌に淡い陰影を落としていた。意志の強そうな太い眉は苛立ちに吊り上げられることもなく、人好きのする笑みを湛えながら、鷹揚に構えて 磊落の返事を待っている。
(……この笑みだ)
膝に上で握った拳を、くっと握りしめる。
(この笑みの魔性に、皆心を絡めとられる)
(あの瞳の奥が……俺には、笑っているようには見えない)
自分自身がよく本心を隠して、笑みを貼り付けているからだろうか。同類のみが感じ取る、僅かな含みを嗅ぎ取ることができるような気がするのだ。
秋霖の顔に落ちる陰影の上を、いくつかの小さな影が通り過ぎる。庭で群れていた雀らが、一斉に飛び立った影であろう。チチチ、チチチと軽やかな、雀らの声が遠くなる。それが聞こえなくなってもなお、磊落の口は開かなかった。
「なるほど。流や八十瀬衆が手こずるわけだ」
黙秘に怒りだすこともなく、秋霖は喉の奥でくつくつと笑う。
「ならば、私の話を聞いていただこうかな」
胡坐をかいた膝をぽんと軽快に叩き、秋霖は前のめりに身を傾けた。
「以前使者に持たせた書簡でお伝えしている通り、この
(……繁殖場?)
野火の前に座る磊落の背は強張っており、横に座る栗花落の拳は、膝の上できつく握られている。身の内から沸き上がる怒りに、懸命に蓋をして耐え忍んでいるように見えた。
「先日、八十瀬衆が体格の良い雄の一角狼の捕獲にも成功している。我が流に属する
背後に控えていた従者のひとりが、秋霖に一枚の書状を差し出した。太陽が如くからりと笑う秋霖に対し、背後に控えるふたりの従者は、影そのもののような不気味さがある。覆面で顔を覆っており、その表情を窺うことはできない。羽織の裾に描かれている渦巻く流水文様が、彼らが
受け取った書状を、秋霖は磊落の目の前に突きつけた。──接収令状である。
「兄上が病に伏してしまわれてから、早六年。私は乱れた政を正し、各地に八十瀬衆の屯所を設え、村々を一角狼の脅威より守る手筈を整えた。
滔々と語る秋霖の声が、次第に熱を帯びていく。対する磊落の額には、青筋が立ちはじめていた。
「お断り申し上げる」
ようやく開いた磊落の口から出たのは、唸るように低い拒絶であった。
「殿下のおっしゃる理想は、人間の傲慢にございます。一角狼の自我を奪い、交配の末の従属、果ては人のための戦で命を潰えさせるという、神をも畏れぬような所業……道に外れた者の行いそのものではございませぬか」
「そうだろうか」と、秋霖はさらりと反論する。
「では聞くが、心式で一角狼を戦場に連れ出すのと、伏式でそうするのとは何が違う? 前者は今まで何の問題もなく受け入れられていたではないか」
「心式で絆を結んだ一角狼は、自らの意思で朋友たる人間を守るという選択をいたします。ともに生きるために。しかし、伏式はそうではない」
「ともに生きるため、か。──そなたも、兄上と同じようなことを言う」
くつくつと、喉の奥の笑いを深くする。ぞくりと、背に怖気が走った。それは野火には、嘲りを含んだ笑いに聞こえたのだ。
「私の理想が傲慢だというのなら、そなたの理想は無責任な感情論だ。ともに生きるという一角狼は今、戦線から遠ざかり、古巣の
「それは、殿下が
「私があの作戦を実行しなかったら、今頃この国は帝国に蹂躙されているぞ」
書状を畳に叩きつけ、秋霖は語気を荒らげた。
「それは土地を奪われ、言葉を奪われ、文化を奪われるということだ。六合人の尊厳は、塵屑のように踏みにじられる。一角狼という種族ひとつを守るために、そのようなことを許すわけにはいかない。この国でともに生きるというのなら──彼らにも戦ってもらわねばならない。感情論では、帝国は引き下がってはくれぬのだ」
「しかし」と食い下がろうとする磊落を、秋霖は手をあげて制した。控えていた従者のふたりが刀に手をかけ、これ以上の反論には抜刀の気配を漂わせる。
「繁殖場及び狼舎増設の着工は、今日を含めて三日後だ。そのときに、改めてそなたらの意思を問おう。接収に応じるのか、なお拒絶するのか。なに、そなたらの生家を頂戴するのだ、相応の保証と報酬は考えている」
張り詰めていた空気を溶かすように、秋霖は破顔して見せた。
「太白の片隅に代わりの住居の用意はすでにある。それから、代わりの仕事場も」
秋霖が従者の男から、もう一枚の書状を受け取り、磊落の前へと畳を滑らせる。目を通した磊落が言葉を失い、書状と秋霖の顔を何度も交互に見る様子に、野火は嫌な予感がした。
「殿下、これは──何が、相応の保証と報酬か!」
激昂して書状を握りつぶした磊落を、左右から野火と栗花落が咄嗟に抑えた。今にも 飛びかかりそうな真っ赤な顔をした磊落を、秋霖は涼しげな笑みを湛えたまま見据えている。磊落の手から書状を取り上げ、野火は中身に目を通す。文字に目を走らせるにつれ、さあっと血の気が引いていった。
「才あるそなたたちには、ぜひとも我が
促され、野火はしぶしぶ前髪をかき上げる。
(……屋敷に招かれた日に、栗花落さんと言い争いをしていたやつらの報告か)
栗花落に襲いかかろうとしていたところを、足を払って倒し、刀を突きつけた。そのときに、額にある角の印が見えてしまったのだろう。
あらわになった額を見て、秋霖は「やはり」と感嘆の声を漏らした。
「三角形の、角の印。狼士の証だ。ではそなたには、ぜひとも伏士となっていただきたい」
「な──、野火は関係なかろう!」
磊落がかばうが、しかし秋霖は首を振る。
「我々は才あるものを迎え入れる用意がある。特に式の扱いに長けた者ほどありがたい。ともに民と民をつなぎ合わせて強固な国となるための、楔のひとつとなろうではないか」
そう言って、秋霖はにかりと笑う。けれども、野火の背は戦慄していた。
(王弟の誘いなど断れば、俺は……反逆罪か、不敬罪か?)
一角狼を狩り、自我を奪い、戦の駒として使役する。最も厭うてきた行いに、いまさら手を染めるというのか。
(俺は、伏士になど……)
言葉を探しあぐね、強く歯の根を噛みしめた。秋霖の太い眉が、返事を促すように跳ね上げられる。永遠とも感じられる視線の攻防に、野火の心臓は鐘のように、身体の内で鳴り響いた。息が詰まる。ヒュウと息を吸い込んだ、まさにそのとき。
すぱんと軽い音を立て、居間の障子が開かれた。少し着崩れた桜色の着物。結い上げられた髪に飾られた、六合菊の
(──宵越!)
昨日の八十瀬衆が来たときと同じように、狼舎の奥に隠れているようにと、しっかり 言い含めたはずなのに。刹那の戸惑いから初めに我に返ったのは、秋霖の従者であった。
刀に手をかけ、大きく一歩、宵越の前へと躍り出る。咄嗟に野火も畳を蹴り、宵越をかばおうとふたりの間に割り込んだ。しゃらりと滑る刃の切っ先が鞘から離れ、野火の鼻先に迫る。斬られる。そう覚悟した矢先、「やめよ!」という秋霖の声に、従者のふたりはぴたりと動きを止めた。
「ふたりとも、刀をおさめなさい」
従者らを下がらせ、秋霖はすっくと立ちあがった。野火を挟み、宵越と秋霖が互いを見る。衣を握りしめられる感触がした。振り返ると、宵越の小さな唇が、かすかに震えているのが知れた。
そうしてぽろりとこぼれた彼女の言葉に、野火は耳を疑った。
「……叔父様?」
その場のすべての人物が、宵越を注視する。今、宵越はなんと言ったのだ。
(この子は今……王弟を、叔父と呼んだのか?)
つと、
六年前。その者は狂暴化した一角狼に襲われて、無残に亡くなってしまったはず。だからこそ悲しみの余り
──一角狼の群れに襲われて、必死で逃げたのに、でも私は、母様と細に守られて。
(襲われた? ……いつ)
──私と細は、生まれたときから一緒なんだ。山に籠った六年も、片時も離れたことなんてなかった。
(六年前? 縁切りも、ちょうどその頃だ)
──傷の手当てのやり方はね、母様が教えてくれたんだ。
(王妃は確か、もとは
すべてが、合致する。疑いようもない。
(宵越は……亡くなったはずの姫君か!)
秋霖が宵越に歩み寄った。野火の陰から顔を覗かせる宵越に合わせ、腰を屈めて視線を交わす。瞬きを忘れた宵越の琥珀の瞳が、祈るように秋霖を見上げていた。
「叔父様、私だ。お願いだから、私の名を……呼んでよ」
搾り出した掠れ声に、秋霖の大きな手が伸び、宵越の頭を撫でる。そうしながら言われた言葉に、宵越の祈りは打ち砕かれた。
「申し訳ないが……私はお嬢さんの名は知らぬし、叔父でもない。私にも姪がいたが、もうずいぶん前に亡くなってしまったのだ。恐ろしい一角狼に、食い殺されてしまったんだよ」
悲しそうに眉を下げながら、秋霖は
「残念だが、他人の空似だろう。野火殿、この子は?」
問われ、野火は咄嗟に申し訳なさそうな表情を張り付けた。
「ご無礼致しまして申し訳ございません。この子は俺の遠縁の子で、戦で家族を亡くしてしまい、俺が引き取り面倒を見ているのです。まだ礼儀を知らぬゆえ、奥に下がらせていたのですが……秋霖様のご尊顔に、亡き家族の面影を見たのでございましょう」
つらつらと口をつく申し開きの言葉は、まるで自分の発したものではないような心地がしていた。宵越の言葉は、偽りには聞こえない。けれどもこの国の姫君は、確かに六年前に国葬されたはずなのだ。
(どういうことなんだ)
ちらりと磊落と栗花落を見るも、ふたりとも困惑した顔をして、何を言ったらいいかもわからないようであった。
「可哀そうに……そなたのような子をなくすためにも、私はこの国のために力を尽くそう」
かけられる秋霖の言葉にも、宵越はもう顔を上げなかった。ただ野火の衣を握りしめる手に、頑なな力が込められている。
(宵越の……姫君の身に、六年前、いったい何があったんだ)
──息を引き取る直前の母様に、言われたんだ。私の、……名を呼び、細が信頼を示すものが現れるまで、決して山を下りてはいけない。細とともに隠れていなさいと。
(なぜ、母親はすぐに山を下りさせなかった? そうすれば、姫君が生きているとわかり、誤った国葬などしなくてすんだのでは)
──あいつらは、逆印のやつらは私と母様を襲った!
宵越が怒りとともに吐き出した言葉が、野火の耳の奥に蘇る。
(……逆印?)
不穏な気配が、宵越の周囲に
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