五幕 ともに
一 囚われの身
「こっちへ来なさい!」
真っ赤な口を、剥き出しの牙を、母の肩越しに見た。木々の間を縫うように走り、山の奥へと逃げてもなお、それはどこまでも追いかけてきた。
「細、すまない──頼む!」
母とともに背から降りると、細は踵を返して応戦に入った。相手の牙を避けて首元に噛みつき、大きく顎を振って投げ飛ばす。息を飲んだ。木に強く身体を打ち付けた相手の角が、はずみでぼきりと折れたのである。根元付近から折れた角は、木々の下生えに隠れる、母娘のそばに落ちてきた。
「……あれ、なに?」
なにかきらりと光るものが、角と雑草の合間に落ちていた。摘まみ上げて、母の掌に乗せてみる。なにかのまじないが施された、鈍色の小さな楔。急に細への敵意を失くした一角狼と、楔を見比べる母の顔色が、みるみる曇っていくのが恐ろしかった。
これは、なにかよくないものなのだ。まだ七つの
「かあさま。かあさま、こわい」
母の胸に飛び込もうとした。まだ明確な形を得ない不安を預けて、いつものように柔らかく抱きしめてほしかった。しかし。
宵越の願いは、叶わなかった。
飛び込もうとした胸から、何かが飛び出していた。冷たく、固く、光っている。ぬるりとした赤をまとった、白刃であった。
いつの間にか、母の背後には男が立っていた。額には見たことのない、逆三角形の印を刻んでいる。男が母の背を蹴って刀を引き抜くと、ぱっと血の花が散る。母の血を浴びて呆然とする宵越を、男は無感動な瞳で見下ろしていた。
「──さ、細……、」
娘に守るようにして覆いかぶさった母が、か細い声で友を呼ぶ。
「噛み砕け──!」
津波のような激しい心式が、わっと波紋を広げる。最後に見たのは、細が一足でこちらに飛び込んでくる姿だった。その先の光景は、目隠しをされて見ることはなかった。
ただ牙が肉を貫く鈍い音が、宵越の耳に飛び込んできたのだった。
目蓋の裏の暗闇を見据えていると、今でもこうして鮮明に思い出せる。細の牙。男の額の逆印。母の血の赤さ。それらひとつひとつが、脳裏に焼き付いて離れない。
息苦しくなって、宵越は目を開けた。八十瀬衆から秋霖に引き渡されたのち、主のいなくなった
「まるで芋虫だな」
障子を引いて現れた
「まさか、狼女自ら戻ってくるとは思わなんだ」
「叔父様、惚けないで」
「この私をまだ叔父と呼ぶか。諦めの悪い姪よ」
「やっぱり……私がわかってるじゃないか」
「名は呼ばぬぞ。この国の姫君はもういない」
「いる。名を呼ばれなくたって、私は私だ!」
畳で頬を擦りながら、宵越は吠えた。
──大丈夫。俺は、君がここにいるのを知っている。
野火が、ほんとうの名を呼んでくれた。
長いこと、己の姿は獣と化して、山々の蒼い影に溶けていた。それがあのときを境に、確固とした人の姿を取り戻したように思えたのだ。
「しかし、散々逃げ回ったあげくに、なぜ自ら捕まりに来たのだ」
秋霖が訝しげに問うてくる。
宵越は一度深く息を吸い、吐き出した。
母が帰ってくるわけでも、縁切りがなかったことになるわけでもない。それでも、知りたかった。知って、考えることから始めなければ、それこそ本当にただの獣──狼女になってしまうような気がしたのだ。
「どうして縁切りなんて起こさなくちゃいけなかったのか、知りたいんだ。だから、叔父様の気持ちを……考えていることを、教えてほしい」
思わぬ返答に虚を突かれたのか、秋霖が一瞬言葉を失った。
「なにを言うかと思えば」
行灯の明かりを映し込む黒い瞳が、すっと細められる。
「母親を殺める手引きをした私を、理解しようというのか」
「叔父様のしたこと、全部受け入れられるとは思わないよ。でも、話し合いたい。話して、知って……その上で、これからのことを考えていきたいんだ」
「考える、か。そんなことせずとも、先のことはもう決まっている」
「あ──やめて、返してよ!」
秋霖の手が、帯に差していた栗花落の
桶の中身に、息を呑んだ。首だ。男か女かも判別がつかないほどに潰れた首が、乱れた髪に巻かれながら、桶の中で鎮座していたのだ。
「折狼が屠った中で、一番年若い者の首を使った。これでは誰だか判別はつかないだろうが、こうすれば──」
首に巻きつく髪の重ねに、秋霖は栗花落の簪を挿し飾った。
「そら、狼女の首の完成だ。お前がこの簪を挿しているのを、多くの者が目撃している。大通りに晒せば、八十瀬衆が狼女は裁かれたのだと吹聴してくれるだろう」
そう言って満足そうに、秋霖は唇の端をつり上げて笑った。
ぞわりと、背に怖気が走った。同時に、
「こうやって……こうやって、六年前も、私を殺したの?」
二目と見られぬほど損壊した首を用意して、
「そんなに王になりたかったのなら、父様ともっと話し合えば……こんな酷いやり方選ばなくたって!」
「話し合える時期はとうに過ぎた。私は私のやり方で国を守る。さて──」
秋霖が、くいと宵越の
「あの楔はどこだ。拾っただろう、六年前」
楔。折れた一角狼の角から落ちた、あの小さな従針。母に託され、今は野火のもとにある。
「……なにそれ。なんのこと?」
「白々しいな。あの野火とかいう男に託したか?」
「──っ、野火は関係ない!
「ほう、楔が従針なのだと知っているじゃないか。むきになるのは図星だからか」
「ち、違うっ……! 山……山に、捨てた!」
「ばかばかしい」
いまさらながら、野火に従針を託したままにしてしまったことを後悔した。秋霖は意地の悪い笑みをひっかけて、宵越を見下ろしている。その父と瓜二つの顔が歪む様が、涙が出るほど憎らしかった。
「巻き込みたくないから離れたのか? もしもそうなら、無駄なことだ」
「む、無駄? どうして、」
「屯所での大立ち回りに、玉響狼舎での狼女隠匿。あの三人には、すでに追手がかかっているぞ。お前に関わったのが、あの者らの運の尽きだな」
愕然としてしまい、返す言葉が思いつかなかった。三人に迷惑をかけたくなかった。だからこそ、ひとり叔父のもとへとやって来て、事態の改善を図ろうとしたというのに──
すべてが、裏目に出てしまったではないか。
「叔父様、やめてよ……三人とも、とても優しい、いいひとなんだ……!」
「それはあの者らが、お前にとって都合がいい相手だからそう思うだけだ。国や私にとってみれば、現体制を揺るがそうとする、ただの不穏分子だよ」
秋霖は宵越の背後に回ると、懐から取り出した布で目隠しをした。なにも見えないが、叔父の息遣いを耳元に感じる。
「心式を使えない私が王位に就くためには、継承権を持つ姫君の死は必要不可欠。だが──楔の回収を終えるまでは、その所在を知るお前を殺せない」
「私を殺して、終わりでいいよ。野火たちは、関係ない……関係、ないんだったら……!」
「くどい。悔しければ、私を動かすに足る論を唱えるか、力ずくで王位から引きずり降ろしてみよ」
嘲るような叔父の言葉に反論しようにも、しかし続いて噛まされた猿轡に、無様な呻きが漏れるのみだ。解放を求めて身を捩っていると、突然首に鋭い痛みが走った。朦朧とする意識の中で、担ぎ上げられたのか、ふっと身体が浮く感覚がした。
「恨むなら、国を傾けた兄上を恨め」
秋霖の言葉を聞いたのを最後に、宵越の意識は途絶えた。
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