四 決意と別れ

 それからしばらく、野火はしずりの、宵越はささめの背に揺られながら、獣道を進んだ。あらたに落ち着けるねぐらを探し、深い茂みや崖下の洞穴、岩陰などを見て回る。気が付けば日は傾き、茜色の斜陽が落ちていた。うすら長い影を足元に落とし、山に籠る蒼い巨影と重なり合う。

「見ろ、柿がなってるぞ」

 指差しながら、鈴生りに実をつけた枝を仰いだ。梢の隙間から除く夕日のような、橙色のよく熟れた実であった。

「食べられないよ。ひどい味がするぞ」

「そりゃあ、そのままの渋柿なんて食えたものじゃない。よく干してから食うものだ」

 重みで垂れ下がった枝の先から、そのひとつをもぎり取る。艶のある皮ははりがあり、見た目には甘そうに見えるのだが。

「なんだ、齧ったことがあるのか?」

「あるよ。つやつやして、美味しそうに見えたから。でもすごく渋いものだから、びっくりして吐き出した」

 口に広がる渋みを思い出したのか、宵越が顔を顰める。その顔が可笑しくて、野火は思わずくすりと微笑んだ。

「あ、笑った!」

「え?」

「野火はあまり表情を変えないから、笑えないのかと思った」

 ひたりと口元に手を当て、顔を隠した。

 旅の間、無難に人々と付き合うために、常に作り笑顔を張り付けていた。そうすれば不要な争いにも巻き込まれなかったし、相手は概ね親切にしてくれた。野火にとっての笑顔など、便利な処世術として、口角を上げ、眦を下げるだけの作業になっていたのだ。宵越と出会ってからは、目まぐるしく移る状況に、作り笑いすら張り付ける余裕がなかったけれど。それが、今。

 思わず、自然な笑みがこぼれた。

「どうした?」

「別に、」

「顔は隠すな。表情は言葉と同じなんだ。伝えるためにある。何を考えているのか、教えろ」

 曖昧な返事をすると、不満そうな宵越が、細の背からひょいと垂に飛び移る。取り合ってくれない野火の気を引くため、無防備な耳に噛みついた。

「痛いじゃないか!」

「お前が隠すからだ。私はお前のことを知りたいんだ。──あ、赤い」

 野火の顔を晒すことに成功し、宵越がまじまじと覗き込んでくる。

「なんだよ、笑うのが恥ずかしかったのか?」

「……からかうな」

「からかってなんかない。ぼうっとした顔よりも、そのほうが絶対いいよ」

 じゃれついてくる宵越から逃げるように、野火は細に飛び移った。細は心得たとばかりに、宵越を乗せた垂から距離を取る。背後で宵越が何か文句を言っていたが、目覚め始めた梟の地鳴きのせいにして、聞こえないふりをすることにした。

 下弦の月が梢の合間に青く細く昇る頃、野火たちはようやく落ち着ける場所を得た。小高い斜面を作る岩陰に隠されていた、狭い横穴を見つけたのだ。絡まる木の根と蔦に隠されていたその横穴は、一角狼には狭すぎるが、ふたりが入るには十分な空間がある。奥には落ち葉が吹き溜まり、柔らかな地面は寝心地も悪くはなさそうだ。

「俺は外で寝るよ」

「なぜ。寒いじゃないか。ここで一緒に寝ようよ」

 宵越は躊躇う野火の手を取って、なかば強引に横穴へと引き入れた。続いて入り口を守るようにして伏せる細の、太く柔らかな尾も抱き寄せる。それを抱えて宵越の母の着物に包まると、寄り添うふたりの体温が籠り、あっという間に温まった。

 誰かの遠吠えが響いていた。細く、長く、夜空に昇る遠吠えは、どこか哀愁を帯びている。

「……今夜は、あわか」

 ぽつりと、宵越が呟く。

「新がいなくなってから、夜になると誰かしらが、ああやって鳴くんだ。とても悲しそうな声をするから……聞いているのが、つらい」

「……悼んでいるんだな。突然群れからいなくなれば、彼らにとっては新が死んでしまったように思うんだろう。一角狼の群れの結束は強い。……強いからこそ、長いこと仲間との別れを惜しむ」

 着物と細の尾の下で、宵越が身を寄せてくる。野火の腕に抱き着いて、袖を強く握りしめた。

「なあ……袢纏の男たちは、どうして一角狼を捕まえるんだ? やつら、新の角に何かを打ち込んでいた。そうすると、新が急にやつらに対して従順になって、連れていかれてしまったんだ。まるで……魂を抜かれたみたいだった」

 従針じゅうしんだと、野火は心の内で呟いた。

 八十瀬衆は、武器を手に一角狼を追い詰める勢子と、角に特別なまじないを施した従針という楔を打ち込む打子、従針を媒介にして一角狼に伏式ふせしきをかけて自我を奪う、伏士ふせしと呼ばれる者に分かれている。式を扱う伏士たちは、そのほとんどが式の扱いに長けた元狼士だ。その中には、野火の元同僚も名を連ねている。同じ釜の飯を食った仲間が、宵越を苦しめていることに、得も言われぬ罪悪感を覚えた。

「連れていかれた一角狼は、どうしているんだ? 手荒な奴らだ、あまりいい扱いを受けているとは思えない。昔は……私がもっと小さい頃は、一角狼と人間は、もっと仲が良かったように思っていたんだけど。私が、世間知らずなだけだったのかな? 子供たちも、人間を食べるし……ああでも、細は食べないしなあ」

 幾つも幾つも、尽きない問いを投げかけながら、宵越は野火の腕を抱く力を強める。

「ねえ、野火はわかる?」

 宵越の問いに、下唇を食む。

(わかるさ。でも──)

 新は人間の戦で消耗される、駒のひとつに組み込まれるだけなのだと、ありのままに伝えてしまうことが、どうにも躊躇われる。せりあがった言葉の中から、野火は必至で無難なものを選び取った。

「……この数年で、人間と一角狼の在り方が、少しずつ変わっていったんだ。今は……あまり、よい関係とは言えない」

「そうなんだ……私は、知らないことだらけだな」

 「ずっと山にいたんだから、あたりまえか」と小さく自嘲気味に呟いて、宵越は野火の肩に顔を埋めた。

 横穴の中は、重い暗闇が満ちていた。野火と宵越の呼吸の音だけが、耳鳴りにも似た煩い静寂の中で、規則正しく闇を揺らす。遠くの夜空に細く灯る月明かりは、細の白い毛の輪郭を淡く浮かび上がらせるばかりで、ふたりのいる横穴の奥までは届かない。

「野火」

 宵越が呼ぶ。

「こっちを向いて」

 衿を掴まれ、向かい合わせにさせられた。野火の懐に宵越はするりと潜り込み、甘えるように胸に額を押し付けてくる。

「どうした」

「お願い。少しだけでいいから、母様のように抱きしめていてほしいんだ」

 濃い闇に紛れてしまいそうなほどかすかな声で、宵越は言った。野火がぎこちなく宵越の背に手を回すと、何も見えない闇の中、彼女の細い肩がわずかに揺れるのを感じた。

「母様──ごめんなさい。宵越は、母様の言いつけを破ります」

 ふたりの衣擦れの音に隠すように、宵越はそっと、天上の母へと赦しを請うた。

「……山を下りるのか?」

 声をかけると、宵越は「うん」と頷いた。

「きっともう……家からの迎えは、来ない。考えないようにしていたけど、たぶん、もう来ないんだ。だからといって、母様の言いつけを破って、ひとりで人里に出るのも怖くてできなかった。でも、──野火が来た」

「……俺?」

「うん。野火は……心を塞いで、その日一日を生き延びることばかり考えていた私に、本当は知りたいことがたくさんあるんだと、気づかせてくれたんだ」

 自分の気持ちを確かめながら、ぽつりぽつりと、宵越は言葉を紡いでいく。

「袢纏のやつらが一角狼を連れて行ってしまう理由とか、母様が逆印のやつらに殺された訳だとか、本当は……私は、家に帰りたい。父様は大丈夫かな、私を探してくれたのかな、とか──私の中から、どんどん知りたい欲が、溢れ出してくる」

 野火の腕の中で、宵越は自らの内に沸き上がるものを恐れるかのように、背を丸めて縮こまる。

(ああ、)

 たまらなくなって、野火は宵越を抱く腕に力を込めた。

(この子は、変わろうとしている)

 籠った殻を破るのは恐ろしいだろうに、野火が開けてしまった僅かな隙間を、勇気を持って広げようとしている。その先にある変化に、なにがしかの光明を信じて。

「……手伝おうか? 君ひとりじゃ、何かと困ることが多いだろう」

 自分でも驚くほどに、さらりと言葉を返していた。死を迎えようとしたときにできた不思議な縁を、なぜだか放ってはおけなかったのだ。

 「ほんとうか?」と声を裏返して驚く宵越が、がばりと上体を起こした。布団代わりの着物がはがれ、冷たい夜気が衣の内に滑り込む。

「ほんとうに、私に付き合ってくれるのか? そうしてくれたらいいなって、思ってたんだ! だって、」

 暗闇の中、宵越が細の太い尾を抱きしめる気配がした。眠りを妨げられた細が身じろぐと、隙間から月明かりが差し込んで、宵越の上気した頬を照らし出す。

「野火は、はじめて細が信頼を示したひとだから。野火が一緒なら安心だし、とても心強いよ」

「俺は、そんなに甲斐性のある男じゃないぞ。それでもかまわないなら」

「かまうもんか! 教えてほしいことがたくさんあるんだ。一角狼のこととか、町のこととか、あと──」

 そばに転がっていた柿を掴む。夕方に野火がもいだ渋柿だ。

「これの食べ方も、教えてもらわなくちゃ」

 細く青い月明かりが、艶やかな柿の皮で跳ね、かすかな橙色にきらめいた。

「干して食べるんだっけ。おいしくなる?」

「ああ、甘くなるよ。とても」

「楽しみだ」

 再び野火の懐に潜り込むと、楽しげだった宵越が一転、しんみりとした溜息を吐きだした。また、沫の遠吠えが響いているのだ。新との別れを惜しむ間もなく、宵越までもが群れを去ろうとしているのを、察しているかのような鳴き方だ。

 宵越が手を伸ばし、野火の首へ縋りつく。いつの間にか溢れ出した彼女の涙が、野火の首筋をひやりと濡らした。

「人里におりるなら、みんなと離れなくちゃいけない。それがすごく悲しくて……さみしい」

「群れ……いや、家族だったもんな」

 眠るとき。食らうとき。遊び、戦い、山を駆けるとき。彼らはずっと、ともにあった。宵越にとって一角狼は、長い時を支えてくれた、かけがえのない存在であったのだ。

「私がいなくなったら……惜しんでくれるのな。新のように」

「ああ。きっと、深く惜しむよ」

 沫につられ、垂と斑も起きだして、重なる遠吠えが夜空にのぼる。その切ない旋律は、ふたりがまどろむまで鳴りやまなかった。

「ごめん……それでも、私は──」

 眠りに落ちる、その直前。変化を望む言葉と同時に、懺悔の涙が宵越の頬をすべり、野火の衣に吸い込まれていった。

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