三幕 王弟
一 予期せぬ来訪者①
「さあ、これでいいわ」
香油を塗り込めた髪を丁寧に梳き、緩く結い上げた髪の重ねに、一本の
宵越は
「あらまあ、ずいぶんと野火君に懐いているのね」
「緊張しているだけですよ。もとは元気な子だから、じきに慣れると思います」
「いいのよ。ずっと山に籠っていたっていうんだから、仕方がないわ」
栗花落が障子を開けると、昼日中の陽光が、燦燦と降り注いでいた。寒を運ぶからりとした風が、栗花落と宵越の髪をなぜていく。湯浴みのあとに塗り込めた、梅の花に似た香油の香りが、ふわりと鼻をくすぐった。
「さあ、ご飯の支度をしてくるから、少しゆっくりしていてね。ねえ、宵ちゃん。なにか食べたいものある?」
微笑みながら、栗花落は宵越に尋ねた。しかし野火の背に隠れるばかりで、一言も返せず固まっている。
「じゃあ適当に用意するから、好きなもの、嫌いなもの、あったら遠慮なく言ってちょうだいね」
柔らかい口調でそう添えてから、栗花落は部屋を後にした。緊張に息をつめていた宵越が、ふうと長い息を吐く。
「大丈夫か?」
「うん……細がいないところで人間と会うのが、とても久しぶりだから。──あ、」
振り返った野火の顔を見上げると、宵越の硬かった表情がふっとやわらいだ。
「髭がない。つるつるだ」
「ん? ああ、さっき君が着替えている間に剃ったんだ」
野火が顎をさする仕草を見ながら、「そのほうがいいね」と言って宵越は笑う。
先ほどまで栗花落の前で固まっていた彼女とは打って変わり、野火の前ではもとの明るい笑顔を取り戻しつつあった。
宵越に山をおりる手伝いをすると言ったものの、家を持たない流浪者の野火は、結局は
屋敷を出た朝から全く帰る気配を見せなかった野火が、
「だめだよ、人里は一角狼には危ないんだ!」
何度そう言い聞かせても、細はしきりに甘え鳴き、宵越の衣を食み、あの手この手で付いて来ようとする。仕舞には宵越までもが泣き出して、野火はすっかり困り果ててしまった。聞けば、同じ時期に生を受けた宵越と細は、姉妹のように育てられ、宵越が七つになった折に、正式に
山で生まれ育った子供たちは、木々の並びがまばらになる頃には諦めて、弦ヶ丘の奥地へと帰って行った。しかし人の世で育った細だけは、諦めずに宵越を追いかけてきてしまったのだ。
(朋の絆は固く、死を持っても切り難い。一方的なさよならなど、理解しようもないんだろうな)
細の首に縋りついて泣く宵越の肩を支えながら、細の純粋さに感謝していた。この先、この変わらぬ信頼の情こそが、変化に立ち向かう宵越の、大きな支えとなるに違いない。
「提案があるんだが」
野火の言葉に、宵越は涙でくしゃくしゃになった顔を上げる。
一角狼が人里におりるのは危険が伴う。今やどの町にも八十瀬衆の屯所が置かれ、彼らとの接触は避けられない。このまま細が宵越を追いかけてくるのであれば、放って置くわけにもなかった。
「
宵越の涙と細の甘え鳴きが、ぴたりと止まった。
そうして、遠くに聞こえる
「おお野火、ずいぶんな別嬪さんを連れておるのう」
狼舎の前で衣に付いた藁を叩き落としながら、磊落がにかりとしながらそう言った。驚いた宵越が再び野火の後ろに隠れてしまうと、磊落は喉の奥でくつくつと笑う。
「よう懐いておるわ」
「栗花落さんにも言われましたけど、緊張しているだけですって。なあ?」
野火が宵越の肩を押して促すと、おずおずと前に歩み出て、大柄な磊落を仰ぎ見る。小さな唇を震わせるばかりの宵越に合わせ、磊落が腰をかがめてやると、ようやく最初の一言を搾り出した。
「あの……、細は……?」
「そこの狼舎におるよ。細は聡い一角狼だなあ。儂が近寄っても、唸りもせずに受け入れてくれたよ」
「ほ、ほんとう? 細、おじいちゃんを受け入れたの? 怒らなかった?」
「怒らなかったとも。儂が寝藁を敷き詰める間も、じっと座って待っておったよ」
細が磊落を受け入れている。そのことが、宵越の緊張を一気に解かした。しおらしかった様子が一転、喜び勇んで狼舎の中に駆け込んで、尾を振って待っていた細に飛びついた。栗花落が着付けた桜色の着物が、瞬く間に藁のかすにまみれていく。細に頬を舐められて、くすぐったそうに笑う宵越には、もう警戒心の欠片もない。
「ありがとうございます、先生」
細と宵越のやり取りを微笑ましく眺めていた磊落に、野火は深く頭を下げた。
「俺ひとりじゃ、宵越の身なりを整えてやることも、細が落ち着ける場所を見つけてやることもできなかったと思います。すっかり先生と栗花落さんの厚意に甘えてしまって」
「なに、久しく狼舎として使われていなかったものが、本来の役割を取り戻しただけだ」
どうやら長いこと、この狼舎は物置として使われていたようである。細のために急ぎ担ぎ出してくれた雑多な荷物が、狼舎の脇に積み上げられていた。
じゃれあう宵越らに視線を流し、磊落はつと、瞳を閉じた。
「朋角が仲睦まじく、我が玉響狼舎にいる。これ以上の幸せがあろうか」
眦にひかるものをさっと拭い、「これだから年を取るといかん」とひとりごちる。
「しかし、あの一角狼はほんに賢いぞ。はじめこそ警戒されていたが、おぬしの儂に対する態度をようく見て、儂への態度を改めた。おい、ずいぶんと気に入られとるが、何をしたのだ」
「特には……はじめから、細は好意的に接してくれましたよ」
ふうむ、と唸って腕を組み、磊落は狼舎の板壁に背を預けた。
「負傷した一角狼を助けようとしていたからか? 逆印とやらとの違いを、心式で察してくれたのだろうか」
「どうでしょう。少なくとも、細の子供たちには、俺の心式は通じませんでしたから」
宵越が途中で邪魔をしたからというのもあるが、そうであれば細だって、野火に襲いかかっていてもおかしくはない。宵越に刺された腹に手を添える。その仕草に気が付いた磊落が、深い皺を眉間に刻んだ。
「あの子に刺されたそうだな。……深い傷でなくてよかったよ」
「いえ、そこそこ深い傷ではあったのですが。宵越が縫ってくれました」
「縫う? 宵越には医の心得があるのか?」
驚いた磊落が、思わず壁に預けていた背を浮かせた。
「あんな子供が、いったいどこで学んだというんだ」
「母親に教えてもらったのだと言っていました。俺が思うに、宵越は──」
どこかの医者か、貴人の娘なのではないか。そう言いかけた矢先、宵越が「おじいちゃん!」と声を弾ませて駆け寄ってきたものだから、話はそこで断ち切られてしまった。着物のあちこちに藁のかすと細の毛を付けたまま、磊落に深く頭を下げる。
「狼舎を貸してくれてありがとう。細とはお別れしなくちゃいけないと思っていたから、一緒にいられるのがほんとうに嬉しい」
「力になれてなによりだ」と答えながら、磊落は宵越の頭に付いた藁を、優しい手つきで取ってやる。
「朋角は、ともにあるべきなのだからな。細もそれを望むから、おまえさんから離れなかったのだろうよ」
「私と細は、生まれたときから一緒なんだ。山に籠った六年も、片時も離れたことなんてなかった」
「六年? そんなに長いこと山籠もりしておったのか」
「うん。母様がいなくなって、この冬で六度目になるはずだから──、……なんだ、どうした?」
細の異変を感じ取り、宵越は弾かれたように振り返った。先ほどまで磊落の用意した寝藁の上で、ごろりと横になっていたはずの細が、いつの間にか立ち上がり、喉の奥からしわがれた唸り声をあげている。宵越が宥めるように首筋を叩いてやるが、野火たちの後ろに視線を向けたまま、落ち着く気配を見せなかった。
どこを見ながら唸っているのかと、細の視線を追って振り返る。屋敷の裏手にある狼舎からは、炊事場の勝手口から上がる湯気と、風呂場と厠の合間に生える、花を散らした金木犀の茂りが見えた。井戸の釣瓶はあげられて、滑車から釣瓶へとゆるりと垂れた縄が、風に押されて揺れている。
ややあって、勝手口の扉ががらりと開かれた。栗花落が着物の裾を抑えながら、小走りで狼舎へと駆けて来る。
「おじいちゃん! あいつら、また来たわ」
上がった息を整えながら、顔を顰めた栗花落が言う。磊落が「またか」と忌々し気にこぼしたときには、穏やかだった彼の顔は、既に怒りに満ちていた。
「宵ちゃん、細を静かにさせられる? あなたも狼舎の奥に隠れていて」
慌てた栗花落が宵越の背を押して、狼舎の奥に行くように促している。栗花落のただならぬ様子に不安を覚えた宵越が、野火をちらりと振り返った。
──なぜ協力を拒むんだ! これほどの狼舎をただの塾の一室とするなんて、宝の持ち腐れじゃねえか。
野火の脳裏に、栗花落の言うあいつらの言葉が蘇る。磊落が表門に向かって駆け出すと、栗花落もそれについていった。
「宵越、栗花落さんの言う通りに。細とともに息を潜めているんだ」
「いったい、どうしたの? なにが起こったんだ?」
「面倒な客が来たんだ。……話をしてくるから、奥で静かにしていてくれ。君たちがここにいることは、まだ誰にも知られないほうがいい。細、宵越を頼んだぞ。物音を立ててはいけないよ」
早口にそう言い聞かせると、野火も踵を返し、表門へと駆け出した。
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