三 獣の理の中で②
早々に息が上がる。ずくずくと痛む腹の疼きが煩わしかった。鳥たちの慌てふためく羽ばたきが、野火の心を焦らせる。
(いったい、何が、)
喘ぐ呼吸の合間に、舌の裏に溜まる唾を飲み込んだ。背中は見えなくなってしまったけれど、細たちが走って行ったあとには、踏み荒らされた落ち葉と泥、弾き折った枝葉が落ち、道しるべとなっている。
宵越らの背中を捉えきる前に、悲鳴が聞こえた。目指す先の木立の奥、「助けてくれ」と懇願する男の声もする。目を凝らすと、立ち並ぶ木々の隙間から、細たちが何人かの男を取り囲んでいるのが見えた。男たちは腰を抜かして寄り集まり、がたがたと震える手で、懸命に刀を構えている。
野火の時と同じだ。しかしひとつだけ、どうしようもない差があった。
細が止めないのだ。
「よせ──」
野火が声を上げようとした、その直後。
包囲を狭めていた細らが、一斉に男たちに飛びかかった。重なり合っていた悲鳴が、ひとつ、ふたつと静まって、しまいには誰の声もしなくなる。黄泉の深淵に歩み寄る思いで重い足を引きずって行くと、やはり目を覆いたくなるような光景が待っていた。
「来たのか。遅かったな、もう終わった」
野火を迎えた宵越の顔は、しとどに赤く濡れていた。白い頬を滑る幾つもの血の雫は、つうと顎先へ流れ落ち、擦り切れた彼女の衣は飛沫を吸って、赤黒く染まっている。足元には一角狼の牙に貫かれ、胴に穴を開け男たちが転がっていた。
(……この、着物の丸紋は)
赤く汚れた着物に描かれた、沢の流れと楔の図柄。八十瀬衆の印半纏である。そばには地図と方位針、矢立が落ちており、こぼれた墨が落ち葉を黒く汚している。角狩りの下見に来て、山に深く分け入りすぎてしまったようだ。
(それとも、)
──八十瀬の男たちが、確かに見たって言っていたもの。
(狼女を、探しに来たのか……?)
「逆印じゃなかった。また私の早とちりだな」
短刀を振り、血を払いながら宵越は言う。
「でも、この袢纏のやつらも敵だ。
宵越の後ろで、折り重なった男たちの亡骸を、沫が鼻先で散らしていた。千切れた足が飛び、胴が転がる。その下から、恐怖に目を見開いた、血塗れの男が現れた。仲間の死体と死臭に身を潜ませ、やり過ごそうとしていたのだ。男は噛みつこうとした沫の牙を避け、脱兎の如く駆け出した。向かう先は、一角狼よりも弱いとみた、宵越のいる方だった。
すれ違いざまの、その刹那。男が崩れ落ちた。目前で断たれた男の首の、薄紅の肉が見て取れる。かろうじて繋がる頭をおかしな方向を曲げながら、血潮を噴いて絶命した。
着物の裾で丁寧に刃を拭ってから、宵越は短刀を鞘に納めた。細は身体に付いた血を舐めながら、丹念な毛繕いを始めている。がり、と嫌な音がした。斑が転がる男の腹を、食い破る音であった。
(こんな……こんなことを、この子は、ずっと、)
生きるために争い合う、命のやり取りのその果てに。敗者はただ、勝者の腹に収まるのみだ。
腕で雑に顔の血を拭う宵越は、細のそばに佇んでいる。斑の食事を横目に見ながらも、とめることはなかった。ただ野山の摂理を傍観しながら、それが済むのを待っていた。
「
「そのほうがいい。新が角狩りにあったとき、君はどうやら八十瀬衆に姿を見られた。
……さっきの男たちが太白に戻らないとなれば、なおのこと『一角狼の群れと狼女』に追手をかけるだろう」
「狼女? 私はそんなふうにいわれているのか」
洗った衣を、硬く絞る気配がした。ぼたぼたと落ちる水滴が、川面を叩く音がする。
「その話が広まったら、もっとたくさん逆印のやつらが来るのかな。それとも、……家の者に伝わって、迎えが来たりするかなあ」
迎えを望む言葉には、期待はいくらも込められていない。期待することに飽いているのだ。それでも捨てきれない一縷の望みが、宵越に空しい言葉を吐きださせる。
返答に困り、ふと下流のほうに視線を向けると、一角狼らが水を飲んでいた。細以外の三頭は、口元を赤く汚している。脳裏に蘇る光景に、喉の奥に
「……斑たちは、いつもああなのか?」
「ああって?」
背中越しに問うと、水が跳ねる音と一緒に、軽い返事が返ってくる。
「君たちを襲った人間を、……食っただろう」
「うん。腹がすいていれば食べるよ。おかしいか?」
胸が締め付けられる思いがした。一角狼が人間を食う。それが自然のことではないのかと、年端も行かぬ少女が言ったのだ。
(
あの戦以前は、いくら野生の一角狼とはいえ、人間を襲って食らうなどということは聞いたことがなかった。互いの縄張りを牽制しあうことはあるにせよ、
(それでも、帝国から国を守った英雄として、主導者となった
拳を握る。掌に残る
「ああ、でも、」と宵越が思い出したように言葉を添えた。
「細は食べないよ。細は、人間の世をよく知っているからな。でも、子供たちは知らない。生まれてからずっと、目にする人間は逆印か袢纏のやつらだけだったから、人間をはっきり敵だと認識しているんだ。腹がすいていれば、目の前に転がる肉を食べることに、何の疑問もないだろう」
「肉……か。君は、それになんとも思ったことはないのか?」
問えば、宵越の動きがとまる気配があった。せらせらと穏やかに流れる沢の音が、短い沈黙の間を埋める。
「私には、よくわかないよ」
ざばりと、川から上がる音がした。さくさくと落ち葉を踏みしめながら、野火の方へと歩いてくる。
「はじめは、怖かったのかもしれない。でも、新と出会って、細が子を産んで、皆で一緒に過ごしているうちに……いつの間にか、子供たちが人間の死肉で腹を満たすことに、なんの疑問も持たなくなった」
茂みを割り、宵越が野火のそばにすとんと腰を下ろした。膝を抱えて蹲る宵越は、絞った衣を尻に敷き、自身は一糸まとわず濡れそぼっている。咄嗟に顔を伏せる直前、伸ばしきりの長い髪が、白い肢体に絡みついているのが見えた。
「野火、教えてよ」
宵越の、まっすぐな視線を頬に感じる。
「彼らが生きるために食うことは、おかしいことなのか? 私も、襲ってくるやつらを何度も手にかけた。……死にたくなかったから。それって、おかしいことなのかな?」
何度も繰り返して問うてくる、宵越の言葉が辛かった。
長く狙われ続ける日々の中で、彼女を守り、生きるすべを教えたのは一角狼だ。
そんな少女にどうして、「おかしい」などと言えるだろうか。
「大丈夫だよ、宵越」
伏せていた顔を上げ、彼女の目を見てそう言った。
「戸惑わせてしまってすまなかった。君たちはただ、生にまっすぐ向き合っただけだ」
「ほんとう? ほんとうに、そう思う?」
「ああ。大丈夫だ。君も、斑たちも、なにもおかしくなんかない」
ただ、うつろう時の奔流に、押し流されているだけなのだ。
俯いてしまった頭を撫でてやると、宵越が子狼のように、野火の肩に頬を寄せた。濡れた髪から、涼やかな水の香りと、僅かに獣のにおいがする。
「野火」
再び顔を上げたとき、彼女の狼のような琥珀の瞳が、喜びに細められていた。
「ありがとう。お前に大丈夫って言われると、なんだか安心できるよ」
言って、宵越は微笑んだ。
肌を濡らす水の雫が木洩れ陽に艶めいて、幼い少女の表情に、美しい生命力を与えていた。
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