三 獣の理の中で①
その翌日から、野火は熱を出して寝込んだ。
傷が膿みはじめたのだ。ここまで無茶な旅を続けたせいで溜まった疲労が、一気に回ってきたせいもあるのだろう。起き上がることもままならず、細のそばで宵越の母の着物に包まりながら、野火は昏々と眠り続けた。
曖昧な意識が浮き沈みする合間に、ふと、額にひんやりとしたなにかが触れたのを感じ、野火は重い目蓋を開けた。
「あ──、ごめん。起こしちゃったね」
申し訳なさそうに眉を垂れた宵越が、野火を覗き込んでいた。沢の水に浸した手ぬぐいで、額の汗を拭ってくれようとしたようだった。
「汗がすごくて、寝苦しそうだったから」
「そうか……、すまない、ありが──っ、」
「いいよ、起き上がらなくて。私がやるから」
上体を起こそうとして痛みに呻いた野火を、宵越がやんわりと押し戻す。額に貼り付いた前髪を優しく払い、玉の汗を拭い取ってくれた。火照った肌に、濡れた手ぬぐいの冷たさが心地いい。
「……痛むよね」
そう尋ねる宵越は、哀れなほどに沈痛な面持ちであった。安心させてやりたくて、ゆるりと首を振ってみせる。しかし彼女は「うそつき」とぽそりと呟き、野火の眉間を指先でそっとなぞった。
「ずっと、ここに皺が寄ってる。あたりまえだ。私が……刺したんだもんな」
宵越の冷えた手が、野火の頬を包む。途端、彼女はくしゃりと顔を歪めた。野火の額に自分の額を寄せ、悔しそうな声を絞り出してこう言った。
「母様みたいにおまじないが使えたら……野火の痛みを、取ってあげることができるのに」
「……おま、じない?」
「うん、おまじないをかけるとね、痛みがすうって引いていくんだ。私が転んでけがをしたときも、父様が病で苦しんでいるときも……母様がもう大丈夫よって、おまじないをかけてくれたんだよ。母様だけができる、特別なおまじない……やり方を聞いておけばよかった」
「痛いの、痛いの、飛んでいけ──か? ……君の御母堂は、優しいんだな」
「そうなんだけど、ええと、ただそう唱えるだけじゃなくて。ほんとうに痛くなくなるんだ」
一生懸命説明しようとしているが、それがどういうものなのか、野火にはよくわからなかった。けれども彼女の自分を気遣ってくれる優しさだけでも、十分癒してもらったような心地がしていた。
それから、寒気に震える身体を細に温めてもらう日々が続いた。血で汚れたさらしは宵越が外し、膿んでしまった傷口を洗い清め、また新たなさらしを巻きなおしてくれる。彼女らの手厚い介抱のおかげか、野火は徐々に快方に向かうことができたのだった。
「──なあ、身体を慣らしがてら、ちょっと散歩に出てみるか?」
そうして迎えたある秋晴れの昼下がりに、宵越からそんな提案を受けたのである。
久しぶりに出た洞の外は、よく晴れた日であった。降り積もった落ち葉を散らしながら、光の中で
「元気がいいな」
「一緒に遊ぶか?」
「どうやって混ざったらいいかわからないよ」
野火が首を振ると、「特別なことなんてない」と宵越が笑った。
「ただ、混ざればいいだけじゃないか」
そう言って手近に落ちていた太い枝を拾い、宵越は三頭の間に飛び込んでいく。かつんと、枝が打ち鳴る音がした。高く弾き上がった枝を追い、三頭の視線が宙を追う。跳び上がり、垂が咥えた。そのまま逃げる垂を宵越らが追いかけて、枝を奪い合い、団子になって、また転がる。
地面に腰を下ろし、野火は彼らの遊びを眺めていた。垂たちからすれば小さな宵越など、遊びに夢中になって潰してしまいそうになるだろうに、うまく力を加減しながら、一緒になって戯れている。
(あ、)
ひやりとした。垂の身体をよじ登っていた宵越を、沫が鼻先でぽんと高く突き上げたのだ。受け止めようと咄嗟に腰を浮かしたが、
(……不思議な光景だ)
伸びた無精髭をざりと撫でながら、野火は思う。
ある特定の人間と絆を結び
(宵越は逆なんだ。人間が、一角狼の社会に混じっている)
野山に住み、命をつなぐことに尽きる過酷な生活に、人間が付いていくのは難しい。彼らが人間の社会に踏み込み、人間の技法を許容してくれるからこそ、成り立つ隣人関係であるはずなのに。
(すごいな。あの子は群れの上位に位置する者として、うまく溶け込んでいるじゃないか)
身振りや、表情、鳴き声。あらゆる形の一角狼の言語を、野山でともに生きる中で、子細に学んだのであろう。それが
(……しかし、)
髭を弄っていた指が、ふと唇に触れた。
──突然襲い掛かって、傷を負わせてしまって……ほんとうに、ごめんなさい。
宵越は知っている。人間の世界の作法や、言葉の使い方を。
──私はうれしい。ただ、うれしいんだ
一方、野火に飛びつき口元を舐めるという、獣のような感情の伝え方もする。
(つり合いが、取れていない)
人間の教養を持つ宵越と、一角狼の群れの一員となった宵越。ふたつの個が絡み合い、不均衡ないきものを作り上げているように思えた。
(……、なんだ?)
嫌な静けさを感じ、野火はあたりを見回した。宵越らの楽しげな声も、いつの間にかやんでいる。彼らはぴんと耳を立て、木々の暗がりのある一点を見つめていた。
少し離れたところにいた細が、異変を知らせる声を上げた。低く伸びる遠吠えに、子供たちが母のもとへと駆けていく。宵越はすでに、短刀を抜き放っていた。母の形見だという懐刀の、黒漆塗りの鞘を帯に挟む。
「来るぞ」
年並みの少女の笑みは消え失せ、かわりに獣の性を瞳に宿す。
「逆印だ!」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます