四 取引②
瓦礫を飛び越え、手を広げる。煙る土埃の向こうから、小さな影が飛び込んできた。
「野火!」
「無事か!」
背に手を回して抱き上げると、宵越の髪が頬をくすぐった。そうしてようやく、ずっと抱いていた焦りが、少しずつ収まっていくのがわかる。思わず宵越を抱く腕に力を込めると、小さな苦悶の声が漏れた。
「あ──、すまない。どうしたんだ、この傷は」
「逃げようと思ったんだけど、失敗しちゃって。それよりも──なんで、来てくれたの。私、野火のこと……突き放してきたのに。迷惑だって、いっぱい、」
「突き放す? 迷惑? ……そんなふうには、思ってないよ」
そう言ってしゃくり上げる背をさすってやると、宵越はまたほろりと涙をこぼし、野火の頬にすり寄った。ふたりの頬の重なりに、涙が滲み、熱を帯びる。
「先生たちや、俺を、守ろうとしてくれたんだろう。ひとりで、よく頑張った。……ありがとうな」
自分を大事だと言ってくれた、この少女の想いに。そして──今は亡き、妹と同じ、この想いに。逃げず、背かず、向き合うことで、なにかを返してやりたかった。
「もう大丈夫だ。だから──泣くなよ、
もう二度と、その名を失わせまいと。
彼女のほんとうの名を呼んで、くしゃりと笑って、そう言ったのだ。
宵越──否、黎里は、戦慄く唇を噛みしめる。それからふっと力を抜き、湖面のように潤んだ瞳に、夜空の月を映し込みながら、柔らかな笑みを返してくれた。
そのとき、瓦礫の一角が音を立てた。逆印が瓦礫を押しのけ、秋霖とともに起き上がったのだ。闇夜に紛れるはずのその光景が、ふたりの目には不思議とよく見えていた。──火だ。行灯の火と油が瓦礫に移り、火の手が上がっているのである。
「……なぜ、お前がここにいる」
衣に付いた汚れを叩き落としながら、秋霖が低くそう問うた。
「二番煎じが通じると思ったか?」
野火は黎里を下ろし、かばうように背後に隠すと、懐から
「誰かわからないほどに潰れた顔に、わざとらしい身分証……六年前と手口が同じだ。新が暴れたときに死んだ、八十瀬衆の誰か首を細工した、といったところか」
「……小賢しい」
「お前、この簪に触れただろう」
「なに?」
「細が簪に付いたにおいを辿ったら、
「……雨で、庭土がぬかるんでいたか」
秋霖が刀に手をかける。引き抜こうとして、しかしためらい、その動きをとめた。
「懸命だ。今、刀を抜いてみろ」
折れた格子や乾いた畳に、火が舐めるように燃え広がる。それは徐々に大きな炎と化し、辺りを煌々と照らし出した。
「敵意を示してみろ。途端、全員がお前に襲いかかる」
数え切れないほどの一角狼が、唇をめくり上げ、牙を剥き出し、この半壊した座敷牢を取り囲んでいたのだ。先頭に立つ細と新の後ろで、
「六出を引っ張り出してくるとはな。……この大群、長たる天狼のなせるわざか。なんとしても仕留めておくべきだった」
六年前、自ら兄王から引きはがし、都から追い出した天狼を、秋霖は忌々し気に睨みつけた。
「しかし、初撃で私を狙わなかったな? 殺すのではなく、こうして包囲を選んだ狙いはなんだ」
簪を黎里の手に返すと、野火はもう一度懐に手を入れ、触れたものを取り出した。
白い錦の袋。その中身を察してか、秋霖が片眉を跳ね上げた。
「やはり、お前が持っていたか」
「ここにあるのがすべてと思うな。今俺から奪い返しても、別の人間が縁切りの真相を世に暴くことになるだけだ」
「……玉響の者らにも託したか。なにが望みだ」
「姫君の生存を公表しろ。この子から奪った名を、居場所を、返せ」
そう言った野火の言葉を、秋霖は鼻で笑い飛ばした。
「それを返してなんとする。この娘を私の代わりに王位に据え、また獣風情とよろしく生きろと?」
「獣風情? そんなふうに、卑しめるな。彼らと俺たちに……たいした違いなんてない」
火の粉が散る。木っ端が爆ぜる。
高く昇る火柱が轟々と燃え盛り、人と獣を、均しく朱に染め上げる。
「
「違うさ。根付いていたはずの
「熒惑事変での無理な軍用に、縁切りの濡れ衣──一角狼が粗暴に見えるのなら、それはお前自身を映した姿だろう」
「笑止! 縁切りと伏式は、六合の武力を高めるために必要だった。愚かな獣は祖国の危機など理解せず、人間を危険な隣人とみなすだけ。地方の村の壊滅──迅汰の村がいい例だ。
「言うよ。何度でも。俺は、……お前の言うまやかしやきれいごとに、救われたから」
国を放浪していたときに出会った新。
生き直すきっかけをくれた、黎里を育んだ細。
野火が岐路に立ったとき、彼らはいつも、そばにあった。
あの感触、あの温度。
それらをつなぎ、守ることができるのならば──
(野風、乾。やっぱり、……俺はまだ、しばらくそっちには行けない)
心の内で、ふたりにそっと、そう告げる。ずっと抱いていた、心が擦り切れるような追慕の念。
それが、今。
背後で燃える炎のような、明日へ続く道を照らす、確かな灯へと変わる。
「確かにお前の言うことは、痛いほどに正論だ。けど、俺はその氷のような正論に生かされるのは、──ごめんだな」
「時勢も読まず、あくまで朋角に拘るか。存外、青い」
「それでもかまわないさ。でも、……お前がきれいごとで動く人間だとは、思ってはいないよ」
秋霖が眉を顰める。野火はちらりと、秋霖の横に立つ逆印の額を見た。
「額に刻まれた逆三角形の楔印に、感情の見えない瞳。……そいつの額の印、伏式だろう」
「伏式? じゃあ、逆印のやつらは……従針を打たれた新と同じで、操られていたっていうの?」
黎里が思わず声を上げる。逆印の男のまとう、あの虚ろな気配。硝子玉のような瞳。それは屯所の庭で見た新と、同じ様相であったのだ。
「気付いたか。……情緒が欠けるのが、伏式の欠点だな」
吐き捨てるような秋霖の答えに、「やはりそうか」と、野火は唇の端をつり上げた。
姫君を暗殺しようとした追手。牢の見張りに使った男。黎里に関わる者は皆、その額に伏式を刻んでいた。単なる緘口令ではない。秋霖への、有無を言わさぬ絶対服従。心を支配することで口を塞ぐ、より厳密で非情な手段だ。
「国のためと言いながら、そこに生きる民のことは顧みないのか。……そんな人道に
「……一介の狼士が、私を脅すか」
「いや……俺は、後腐れなく事を収めたいと思っているよ」
秋霖がまた怪訝そうに眉を顰める。野火は錦の袋を逆さにし、磊落が式を刻み直した小さな従針と、王妃の着物の切れ端を、炎の明かりに掲げてみせた。
「秋霖。お前は、利の為に動くのが人の道理だと言っていたな。ならば、」
磊落、栗花落、そして、黎里の母。彼らの繋いだこの小さな針が、この国を変える要となるに違いない。
そう確信しながら、秋霖の瞳を見据え、
野火は、こう言ったのである。
「俺と、──取引をしようか。互いの、利のために」
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