夜明け②

 西日が若葉を染める頃に、ふたりは怪我をした一角狼を探し当てた。

 滝の洞よりもより深く、弦ヶ丘を分け入った、鬱蒼とした茂みの奥。むせ返る青い香りに抱かれながら、八十瀬衆の黒羽の矢が刺さったまま、血を流して蹲っていたのである。

 強い警戒を示したその一角狼に、野火は心式で語りかけた。細と新の助けもあって、次第に態度を軟化させた彼に近づき、優しく首元を撫でてやる。

「いい子だ。そのまま、伏せていてくれよ」

 自分を受け入れてくれたことを確認すると、野火は懐に手を入れて、とあるものを取り出した。同時に、黎里が怪訝そうに眉を顰めた。

「それ……従針じゅうしんじゃないか。どうして、そんなもの」

「ただの従針じゃないよ。まあ、見ていてくれ」

 帯に吊っていたつちを持ち、野火は楔を一角狼の角にあてがった。そうして根元に狙いを定めると、コンとひと突き、浅く刺さる程度の力で打ちこんだ。

 屋敷の治療場でしていたのと同じように、楔に刻まれた六芒印に向かって、意識の波紋を広げていく。すると一角狼は、きょとんとしたように力を抜き、僅かに残った警戒心すら解いたのだ。目の前に立っている野火の顔を、べろりと舐めるその様は、矢が刺さっていることなど忘れてしまったようである。

「……痛くないの?」

「ああ、痛覚を麻痺させているから。さあ。今のうちに、手当をしてやろうな」

 そこからは、野火が六年間続けてきたことを、再びなぞるだけであった。剃毛し、刺さった矢を折り、金鋏でやじりを引き抜く。血を拭い、傷を縫い、止血の薬を塗り付ける──今までは、痛みに激昂する一角狼の牙から逃げながら、なんとか手当を施していたものだ。それが、どうだ。普段の顔つきそのままに、痛みに暴れることもない。

「ねえ、野火、これって──」

 角に刺さった楔に触れ、黎里は恐々野火に問う。少し震えるその肩を、野火はそっと支えてやった。

「秋霖は、これを不疼式ふとうしきと名付けた。……君の御母堂が編み出した、だ」

 秋霖との取引で、野火が差し出したもの―それが、黎里の母が遺した式であった。心式よりも深く心に作用するが、しかし伏式のように心を蝕むこともない。痛みだけを取り去るこの式に、秋霖が価値を見出したのだ。

 『東方の神秘』と銘打つと、隣国からも多くの施術の希望者が、六合を目指して来るようになった。それは近隣諸国の中で六合の価値を高め、無二の術を帝国に取り込まれるのをよしとしない国と、同盟を結ぶ手段となりえたのである。

「今まで曼陀羅華まんだらげ草烏頭そううずで行われていた麻酔が、身体に負担のない式で代用できるようになったんだ。逆印たちがされていたような、人道にもとる行いでもない。治療の幅が広がれば、民衆、兵、軍狼に、野良の一角狼──多くの命を、救うことができるようになる」

 野火は黎里の手を広げ、六芒印の刻まれた従針を乗せた。その上から、自らの手を重ね合わせる。

「おそらく御母堂は六芒印を、病に苦しむ夫のために編み出したのだろう。……この優しい式が、君のことも守ってくれたんだ。これからもきっと、その想いは君のそばにあるはずだ」

「母様の、想いが……?」

「ああ、そうだよ。……都では、辛いこともあるのだろう。でもな、黎里。疲れ、悩み、心が痛むそのときは──御母堂が君にどんなおまじないをかけてくれたのか、胸に手を当てて思い出すといい。きっと、痛みが和らぐはずだ」

 黎里が俯く。ふたりの掌に包まれた従針を、強く、強く、握りしめる。

「昔、なんて唱えてもらったのか。覚えているだろう?」

「うん──もちろんだ」

 こぼれそうだった涙を、着物の袖でぐいと拭う。

 そうして胸に手を当てて、木洩れ日に頬を染めながら。

 柔らかく微笑み、その言葉を唱えたのだった。

「痛いの、痛いの、飛んでいけ──……」


 滝の洞に帰り着いた頃には、日はとっぷりと暮れていた。空に星、水辺に蛍。天地に瞬く細かな光が、夜色の中で囁き合う。

「今日はみんなと一緒にすごしたいんだけど……野火も一緒に、いてくれないかな?」

 そんな黎里の願いもあり、滝の音色が響くこの洞で、野火は一晩過ごすことにした。ともに細の懐に温められるうち、いつの間にか深い眠りに落ちていく。

 その間に、短い夢を見た。

 野風がいて、いぬいがいる。熒惑事変けいこくじへんより前の、穏やかな時の流れの中にある、他愛もない日の一場面。乾が転がり腹を見せ、野風が優しく撫でていた。野火を振り向き、微笑み、「兄さん」と──懐かしい声を、かけてくれる。

 その記憶の彼方の情景は、半年前までは追慕の念を呼び寄せて、胸を苦しくさせるだけであった。

 しかし今、その懐かしい情景は、憧憬へと移り変わる。

 六合が失いつつあるその在り方を。自分がこれから、どう歩いていくかの道しるべを。野火はふたりに、遺してもらったような気がするのだ。

「──っ、……」

 野風の声に答えようとしたとき、ふっと目が覚めてしまった。洞の入り口の輪郭が、かすかに蒼く染まっており、夜明けの気配を見せている。

 なにやら違和感を覚え、野火は再び落ちかけていた目蓋を上げた。手を伸ばしても、触れるのは細の毛並みだけ。先ほどまで隣で寝ていたはずの、黎里の姿が見当たらないのだ。

 はっとして起き上がり、洞の外を見てみれば、なんのことはなかった。入り口からほんの数歩離れた先、眠る新や子供たちの合間に立ち、じっと空を見上げていたのである。

「あ……ごめん、起こしちゃったかな」

 動く気配を察してか、黎里がくるりと振り返る。野火は欠伸を噛み殺しながら、黎里の隣に並び立った。

「眠れないのか?」

「うん。色々、考えちゃってさ」

 そう答える黎里の瞳は、徐々に明度を増す空を、真っ直ぐ見据えて離さない。昼間に滝壺を眺めていた、憂いを帯びた視線ではなかった。その代わりに宿るのは、瑠璃色の空を染め上げる、生まれたばかりの曙光の色だ。

「……私、もう泣くのやめるよ。山を出たあの日から、一生分の涙を流した気がするから」

 「それにね」と、黎里は胸に手を当てた。

「それは、私の覚悟でもあるんだ。野火が取り戻してくれた、六合の姫の黎里として。その名でしかできないことを、していくために」

「その名でしか、できないこと?」

 新の折れた角を見やりながら、黎里はこくんと頷いた。

「私、叔父様に捕まったでしょう? そのときに感じた、自由を奪われて、生死を誰かに握られる感覚……すごく怖くて、嫌だった。伏式って、それよりもっとひどいものだ。人間も、一角狼も、あの式の前では尊厳が失われてしまうから。そんなの、いくら国を守るためだからって、私は受け入れられないよ」

 衿の合わせを握りしめ、そのときの恐怖を振り払うように、黎里はゆるりとかぶりを振った。

「だけど、実際伏式のおかげで、六合は今安定している。今の私には、……その叔父様が貫いた非情な正論を、打ち破るだけの力がない。私がなにか反論しても、きれいごとだって笑われて終わりだ。だから、私ね、」

 自分の心の奥底に、己の言葉を刻みつけるかのように、黎里は一度、瞳を閉じる。

 そして再び瞳を開くと、強さを秘めた双眸で、野火を見上げてこう言ったのだ。

「うんと学んで、うんと強くなって。叔父様に伏式なんかなくても国を守れるんだって、証明してみせるよ。一角狼をしもべとして従えるんじゃなく、また対等な存在として、隣に並び立てるように」

 胸に抱いたきれいごとを、ただのきれいごとで終わらせてなるものか。──そんな堅い決意を、秘めたような瞳であった。

 それは、野火が夢で見た憧憬と、ぴたりと重なる未来の姿で。

 どくんと、熱く、鼓動が波打った。

 そうやって野風と乾が遺した火を、黎里の決意が、ふいごのように煽りたてるものだから、

「手伝おうか? 君ひとりじゃ、何かと困ることが多いだろう」

 と、自分でも驚くほどに、さらりと言葉を返していた。

「ほんとうか?」

 声を裏返して驚く黎里が、わっと輝きを増した瞳で野火を見る。

「ほんとうに、また私に付き合ってくれるのか?」

「ああ。俺も、君が言うような六合になったらいいなと思うから──、うわっ」

「うれしい! そうしてくれたらいいなって、思ってたんだ!」

 そう言って黎里は野火の衿に手を伸ばし、ぐいと強く引き寄せて。

 溢れる気持ちそのままに、歓喜のくちづけをしたのである。

「……っ、君、君は! もう少し、つつしみというものを覚えろよ! 一国の姫だろう!」

「ええ? 親しみの気持ちを伝えたいとき、くちづけするのは人も一角狼も同じでしょ?」

「違う! その認識は早急に改めろ」

 驚いて身を離した野火が窘めるも、黎里はきょとんとするのみだ。

 「いいじゃないか。したかったから、しただけだもの」と言いながら、黎里は明度を増した光の帯へと、その身をさらして天を仰ぐ。

「ねえ、見て!」

 諭すのを諦めて、野火は示された方を仰ぎ見る。東雲を燃やす美しい空に、思わず頬が綻んだ。

 いずれこの陽は高く昇り、西の彼方に残る夜すら飲み込み、山を、里を、野を──均しく照らしていくのだろう。

「太陽が、──昇る」

 夜が明け、目の前が開けていく。

 厳かに明けゆく東の彼方を、ふたりは静かに、眺めていた。

     *


 それから、十余年ものあいだ──姫君はみずから国中を奔走し、天地大綱てんちたいこうの再興に努めた。天狼とともに各地の一角狼の乱を鎮め、民に安寧をもたらし、二種族の共存を根気強く説いて回ったのだ。

 いつしか宵が暁へと染まるように、ひとり、またひとりと、姫君の言葉に耳を傾ける者が現れはじめた。伏士は狼士へ、狼士は新たな朋角を得て──再編された双角隊そうかくたいは、伏式によるそれよりも、目覚ましい戦果を上げていく。

 かくして白き天狼を朋角とする姫君は、国益の最優先を信条とする先代からの譲位をもって、第二十九代九霄きゅうしょうの名を冠することになる。

 国の在り方が変遷し、細かった支流が大河へと変わっていった、長い長い時の中。

 折狼を駆るひとりの狼士が、常に姫君の背を守っていたという。

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かぎろいの君 瀬生杏 @NITAY_ANN

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