第十七話 エンドオブオムニバース
ネクサスキューブの内側は先の見えない黒い伽藍洞だ。果てがなく、標もなく、境界線はどこにも見えなかった。外にあるはずのブルワークの廃墟も内側からはどこにも見えない。ただ何もない宙からいきなり巨大な鉄の腕が生え出していた。
クロガネの腕は床まで届いておらず指先からはまだ七、八階ほどの高さがあった。落ちても死にはしないが幸いクロガネにはウインチが装備されていた。
「急ぐぞ。あまり時間がない」
ガンズロウが言った。あまりないのはヒーローでいられる時間だ。
メタフレームの稼働するイマジネータドライブには時間制限がある。それはクロガネを接続元にしていても同じだ。
接続リミットは一八〇〇秒。それを超えれば強制退避だ。例えその場に留まれてもフラットドライブ状態のフレームは単なるアバターと化してしまう。
ガンズロウ、デアボリカ、シルバービースト、そしてハンマーガールことボクがクロガネの掌からケーブルを滑り降りた。ステップディスクから顔を覗かせた心配顔のレイはもちろん、カケルくんやアルティラも居残りだ。
皆の神経接続はクロガネに依存している。万一のことがあればひとり残らずネクサスキューブに飲み込まれてしまう。
「座標が細切れになっていますね」
シリウスが呟いた。真っ直ぐ歩いても主観座標と客観座標が一致しない。例えるならここはレイチェルのチェンバーだ。むしろ上下があるだけましだとも言える。
「帰りはハイヤーを呼ぶにせよ、まずは歩きだな」
チャリオットがぼやいた。ふと辺りを探るシンに気づいて目線で訊ねる。シンは微かに首を振り気のせいだと仕草で応えた。
「あれ、何かな」
ボクは頭上を仰いで言った。
銀色をしたモビールのオブジェが至る所に吊るされている。銀色のリボンで繋いで連なり延々と張り渡されている。
「確かに、歓迎にしちゃあ地味だな」
目指すキューブの中央に向けてモビールの数も増えて行った。風に揺れるわけでもなくただぶら下がっている。まるで途中で飽きたクリスマス飾りのようだ。
ボクら四人は小走りに闇を横切った。
広いが狭い。明るいが暗い。壁もない開けた空間だが周辺の照度が極端に落ちているせいで照らされた細い橋を渡っているような気分だ。
微かに照らされた床板は黒い大理石の質感があった。ただし靴音も残響も材質に応じたデフォルトの演出パッケージだ。天蓋一杯に奇妙な飾りを這わせている癖に一周囲は切の装飾を省いている。
宙に吊られた銀の帯が集まる先に人影らしきものがあった。集まったモビールの結線がそこで二本に束ねられ床に向かって垂れていた。
人影は折れた十字架のような姿で両腕をその帯に絡め取られているようだ。人影の下、床に白い器のようなものが落ちていた。
ファントムの仮面だ。ボクは声にならない悲鳴を上げた。
真下に折れて俯いた顔は見えない。そもそも顔があるのかすらも。跪き伏せた半身から引き絞られた左右の腕が解けて帯になっていた。
銀色の帯はファントムの腕だ。このキューブ一杯に吊り下げられていたのは延々と解かれたファントムそのものだったのだ。
「歓迎は期待しないで」
気怠い声が投げ掛けられた。ボクらに言ったようにも、独り言のようにも聞こえた。ボクらとファントムを結んだ三角形の頂点にレイチェル・ローゼンは佇んでいた。漆黒の中に白く浮き出している。
隙なく切り揃えられた黄金の髪、緑味の強い青の瞳、エナメルのように滑らかな白い肌。だけど、その完全な外観には、膿んだような物憂い気配を滲ませている。
「大した趣味だ」
シンが呟いた。
ファントムのこの姿は解析の具象化だ。コンパイルされたファントムをブルワークから持ち出すことができずそのままコードを解き明かそうとているのだ。
だけどシンの見方は少し角度が異なっていた。
「享楽。怨嗟。いや、恐怖だな」
シンは小さく囁いた。彼女はファントムに抱えた恐怖を解体しようとしている。シンは皆にそう言った。
「それで御当主自らこんな所で解体を?」
シリウスが無邪気な声で言った。
「よく気が滅入りませんね」
天使のような容姿が発するそれは却って辛辣だ。
「やっと亡霊を捕まえたんだろう? 亡霊に捕まったような顔じゃないか」
チャリオットの言葉に彼女は初めて目線を返した。額に掛かった一筋を無意識に手で払う。初めてボクらに気づいたかのようにレイチェルは呟いた。
「貴方は招待していないわ、アレックス」
不意に三人の足下が粘性のない液体と化した。
ボクが振り返るよりも早く三人は掻き消すように床下に沈んだ。無類の速度を誇るシリウスでさえも足掛かりのない罠からは抜けられなかった。
ボクが慌てて踏み出すと足下はすでに大理石の硬さを取り戻していた。膝をついて床を覗き込んでもそこにはボクが反射しているだけだ。
「これ以上、手間を掛けさせないで」
叱る言葉もなおざりにレイチェルはボクを招いた。何でボクなんだ。本能的に身を躱した。腕を掠めて何かが疾った。
目を凝らして初めて分る立体感を欠いた黒いラインだ。
「またこれ?」
ブルワークに降った杭と同じに見えた。レイチェルの背後から遠近感のない闇が固形化して生え出している。
ふと、レーザーポインタが当たるような、感じるはずのないむず痒さを感じた。無意識に叩き払うと非破壊物を殴ったような衝撃に指先が振れた。
逸れた黒い槍が闇に融けた。
身体が照準を感じているのかも。ストレージに降って湧いた無料のフレームをこれ幸いと使ったが思いの外の拾い物だ。後でメーカーを確かめなければ。
鋼の小手が金属音と火花のエフェクトを閃かせた。ハンマーを抜いて気配を叩く。目を眇めても槍を視認するのは難しかった。いずれにせよ身体の感覚に従うだけだ。
無数の槍が飛び交う中でレイチェルは何の気負いもなく佇んでいる。彼女にとっては羽虫を追うほどの意識もないのだろう。
ゆったりとした純白のトガは裾も揺れない。表情は一貫して物憂げだ。剥き出しの肩さえ艶めかしくもどこか疲労に燻んで見える。
「たっ」
槍先がボクの左肩を貫いた。損傷警告と生理反応が相乗して思いのほか痛い。
取り回し損ねたハンマーが滑った。
槍が脚を刮ぐ。連鎖的に的を捉えてボクの四肢を貫いた。
身体が引かれた。槌の重い音、柄の軽い音が床に鳴る。落ちたハンマーを取り残して、ボクの身体は床を引き摺られて滑った。
レイチェルの傍に投げ出されると、ボクの身体を貫いた槍は消え失せた。呻くボクをレイチェルは数歩の位置から冷えた目で見おろしている。
「冬堂博士も記憶は戻せなかったようね」
レイチェルが囁いた。
虚を突かれたせいで痛みが飛んだ。直感的に意味が解った。彼女が言っているのはボクの中の空白のことだ。でもそれは、考えたとたんに意識が散りそうになる。
どうして彼女が知っている。なぜ今その話をする。そんなことを気に掛ける理由も繋がりもボクには全然わからない。
「それとも、戻さなかった?」
彼女は独りで問い、独りで答えを見つけようとしている。ボクのことなのにボクは置き去りだ。変なところで腹が立った。
「入れ物が壊れてしまうから?」
ボクに記憶なんてないはずだ。聞いても、聞いても、すぐに忘れてしまうのだから。
「元々ない。ないものは、ないから」
なのにこの人はどうしてそんなことを問う。あの人に何の関係があるのか。強く意識したせいか馴染みの眩暈をすぐ間近に感じた。
「見えていないだけよ」
怠げな目線はボクを越え吊られたファントムのフレームを見つめた。答えを期待している風でもなくただ独り言のように問いを繰り返す。
「私にも、貴方にも」
全身に点滅する損傷のサインがボクの意識の拠り所だった。痛みとレイチェルの一人芝居に苛立ちが募っている。
あと少し。
「彼のプロトコルは人に依存する。リソースは人の中にある。彼自身も」
ボクは蹲ったまま指先から順に力を込めて行った。
「あれは彼じゃない。いくら解いてもそこには」
ボクは声を上げて飛び出した。レイチェルに拳を振り被る。
「貴方の中に?」
ボクの胸を漆黒の槍が貫いた。心臓を砕かれたような衝撃に身体が跳ねた。
呼吸も鼓動もひとつに纏めて押し潰され、血肉が失せるように四肢の感覚が消えた。思考が、心が、為す術もなく吸い出されて行く。
ボクの意識は抗いようのない暗闇に沈んだ。
「憐れな女」
レイチェルが囁いたのは崩折れた少女の傍に映る女にだった。人と世界の在り方を変えようというのにこんな小娘だけが頼りとは。
疲労に膿んだ目を細めレイチェルは冬堂翼の意識を切り裂いた。人としての自我も記憶も捧げ物の包み紙に過ぎない。少女自身は必要なかった。
世界をひとつ壊してまで手に入れ数ヶ月分のリソースを割いて解体したファントムに中には終ぞ彼を見つけ出せなかった。
手に入れたのはファントムは彼のコネクタに過ぎないと言う結論だけだ。
ヴォイドは何処だ。文月蒼士の人格は何処にある。
彼は冬堂博士の許で幼いこの少女と接触があった。だがごく短い期間だ。今まではそこに意味など感じなかった。
だがファントムはハンマーガールに関心を示した。凡庸な賞金稼ぎを探りその正体が冬堂翼であると知れた瞬間、状況は一変した。
アマルガムオルタに神の存在する余地などないがそれを天啓と思うほどにはレイチェルも追い詰められていた。
ファントムが伽藍洞であること確信した今、少女は命綱にも似た存在だ。
ふとレイチェルは気配に振り返った。
狭角に落ちた細い灯の下に幼い自分が見つめ返していた。
微かな動悸は疲労のせいだ。そう自分に言い聞かせる。
明確なシステム通知がない時点で正体に気づいても良いはずだった。鎮静値の針を戻してレイチェルは幼いニュートに改めて目を遣った。
「叔父の悪趣味にも呆れるわね」
「あたし、知ってる」
レイνはそう言って彼女を睨んだ。
「若い身体が欲しかったんでしょう? 悪趣味なのは、あんたの方よ」
虚を衝かれ気丈な幼い自分を見つめた。素材は同じでも別の人格だ。思いのほか生理的な拒絶感はなかった。
「そう。欲しかったのは入れ物。中身なんて要らなかった。でも亡霊が見えるなんて。そこまで望んでやしなかったのに」
レイチェルは嗤った。
「とんだ余禄ね」
背後の闇から伸びた漆黒の貪食腕はレイνの立つ光溜まりに怯んで勢いを失った。
世界の認識が高度過ぎて却って二人が判別できないのだ。二人のパーソナリティの素材が共通しているせいだ。
拡張リンケージの脆弱な部分を目の当たりにしてレイチェルは疲れた吐息を洩らした。
「あたしは、あたしよ。あんたにとやかく言われる筋合いなんてない」
澱んだ双眸を睨んでレイνは叫んだ。床板が波立ちこの世界の異物を突き上げる。
三人が再びレイチェルに対峙した。慈悲か無慈悲か三人は状況のモニタが可能だった。レイチェルはそんなことさえ気に留めていなかった。
涙ぐんだ顔を隠すようにレイνはガンズロウのコートに飛びついて顔を埋めた。
「ツバサを助けて」
「勝手について来るな、この馬鹿」
レイチェルに目を遣ったままガンズロウはレイνの髪を乱暴に掻き回した。
「だが、よく頑張った」
小さくつけ加える。
レイチェルは気怠げな吐息と一緒に頭を振った。
「局所的に制御できたところで、小さなレイチェル。そこにいるのは貴方のヒーローじゃない。ただの人間なのよ?」
ガンズロウの掌から銃が消え空を掴んだ。突風に煽られるような解除演出を経てキャトルマンもコートも消え失せた。
デアボリカ、シルバービーストも同様だ。強制離脱にこそ追い込まれなかったもののドライブモードは完全に掌握されていた。
「一張羅がお気に召さなかったか?」
チャリオットの姿は執拗に皺を再現した麻のジャケットとくたびれたシャツに戻っていた。イマジネータドライブの強制解除だ。
『レイ、僕の意識を深層に連れて行けるか?』
皆の視界にテキストが割り込んだ。クロガネの接続コードに載せた原始的だが強固な通知信号だった。
レイνの傍らで普段着もフォーマルなシンが素知らぬ顔で話し掛けていた。
レイチェル・ローゼンと識別を誤るパーソナリティならメインフレームの認証に隙を見出せるかも知れない。シンにしか挑むこたのできない侵入方法だ。
チャリオットの背中に隠れたままレイνは微かに頷いて見せた。
『感知されたら危険ですよ?』
返答のこつを掴んだシリウスが発言する。
『気を逸らしてくれ。この世界は彼女に同期し過ぎている。機会はある』
『昔の女の気を引くのは俺の理念に反するが、この際、仕方ないな』
チャリオットの発言を見てレイνが思い切り背中を抓った。
『空気を読め』
言い捨ててシンが走った。目指したのはツバサの落としたハンマーだ。
自衛反応かあるいはレイチェルの微かな苛立ちがシンの腹に槍を突き立てた。
ハンマーの柄を叩きつけて引き摺り抜くもシンは崩れるように後退り仲間の元に倒れ込んだ。
「シン」
『迫真の演技だな』
『本当に痛いんだが?』
「レイ、シンを頼む」
レイに頷き掛けてチャリオットは二人を庇うように立った。レイチェルに対峙する。
「あなたはもう少し賢い選択をして欲しいのだけれど?」
「十年前に言って欲しかったな」
『聞こえるかモービアス。頼む』
ウエットスケープ某所、起動したパペットがベッドの上のチャリオットに近づいた。
神経接続中のチャリオットの首を傾け右耳裏のコネクタを露出させる。ダミーに隠れたアドオンチップを選んで押し込んだ。
ウエスタンコートが翻った。キャトルマンを目深に押し込んでガンズロウは火薬式のレプリカを掲げた。物理的な人格モデムの交換だ。当面レイチェルには手が届かない。
「私に銃を向けるの? アレックス」
「俺は男女に平等なんだ」
破裂音と金属質の匂い。反響こそないが、それは耳を聾した。
それでもレイチェルには届かない。銃声の都度、非破壊の透過壁に潰れた金属の紋が張りついて行く。だが眼前の衝撃に意識が削がれ彼女の苛立ちは募った。
ガンズロウが空のマガジンを落とす間隙に殺意は固形化した。四人が身を寄せるレイνの光溜まりに四方から槍を突き立てる。
闇から生え出た槍先が見えない爪に折れ飛んだ。瞬きの間に人影が消え、現れる。床を小突いたハンマーの柄尻がこつんと硬い音を立てた。
「貴方は」
ニュートではない。だが人間か。拡張されたレイチェルの知覚にもシリウスの動きは追従できなかった。
レイチェルは素顔を認証してシリウスのプロフィールを拾った。それは見覚えのある著名な血筋だ。シリウスは毒気のない笑顔で彼女を振り返った。
「姉がお世話になったようですね」
レイチェルの目許が震えた。
なるほど彼にはドライブモードなど関係がない。世界の境界を越えた身体能力の拡張だ。生成りの超人でありアリアンの狂気の産物だった。
「ウエットスケープはしがらみばかりね」
小さな驚きとその煩わしさにレイチェルは物憂げな吐息を洩らした。
千々に散った鏡のように翼の意識は個々の断片と化していた。俯瞰しているのはその一片、あるいは取り残された思考のループだ。
翼はこの世界を知っている。かつて迷い込んだ暗闇だ。ばらばらになった自分を掻き集め、手を引いて連れ戻してくれたのはあの人だった。
そうだ。翼を集めたそのせいで、あの人は出口を失った。そうしている間に身体を失って、帰れなくなってしまったのだ。
このまま翼の中に留まったら翼の中にある自身の記憶との境界を失って人格が溶け出してしまう。翼が翼でなくなってしまう。
だからあの人は記憶を切り離して自分を閉じ込めてしまったのだ。写真を見ても話を聞いても決して記憶に留めないようにして。
記憶は境界を溶かしてしまう。すぐに思い出せなくなるのはそのせいだ。意識を顕在化するドライスケープではノイズと解釈させることで存在を消した。
ファントムと同じ仕組みだ。
あの人は自分の中にいる。誰よりも近くにいた。今も一緒にいるのだ。
指先が震えるように宙を掻いた。
レイチェルの視線が微かに動いた。一拍途絶えた攻撃はガンズロウの背後を覗き見たからに違いない。
ガンズロウは舌打ちした。メインフレームへの侵入を試みたレイνとシンに対し彼女は水面下で排除を試みるだろう。
レイνが悲鳴を上げて背中にしがみついた。
ここはレイチェルの制御下にある。攻撃は情動に同期している。一方が気を削ぐことで他方は弛む。だがそれも戦力が均衡していればの話だ。
彼女はこの世界の管理者だ。神の懐の中で闘いを挑んでいるに等しい。
しかし不可能ではない。すべてに勝つ必要はない。意識を削ぎ耐えて機を読む。
ガンズロウはツバサに気づいていた。切り札になるかは賭けだ。だがあの能天気な娘なら。きっと悪くない賭けだ。
右手の弾を一気に撃ち尽くしガンズロウは銃を捨てた。返す手で新たなグリップを掌に収める。構えた直線上、レイチェルの額に赤いポイントが点った。
気づけ。心の中で呟く。
指先に力を込めた刹那、槍が右腕を掠めた。赤い軌跡が耳許を滑って虚空を指した。
破裂と剣戟が地面を通して身体に聞こえる。薄目を開けると、光源のない光の向こうに、どこまでも黒い天蓋が見えた。
胸に開いた風穴はチリチリとした痒みと共に修復されて行く。こんな修復オプションを入れた記憶はないけど。今はフレームに復旧を任せて客観視で辺りを探った。
ガンズロウが派手に戦っている。シルバービーストはシリウスのままの姿でボクのハンマーを振るっている。
いつの間にかレイがいた。蹲るシンを支えている。ガンズロウとシリウスは二人を守っているようだ。シンは怪我をして動けないのか。いやあの人のことだから、きっと何か考えがあるに違いない。
視点を変えて覗き見れば思いのほか近くにレイチェルがいた。ガンズロウの跳弾が身体を掠めるほどだ。
両腕を吊られて跪くファントムはまだ遠い。躙り寄るには距離があった。
身体を起こせば確実に気づかれるだろう。駆け出す体勢は無防備だ。あっと言う間に串刺しにされてしまう。
何か切掛さえあれば。
無限に紡がれる意味のないコード。見い出せない答え。十年の徒労。そんなものに比べれば彼らの襲撃など気晴らしにさえ物足りない。
レイチェルの脳裏にはアムデジールの無能に苛立つ余裕さえあった。
確かに小煩い銃撃で彼女の目を惹きメインフレームへの侵入を果たしたのは、ささやかだが彼らの打点だ。
とはいえアドミニストレータとしての優位は覆るはずもなく、彼らをこのネクサスキューブから出すつもりもない。
彼女の模造品を使ってメインフレームに侵入した意識を潜在面で拘束すると同時に、顕在面では神経に触る赤いレーザーサイトを払い除けた。
ふと目の合ったアレックスが片目を閉じて寄越した。相手を苛立たせるのは彼の得意技だ。
その瞬間、金環食のような形の閃光が宙に灯った。半身をもぎ取るほどの打撃が彼女を掠め、空間を撓めた。轟音と突風はその直後に着弾の爆発はさらにその後に続いた。侵入した巨人の遠距離攻撃だった。
何故届いた。キューブ内の座標は隔絶しているはずだ。
レイチェルはアレックスの銃が放った赤い光点を思い出した。絶対値マーカーだ。彼ら自身の回収に使うもつもりだったのだろう。銃ではない。武器ですらなかった。
少々アレックスは火遊びが過ぎた。レイチェルは怒りに任せちっぽけな四つの人影に戒めの手を振り下ろそうとした。
寸前、彼女は新たな脅威に注意を削がれた。意識を引き裂いたはずの少女がファントムに向かって駆けて行く。
そうだ。長い時間のせいですっかり忘れていた。
アレックスのウインクには何ひとつ良い思い出がなかったのだ。
クロガネの砲撃は予想外だったけど、これが合図だと確信した。
ボクは半ば爆風に転がってそのままファントムに向かって駆け出した。レイチェルの息を呑む気配が伝わってくる。あるいは呆れた吐息かも知れない。
蹴躓いて傾いだ頭上を掠めて黒い槍が突き抜けた。無意識に振り抜いた腕に当たって鋼の踵を砕いて逸れた。幸運か、それとも見えない相棒の仕業だろうか。
彼女の焦りと苛立ちがボクの身体を鷲掴みにした。千々に裂けた白と黒の布片が視界を流れる。ハンマーガールを具現化するイマジネータドライブが強制的に解除された。
「ぎゃあああ」
首周りの伸び切ったトレーナー姿にボクは思わず悲鳴を上げた。
裸の方がまだましだ。出所不明のフレームの換装に焦ってボクは部屋着のガジェットのままフレームチェンバーから直行していたのだ。
ボクは蹲りたい衝動を堪えて必死に走った。
吊られたファントムの直前、遂に槍に踵を取られてつんのめった。そのまま派手に転がって床に投げ出された。喘ぎながら立ち上がる。ファントムの前は通り過ぎていた。
振り返ると胸を突き飛ばされる衝撃に仰け反った。目線を落とせば黒い罫線が胸に突き通っている。レイチェルの背後から延びた長くて真っ直ぐな槍先だ。
「どこを間違えたのかしら」
解剖の途中で逃げ出した蛙を再びピンで縫い止めた。そんな言い草だ。
まだ生きていたなんて。レイチェルの困惑した表情はそんな合わない計算を煩わしげに見つめているようだった。
「あなたは全部間違えてる」
目線を上げてボクは言った。
ボクの手には転んだ際に掴んだファントムの白い仮面があった。
「ここにいるって、言ったよね」
囁いてボクは仮面を顔に押し当てた。
レイチェルの目が怪訝と朧げな不安に見開いている。
仮面が頬に沈んだ。仮面を押さえた指先はいつの間にか頬を突いていた。
壁もなく影が映るはずもないボクの背に押し出されるように人の影が膨れ出た。ボクは指の隙間からレイチェルの驚愕を見つめていた。
背中の影が同じ仕草で佇んでいる。鋭く尖った指の隙間から奥底のない虚空の隻眼が覗いている。それは三筋の紅い傷跡を刻んだ白い仮面だ。
ボクの胸を貫いていた黒い槍が塵になって吹き流された。胸の痛みと圧迫感が失せてボクは無意識に大きく息を吸い込んだ。
〈ツバサ、鼓動を数えろ〉
ロビイくんが囁くように言った。
「心臓は、あっちに」
応えようとして声が上擦って途切れた。
〈人前に出るのなら、もう少し身形に気を遣うべきだと思うのだが〉
心に馴染んだその声に膝から崩れそうになった。
「やっと会えたのに、それが挨拶?」
もっと格好良い台詞も想像していたのに。
〈僕はずっとここにいた。君が見失っただけだ〉
気取られたくはないけどロビイくんにはきっとバレている。
この人は何だって知っているのだ。
「だったら知ってるでしょう。よく頑張ったって言え」
〈よく頑張った〉
「心がこもってない」
〈僕にそんなものはない〉
「ある。ボクがあげたから。そうでしょう?」
表情を崩すまいと目許を力む。
目線の先のレイチェルは言葉の通り亡霊を目の当たりにしたような顔をしていた。ふと視線を巡らせれば仲間たちも同様だった。
興味深げな目をボクに向けたままシリウスがシンに肩を貸している。シンは呆然とするレイに手を取られて立ち上がり何事かと目を眇めていた。
三人を庇い立つガンズロウはつつくように指先を振ってボクに後ろを見るよう促した。
「何、なんなの?」
振り返る。ボクの目にはぼんやりと揺らぐ虚空があるだけだ。
ああ、でも。そこにいるのは何となくわかる。
〈まだ君には認識できない〉
悲鳴のような激しい吐息にボクは慌てて目線を戻した。レイチェルの背後から黒々とした塊が押し寄せてくる。濁流のような大量の黒い槍だ。
床の上の鼠にダイニングテーブルを投げつけるようなそんな大袈裟な恐慌だった。彼女は相当な幽霊嫌いだ。
耳許を何かの気配が流れ過ぎた。横一閃、黒い濁流がカトゥーン演出のように折れ曲がった。折れ散った無数の槍は塵と砕けて霧散した。
白と黒の布片が舞って、手には鋼の小手、首元の緩んだトレーナーは白いシャツと黒いベストに変わった。
「そこにいるんだよね?」
言葉で確かめる。
〈あくまで君に認識できないだけであって、僕の〉
「後で聴くね」
意地悪くロビイくんの解説を遮ってボクはレイチェルに向かって駆け出した。今はそれだけで十分だった。
横殴りの黒い塊が左右からボクを押し潰そうとした。空間そのものが毛羽立つような攻撃に周りの皆が走って避けた。白い軌跡はシリウスの往復だ。
ボクは両手を拡げて振り被った。見えないけれど届くとわかる。間近の黒い塊にひと回り大きな拳の影が落ち、割れて凹んで砕け散る。
分厚い壁が立ち上がりレイチェルの姿を覆い隠した。身を守ろうとする無意識の行為だろうか。
その情動に自身が苛立ち自らの行動を正当化するようにレイチェルはボクの頭上に天蓋を降らせた。
レイチェルの武器は世界そのものだ。具象化した存在は例外なくその影響下にある。クロガネを経由するボクたちでさえ彼女の定めたルールの上に顕在化している。
だけど視界を塞ぐすべての障害を砂礫に変えてボクとファントムはそこに立っていた。
たぶん隣か後ろに佇んでいるはずの黒衣のフレームはレイチェルの権限を意に介していない。
「イマジネータドライブの完成形だ」
シンが囁いた。ファントムの唯一のルールは恐らくツバサの認識にのみ依存する。ワールドフレームが世界なのではない。ツバサ自身が世界なのだ。
ブルワークで二人を貫いた杭さえも今は児戯に等しい。オムニバースの権限とルールを捩じ伏せ常態で事象を改変する。それはもはや魔術だ。
ツバサは何の躊躇もなく目の前の壁を殴り飛ばした。右に左にレイチェルの盾は砕け散って行く。
ファントムが復活したその瞬間からその手には防御しかなかった。壁が砕け落ち、白い仮面に穿たれた虚空が彼女を覗き込んだ。
「この世界を返して」
隻眼の先に強い瞳が瞬いた。蒼い螺鈿の瞳だ。ファントムの仮面を通り抜けツバサが鼻先を突きつけた。
「捕まえた皆の個人コードも」
レイチェルは表情に迷った。情動の制御が儘ならない。少女の言葉が混乱に輪を掛けた。ネクサスキューブの外に放置された有象無象のハッカーたちは本来意味も意義もなかった。あれはアムデジールの余禄に過ぎない。
「貴方には」
あんなものはいま秤に載せる価値さえない。その背中に従えた亡霊に比肩するのはオムニスケープとドライスケープの、そしてすべての世界の未来だ。
「ボクたちにちょっかいを出さないで。ついでにファントムにも」
レイチェルが先の言葉を紡ぎ終わる前にツバサは薄い胸を張って口を尖らせた。
「価値がわかっていない」
残りの言葉を受け止めてツバサは表情豊かに顰め面をして見せた。
「お喋りなトンチンカンだけど、これはボクの相棒だ。それ以上の価値なんていらない」
表層の意識で聴き取るも、言葉の通じないもどかしさにレイチェルは困惑した。価値観が違う。単なる時間稼ぎ以上の言葉が口を突いたのは無意識だった。
「私たちのこの世界は保証のない欠陥品だ。そのファントムが掛けた呪いのせいで。その代償が必要だ。どうしてそれがわからないの」
思いが乖離して行く。この少女ともっと話したい。
だが一方で駒は進めた。屈辱的な一手だが。
少々手順を要したが自壊コードは既に起動していた。ファントムは復活したが彼が冬堂翼の意識に根差すものなら肉体を凍結するまでだ。
「呪っているのは、あなた」
意識が言葉に吸い寄せられた。ツバサは真っ直ぐにレイチェルの目を覗き込んで言った。
「こんなことをする前に、簡単な呪文を唱えるだけでよかったのに」
「呪文、ですって?」
「ファントムに『お願い』って言うの」
ネクサスキューブの管理機関が自壊し世界を支える最初の柱が折れ飛んだ。
不意にレイチェルの姿が消え失せた。呆気に取られた表情のまま。
崩壊の予言のように足許が大きく揺れた。
〈何から指摘すべきかな〉
ロビイ、ファントム、あるいはよく知っていたはずの人の呆れた声が、ボクにそう呟いた。黒い砂礫と化した壁を踏んで皆が駆け寄って来る。ボクは振り返って首を竦めた。
「逃げられちゃった。どうしよう?」
頷いたガンズロウの目線がボクとその背後に行き来する。
「そいつを手名付けたってことで、まあよしとするか」
ボクは口を尖らせた。
「ボクにだけ見えないなんて、おかしくない?」
〈君が僕だと知った以上、以前のようにファントムは認識できない〉
「ずっと?」
〈どうかな〉
それがずっとでないのならいつかロビイくんがボクの中からいなくなることも有り得るのだろうか。今はそんなこと考えたくもない。
「手土産ならここにある」
シンがそう言って懐から紙片のガジェットを取り出した。そこには手書きのような英数字が並んでいた。
「依頼は果たしたつもりだ」
「あたしのおかげだからね」
レイが鼻を膨らませる。
紙片が不意に宙に浮き、虚空から突き出した手首がそれを掴み取った。
「確かに、確かに」
調子の外れたフースークの声が呆気に取られた皆を素通りする。
「これで君たちの仕事は完了だ」
紙片を摘んだ指先を合わせ、鳴らそうとして掠れた音を立てた。困ったような一拍を置いて小さく咳払いをする。
「後はそう、早くそこから出た方がいいね」
宙の手首が凍り付いて砕けた。見る間に雪片になって消えてしまった。
「早速クリスマスカードを出しに行ったんじゃないだろうな」
呆けたような空気の中で、ガンズロウが呟いた。
「ちょっと待って」
ロビイくんの囁きを聞いてボクは皆に声を掛けた。皆はぎょっとしたように宙を見つめている。ボクも目を眇めてみたけれどやっぱりよく見えない。
ファントムが宙に手を伸ばしている。ような気がする。皆に見えるのはボクの背中のファントムが何もない空間に手を差し入れている姿だった。
見えないものに手を引かれ、ボクはいきなり宙から溢れものを受け止めた。両の掌に包むほどの水晶球だ。
「何だそれ」
ガンズロウが端から理解を諦めたような口調で訊ねた。フーおじさんが出て以降、目の前の事態に追いついていない様子だ。それはボクも同じだと思ったけれど。
〈スノーボールの具象化だ〉
ロビイくんの説明もよくわからない。何となくそのままを皆に告げる。
「スノーボール? なにそれ」
シンの目が驚きに見開いた。無意識に球に掴み掛かろうとしてガンズロウに遮られた。ボクは驚いて竦んでいたけれどロビイくんがそれが何かを教えてくれた。
「あれは」
「お嬢ちゃん、何だってファントムはそんな物を寄越した」
シンを抑えてガンズロウが問う。ボクは情報と感情に溺れそうになって喘いだ。
「帰って来られる」
辛うじてそれだけを先に言った。言葉を探そうとして声が上擦った。
「真琴ちゃんも、みんなも、これの中にいるって。帰って来られるんだ」
シンはここにいる誰よりも理解が早かった。そして誰よりも反応が遅かった。その表情は白く凍りつかせたまま目を見開いてスノーボールを見つめた。今は足許の崩れそうなシンをガンズロウが支えていた。
皆の沈黙を破ったのは二度目の大きな揺れだった。気のせいか辺りが軋むような音を立て圧迫感を増している。
「ゆっくり話を聴きたいところですが」
シリウスが遠慮がちに言った。
「このままだと危ないのでは?」
赤い注意喚起が周囲を埋める。多くは緊急退避の余禄だ。緊急性はない。無数の冷静な副人格が既に対応を進めている。
レイチェル・ローゼンは暫し微睡む時間を許容した。
デジタルの素体はまだアクセスチェンバーに浮かんでいる。半ばメインフレームに接続された彼女の身体はウエットサイトの覚醒に時間を要した。
不安はなかった。最悪の、例え物理座標を知られるような事態さえ、覆す自信があった。レイチェルの繋がれたメインフレームは旧時代の軌道兵器にさえ耐えるだろう。
無論、費やした無為な時間を取り戻すのは難しい。だが彼は見つけた。次は近づける。冬堂翼を足掛かりにヴォイドにもう一度。
首筋に風を感じた。ここでは体感したことのない演出だ。呆然と主人の注意を促すことしかできずにいるシステムの困惑をレイチェルは感じ取った。
振り返り、ストレージに空いた大きな空洞を見つめた。ネクサスキューブは空だった。
固定化したはずの少女やファントム、アレックスを始めとするハッカーたちは痕跡さえなかった。
だが、それさえも些細なことだ。ヴォイドのデータも、スノーボールさえも、すべてが根こそぎ消え失せていた。
自身の悲鳴でレイチェルは現実に這い戻った。頸椎から伸びた物理結線をいつも以上に意識した。纏わりつくウエットスケープの重力と湿気に吐き気がする。泥の中でもがく異形の自分を見るようだ。
重力に耐えかねた生身の脳髄が思考を堰き止めている。荒い息を吐きレイチェルはチューブの内側に映る自分と目を合わせた。見紛うくらいに老いて見える。
ふと手を伸ばして映り込みに触れた。血の気の失せた白い頬の右側に。指先で硝子に映るラインを辿る。いや、重なる線はチューブの側になかった。
赤い塗料の三筋の爪痕がレイチェルの頬に直接描かれていた。
その意味に気づいて彼女はもう一度絶叫した。
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