第七話 ファントムバディ#2:ハンマーガール

 マイカタに現れたカイジュウと巨大ロボットに話題を攫われるまでニュースの上位は二代目ハンマーガールが独占していた。ボクの名こそ出なかったもののボクが関わった事件は容赦なく掘り起こされていた。

 どのビルボードにもひしゃげたインターセプタの背でポーズを決めるボクの姿があった。ボクは部屋の隅から玄関先まで悲鳴を上げて転げ回りトイレで泣いて懺悔した。

 もうしません。ごめんなさい。調子に乗っていました。あとスカートの丈はもう少し長くします。毎日夢にうなされるほど恥ずかしかった。

 再三のロビイくんの忠告にも関わらずハンマーガールはほとんど素顔で通していたのだ。正体を隠しているのは目許を覆う黒いマスクだけだった。

 髪の色は違うけど、ほとんどボクだ。せめてもう少し盛るとかしていれば。ヒーロー女子はそうあるべきだとボクには矜持があったのだ。あと、ほんの少し露出と。

 いずれにせよマスクひとつで気が大きくなる悪癖が災いしてボクはいわゆる身バレの危機を招いていた。

 まあ幸か不幸か引き篭もりボクは知人は少ない。関わるコミュニティも数えるほどしかない。それはそれで問題だと思うけれど。

 ボクは気が小さいのだ。店員に顔を覚えられただけでその店を避けるほどなのだ。

 それはドライスケープでも変わらない。素顔のままでは思っていることも言えなかった。ハンマーガールが能天気なのはその反動だ。

 マスクひとつジャパニメイドの格好ひとつでボクは豹変する。

 本当の自分じゃないと思い込んで。

 ウエットスケープでは、なおさらボクは委縮していた。ハンマーガールに似ていると言われただけで全力で逃げ出してしまうだろう。

 マイルスパークの一件以来ボクは両方の世界から遠ざかっていた。そもそもウエットスケープでは元より出不精の引き篭りだったけれど。

 ドライスケープでは辛うじて標準フレームのままスクールグリッドに参加できていた。ボクにとってはアバターは日常生活のマスクだったからだ。

 皆は知らないだろうけれど本当はハンマーガールなんだ。そう思うだけで少しは普通に生きられた。だからドライスケープになら多少は顔の知れた店や場所もある。

 もちろんボクの性格を知っている片手の指の半分の半分に満たない友だち以外はボクの正体を知らない。


 ****


 二一世紀も後半になると機器の操作は神経接続が主流になった。オムニスケープ以前からドライスケープは形を成していて、今ではすっかり日常に組み入れられている。メタバースなんて言葉も大昔にはあった。

 現実世界が疲弊した自然環境の保護を声高に主張する一方で、もうひとつの世界は着実に人々の生活の場として定着して行ったのだ。

 でも二一四七年の冬。極東のプレート境界で発生した巨大地震が大規模な電子機器障害を巻き起こした。情報災禍と呼ばれる一連の事故だ。

 一般化し始めた神経接続は大量の障害を生んだ。

 当時六歳だったボクもその災禍に巻き込まれた。そのとき延々と暗闇の中を彷徨った記憶だけが、ただぼんやりと残っている。

 アマルガム社がオムニスケープ三.一をリリースしたのはその直後だ。とんでもない賭けだったと思う。どれほどの非難を浴びたかは想像に難くない。

 にも拘らず、潰えるかと思えた神経接続は息を吹き返した。それは第三世代のワールドフレームがイマジネータドライブを実装していたからだ。

 世界は災禍の以前より発展した。仮想世界の代名詞になったオムニスケープは復興期間を七〇パーセント以上短縮したと言われている。

 そうして、アマルガムは世界を掌握した。オムニスカープを輩出したクラスタは、アマルガムオルタと名を分けて今のドライスケープを実質的に支配している。


 ****


 マイルスパークの事件から一週間ほどが過ぎて、今日もボクはフレームチェンバーに浮かんでいた。重力をゼロに。慣性も低くしてボクはチェンバーの全周に映像パネルを敷き詰めていた。フレームはその真ん中に浮かんでいる。

 チェンバーは神経接続の中間地点でフレームの準備や調整に使用する空間だ。狭いが完全なプライベートスペースで誰に何の気遣いも要らない。

 ボクは実際の部屋着をデジタルガジェットに読み込んだ首周りの伸び切ったトレーナーとショーツだった。着替えもしない。ロビイくんはもともと気遣う数に入らないし。


 あれから外に出たのは父さんの診療所に出掛けた一度きりだ。

 強制退避のその直前は確かにボクもファントムとの再戦に気を吐いていた。しかし如何せんリミットメータの針は動かない。

 ハンマーガールの改造フレームが稼働するのはイマジネータドライブ上に限られていて、稼働臨界は僅か三時間。しかも使用後は最低でも九時間のアイドリングが必要になる。当然ファントムは待っていてくれなかった。

 ウエットスケープに帰還すると重力と湿気が纏わりついて渾然一体の匂いとノイズが押し寄せる。暴れた後ならなおさらだ。それは人が無意識下に押し込めた苦痛を再認識する瞬間だ。そうなると前向きな意思はどこかに消えてしまう。

 その一瞬はあの戦いの興奮も嘘のように覚めた。

 ハンマーガールのように身体機能を拡張するタイプのメタフレームは肉体へのフィードバックも大きい。しかもそのときは無慈悲な筋肉痛がボクを襲った。

 高精度の心身同調を伴うイマジネータドライブでは、フレームと肉体の僅かな差異が思わぬ影響を及ぼすことがある。ファントム戦から帰還したボクの場合は、脇腹と二の腕に声も出せないほどの筋肉痛を引き起こした。

〈素体計測値に差異がある。脂肪の増加分を申告していないな〉

 ロビイくんはデリカシーの欠片もなく指摘した。ボクはそのときオーバーサイト状態でベッドの上に転がったまま息をするのもやっとだった。

「許容範囲だから」

 息も絶え絶えに言い張ると、ロビイくんは一拍置いて言葉を返した。

〈以前、胸部を補完した際は肋骨に罅が入った。学習したまえ〉

 声だけのくせにそうやって感情めいた演出をはさむのが得意だ。

「今度それ言ったら絶交だからね」

 こうして心身とシステムの回復を待つあいだ、ハンマーガールがみるみる時の人になってしまったせいで、ボクのファントムに対する闘志も萎んでしまったと言う訳だ。


 ファントムについて調べようと言い出したのはロビイくんだった。

 つまりこうしてファントムの記事に埋もれているのはロビイくんの意向だ。

 ハンマーガールのニュースはともかく、この一件でファントムの情報が掘り出しやすくなったのは僥倖だった。エージェントに割くリソースが少なくて済むからだ。少なくとも学校の課題レポートよりは興味を持てる作業だった。

 もちろんボクのしていることは秋の街路で落ち葉を掃き集めているようなものだ。落ち葉を一枚一枚吟味することなんてない。だけどボクが斜めに眺めた記事もロビイくんはしっかり読むことができる。だからボクが真剣に見る必要なんてなかった。

 暇だから眺めたりはしたけれどすぐに飽きた。

 ファントムは記録に残らない。だから記事はテキストか取材映像だ。でも実際に対峙したボクには何となく違和感があった。ファントムは何と言うかまるで……

 不安になるほどロビイくんは静かだった。こうしてただエージェントに資料を集めさせているだけのボクに皮肉を言い出す気配もない。それはそれで腹が立った。

 もちろんロビイくんが大人しくなったのボクのせいじゃない。ロビイくんはボクなんか放っておいて勝手に思索に耽る癖があるのだ。

 今回はファントムだ。あんなのよりボクを気にしろ。

 ロビイくんは、ボクのことをもっと気に掛けて然るべきなのだ。父さんの説が正しいならロビイくんはボク自身かも知れないんだから。


 ボクがロビイくんと直接話せるようになったのは十二歳の頃。二一五三年のアルビオン以来のことだ。ロビイくんはそれまでも一緒にいたと言うけれど、ボクにはまるでその自覚がない。

 ロビイくんを、あるいはその存在を知っているのは父さんだけだ。もちろん父さんでさえロビイくんと直接話すことはできない。ボクが催眠状態にあってもだ。

 ボクの父さん冬堂夏海は著名な神経工学者だった。今は神経接続障害の診療グリッドを運営している。つまりはその筋の専門家だ。

 父さんはロビイくんを情報災禍に起因する人格障害だと考えていた。つまりボクの別人格だ。ボクのブレインマッピングには神経接続状態でのみ活性化する解析不能の空白があるらしい。

 父さんによればロビイくんがオンラインでのみ出現するのはその証左だという。それらの症状も含めてボクの検診は今も続いている。

 でもボクは治療に消極的だった。生意気で無神経でプライバシー侵害の常習犯だけどロビイくんに実害はない。たぶん、ない。

 つき合いも長いしロビイくんはもうボクの中に確立している。それにあんな辛辣な性格がボク自身なら、こうして切り離れていた方がまだましだ。

〈ツバサ〉

 ロビイくんがやっと来た。我儘な相棒のために健気に働くボクを労いに。話し掛けさえしなかった罪を悔いてボクに思い切り感謝しろ。

〈十八時から両親と会食では?〉

「あ」

 思い出した。今日はめったに診療所から出ない父さんと、めったに海の向こうから帰って来ない母さんに会う日だ。それと定期健診。

「もっと早く言ってよ」

〈僕は君のエージェントじゃない〉

 ボクはロビイくんがいかに気が利かないかをひとくさり(一方的に)捲くし立て、フレームチェンバーを這い出した。

 イマジネータドライブの後ほどではないけれど、ゲートアウトで重力を肌身に感じた。音と匂いの微細なノイズは本来意識の外にある情報だ。どこかが痺れていたり痒かったり。意識に切り捨てられたそんな小さな感覚が一気に身体に戻って来る。

 ベッドの上から脱ぎ散らかした服を見渡しボクは少しだけ途方に暮れた。

 引き篭もりのボクに外出着のセンスを求めるのは無謀だ。でも下手なコーディネイトで会いに行ったら母さんに衣装のストレージをいっぱいにされる危険がある。

 結局ボクは本物のエージェントにさし障りのない外出着を選ばせた。ロビイくんは日常的なことにまるで役に立たないからだ。ボクに輪を掛けて世間知らずなのだ。

 ふと自分の有様に気がついた。スティグマとまではいかないが身体中むくんで汗だくだ。向こうに籠っていたせいだろう。

 急いでバスルームに飛び込んで後の段取りを調整した。衣装はエージェントの提案をそのままドレッサーに放り込んだ。下着も適当だ。

 オフタートルの緩いニットは紺色でグレーのスカートを合わせた。下は黒のオーバーニーソックスと赤いスニーカー。うん普通っぽい。

 網膜表示でアテンダントに繋ぐとレンタルしたカートは家の前でボクを待っていた。


 父さんの診療所は良く言えば自然に囲まれた、悪く言えばとんでもない田舎にある。ボクの暮らす部屋からでもカートで小一時間を要する距離だ。

 父さんはけっこう有名人で、神経接続ブレインマッピングの完成で時代を築いた一人に数えられることもある。でも今の研究の方がずっと大切だって言っていた。

 父さんが大学の研究グリッドを診療所に書き換えたのは情報災禍の直後だ。それがボクのためであったことは間違いなかった。

 ちなみにボクにとっての冬堂夏海は至って普通の、少し心配性の父親に過ぎない。

 ボクが帰還障害初の回復例になったことで、父さんは娘を実験台にしたと詰られたこともある。わざわざボクにそう告げる人もいて一時期は外にも出られなかった。

 ボクがそうした心無い噂を客観的に意識できるようになったのは、アルビオンで体験した恐怖と興奮の後だった。

 ロビイくんがボクの話し相手として覚醒したのもその頃だったと思う。

 当時は誰といても不安だった。友だちは人間以外が多かった。ニュートはボクのいじけた性格に付き合ってくれるくらい根気強かったからだ。

 父さんや母さんや、根気強い人間もひとりふたりはいて、少しだけ友だちもできた。

 大丈夫だと思えるようになったのは、少なくとも表面上大丈夫な風に見せられるようになったのは、ロビイくんと会ってからだ。

 それはロビイくんが決してどこにも行かないと知っていたからかも知れない。もっともロビイくんは根気強くもあったけれど遠慮もなかった。

 父さんはいろいろ難しいことを言うし、実際そうなのかもしれないけれど、ロビイくんがボク


 電導カートの窓の外はどんどん黒々とした再生林に埋まって行く。擦れ違うのはほとんどが無人配送車だ。

 コクピットに展開したパネルの中を、ボクをモデルに三頭身に戯画化したエージェントが駆け回っている。背景のフロントガラスに薄く反射しているのは、暇を持て余したボクの顔だけだった。

 ファントムとの一件以来ハンマーガール宛のメッセージボックスが容量を圧迫している。エージェントは毎日、手紙の束を抱えて途方に暮れている。

 バトルハッカーを始めて三年近くこんなことはポストマンの嫌がらせ以来だった。ファントム戦のトレンド入りが原因なのは間違いない。

 ボクは相変わらずメッセージを開ける気にならず、かといって車中の退屈にも耐えられず、自分に神経接続を許可した。

 案の定、ロビイくんの皮肉に三回ほど絶交だと叫ぶことになった。主にハンマーガールのコスチュームやボクの控えめなスタイルのことだ。

 ボクの肌や瞳の色は母さんであるエリンのコーカソイドの形質が強い。シェアチャイルドは世帯の三割を超えていて、いまさら血の繋がりもないけれど、ボクは父さんと母さんの実子だった。だからこの胸の大きさにも希望はある。母さんみたいに。

 そのことは何度もロビイくんに主張した。まだ十六歳だ。これからなのだ。なのにロビイくんは鼻で笑った(ような感じで)何も応えなかった。やっぱり腹が立つ。

 診療所に辿り着いたのは約束の時間の少し前だった。


 この前ここに来たときは敷地にカートをキープして裏手の斜面に立ち寄った。そこには野生の花が咲いているからだ。今日はそれを見せる相手も低体温チューブの中だ。

 ボクはカートを降りて診療所の建屋に直行した。

 大きな施設だがここには生身の人間が少ない。ほとんどが手の掛からない患者だ。帰還障害と呼ばれる意識喪失患者は低体温延命処置のチューブの中で眠っている。

 実際ボクのように目覚めた症例は世界でもほとんどない。

 ボクはホールでオーバーサイトを立ち上げた。ウエットスケープで目にする職員はパペットとオートマタしかいないけど、こうして見れば沢山の人がいる。

 冬堂診療所は神経接続障害専門の最先端の医療グリッドのひとつで、研究、検討、情報交換の場だ。医師や研究者、患者はスキンでプライバシー処理されている。

 擬人化された父のエージェントが人混みを掻き分けて走って来た。会議が長引いているからと謝って先に別棟の私室に来るようボクに告げた。

 半ば診療所で暮らしている父にはちょっと広めの居住区がある。父からは再三ここに引っ越して来るよう言われているけれど、ボクは何かと理由をつけて固辞していた。

 いくらボクが引き篭もりとはいえ森の中で暮らすのは嫌だ。虫もいるし。

 母はまだ物理的に海の向こうにいる。だけどあっちはもっと虫がいそうだ。

 別棟の戸口を抜けると接続中の父がいた。まだ向こうで会議中だ。ボクは軽く手を振って奥に入った。見えてはいないだろうけれど。

 リビングには家族の写真が沢山ある。奥行のあるフォトパネルだ。ボクの部屋にも何枚かあるけれど、ここにしかない写真の方が多い。

 まだ四、五歳の幼い自分とか、十七、八歳の綺麗な男の人が寄り添っている写真がそうだ。まるで彼を独り占めするように幼い自分はその人の腕に縋りついている。

 こんな積極性が今の自分に少しでも残っていたら今頃ボーイフレンドの一人や二人はいるはずなのに。

 これまでの人生で唯一の彼氏なのにボクはこの写真を持って帰ることができない。

 こうして眺めた写真も少し経てばボクは思い出せなくなってしまうのだ。忘れまいと長く見つめると酷い目眩がする。まるでボクの記憶が彼を拒絶しているみたいに。

 忘れるたびに幾度も聞いたから彼が震災で亡くなったことは知っている。だけどその名前も、纏わる話もすぐに記憶のどこかに行ってしまう。

 初めて父さんと母さんに写真の人のことを訊いた日、ボクは大人が泣くのを初めて見た。今はその両親の泣き顔だけを覚えている。

 情報災禍より三ヶ月の間ボクは帰還障害の状態だった。その際、記憶の一部が変質してしまったらしい。

 単に忘れてしまうのではなくて特定のことを覚えておけなくなっている。だからボクは記憶の中でさえこの人に逢うことができなかった。

 きっとすごく好きだったはずなのに。身体をなくして、想い出も消えて、この人はどこにも行き場所がない。

 そして気が付けばこうしていつも悲しい気持ちだけが残っているのだ。だからボクはこの家にいることができない。

 ただひとつ。一緒に写っている縫いぐるみだけはボクの部屋にある。少しくたびれてしまったけれどこの写真を見るたび同じ縫いぐるみだと気づくのだ。

 父さんのエージェントに声を掛けられてボクは食卓に行った。母さんはオーバーサイトで参加の予定だから二人分の食事とひとり分のマーカーだ。

 食卓の上のピックアップにファントムのニュースがあるのを見つけてボクはこっそりリストから弾き出した。勘の良い母さんが見ようものならすぐに疑いの目を向けるだろう。もしかしたらあれがボクだとすでに気付いているかも知れない。

 アルビオンの騒動に巻き込まれた子供の頃、ボクはこっ酷く叱られた。それこそエデュカリオスの寮に入れられそうな勢いだった。

 だからハンマーガールのことは家族にも内緒なのだ。ハンマーガールはスペリオーラみたいな正体不明の最強ヒーローなのだ。

「翼」

 不意に呼ばれて飛び上がった。母さんがオーバーサイトに描画されていく。切り抜きを待たずに大股に歩いて来るせいで矩形の背景も一緒に動いた。

 少しの間、母さんのいる部屋が覗き込めた。こぢんまりした部屋の壁一杯にここと同じ写真が飾られていた。

 ボクの視界が母さんに塗り潰された。思い切り抱き締められて視界が母さんに潜り込んでしまっている。幾重も画像を処理しているせいで実像境界はあっても輪郭が曖昧になってしまっていた。

 息苦しくはないが前が見えない。なかなか離してくれなくて父さんに呼ばれるまでボクの目の前は母さんで埋まっていた。


 陽の暮れた路をカートが走る。コクピットの灯りを落とすと天蓋は星で一杯だった。

 行く道は面倒で気が重かった。繰り言にうんざりするシミュレーションばかりが頭に浮かんでいたのだ。

 なのに帰り道は気軽さと寂しさが混じり合って胸の中を掴まれているかのようだ。感情は原始的なコミュニケーションツールだ。人間にいつまで必要なのだろう。

「ロビイくんなら、そう言うね」

〈確かに感情は僕には情報が多すぎる〉

 気を紛らわせるためのボクの八つ当たりにロビイくんは静かにそう応えた。

〈君は使いこなせていないだけだ〉

「それはこっちの台詞だ」

 ボクは口を尖らせて言った。ロビイくんの説教を阻止するためだけにピックアップニュースをポップさせた。

「はあい、エマノンです」

 陽気な女性の声が流れた。バトルハッカーの定番チャネル、バウンティスコアだ。

「今日は取って置きのお知らせ。史上最大のレイドバトルだよ」

 今日のエマノンは灰色の髪を二つに結ってギャリソンキャップを被っている。衣装は黒のタキシード。胸に紅い薔薇をさしていた。なるほど、今日は特別らしい。

「ナンバーなし、危険度無限大の超大物。市民の皆さんはバトルが始まったら即、退避してよね」

 エマノンは大仰に辺りを見回してカメラに近づいた。悪戯っぽい微笑みをパネル一杯に広げて、耳打ちするように囁いた。

「ターゲットはご想像通り。そう、ファントム」

 さっと下がって定位置に帰る。

「場所と日時はいつだって? ゴメン。それは私にもわかんない。ハンターのみんなは掲示板に注意していてね」

 画面に数値と文字が出た。

「スコアは九九。賞金はアマルガム公庫の使用権。億万長者になれるチャンスだよ。みんな頑張ってね」

 ボクが呆気に取られている間にダイレクトメッセージの着信が二回、開封を急かした。ハンマーガールの獲得懸賞金口座宛、配信元はバウンティスコアだ。

 ボクは無意識に開封を指示していた。

「はあい、エマノンよ。お知らせはもう見てくれた?」

 シートに身体を固定していなければひっくり返っていた所だ。

「ファントムの出現予測ができたのはアナタのおかげよ。それは感謝してる。だ、け、ど。アナタが頑張り過ぎちゃったお陰で、オッズが大変なことになってるの。万が一、なんてことになったら、こっちが破産しちゃう。だからアナタには責任を取って貰わないといけないの。わかるわよね?」

「そんな」

 思わずメッセージに向かって声を上げる。その反応を見ていたかのようにエマノンは一拍の間を置いて言った。

「よく聴いて。公式チャンネルではああ言ったけどファントムは十七時間後にブルワークの中央エリアに出現するわ。上位三〇位のヒーローとレジェンドクラスが参加する予定。アナタはそこで戦うの。いい? 逃げちゃ駄目よ? それじゃ頑張ってね」

 そして唐突に閉じたパネルを呆然と見つめる。

〈僕の意見を言おうか?〉

 しばらくしてロビイくんが感情を欠いた声で言った。

〈どうせ君は聴かないだろうが〉

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