第三話 書き割りの月:ガンズロウ

 古い知り合いと後味の悪い別れ方をしたせいで明け方まで馴染みの悪夢に苛まれた。夜はなかなか明けようもせずに幾つもの夢と現実を行き来していた。

 その夢の頃はまだチャリオットなんてふざけた名で呼ぶ奴はいなかった。

 アラートが酷くて解雇した健康管理エージェントかあるいは羽虫の幻聴だろうか。頬を叩く警鐘が鬱陶しくて何かを追い払ったような記憶はある。

 それが何かの承認パネルだったような気もするし、そうでなかった気もする。

 そうだった。行く先を決める転轍機は思いのほか軽い。見る間に大きく本道を逸れて何処かとんでもない方向に疾走する。俺はそれを知っている。それでも後悔は後からしかできない。それが俺の学んだ唯一実用的な信条だ。


 執拗で乱暴な来訪チャイムにチャリオットはベッドから追い出された。それでも冬眠明けの亀ほどには機敏に身体を起こした。

 壁面を埋めた棚伝いに歩いて捨て損ねた空のピザボックスを蹴飛ばしたところでようやくそれがドライスケープの訪問者だと気付いた。

 舌打ちしてオーバーサイトを立ち上げる。ほんの一瞬視界がぶれて拡張表示が同期した。その間チャイムはずっと鳴り続けている。

 苛々と髪を掻き毟りながらチャリオットは部屋の扉を開いた。

 誰もいない。範囲限定のオーバーサイトは現実の廊下を真っ白な手抜きの背景に上書きしている。通りすがりが見ればただぽかんと廊下を眺める変な人だ。

 苛立った咳払いに視線を落とすと焦げ茶色の大きな瞳がチャリオットを睨んでいた。

「早く出てよ、アレックス」

 思わず扉を閉めた。背で押さえ込むように扉に寄り掛かる。悪夢の続きだ。

「開けろ、こら。何で閉めんのよ」

 チャイムと叫び声とがんがん扉を叩く音がする。あれは子供だった。女の子だ。十二、三歳ほどだろうか。何となく記憶に引っ掛かる顔立ちだった。

 息を整えて扉に向き直る。細く隙間を開けて言った。

「身に覚えなんかないぞ」

 がん、と思い切り扉を蹴られて顎を打ちそうになった。

「何言ってんの。早く家に入れてよ」

 悪態を吐いて扉を開くと、少女はさも当然のようにつんとしたまま部屋に入り込んだ。ウエットスケープでは自然な動作も、ドライスケープで相手を招き入れるのは承認と許諾を意味する。それはヴァンパイアのようなものだ。

 不意に『受領』と書かれたマーカーが視界にポップした。二桁を越える書類がストレージを埋めていく。意味がわからなかった。

「レイνよ。ちゃんと面倒見てよね」

 玄関口から振り返ると、少女はそう言って顎を反らした。


 レイν、歳は十二歳。ニュートである以上あくまで外見がそうであるだけだ。

 金の髪、色白で雀斑。濃緑のタンクトップと革のミニスカート。足許は黒のソックスと赤と白のスニーカー。サテン地の薄いジャンバーを羽織っている。

 不機嫌そうに両方のポケットに手を突っ込んで、勝手にリビングに入って行く。

 擦れ違いざま見送った背中に竜が飛んでいた。スカジャンと呼ばれる骨董品だ。そこはピンポイントでチャリオットの嗜好を突いている。

「うわ、何これ。汚い。臭い。最悪」

 奥から勝手な声が聞こえた。あくまでオーバーサイトだ。ドライスケープにしか存在できないニュートの少女には見た目以外に関係がない。

 喚き声と一緒に、落ちる、割れる、壊れるような、とんでもない音が響いて来た。

「おい、こら勝手に」

 行きかけて立ち止まった。ニュートがウエットスケープに手が出せるはずもない。当面は放って置くことにした。今はそれより状況の整理だ。

 チャリオットは少女の受領書類を辿った。レイν。記号の通りのニュートなら一式人格に違いない。あの人間くさい態度や言葉遣いからして好事家向きだ。ならばそれなりの値が張るだろう。金額以上の面倒もきっとある。

 権利運動の高まりもあって一式人格には開発、売買、譲渡、所有に厳しい条件がついて回る。そんな少女の一切の権利が三〇過ぎの自称探偵なんぞに付与されたのはどういう訳だ。しかもサークルクレジットの保証つきだ。

 浮浪者であっても大統領以上の保護を謳う国家独立型の権利保障だ。

 勘違いはあり得ない。

 これが季節外れのサンタクロースかトチ狂ったコウノトリの仕業でないのなら、どこかにチャリオットに勝手な役割を押しつけた神さま気取りがいるはずだった。

 つまり彼女を欲しがる者と渡したくない者がいる。それに巻き込まれたわけだ。書類を一見して見当たらない送り主はあえて名を伏せている。嫌な予感しかしない。

「ちょっと、アレックス」

 何より少女の呼ぶ名が問題だ。あれでこの部屋に辿りついたということは相当迂遠な道筋を経て来たはずだ。どれくらい時間が掛かったのだろう。そのどこかの神さま気取りが描いたスケジュールはすでに破綻している可能性も高い。

 チャリオットは苛々と髪を掻きながら部屋に引き返した。少女は静かになっていたが相変わらず物を引き摺ったり転がしたりするような音は続いている。

 面倒は予想できたがオーバーサイトはあくまでウエットスケープの全周を拡張表示した映像だ。ニュートは実際の物に触れることはできないはずだった。

 景色が変わっていた。部屋中の物が隅に追い遣られ框の清掃口が異様な音を立てている。荷運び用のパペットが部屋の中の物を捨てようと片端から押し込んでいた。

 清掃口に収まらず腕を総動員してぎゅうぎゅうと。

 血の気が引いた。パペットはウエットスケープに本物だ。これは現実だ。

「何やってんだ、パペットを止めろ」

 慌てて叫んだ。確かに室内の機器はオーバーサイトからも制御できるが、見ず知らずのニュートにそんな権限はない。そのはずだ。だが現にやっている。

 単純な譲渡どころか家族契約だ。相当な権限が与えられている。

「掃除よ。見て分かんないの?」

 レイνは床の見えた部屋の真ん中にテーブルを置き机の上を浚ってその上に座っていた。コレクションしていた骨董品のベースボールキャップをデジタイズして勝手に被り、テーブルの縁に垂らした脚を揺らしている。

 スニーカーが大きいせいで脚が細くて痩せっぽちに見えた。

「こんなのは掃除じゃない」

 言いかけて、ふとパペットが運んでいる物に気がついた。悲鳴を上げる。弾はないが火薬式の銃、ガソリンエイジの二輪車のパーツ。どれも苦労して手に入れた骨董品だ。

 慌ててパペットに駆け寄り操作を介して取り上げた。

「おまえ、こっちに関係ないだろ」

 チャリオットは叫んだ。ニュートはドライスケープの住人だ。中には義体を使って人らしく振舞う者もいるが、こんな湿った現実に居場所はない。

「こんな汚い所に住んでる人と一緒に暮らすなんてイヤだもの」

「暮らすって?」

「あんた承諾したでしょ。だから、あたしが来たんじゃない」

「そんなの承諾は」

 するはずが。何か手続きをしただろうか。詳細な記憶はないがおそらく。

「いや、しかし」

 生身の認証についてはドライスケープが上位だ。ただ普段から面倒を優先してウエットキーをデフォルトにしているチャリオットの場合、荷の受け取りも養子縁組も同じ手数しか掛らない。本人の意思確認で事が済む。例え寝惚けていたとしても。

「ほら見なさい」

「けど、こんな汚い所いやだとか言って」

「だから掃除してるんでしょ」

「こんなのは破壊だ」

 辛うじて救出したコレクションを鼻先に突きつける。

「ガラクタじゃん」

 レイνは馬鹿にしたように鼻で笑った。

「違う。これは歴史だ」

「何それ。ダサいし、クサい」

「勝手に上がり込んどいて、適当なことを言うな」

「勝手じゃないもん」

「手続きは間違いだ」

「間違いでも何でも関係ないから」

「手続きし直せばいいだろ」

「追い出されたら行く所ないもん」

 チャリオットは言葉を喉に引っ掛けたまま唸った。

 女に口で勝てたことはない。ニュートであれ子供であれ昔からそうだ。きっとこの娘にはチャリオットを睨みつける表情に自覚がない。

 涙目で睨むなんて、相当底意地の悪い開発者に造られたに違いない。

「いいか、しばらく動くな。勝手に部屋のパペットを動かすんじゃないぞ」

 チャリオットは頭を掻き毟った。壁に向かって思い切り悪態を吐く。

 レイνは拗ねたような目で彼を睨んでいる。

「それと、俺をその名前で呼ぶな」

「じゃあ何て呼ぶのよ。パパなんて絶対、嫌だからね」

「こっちもお断りだ。チャリオットと呼べ」

「何それ戦車って。ゲーマー?」

 少女の表情は揶揄い半分、少し引いている。

 思いのほか傷ついた。内心気に入っていたのかと自問自答しつつチャリオットは部屋の惨状に向き直る。救出可能なコレクションにマーカーを貼って部屋の修理と清掃を管理エージェントに丸投げした。

 少女はテーブルの上から繁々と彼を眺め、小さく肩を竦めた。

「全然、戦車っぽくないし」

 実際チャリオットの外見は四肢が長い分むしろ痩身だった。フレームに反映された無精髭も天然で、男っぽいのは単に不精だからだろう。

「見掛けと違う方が、何かと都合がいいこともあるんだ」

 ただ本人も名前から想像できないのは自覚している。

「強そうだとモテると思った?」

「うるさい。少しそこで大人しくしてろ」

 チャリオットは言い捨ててリビングを出た。個室に入って物理錠を掛け、デジットサイトに切り替えた。これでレイνと同じドライスケープにいる。

 扉を素通りしてテーブルの上で不貞腐れている少女と顔を突き合わせた。

「話しだけは聴いてやる」

 そう言ってレイνを外に連れ出した。


 ヘブンサーキットは無法の街だが、ターミナル近辺の保護区画は他のどこより安全だ。矛盾するようだが無法の保証はこの区画の安全性が担っている。

 ここではチンピラさえ信号を守って道路を渡る。道徳心からではなくその境界を守らねば制裁を受けるからだ。それがこの街のルールだった。

 押し掛けた少女、レイνは街そのものを珍しげに見て回った。まるで初めて見たかのように。実際その可能性は高い。むしろお決まりの記憶パッケージだろう。

 例え彼女に記憶があっても、それは誰かの記録に過ぎない。起動されるまでのニュートの記憶など前世の夢のようなものだ。

 もちろん、ここに来た目的は観光ではない。

 ついてくるよう促して、チャリオットは馴染みの店に入った。レイνは手を使って開ける扉と扉につけられた鈴を怪訝そうに眺めた。

 無駄に頭上に渡された低い梁にはいくつもの光源が吊り下げられている。重く黄色味の強い照明には地下に建て込まれたような閉塞感と奇妙な安心感があった。

 意味のない額で埋められた壁には何度も上書きされた複雑な珈琲の香りが嗅覚のノイズになって染みついている。

 古い造りを模したカフェだがそれなりに長く続いている。枯れ具合がまるで本当の経年変化のようだ。何よりチャリオットが気に入っているのは客が少ないことだった。

「商売繁盛だな」

 カウンターの奥に軽く手を振って、チャリオットは低い壁で仕切られた隅のテーブル席に陣取った。皺を刻んだ気難し気なニュートがじろりと目線を上げて応える。

 チャリオットについて歩くレイを見て片方の眉だけを動かして見せた。

「ここなに?」

「尋問室だ。これ以上部屋を無茶苦茶にされたくないからな」

 デジットサイトで清掃業者を眺めて話すのも鬱陶しい。かと言って何かの拍子にプライベートスペース入られても困る。そんな理由だ。あとは直感的な用心のため。

「だからあれは掃除だって」

 レイνが口を尖らせた。

 チャリオットが間繋ぎのブレンドをオーダーするのを見て、レイνもさも当然のようにアップルジュースを注文した。メニューを眺めて「もっとスイーツを置かないからお客さんがいないのよ」などと余計なことを言う。マスターはチャリオットをじろりと睨んだ。

「で、何だって俺の所に来た」

「あたしに訊いたって何もわかんないよ。きっと」

 ジュースを抱え込みテーブルの目を数えるようにしてレイνが応える。

「おじいちゃん、自分が死んだらあんたの所に送るって言ってた。目が覚めたら部屋の前にいたんだもの」

 元よりレイν自身から訊けることは多くないと踏んでいた。チャリオットは脳裏に箇条書きにしながら状況を組み立てて行く。

「おじいちゃんって前の保護者か」

「あたしを造った人」

 やはりそうか。チャリオットは溜息を吐いた。何となくそんな気もしていた。ならば絞り込める人物は限られている。知人でこんな生意気な一次人格を造ることのできる人物は多くない。過去の名を知っているならなおさらだ。

「フィル・ローゼンか」

 レイは頷いて目を逸らした。ニュートに関して彼に勝る知人はいない。

 ただ、フィルとは交流を失くして久しい。名を変えてからは弁解も庇護も生きていることすらも告げていなかった。そしてその機会はもうない。彼は亡くなった。

 確か一年ほど前だ。一線を退いて療養中だったのも後から知った。

 フィル・ローゼンは一式人格で名を馳せた疑似人格技師だ。その分野の草分けでもある。底抜けに陽気だが変人で子供のように悪戯好きだった。

 彼とはレイチェルを介して知り合った。フィルは彼女の叔父だったのだ。まだチャリオットが以前の名で、二〇歳にもなる前のことだ。

 正直、彼女より馬が合った。親子ほど歳は離れていたが友人だった。

「て、ことは、おまえ」

 改めて少女の顔を覗き込んだ。レイνは何かを察したのか鬱陶しげにそっぽを向いた。顔をまじまじと見られるのを嫌がっているようだ。

 一緒にいた頃のレイチェルよりずっと幼い。だがどうして気づかなかったのかと思うほど、そこに彼女の面影があった。

「あの女は関係ないから」

 よほど比べられるのが嫌だったのかレイνは咬み付きそうな顔をして睨んだ。

 レイチェル・ローゼンもまた叔父と同じ、あるいはそれ以上に名を知られた女性だ。

 だがフィルは彼女の会社に属していなかったはずだ。ニュートに対する考え方の違いでレイチェルとは疎遠になったとも聞いていた。

「まあ思ったより似てないな」

 生意気なところはそっくりだが。

「あたりまえでしょ」

 レイνの頬から不機嫌と不安の翳りが飛んで、澄ました顔で顎をつんと逸らした。ころころと変わる表情につられて思わず笑いそうになる。

 ふと、脳裏のメモに抜けた一行を見つけた。

「そういえば、俺の所に送られたのはいつだ」

「一年ほど前」

 レイνは暦を見ずに答えた。恐らく目覚めて真っ先に確かめたのだろう。おそらくフィルのことも目覚めた瞬間に調べたのだ。寝惚けた返事を返すあの扉の前で。

「おじいちゃん、あたしが引き取られる頃には、もういないだろうって言ってた」

 チャリオットの表情を読んだのかレイνは先んじてそう言った。

 一年。それがサークルクレジットのエージェントがチャリオットに辿り着くのに掛かった時間だ。たぶん優秀だと言えるだろう。むしろ辿り着いたことが奇跡だ。

 アレックス・ソーンもまた知られた名だ。それも世界中から謗られながら死んだ。ヘブンサーキットの貧乏探偵と結びつける糸は非常に細いはずだった。

「フィルは俺のこと何か言ってたか」

「お調子者で女に弱いって」

「なんだそれ。そんなのでよく俺の所に来ようと思ったな」

「でも正義の味方だって」

 レイνは不意に赤くなって目を逸らした。

「あたしオバサンに捕まったら何されるかわかんないし。女に弱いならチョロいかなって」

 口を尖らせる。

「揉む胸もない奴に誑かされるか」

「助平、変態、セクハラだからね」

 レイνが投げつけようとしたグラスを慌てて掴み押し合いになった。カウンターの奥からマスターが睨んでいる。

「オバサンってレイチェルのことか」

「なによ。あたしだって、あれくらい大きくなるもん」

「何言ってんだおまえ」

 ニュートのくせに。そう言いかけて思い留まった。グラスを置いて気を落ち着ける。彼女が身柄を確保しようしていたのか確かめるとレイνは鼻の上に小皺を寄せた。

「ずっとよ。あたしオバサンが来るといつも隠れてた」

 子供の姿とはいえ自分と同じニュートが存在するのはあまり気持ちの良いものではないだろう。ましてや彼女は一式人格に否定的だった。

 次世代のオムニスケープではニュートの二式人格統一を掲げるとの噂もあった。そもそもそれが原因でフィルは姪と袂を分かったという話だ。

 だが、それが理由だろうか。

 レイからグラスを取り上げて額を小突いた。少しじっとしてろと言い残してカウンターに移った。マスターの前に腰掛ける。

「マスターにモデルは?」

「藪から棒に失敬な奴だな」

 マスターが半眼の隙間からじろりと睨む。

「すまんね。正直だけが取柄なんだ」

「人相は誰かに似せたかも知れんが、性格はどうかな。こんな捻くれた奴を疑似人格のベースにしようと思う奴もそういないだろう」

「自分がわかってるじゃないか」

「うるせえよ。それよりその子はローゼンのかい?」

 見ると、レイが隣のスツールに這い上がっている。カウンターに肘をつき並んだサイフォンを物珍し気に見つめている。じっとしてろと言ったのに。

「この子の兄弟に会ったことは?」

「そりゃあ何人かはな。少々毛色は違うようだが」

「だよな、こいつは生意気すぎる」

 レイが口を尖らせて肘打ちして来る。大声で喚き立てないのはどうやらマスターに人見知りしているせいだ。俺にはあんなに咬みついたくせに。そう内心で文句を言ってチャリオットはマスターに向き直った。

「フィルの知人を知りたい」

「おまえさんだろう」

「自分のことはよく知ってる」

「どうだかな。リーなら知ってるだろう。訊いてみたらどうだ」

 名前を暫し舌の上で転がして記憶を弄る。

「シニスターにいた若い職人か。デアボリカに工房をやられたあと田舎に帰ったって聞いたが、確かにあれもフィルの弟子だったな」

「最後のな」

 チャリオットはその場で仲介にあたりをつけた。仕込みだけでもと思ったがエージェントと二、三の遣り取りをしただけでリーはあっさり通信に応じた。

 予想が外れてチャリオットは店を出損ねた。マスターに断りを入れ今度こそレイνをカウンターに残して再び奥のテーブル席を陣取る。

 平面のパネルを拡げた。

 こちらがマスクを掛けていないのを確認するとリーも自身の姿を映した。

「ご無沙汰……しています」

 髪は黒く、肌は白く、瞳は赤味の強いブラウン。彫りが深く情動の薄い陶器のような容貌だ。記憶の中のリーはもう少し表情が幼く目許に不安をこびりつかせていた。

 今の彼は表情のない瞳に少々危なっかしいものを抱えているような気がする。

「脅すようなことになっていたらすまないが、こっちにそんな気はない。信用してくれ」

 最初に宣言した。リーも昔はヘブンサーキットの奥にいた。いま日の当たる場所にいるなら、それは決して愉快なプロフィールではないはずだ。

「構いません。貴方がフィルの友人なら、こちらも昔の名前はわかります」

 肩を竦めた。確かにフィルの弟子なら何かの拍子に話を聞くこともあっただろう。

「喰えないな。若いのに」

 それをチャリオットに結びつけたのなら勘もよいのだろう。昔の名は悪評に塗れた著名人だ。善良な探偵とは住む世界が違う。

「そちらの世界で勉強しましたから」

 互いに笑った。世界が交わる訳でもなしタイならその方が話はし易い。

「単刀直入に訊くが、実在する人間のニュートを造ることは可能か?」

 リーは微かに目許を強張らせた。目線を逸らせたのは考えるというより表情を隠すためかも知れない。何となくそんな気がした。

「貴方が考えているより簡単ですね、きっと」

 しばし間を置いて、彼は言った。

「今この瞬間、貴方のブレインマップをコピーすれば下地のできあがりだ」

 詰めていた息を吐くようにリーは微かに笑った。

「ただし長くは持たない。人格が維持できるのは精々半年程度です。人格ダウンロードの敗因と同じです」

「人格ダウンロード?」

「アマルガムオルタの掲げている、あれですよ」

 目線の含みでフィルと彼女の関係を示しているのだとわかった。

「フィルならできたと思うか?」

 リーは首を振った。

「できなかったでしょう。彼にとってニュートは人間のコピーじゃない」

 できなかったのではなく拒んだ。彼はそう言ってるのだろう。ならばレイνは何なのか。本人が否定しても彼女はレイチェル・ローゼンをベースに造られている。

「じゃあ、彼にとってニュートってのは何だったんだ」

 リーは少しだけ間を置いた。あくまでフィルの答えだが、とチャリオットに告げた。

「人間の可能性」

 意味がわからない。背中をぶつけるようにシートにもたれ、頭を掻いた。

 その可能性とやらは今、カウンターに身を乗り出してマスターの仕事を邪魔している。どうやらマスターへの自己紹介は終わったらしい。ニュースパネルを覗き込みあれこれ無邪気な質問を投げている。

 レイは一年ほど宅配チューブの中にいた。眠っていた感覚はないだろうが隔絶した世情は新鮮だろう。意外だったのはあのむっつりしたマスターが怒りもせずレイの相手をしていることだ。孫に目がないタイプだったのか。

「フィルに何かを託された?」

 不意にリーが訊ねた。うたた寝を起こされたようにパネルに目を遣る。

「フィルが亡くなってもう一年だ。今更とは思いましたが。フィルの姪はかなり強引に遺産を探していました」

 彼の口許には薄い不快感がある。

「君の所にも?」

「フィルから受け取った物はありますが、彼女の探していたものではなかったらしい。彼らはニュートを捜していましたよ」

「彼の造ったニュートはそいつらに引き取られたのか?」

「まさか。彼は庇護者なしにニュートを造りません。まして姪に奪われるような状況にするなんてあり得ない」

 一拍おいて、声を落とした。

「受け取ったのですか?」

 目線は半ば確信している。いまさら選ぶ言葉はない。

「成り行きでな」

 言葉に聡い相手には明け透けに応える方が不利益は少ない。どれだけ曝け出しても最後のひとつが隠せればそれでよかった。

「コードを教えて戴いても?」

 リーが問う。製造コードのことだろう。アノニマスチップで管理する類いの情報だ。コード自体に意味はなく技師資格で情報が閲覧できるものだ。だがチャリオットはレイνのコードを確認していなかった。

 製造コードを見せろなどと服を脱げと言うようなものだろう。信条通りにそう答えるとチャリオットはリーに呆れられた。言葉にしないものの困惑した表情を見せた。

 何であれ感情を引き出せたのはく勝った気分だ。

「まあ構いません。彼女の興味を惹くニュートなら何となくわかります」

 訊く前から答えは知っていたはずだ。チャリオットは無駄な遣り取りを遮って訊ねた。

「姿形が目的だと思うか?」

「違うでしょう」

 考える振りもしない。

「人格ダウンロードとの関連は?」

「それもどうかな。彼女は数年前からプロジェクトにレクター博士を引き込んでいます。異なるアプローチで目処をつけたと考える方が自然だ」

 彼女はレイνの何が欲しいのか。それがわからない限りこの娘は追われ続ける。当然、所有者のチャリオットにも災難が降り掛かるだろう。

「フィルの家は今もあそこに?」

 足掛かりを探して足掻く。

「根刮ぎ浚った後ですよ」

「墓まで掘り起こしてそうだな」

 舌打して呟く。

「遺体は最初に持って行きました」

 平然と応えるリーを暫し眺めてチャリオットは言った。

「きみ、俺の助手にならないか」

「申し訳ありませんが、今の仕事の方が実入りは多いので」

 チャリオットは笑って鼻を鳴らした。

「そりゃそうだな。ありがとう。迷惑を掛けてなきゃいいんだが」

「お気遣いなく。こんな僕でもフィルは大切な人でした」

 思ったより自然な表情でリーは応えた。チャリオットが次に口を開く前に言葉を重ねる。

「謝礼は彼女の秘密がわかったらでとうですか? メンテナンスならいつでもお気軽に。ただしこちらは有料ですが」

 チャリオットは追い払うように手を振って交信表示に手を伸ばした。

「貴方のレイチェルによろしく」

 最後の台詞に悪態を吐いてシートに背中を預けた。最後にリーの態度が軟化した理由がよくらわからなかったが、それでも信用には足ると直感で思った。

 他人の表情には聡い癖にチャリオットは自身に無自覚だった。彼がヘブンサーキットで何の拠り所なく生き延びたのは、その性格で独自の地位を築いたからだ。だが本人にその自覚がない。たまたま運がよかった程度のことだと考えている。

 チャリオットは自分の管理エージェントを呼び出しレイνの譲渡書類を読み返した。いずれもサークルクレジットの圧倒的な法的守護が施されている。フィルの想定した相手がアマルガムオルタなら理に叶った処置だろう。

 いや、オムニスケープを支配する企業が相手ならそれさえも不安だ。

 アマルガムオルタは両方の世界に非合法手段を行使するだけの権力がある。チャリオットがウエットスケープに持っているのは運動不足の肉の塊だけだ。

 だが、いずれにせよ結論は変わらない。レイνを託したのがフィルだと知った時点で、あるいはそれより以前から、少女の庇護はチャリオットの前提だった。

 ともあれ、レイνが追われる理由を見つけて交渉に備えておくのが得策だ。

「強いね。あのハンマーの女の子」

 レイがニュースパネルに食いついている。マスターと目が合うと彼は照れたを表情を隠すように顔を顰めた。

「でも、あの黒い奴には効かないね」

 パネルには人型の補足線が表示され、ファントムと名を記されている。

「マスター?」

 チャリオットは腰を浮かせてカウンターに向き直った。マスターが首を振る。自分には見えないという意味だ。レイνはそれを黒い奴と言った。

「レイ、行くぞ」

 声を掛けレイνをカウンターから引き剥がした。

「マスター、済まないが」

 言葉を遮りマスターはチャリオットを追い払うように手を振った。

「次はちゃんと払えよ」

「ああ二人分な」

 彼は口許で笑ってカウンターの奥に消えた。きょとんとするレイの手を引いて早足に店を横切ると、チャリオットは再びドアのベルを鳴らした。


 チャリオットはオムニスケープに長い。それは裏側について人より詳しいという意味だ。ファントムの噂も知っているし、その莫大な賞金の出処も知っている。

 人通りの少ない小路を出てチャリオットは比較的華やいだ通りを行く。行く先はまだ思案中だがターミナルやステップディスクはできるだけ使用を避けた方が無難だろう。

 アレックスからチャリオットに至るまでサークルクレジットは一年掛かった。彼女はどこまでレイνの軌跡に追い付いているだろうか。

「どうしたの、急に。マスターに何かした?」

「忘れて貰った」

 前を向いたまま応える。短期記憶の消去はマスターの特技だ。それ故あの店はこの街で生き延びている。店の名はアムネジアだ。あの店は一切の記録を残さない。

「どういうこと?」

 レイνは声を上げてチャリオットを睨んだ。レイνが手を引き返したせいで彼も立ち止まる。チャリオットは振り返って声を殺した。

「マスターに迷惑を掛けないようにだ。知らなきゃ無理には訊き出せないからな」

「どういうこと」

 レイはもう一度、同じ言葉で訊ねた。

「おまえ、ファントムが見えてたな」

「それが何よ」

「奴はニュートに見えない」

「そんなことない。ハンマーの女の子と闘ってたじゃん」

「マスターには見えてないんだ。おまえは特別だ」

「でも」

「彼女がお前を欲しがってるのはそれが理由だろう」

「馬鹿じゃないの? そんなことで?」

「その馬鹿なことに彼女らは何億って賞金と私兵を注ぎ込んできた。理由は俺も知らん」

 チャリオットは言い捨てレイνの手を引いた。今度は大人しくついて来る。

 次世代ワールドフレームに取り組むアマルガムオルタ。そのプロジェクト首魁のレイチェル・ローゼンには二つの執着がある。

 表は完全人格ダウンロードであり、そして裏はファントムだ。

 ファントムへの天文学的な賞金の出所については様々な噂話がある。だがチャリオットが名を変える前の組織では周知の事実だった。

 ファントムを手に入れるためなら彼女はどんな手も使おうとするだろう。

「あたし変なの?」

 レイνは囁くように呟いた。不安気な目を隠すようにチャリオットはレイνの髪をくしゃくしゃと掻き回した。

「おまえはそれだけ人間に近いんだ」

 チャリオットの手を払い退け髪を整えながらレイνは口の中で文句を言った。

「とにかく彼女がどこまで突き止めているのかがわからん。いつまでも逃げる訳には行かないし、せめて隠れ家を確保する時間が欲しい」

「あんたの部屋は?」

「駄目だ」

 返事が少し早過ぎたきらいもあってレイνは不審気な目を向けた。

「またガラクタばっかり詰め込んでストレージに空きがないんでしょう」

「部屋ごと押さえられたら逃げ場がないからだ」

 プライベートエリアの機密性は高いが彼自身、つまりウエットキーを押さえられたら如何ともし難い。現実に手を出されたらお終いだ。だが前半も当たってはいる。

「直接捕まえられない限りまだ街を逃げ回った方がましだろうな」

 チャリオットは呟いた。レイνは明けない夜の色と乱雑な街頭の掲示板を見渡して口を尖らせた。

「もっと気の利いた場所でホテル暮らしとかしたい」

「どこで覚えた、そんなこと。保護区画の外は確かに子供向きじゃないが、ここだって逃げ道が多いんだ。縦階層の建屋が入り組んでるからな」

 公安の口実を避けるため保護区はハラスメント規制が徹底されている。このエリアならヤクザすら品行方正でいてくれる。

 ただしアマルガムオルタにそれを守る気があるかどうかはわからない。

「とりあえず、ひと所に留まらないよう順繰りに誰かの部屋に潜り込ませて貰うか」

「ちょっと、女の所じゃないでしょうね。もしそうならあんたのことをパパって呼んで、あることないこと喋るわよ?」

「おまえ鬼か」

 不意にチャリオットの身体が傾いだ。

 視界はそのままつんのめるように身体が浮いた思うと床に叩きつけられた。

 床?

 視覚は最初に痛覚は遅れてやって来た。これは緊急離脱の感覚だ。

 覚めても動かずチャリオットはそっと状況を確かめた。個室のシートから身体を引き摺り出された状態だ。半身はドアの外にある。

 硬質の手がチャリオットの腕を掴んで引っ張り上げた。壁に押しつけ、顎を捩じ上げ、無理やり瞼を抉じ開けられる。

 無表情な男がチャリオットの眼を覗き込んだ。フォークド=カンプフテストをするまでもなく二式ニュートを制御系に入れた義体パペットだ。

 パペットはチャリオットの身体を乱暴に抱え上げ、片付けたリビングに放り出した。

 そこにはもう一体のパペットが、そしてオーバーサイトの情景の中に女がいた。黄金の髪と緑味の強い青の瞳、染みひとつない白い肌の美しい女だ。

「綺麗にしているのね、意外と。もっとガラクタに埋もれているかと思ったわ」

 白場の多い部屋の中を眺めてチャリオットは苦笑した。もうひとりの君のせいでちょうど片付けたところだとも言えない。

「おかげさまで」

 呟いて身を起こす。そのまま床に胡座をかいてレイチェル・ローゼンを見上げた。

 ゆったりした白のトガ、アンダーに黒のハイネック。剥き出しの肩が十年経っても艶やかだ。あの雀斑の小娘が本当にこんな美女に化るのだろうか。

「生きていたのね、アレックス」

「手下の腕が悪くて助かったよ」

 もちろん彼女がアレックスを追い詰めたとは限らない。

 当時アルビオンの一件で赤恥を晒したアマルガムアークはまだ彼女の管理下にもなかった。その解体後、信頼回復に奔走したアマルガムネオも同様だ。

 かつてアレックスに汚名を着せ接続事故を演出した者は今もまだ不明のままだ。

「私ならこんなヘマはしないわ」

 レイチェルは軽く肩を竦めて見せた。

「だろうな」

 次の予定を囁くエージェントに耳を傾ける振りをしてレイチェルは彼を見下ろした。

「ゆっくりしたい所なのだけれど」

 微塵も思っていないだろう言葉を告げる。

 チャリオットは鼻で笑って視界の隅にパネルをポップさせた。部屋中真っ赤に点滅している。案の定、この辺り一帯は探索因子に侵食されていた。

「フィルの形見分けのことだろ?」

 居丈高な二体のパペットに目を遣る。

「世界一の金持ち企業の、これが正攻法か?」

「相手に応じた交渉をするのがビジネスの正攻法よ」

「買い取る選択肢はなかったのか」

「あなたにはあったの?」

「案外、靡くかも知れないぞ?」

「それこそ無駄な交渉でしょう」

 性格は把握されているようだ。それくらいの記憶は残っていたのだろう。

「念のため言っておくがサークルクレジットは俺の意見なんぞ受けつけないからな」

「手続きはこちらで整えるわ」

「至れり尽くせりだな」

「あのニュートを渡して」

「自分で探せよ」

「アレックス」

「俺がニュートに首輪をつけるとでも思ったのか? それとも後生大事に仕舞い込むとでも?」

 睨み合う状況に懐かしさを覚えてチャリオットはふと苦笑した。

「まあいいさ。こうして話している間中も俺のストレージを引っ掻きまわしているんだろう?」

 レイチェルの表情は変わらなかった。表情の選択肢に迷ったからだ。今の彼女はニュートよりも情動が機械的だった。中にいるのも高度なエージェントかも知れない。

 昔の男に会いに来るよりその方がよほど賢明な選択肢だ。

「彼女はいたか?」

 問い掛ける。視界の隅に開いたパネルは馬鹿げたサーチの痕跡を刻んでいる。

「渡して、アレックス」

 チャリオットは肩を竦めた。

「君の優秀な部下が俺を引き摺り出したとき、そこにいたんだ」

 レイチェル、あるいはそのエージェントボットは平静を取り繕おうとしして再び表情をなくした。瞳孔の奥に行き交う指示が目に見えるようだ。

「言っておくが移動制限も強制帰還も設定していない。言ったろ? ニュートに首輪をつける趣味はない」

 神経接続に介入したからにはログも取っているだろう。チャリオットが直前までどこにいたのかはわかるはずだ。ただしレイがそこで大人しく待っている可能性は低い。非常事態なのは彼女も悟っているだう。

「ぐずぐずしていないで、捜しに行けよ。俺の前に連れて来れたなら譲渡のサインは考えてやる」

 そう言って追い払うように手を振るとレイチェルは言葉を探すように宙を見つめた。

「昔の私には優しくしてくれた?」

「昔から女の子には優しかったろ?」

「そうね誰にでも優しかったわね」

 そう言ってレイチェルは出し抜けに消え失せた。

 二体のパペットが徐に動き出し挨拶も謝罪もなく部屋を出て行った。

 もしかしたら最後は本物の彼女だったかも知れない。考え過ぎだろうか。

 チャリオットはやけに広く感じる部屋を見渡した。

 ハウスパペットの工具箱からピックを引っ張り出し張り替えたばかりの壁に突き立てる。探査プローブがひとつ壊れた。

 部屋を出る。パペットに命じて寝室にグラスを運ばせた。普段なら寝るのはリビングの長椅子でもよかったのだが。

 いつもより濃い目と注文をつけて、ひとくち呷ってシーツに転がった。


 八年前アマルガムアークの捜査官だったアレックスはアルビオン殲滅戦の生贄にされた。その後、片田舎の神経接続事故に彼の死亡記事が出ている。

 アマルガムがオズワルド氏を用意する手間を惜しんだせいで、その事故には言いさえなかった。それが幾百というハッカーと無辜のニュートをなぶり殺した間抜けな男の末路だ。虐殺者アレックス・ソーンは歴史の片隅に残った。

 数日経って貧民街の外れに瀕死の男が担ぎ込まれた。彼が乗せられた荷車はまるで古い映画に出てくるローマの戦車ようだったらしい。

 それが縁で過去のない男は新しい名を貰った。

 致命的な事故だった。神経接続端子の過負荷で男は脳の一部を失っていた。選択肢はふたつ。神経線維を刷新し新たな人間としてやり直すか。違法の代替品と外部補完で人格と記憶を維持するか。

 置かれた状況は前者一択だったがへそ曲がりなその男は後者を選んだ。彼がこのさき生き延びるには武器が必要だったのだ。


 チャリオットはぼんやりと天井を眺めた。探査プローブはリビングの他にもあるはずだ。アクセス経路は言うに及ばずふて寝する彼を今も見つめているだろう。

 まだ警戒していると思うだろうか。閾値を超えた血中アルコール濃度に反応し、体内の医療ボットは急速に分解を促進し始めていた。

 寝返りを打つ振りをしてチャリオットは右耳の後のハードコネクタをスライドさせた。そこにあるのは見せ掛けのポートだ。下には待機状態のアドオンチップが並んでいる。

 指先で探って、押し込んだ。


 見つかった。駆けながらレイνは確信する。幾つもの足音、仲間を呼ぶ仕草。複数の人影が確実にレイνを追って来る。

 大人ひとりの幅の路地を幾つも潜り抜け、レイνは見つけた階段を駆け上がって闇雲に建物の上を目指した。

 錆びた鉄の非常階段は思いのほか大きく足音が響いた。侵入者を警告する演出だろうか。でもいまさら引き返せない。

 あのときアレックスの姿が突然消えてすぐにわかった。あの女が来たのだ。

 今頃アレックスはウエットスケープに引き摺り出されてレイνを渡せと脅されているに違いない。そう考えただけで不安になった。しばらく通りの真ん中で竦んでいた。

 レイνは再びチューブに押し込められるのを身を固くして待ち構えたのだ。そして気が付いた。アレックスは移動制限も強制帰還も設定していかなかった。

 レイνの所有者なのに。なんて杜撰なニュート管理なんだろう。

 だけど、それは諦めるなということだと思った。逃げろ。抗え。追手はアレックスのアクセス経路を辿って来る。早くここから離れなければ。

 ステップディスクやターミナルは記録に残る。遠くに逃げるのではなく見つからないように逃げるのだ。二本の足で。

 マスターの顔は真っ先に浮かんだ。容易ではなかったが踏み止まった。

 あの人に迷惑を掛けないのがアレックスのルールだ。いま頼ってしまったらアレックスに会ったとき胸を張れない。

 どこかに身を隠してじっとしているのは? そんなの捕まるのが早まるだけだ。ニュートのマーカーは隠せない。人間のように名前を変えることもできない。

 走りながら考える。ひとりでファントムと戦っていたあの女の子みたいに自分ももっと強くなれたらいいのに。

 装飾で設けられた非常階段を上まで登り非常口を無視して屋上に続く梯子を探した。手の届くところまで手動で降ろす機械式だ。

 何だってドライスケープにこんなものを造るのだろう。チャリオットの部屋にあったガラクタと一緒だ。懐古主義者って意味がわからない。

 手摺に乗って壁で身体を支えながら梯子に手を伸ばした。破砕値はないが落ちたら痛覚が閾値を越えてしまう。そうなればチェンバーに強制退避だ。

 何とか指先を引っ掻けて身体を持ち上げた。筋力設定は比較的高い。自重くらいは指で支えられる。

 もちろん正面切って大人を殴り倒せるほど強くはない。囲まれたらお手上げだ。

 梯子を登って屋上に這い上がった。胸高ほどの壁に囲われたフレキシブルな平面で、隅にビルメンテナンス用の制御端子が並んでいるだけだった。

 見渡す周囲は同じような高さの建屋が林立しており、高低差はあるもののルートを選べば飛び移って移動することもできそうだ。

 身を乗り出して非常階段を覗き込んだ。ちらつく影も足音もない。

 息を吐いて次の逃げ場を探した。

 向いの屋上は眼下にあるが、距離が少し開いている。

 右手は近いが壁が絶壁のように高い。

 左手の屋上はここと同じくらいの高さだ。

 後ろもほぼ同じ高さで、こちらは手を伸ばせば届く。同じ造りの建屋だ。

 振り返り、近い屋上の縁を目指して走る。

 だが辿り着く前に手前にエレベータケージがせり上がった。

 男が二人、女が一人乗っている。外見に取り立てて特長はないがタグの色は二式ニュートだ。おそらく警備員ではない。見え見えだ。

 レイνは駆け出した。今度は目の前の建屋に飛び込むつもりだった。

 その屋上にもエレベータケージがせり上がった。

 レイνは腰壁の手前で危うく踏み止まった。向こうには四人の男女が乗っている。

 振り向くと三人が近づいている。回り込んでも捕まえられるよう横に間隔を取っている。

 歩調に合わせて後退った。

 いま左手にあるのはここより高い建屋の壁だ。白くのっぺりとして飾り窓さえない。一瞬迷って右手に駆け出した。

 相手の脇を擦り抜けられれば。叶わなければ少し距離はあるがその右手の屋上に。端にいた女が反応した。レイνに並んで距離を詰めて行く。屋上の外に飛び出す前に女の指先が肩を掴んだ。

 振り払って右側に。だがいつの間にか男が待ち構えている。

 逃げ場がない。追い詰められた絶壁のような建屋には飛び移る場所がない。

 不意に女の頭が消し飛んだ。

 破裂音と金属を打つような音が混じって、雷鳴の後のようにカラカラと尾を引いた。

 左目から上を欠いた女の身体が不思議そうにレイνを見つめてそのまま仰向けにひっくり返った。駆け寄る男二人が思わず足を止める。屋上を渡ろうとしていた四人はそのまま凍りついた。

 轟音が二度鳴って二人の男の胸に向こう側が覗けるくらいの穴を開けた。

 レイνの頭上で風が鳴り、はためく音が降ってきた。硬いブーツの音を鳴らして屋上に降り立つと、その人はコートの裾を払ってレイνの前に立った。

 焦げ茶色をした鍔のある帽子。高い襟と赤いスカーフ。目許を黒いマスクで覆っている。ガンズロウ。タグの名前も違うし、衣装も奇天烈だ。

 それでもレイνには誰だかわかった。間違えるはずなんてなかった。

 何その恰好、おかしいんじゃないの? そう言おうとして喉が詰まり、情けない声になった。そんな泣き顔を見られたくなくてぶつかるように縋りついた。

「こいつは一張羅なんだ。鼻水はつけるなよ」

 そう言ってガンズロウはレイνの髪を掻き回した。

 呆然と竦んだ四人が動き出し二人に向かって走って来る。増援を運び上げようとエレベータケージが動き出していた。

 レイνの身体を傍らに寄せて、ガンズロウは前を向いたまま言った。

「フィルとは趣味が合ってな。一緒にたくさんの古い映画を見た」

 コートの裾を跳ね上げて両手に握った銃を眼前の敵に突きつける。

「どんなのだったか、知りたいか?」

 そう言ってガンズロウは笑った。

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