第五話 血の味:デアボリカ

 ヘブンサーキットは大半が夜の街だ。ワールドフレームとしては小規模だが、ここでは実験都市を名目に非合法サービスが常設されている。陽の当たる小さな場所を担保にその幾倍もの影を手に入れた世界だ。

 ターミナルとなる保護区画の外ではレイティングシステムさえ無効化され場所によっては接続安定域も表示されない。この街の目的は快楽の追求だ。

 痛みと同様、神経接続には快楽刺激の閾値も厳格に設定されている。構造的にも法的にも閾値の操作は難しい。だがヘブンサーキットにはそれがある。

 店先に並ぶ多彩な感覚オプションはみな違法改造物だ。それらの存在がヘブンサーキット最大の都市伝説でもある快楽機械の妄言を産み落としたともいえる。

 もちろんその真相は街の深部に隠されていて、他所から立ち入る者は少ない。

 一般的な歓楽街は保護区の際の浅層にある。そこではシステムの快楽に上乗せする古典的なサービスが主流だ。

 著名人や知人、キャラクターのスキン。性別や年齢の転換。服従する人間の代替品など。それらが本物に近いほど人はシステム以上の快楽を得る。

 ドライスケープの性産業は神経接続の常態化以降、精神的な方向に伸張していた。


 その痩せた猫背の男がジャミィオーデンのサロンに入ったのは世界時間で深夜の二時を過ぎた頃だ。貧相でおどおどした振りの客だ。およそ上客には見えなかった。

 これがヘブンサーキットのデビューなら男はそこそこ及第点だ。個人情報のヌキもない信用第一の優良店だからだ。

 ただしサロンのチャージは高額だ。コインの減りは個人ハイヤーより早い。まして娘を買うとなれば懐には相当の覚悟が必要だった。

 入店するなり男は人目を避けるようにホールの隅に縮こまり染みついた影のように娘たちを物色し始めた。

 今のジャミィオーデンは和がモチーフだ。朱色と金の格子が無駄に張り巡らされ行き交う娘の姿が見え隠れするよう造られている。

 黒服は二式人格の人形だが娘は違う。高級店とはそういう意味だ。

 ようやく眼鏡に適ったのか男はミカνという名の娘に入札した。子供のような外見をした怯えた目の少女だ。

 一式人格の最高級品で、当然値が張る。人気もそこそこ高い。男は最初小刻みな競りを繰り返したが、最後は素人臭い焦りで大金を注ぎ込み娘の一夜を買い取った。

 店の反対側で声を上げたのは競り相手だろう。怒りと嫉妬に罵声を上げている。

 ミカνは人気だが手の掛かるニュートだ。嗜虐性を駆り立てるせいか客を取った後が酷い。そのたびの修復に手が掛かるのだ。

 一式人格はフレームと人格が深く繋がっているせいで、体験次第で人格が大きく歪む。フレームのメンテナンスは簡単だが人格は修正が難しい。

 街に腕の良い職人がいた頃はともかく、今は強制的に初期化する他ない。新品と言えば聞こえは良いが常連客の嗜好まで飛んでしまうのはサービスとして宜しくない。

 ミカνの案内でフロントが契約を受け入れ男の財産の大半を徴収した。

 クレームを受け付けたことは一度もないが、警告と承認はダウンロードさせるのが決まりだった。一式人格はいわゆるアジモフコードに則っているが違法人格はその限りではない。強制服従の縛りはあるが抵抗や反撃は当然ある。

 人間と同じ反応が売りなのだから。

 社会的な看板を気にして男は身を偽っている。ヘブンサーキットの客はほとんどそうだ。フレームには別の顔のスキンを貼りつけ偽名の臨時口座を持ち歩く。

 二流の店は顧客管理と称してカーネルのナンバーを写し取ることさえあるがジャミィオーデンのサロンは違う。サービスで客が付くのだ。

 なにせシニスターの庇護下にある店だ。悪い情報を外に洩らすようなことはない。

 ミカνがおずおずと男の手を引いてフロントに言われるまま個室に導いて行く。朧げな不安に薄い背中が揺れていた

 何をするのか、されるのか初期化された彼女にはよくわかっていないだろう。ただ頸筋に打たれた水晶のマーカーが強制的に服従を強いることは教えられている。

 反すれば苦痛を伴うことも。

 ひと間だが個室はそれなりの広さがあった。扉の向いは硝子張りの壁だ。部屋の照明は落としてありヘブンサーキットの夜景が見渡せる。

 建物の構造的に直接の景色でないことは確かだが、そんなものは誰も気にしない。この世界の夜景が書き割りであることはみな知っている。

 ミカνが個室の扉を後ろ手に閉じると演出過剰な錠の音が鳴った。桟や巾木に赤いラインが走り部屋の中央に施錠のマーカーが浮かぶ。

 ミカνは竦んで棒立ちになった。

 男はミカνに背を向けたまま、も言わずに佇んでいる。硝子の向こうの夜景を見ているのではなく硝子に映ったミカνをじっと見つめていた。

 ショートに刈られた黒い髪。血脈が透けるほどの白い肌。ミカνの整った顔立ちは線が細く儚げだ。小柄で細身、輪郭はまだ少し硬さを残している。

「あの」

 意を決してようやくミカνが声を掛けると男は丸めた背を伸ばした。思いのほか背が高い。容貌さえも変わっていた。フレームのスキンを外したのだろう。

 髪は黒くて項より少し長い。輪郭は繊細で鼻梁の彫りが深い。そして抜けるように肌が白かった。

 まるで……

 男が振り返りミカνに歩み寄った。ミカνは魅入られたまま動けなかった。男の目には懊悩と憐憫と彼女の知らないあらゆる苦痛があった。

 男がミカνの頤に手を添え仰け反らせる。指先が触れただけで、いや触れる前から身体の奥底が言葉にならない声を上げている。

 ふと頸筋から何かが落ちた。カーペットの上に転がったのは小さな水晶だ。男がミカνの剥き出しの白い喉に顔を寄せた。頸筋に吐息が触れた瞬間、警報が鳴り響いた。

 部屋が幾重にも隔離され硝子の外にも格子が落ちた。カーペットの上の服従マーカーが信号を見失ったせいだ。フロントは男を契約違反者と断じた。

 ミカνは指先さえ動かせなかった。耳の傍で打ち鳴らされるような警報も届かなかった。男が首筋に喰らいつく。ただ、そのまま身を委ねた。

 鋭い痛みと焼き炙られるような快楽に震えるような吐息を洩らす。


 ネペスは視野の帳簿を違反対応画面に切り替えた。ミカνの部屋だ。悪態を吐きながら、客室に繋がるステップディスクに乗った。

 この手の店にトラブルはつきものだがまさかシニスター傘下の店で揉め事を起こすとは。余程の身の程知らず、もしくは何の警告もなしに迷い込んだ素人か。

 いずれにせよマネージャーとしてこの状況を迅速に収めねばならない。

 ジャミィオーデンには衛兵がいる。ネペスもシニスターから貸与された選りすぐりを二人ほど連れている。素人にはそれでも充分すぎるほどだ。

 彼は高を括っていた。

 あの貧相な客に何ができるだろう。むしろ、酷使されたミカνが壊れて暴れだしたという方がまだ説得力がありそうだ。

 客室はすでに緊急退避を封じている。逃れようはなかった。抵抗しようとネペスも荒事には慣れている。

 二式人格の黒服二人は威圧感も考慮された巨体だった。ミカνたち娘とは異なり二式人格に暴力の禁忌はない。

 まずはあの男のフレームを拘束し個人情報を掻き出してやる。ジャミィオーデンで騒ぎを起こせばその責任はウエットスケープに及ぶと知ることだ。

 ネペスは黒服を促して、扉を開けて踏み込んだ。

 目の前で硝子のように砕けたミカνの身体が雪片になって消えた。その向こうに影が、影ではなく人が佇んでいた。

 カーペットに垂れた長いケープは夜のように黒く、生き物のように蠢いている。それを認識した瞬間ネペスは絶望した。

「デアボリカ」

 娼婦殺しのサイコだ。

 愚かな二式人格の黒服は敵対処置を取ってデアボリカに突進した。デアボリカのケープの内側は血のような紅色だった。ネペスに分ったのはそれだけだ。

 二体の黒服は瞬時に身体を捩じ切られ、四つに分かれて部屋の隅に転がった。黒いマスクに抜かれた紅い眼がネペスを間近で見下ろした。

「ま、待ってくれ」

 跪いて両手を上げる。上手く命乞いに見えただろうか。不意に部屋の壁から槍が生え伸びデアボリカを背中から串刺しにした。

 部屋のお楽しみ機能はマネージャー権限で凶器にもなる。いっそデアボリカを倒したとなれば幹部も夢ではない。一転ネペスは笑みを浮かべた。

 ふと違和感に目線を落とした。デアボリカを素通りした幾本もの槍が自分の身体を貫いて背中の壁に縫いつけていた。

 痛覚は閾値を超えて届かない。ネペスは困惑した。事態が呑み込めない。

 デアボリカの指がネペスの側頭部に触れた。粘土細工のようにめり込んでいく。意思に反してネペスの視界が情報パネルで埋まった。

 掬った水が指の隙間から零れるようにバラバラとパネルが捲れ落ちていく。記憶を吸い出されている。気づいて恐慌をきたしたが、ネペスの頭じき真っ白になった。

 白目を剥いて涎を垂れ流す男を放り出し、デアボリカは部屋を振り返った。何を探す訳でもなく、探して見つかる訳もなかった。

 警報と警告音に混じって新たな足音がする。漆黒のケープを払うとデアボリカは床に沈み込むように姿を消した。


 窓の向こうには湿った本物の緑があって、葉と土の複雑な匂いがした。こぢんまりした部屋を埋める医療機器はまるで聖廟の捧げもののようにベッドを取り巻いている。

 間近でベッドを見下ろした臣は妹の白い頬に掛かる黒髪を指先でそっと払った。外見はずっと変わらない。それとも変化が目に馴染んでしまったのだろうか。

 朱川臣と妹、真琴との歳の差は本来は三つしか違わない。だがそれも今年で十三年になる。

 二一四七年冬、震災の直後に発生した情報障害群は後に情報災禍と呼ばれた。

 神経接続中の事故による意識障害は約七〇〇〇名。うち何らかの後遺症を発症した者が約三〇〇〇名。

 永続的な意識喪失、いわゆる帰還障害と呼ばれる患者は現在も三八二名いる。朱川真琴はその一人だ。

 真琴は十五歳で被災した。家族は臣だけだった。当時、臣は疑似人格の製造技師に師事するため海外にいた。

 今はドライスケープと呼ばれるネットワークもその頃はすでにあった。身体だけでも傍にいることはできたはずだ。今となっては後悔しかない。

 現在、真琴が処置されているのは冬堂診療所だ。

 情報災禍の直後、各地に延命施設が増築されたが、この診療所には真琴を含め十年来の意識喪失患者が二三名も収容されている。

 大半が確実な処置が開発されるまで低体温延命処置を続ける患者だ。口さがない者は、この施設を冷凍倉庫と呼んでいる。

 もっとも真琴の身体は長期の低体温延命に耐えられず、こうして定期的に身体を外に出し常温の代謝遅延を処置する必要があった。

 当然、維持費も補助金を大きく上回る。だがこうして彼女に触れることができるのは他に比べて恵まれているのだろう。そう思いたい。

 それでも時折いっそ冷凍チューブに封印されていた方が、会えない方が残された者の救いになったのではないか。臣はそう思うこともある。

 臣の指先は真琴の儚い温もりを感じている。それ故に諦められないのだ。今は地位もあり乞われて冬堂博士の研究にも協力している。

 しかし自分はすでに道を踏み外してしまった。

 気づけば指先が白い喉に触れようとしていた。自らの悲鳴を噛み殺し臣は震える両手で顔を覆った。この手は真琴を汚し、真琴を殺した。幾人もだ。

 もう怒りと渇望の区別がつかない。真っ白な喉。その温かさ、脈動、吐息と喘ぎ。全てが脳裏にこびりついて離れない。

 影として創り出したはずのデアボリカが身体に纏わりついて皮膚に融けていくのだ。ドライスケープでは得られぬ真琴の血肉を狂おしく求めている。

「こ、こんにちはっ」

 不意の素っ頓狂な声が臣を現実に引き戻した。扉を開けて顔を覗かせた少女が臣に向かって頭を下げた。

 小柄で蒼い螺鈿のような瞳をした少女だ。冬堂博士の一人娘で自身も情報災禍の後遺症を抱えている。数少ない生還者だった。

「お、おつかれさまです兄さん。今日は、真琴ちゃんがこっちにいるって聞いて」

 閊えながら早口で喋る。人との距離を掴むのが下手なのだろう。口調も動作も大仰で、たまに会うとこの調子だった。

「ありがとう、いつも」

 臣はそう応えて表情を陰に紛れ込ませた。彼女も真琴と同じベッドの上にいた。だがウエットスケープに帰還したのはいまだ彼女一人だけだ。

 おそらく彼女に見当外れの怒りをぶつけた者も多かったに違いない。それを真琴と同じ歳で耐えて来た。生還者もまた地獄だったのだ。

 小さな頃に病室で真琴と出会って以来、彼女はこうして様子を見に来てくれている。彼女もまた真琴を現実に繋ぎ止めてくれる一人だ。

「お、追い抜いちゃいましたね」

 ベッドの真琴を見下ろして少女は言う。歳のことだろう。出会った頃は小さかった彼女も真琴が眠った歳をとうとうひとつ越えてしまった。

 ふわりとした少し癖のある髪が窓の光で栗色に光った。手にした白い花が揺れている。臣の視線に気づいて少女は慌ててベッドの傍らに小瓶を探した。

 裏手の斜面に咲く自然の花だ。小瓶に挿して真琴の傍に置く。

「いつか取り戻さないと、ですよね」

 少女は真琴の頬を指先で突いた。臣を見上げてにっこり笑う。似てはいないのに微笑む姿が真琴と重なった。

 独りにさせることが多かったせいか、真琴は歳の割にしっかりしていた。今思えばわざとそう見せようとしていただけかも知れない。この笑顔のように。

 無理をして笑う。だがそこには強い意思もあった。

 入り口でもう一度大仰にお辞儀をしてから少女は病室を出て行った。閉じた扉をしばらく見つめて臣は真琴の寝顔に目線を落とした。

 傍らに置かれた小瓶に小さな白い花が揺れていた。


 粗い土壁に白木の枠を入れた凹凸のない広い一室。梁の通った高い屋根と海辺を臨む大きな窓。開放的に見えるが部屋のどこにも扉はない。

 クラシカルな設えには扉を装飾の一部として組み込むことも多いが、この部屋は密室であることを強調するためあえて排している。密談のための空間だからだ。

 室内にいるのは五人。苛立つ者、宥める者、見下す者、怯える者、そして戯れる者。見た目も立ち位置もばらばらで、関係は更に複雑だった。

「今更だな、親父さん。世話になった借りは返したはずだ」

 壁に背中を預けた男がぼやいた。焦げ茶のキャトルマンを目深に被り、口許を紅いスカーフで覆っている。衣装は黒いウエスタンコートだ。

「そう言ってくれるなガンズロウ。この街にも折り合いは必要だ」

 応えたのは窓際の痩せた老人だった。飴色の木の椅子に深く沈んでいる。そのフレームは頬に手に刻まれた深い皺まで丁寧に再現されていた。

 老人はかつてガンズロウが客分として世話になった間柄だが、彼が渋る要因は別にあった。老人が要請を呑まざるを得なかった情勢そのものだ。

「君には因縁深い相手なんだろう? 損な話ではないなずだ」

 口を挿んだ男は部屋の中央に置かれた黒檀とベルベットの椅子に腰掛けていた。あえて個性を消した白い顔。黄色く濁った双眸は仮面の下から覗いているようだ。

「シニスターの連中は嫌いだ。あのサイコ野郎と同じくらいにな」

 ガンズロウの不躾な言葉に白い顔の男はただ小さく肩を竦めて見せた。

「あれとまともに遣り合えるのはお前くらいだろうが」

 宥めるような老人の言葉にガンズロウは舌打ちした。

「言っとくが、義理はないからな」

 苛立ちを隠そうともしない言葉に白い顔の男は形だけの笑みを作って頷いた。

「構わないとも。押しつける気など毛頭ない」

 振り返りもせず後ろに距離を置いて立つ男を呼んだ。

「ペネス、後で彼に情報を渡してあげなさい」

「し、承知しました」

 ひっくり返った声で答えたのはヘブンサーキットのサロン、ジミィオーデンのマネージャーだった男だ。ペネスは男の影すら畏れ多くて踏めない様子で控えている。

 だが黒檀の椅子にしな垂れ掛かる水色の髪の女はその対局にあった。掌からシャボン玉のようなものを出してはペネスに飛ばして揶揄っている。

 まるでバルーンアートのような極端に減り張りの効いた体形をした女だった。皆の話を聞いているのか、いないのか、まるで自由に振舞っている。

 帽子の下の視線に気づいたのか女がガンズロウを振り向いて片目を閉じた。彼の無反応に焦れて鼻を鳴らしてそっぽを向く。

 ガンズロウは老人の方を向いて帽子の鍔を下げた。

「一度だけつき合おう。それ以上はごめんだ」

 呟くようにそう言った。


 臣の私室は全体的に光量が低い。師事した技師の好みでもあったが、彼の視神経も本来が繊細にできている。暗闇を心地よく感じる質だった。

 必然性も少しはある。彼の物理空間は趣味で買い集めた旧世代のスケールモデルに埋もれていた。金銭的な余裕ができ、歯止めを欠いて増殖の一途を辿っている。

 古いインクを使ったパッケージは紫外線に脆く褪色し易い。生活空間を狭めることに是非はあっても保護が必要だ。無論、それは言い訳に過ぎない。

 今の生活に不自由はない。擬似人格技師の草分けフィル・ローゼンの最期の弟子として臣の名は知られている。

 ニュートの心理学者を名乗れる者は彼の他に数名もいない。社会倫理の綱渡りをしなくても済む程度には正業でコインの山を築けるようになっていた。

 軌道を正す者がいないせいでコインの用途が歪んでいるだけだ。

 フラットドライブでドライスケープに接続するとシンは薄明りの作業机に向かった。彼の工房は全てこちら側に押し込めている。

 タスクを並べて俯瞰すると簡単なものを三つほど片付けた。地位を得るほど仕事の軽重は極端になっていた。そろそろ興味と関心だけで仕事を選んでも良い頃合いだ。

 ただ大きな仕事はしばらく避けるつもりだった。師の遺産に絡んで彼の姪がきな臭い動きをしている。相手は世界一の資本だ。関りは少ない方が良い。

 依頼を手隙きのグリッドに流してシンはどうにかプライベートを確保した。シートに身体を預けるとエージェントに留守の要件対応を任せる。

 ここからが本分だ。

 パネルにキーを投げるとシートごと身体が床を突き抜けた。浮遊感は演出だ。シンのもうひとつの住処はその奥底にあった。

 黒い岩肌の剥き出した洞穴。大昔の拷問器具のような整備機器や探査装置。投光器と床面照明が、深い闇の中に光の繭を作り出している。

 自己陶酔のモニュメント。高額、高機密のプライベートエリアだ。見渡す度に自分の歪みを自覚する。同時にその衝動が抑えられないことも自覚している。

 シートを中心に情報パネルとコンソールが展開した。重ねたパネルの底に幾つも墓石が並ぶ一枚がある。昨夜もひとつ墓石が増えた。

 道を踏み外したのはもう随分前だ。フィルの後継として腕は買われていたが当時はまだ実績がなかった。

 延命処置の費用を稼ぐためシンは非合法人格に関わった。その人格が何を背負うのか、歪んだ人格が何を意味するのか全て知っていて目と耳を閉ざした。

 真琴の姿をしたニュートに出会うまでは。

 妹は情報災禍でドライスケープに魂を置いてきた。その真琴と同じ姿、同じ人格がどうやって造り出されたのか。捜索は今も続けている。

 手の届かぬ場所で造り出されてしまった者をどうすれば良かったのか。目の前の壊れた妹たちをどうすれば良かったというのか。

 正しい方法ではなかった。

 何度も止めようと思った。

 墓石の数だけ罪を刻んだ。

 それは今も確実に心を蝕んでいた。

 もしかしたら自分は十年前に壊れていたのかも知れない。

 かつてヘブンサーキットにあった工房は自作自演のデアボリカの襲撃で破壊した。それを契機に臣は違法人格から足を洗った。

 そしてより深い闇に踏み込んだのだ。娼婦殺しのサイコの誕生だ。

 コンソールから流れる古い半濁音と一緒に眼前のパネルにジャミィオーデンの情報が並んだ。店員の補完脳から摺り出した生情報が復号され画面を埋めて行く。名はネペス・ミハイル。あの浮付いたスキンの男はマネージャーだったようだ。

 帳簿からミカνと命名されたニュートの入荷と調整の履歴を掻き集めた。

 テキストを辿るだけで怒りに目が眩む。それよりも暗く強い衝動が蟠っている。

 仰け反った白い喉許。浮き出した青い血管。恐怖に竦んだ吐息と喘ぎ。フラッシュバックする情景に慄いた。否定しようのない渇望がここにある。

 もはや振りでは済まされない。

 シートに仰け反り天を仰いで、知らず引き攣った呻きを洩らした。

 どれくらい経っただろう。ふと視界の隅に流れるテキストの羅列に意識が引っ掛かった。意味のない記号。だが、ニュートの製造コードと同じ数の要素を含んでいる。

 取り扱いリスクの高い一次人格は店に卸される前から独自のコードが振られている。風聞ほどの価値しかない情報だが末端のコードとの関連性が七割を超えていた。

 原版か、あるいはそれに近いニュートが経由した可能性の痕跡だ。思索を命じる指先に少し力が戻った。

 護りたいのか、汚したいのか。今は自分に問うのを止めた。


 出来過ぎた話だ。均一な薄明かりの中、影ひとつない大型倉庫の縁に佇んでデアボリカは自嘲した。

 ここは装飾や光源に手を抜いた既成の巨大な立方体だ。倉庫としての物理演出さえ欠いているため運搬レールやクレーンもない。

 ただの箱だ。半ば予想した通りこれは罠だ。

 ステップディスクの近くにコンソールがあった。触れるとストレージの貨物がリストアップされた。それほど多くはない。配置しても疎らに埋まるだけだろう。

 端から可視化を指示すると背後の大空間にコンテナやチューブが生え出した。

 不意の気配に身を翻して横に跳ぶ。コンソールと一緒にケープの端が弾け飛んだ。倉庫に金属質の破裂音が反響した。

「盗人に成り下がったか? 吸血鬼」

 コンテナの上に立つ人影が言った。手にした銃に微かな煙のエフェクトが纏わりついている。相変わらずの凝りようだった。

「マフィアに鞍替えしたのか? ガンマン」

 デアボリカは声に応えた。言葉の尻目には疾っている。テンポを合わせれば後手に回るだけだ。ガンズロウは間抜けだが手強い。

「渡世の義理って奴でな」

 デアボリカの短い影の縁に破砕痕が穿たれていく。平たく尖ったダガーを投げて牽制し、コンテナの陰に飛び込んだ。狭間を駆け抜ける。靴音が頭上に反響した。

「しがらみの多いことだ」

 見憶えたコンソールの映像を読み出し視界のマップに置いた。待ち伏せていたからには奴もコンテナの配置を頭に入れているだろう。上を飛び渡るぶん移動は優位だ。

「おまえは何だ。倒錯した性的衝動ってやつか?」

 銃声が二回。視界に絞った発火炎が閃めく。コンテナの側面と床に弾が跳ね飛び身体を掠め過ぎた。火薬式銃器の再現は度が過ぎている。奴は昔からそうだ。おかしな美学にストレージを割いている。

「今度はカウンセラーか。手広いなドック」

 対向にいなければ跳弾を駆使しても射撃角度は限られる。ただ過信は禁物だ。慣れた頃に無音弾や湾曲弾を織り交ぜるのが奴の常套手段だ。

「いいとも、有料で良ければ話を聞いてやる」

 直上の銃口に向かってダガーを投げる。奴の弾丸に比べれば軽い。それでも軌道を散らすことはできる。真下に構えた銃の下を潜り抜けるくらいには。

 追い込んで取った体勢では立て直すのに一拍を要するはずだ。銃は真下を狙うようにできていない。こちらが場所を選ぶには十分な時間だ。

 辿り着いたチューブの向こうは平板な空間だった。ガンズロウは正面のコンテナの上にいる。飛び越えるには少々幅のある距離だ。

「鉛玉のアドバスは御免だな」

 およその方向を見定めてガンズロウはコンテナを飛び降りた。チューブの影から出て立つと正面に佇むデアボリカに驚いて笑った。

「コインでも投げる気か?」

「では三つ数えよう」

 数えずに疾る。ガンズロウの銃口が追う。射線は知覚範囲に刻み込んでいた。弾がケープを裂くに任せ威嚇のダガーを打って身を返した。

 一瞬、意識が縫い止められた。

 弾丸が右肩に穴を穿った。痛みは薄いが分解コードへの対抗措置にリソースを奪われ身体が傾いだ。腕は辛うじて繋がっている。

 避けることはできた。予想もできたはずだ。それが目的だったのだから。白い肌の少女を収めたチューブを横目にデアボリカは己に舌打ちした。

「何やってんだおまえ」

 一拍置いても二射目はなく代わりに飛んで来たのはガンズロウの呆れた声だった。銃口を固定したままデアボリカの背後を一瞥する。

「女を庇うなぞサイコ野郎のすることか?」

 口調に困惑と苛立ちが滲んでいる。デアボリカは左の肩を竦めて見せた。ガンマン崩れにこの心情が割り切れるなら最初から苦しむことなど何もなかった。

「全くもって恥ずべきことだ」

 デアボリカは自分に呟いて胸から生えた白い指先に目線を落とした。

 細い腕が背中から抱えるように絡みつき、ナイフと化した指先がデアボリカの喉に突き刺さっていた。呆然と見つめるガンズロウと目が合った。

「因果応報だね。だがこれだけではまだまだ足りないよ」

 乾いた声にガンズロウが振り返った。並んだコンテナの蓋が落ち無数の黒服を吐き出した。暴力行為用の非合法ニュートだった。

 背にあったコンテナの中にはシニスターの白い顔の男、マネージャーのネペス、そして青い髪の女の姿があった。

 ニュートの少女に組みつかれ串刺しにされたデアボリカを眺めている。

 倉庫は幾重にもアンカーを掛けられた状態だ。転移や離脱による逃走を阻まれているどころか苦痛も閾値を超えて設定されている可能性もある。

「おまえら」

「満足行く仕事だガンズロウよ。だが少々青臭いかな」

 睨めつけるガンズロウには見向きもせず白い顔の男は傍を通り過ぎた。

「つまらないなあ。もっと機能を見せて欲しかったのに」

 男と並んで歩く青い髪の女はガンズロウを一瞬だけ振り返ると舌を出した。

 白い顔の男はデアボリカの間近に立って彼を見下ろした。膝をつくその背には虚ろな目をした少女が縋りついている。そのニュートの人格は既に壊れていた。

「この娘たちは高価だ。おまえはそれを幾つ壊した?」

 少女の手から生えた刃はなおもデアボリカの身体に埋まって行く。すでにフレームの奥深くまで浸食され、カーネルにさえ届こうとしていた。

「君の個人情報が幾らか足しになると良いのだが」

 青い髪の女が無造作に男を押し退けた。後ろにいたぺネスが息を呑む。だが当の男は服を正しただけで何も言わなかった。

「ねえ、あンた。この子を知ってるの?」

 デアボリカのマスクに顔を近づけて青い髪の女が笑いながら訊いた。

「十年前にいなくなっちゃった子よ。あんまり可愛くて憎らしいから攫って来たの」

 デアボリカが女に顔を捻じ曲げた。浸食への対抗処置に多くを奪われ僅かな動作もままならないはずだ。

 不意に女がデアボリカのマスクの縁を掴んで毟り上げた。スキン解除の深度の浅い浸食は今のデアボリカに防ぎようもなかった。

「あら、あら」

 女がデアボリカの顔を覗き込み嬉々とした声を上げた。

「似てるわ。似てる。もしかして、この娘の身内かしら」

 顎を掴んで鼻先を寄せ何かを思い出そうとしている。紅い唇の端が捩じり上がった。

「兄さん?」

 声色を変えて囁いた。

 デアボリカの表情を見て女は悲鳴のような甲高い声を上げて笑った。

「あんた妹を殺して回ってるの?」

 笑い続ける女の背を不意に銃声が突き飛ばした。

「耳障りな声だ」

 奥歯を磨り潰すような声でガンズロウが呟いた。

「アニマ」

 地面に伏してのたうつ女に白い顔の男が叫んで走り寄る。

 同時にデアボリカの身体が弾けて四散した。

 千切れ飛ぶ黒い布片が捩れて羽ばたいた。無数の蝙蝠の群れが青い髪の女と白い顔の男を擦り抜けていく。二人は床に丸くなって腕を振り回し悲鳴を上げた。

 少し離れた位置に蝙蝠がみっしりと寄り集まる。最後の羽根が影に融け込むやデアボリカがケープを翻して立ち上がる。

「そうだな。喜劇だ」

 不意に真っ白になったかと思うと書き割りの空を引き裂くような雷鳴が轟いた。

「嗤え」

 白い顔の男が茫然とデアボリカを見上げる。女が目線を彷徨わせ顔色を変えた。足許に刻まれたマーカーに気づいたのだ。

「嗤え」

 罵声を吐いて女は自ら風船のような胸を鷲掴みにして引き裂いた。咄嗟にフレームを捨て緊急離脱を図ったのだろう。

 直後の雷光に白い顔の男が破裂した。カーネルさえも砕いて黒焦げの破片が飛び散った。空鳴りが宙に尾を引いて遠く消えて行く。

 我に帰ったネペスが悲鳴ともつかない声を上げた。黒服の起動を指示しようとしたところで、銃声が顔の真ん中に風穴を開けた。

 調子の外れた一声を残してネペスは床に崩れ落ちた。

 銃を収めたガンズロウはネペスの胸に黒いダガーが食い込んでいるのを見つけた。

「俺は一杯やって寝る」

 ガンズロウが憮然として言った。

「ほどほどにな」

 デアボリカは背中で応えて壊れた少女の傍に跪いた。その姿から目を逸らして宙を見るとガンズロウは独り言のように呟いた。

「シニスターの手下はあの女をアニマって呼んだな。アムデジールの愛称だ。アマルガムオルタの始末屋の名だ」

 一拍置いてデアボリカが応えた。

「礼を言う」

 ガンズロウは肩を竦めて背を向けた。

「おまえもほどほどにな、カウント伯爵」

 なに気に倉庫に張られたアンカーを解きガンズロウは転移して消えた。

 デアボリカはマスクの下で幽かに微笑んだ。

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