第六話 この世界が止まるとき:クロガネ

 僕は十二歳になったら何か世界は変わると思ってた。

 でも目覚めた朝はいつもと同じで相変わらずむっつりした顔のアルティラνが昨日と同じように枕元で起床時間を告げた。

 綺麗に切り揃えた黒髪、コントラストの強い真っ白な肌、伏し目がちな紅い瞳。衣装はいつもクラシカルなビクトリアン調のメイド服だ。

 今の彼女は機械式の義体だけれど姿形はドライスケープの中の本体と同じだった。身体能力は遥かに及ばないけれどその仏頂面はそっくりだ。

 本人は情動豊かなニュートだと主張するし、事実アルティラνは有名な工房主が造った一式人格なのだけれど、彼女にそんな豊かな表情はついぞ見たことがない。

「お着替えを、カケル坊っちゃま」

「着替えるから出て行ってよ。それと何度も言うけど覗かないで」

 アルティラνは表情を変えずに引き下がった。部屋から出て行く。

 小さく、ちっと舌打ちする音が聞こえた。

 彼女と執事のモービアスνとは生まれた時から一緒だけれど、アルティラνはずっとこの調子だ。モービアスνも手を焼いている。

「十二歳になったら坊っちゃまは止めてくれるんじゃなかったの?」

 着替えながら声を掛ける。扉の外にいたって聞き耳を立てているはずだ。

「あと十一時間と三二分後です。坊っちゃま。坊っちゃま。坊っちゃま」

「十二歳の最初の仕事はアルティラνを病院に連れて行く事だと思うな」

 そうだ。僕は今日で十二歳になる。


 僕の父さん、風間十蔵はワールドフレームの基幹ロジックを開発した著名な工学者だった。事故で亡くしたのは僕が七歳の時だ。その時のことはよく覚えていない。

 父さんは僕に遺言を遺した。相続か、庇護か。十二歳になったら、僕自身がそれを決めなければならない。

 それまでの間、僕のことは公にされない決まりだ。僕の顔を知っているのは財団の理事の人たちだけだった。

 僕の名前も父さんの名前も何を相続して何を背負うのかも友だちは誰も知らない。

 手早く身支度を済ませ、僕はアルティラνとふたり食堂に向かった。たわいない話をしながら長い長い廊下を歩く。

 たった三人だけの屋敷だ。生身の人間に至っては僕ひとりしかいない。風間の家はいつも無駄に広かった。

 でも今日は珍しく生身の客がいる。

 その人は小さい方の食堂の八人掛けテーブルの隅に陣取っていた。くしゃくしゃの髪のまま、まだ半分寝惚けた目を僕に向ける。

「おはよう、翔くん」

 片目を閉じて伯父さんは言った。名を長月風介と言う。

 輪郭は鋭いが目許が少し子供っぽくて、実用性のよく分からない丸い眼鏡を掛けている。飄々とした物腰の本気と冗談の区別がつかない人だった。

 僕は伯父さんと呼んでいるけれど、そもそも血の繋がりはない。死んだ母さんの血族に近いけれど立場は父さんの友人、あるいは仕事仲間だったということしか知らない。

 だけど父さんの遺産については伯父さんはモービアスνよりも詳しいのだ。

 事実、僕は伯父さんからたくさんの秘密を聞いた。良いことも悪いこともモービアスνも教えてくれなかったこの家の秘密も。

「おはようございます伯父さん。遠い所までごめんなさい」

 風間の家は人里から離れている。陸路だけでは辿り着けない。物理的な距離もそうだけれど交通距離が異様に遠い。公共の交通機関もなくて定期便も個別契約だ。

「どうせ暇だし構わないよ。それよりいつも放ったらかしで悪いね」

 一応、伯父さんは僕の後見人だ。実務はモービアスνが執っていて自分はあくまで自分は飾りだと言っているけれど。

 法的なことも色々含めてニュートにできないこともたくさんあるのだ。

「長月さまに限らず坊っちゃまはもう少し人と触れ合うべきかと」

 モービアスνは僕を振り返ってわざと聴かせるようにそう言った。茶器を載せたワゴンに伯父さんの食後の紅茶を注いでいる。

 モービアスνの外見は長身で矍鑠とした銀髪の老紳士。僕が生まれる前から父さんに仕えている汎用性の高いニュートだ。多趣味で何かにつけ嗜好を更新している。

「この家でそれを言うのは酷だ」

 伯父さんは苦笑いしながら言った。自分の乗って来たカートがどんな所を通って来たのか思い出したに違いない。この辺りに街なんかないし、人だって一人もいない。

「ドライスケープであれ、もっとご友人との時間をお持ちになった方が良いのです」

 モービアスνは応えて手ずから伯父さんの前にカップを置いた。

「ありがとう。アルフレッド」

「モービアスνです。長月さま」

 僕にしてみればモービアスνのいつもの小言だ。僕には二人で充分なのに。僕は曖昧に肩を竦めて軽く聞き流しアルティラνの引いてくれた椅子に腰掛けた。

「友だちと遊ばないの?」

 伯父さんが僕に顔を向けて訊ねた。どうしてこの人は時々こうも無邪気なんだろう。口許でカップが逡巡している。そういえば伯父さんは相当な猫舌だ。

「そんなことないですよ」

 とはいえ学校の友だちの誘いを断ることが多いのも本当のことだ。

「家族と友だちは違うからね。付き合い方は色々試しておくといいよ」

 気取った風もなくそう言って伯父さんは紅茶を根気よく冷まし始めた。今は紅茶に拘りのあるモービアスνは片方の眉を少しだけ上げて見せた。

 ほんの少し気恥ずかしかった。伯父さんの言葉はきっと普通すぎるのだ。それが僕たち三人にとってどれほど大切なことか知らずに言っているのだろう。

 もしかしたら、僕は人と馴染むことでこの家族を見失ってしまうのがしまうのが怖いのかも知れない。

「坊っちゃま。早く召し上がらないと学校に遅れます」

 アルティラνが背中をつついた。

「何だ。今日は学校かい?」

 叔父さんが口を尖らせた。子供っぽい拗ねたような口振りだ。整えれば格好良くもなるだろうに、剃り残した無精髭を見る限りまるでその気はないようだ。

 そういえば叔父さんの歳をよく知らない。普段は何をして誰と暮らしているのかもちゃんと聞いたことがなかった。

 ドライスケープで元気な女の人と一緒にいるのを見たことがあるだけだ。彼女はアルティラνと仲が良くて、いつも二人してモービアスνを困らせている。

「じゃあまた図書館にお邪魔しようかな」

 図書館は伯父さんがここで過ごすときの定位置だ。紙の本が沢山あって少し埃っぽいけれど空質が完全管理されている。

 過ごしやすいのは確かだ。本来は本を読む場所だけど。

「寝るなら部屋で寝ればいいのに」

「いや、本も読むし」

「いつも寝てるよね」

 アルティラνを振り返ると頷いた。

「寝てらっしゃいますね」

 抑揚のない声で伯父さんに告げる。

「悪癖も人間の多様性でございます」

 モービアスνはそう言って何となく伯父さんを慰めた。


 エデュカリオスはワールドフレームのひとつで、エデュケーションワールドと呼ばれる類の街だ。学研都市よりも教育や育成に特化している。

 中でもエデュカリオスは情報の秘匿性が高いグリッドだ。

 本来個人情報の担保されたドライスケープでも行動そのものには匿名性がない。フレームは現実の肉体を精密に再現しているし発言や行為には性格が出る。

 エデュカリオスはその辺りが徹底している。生徒個人の身分や出自は何者にも明かされない。相手はもちろん自身の発言にさえフィルタが掛けられている。

 つまりみな友だちの本当の姿を知らない。

 僕らの世代がエデュカリオスで学ぶのは二つの世界のコミュニケーションスキルだ。修学基準の知識はウエットダウンロード済みで記憶のための履修は必要ない。

 だから僕のコミュニティクラスもチームで履修する応用課題が多い。知識の使い方、個性と多様性の折り合い方、それと倫理と社会規範を少しばかり。

 ところが、それらの実学が一緒になると何故か子供じみたアトラクションになってしまう。今日だってそうだ。

 履修室に向かってステップディスクを踏むと目の前にあるのは張り子の塔だった。

「カケル。ニュース見たか?」

 顔を合わせるなりギュンターが興奮した声で声を掛けてきた。リアリティに手を抜いた目の前の課題より、よほど気になる話題らしい。

「ファントムだよ、ファントム」

 ギュンターは同い年にしては大柄で威圧感がある。でも本人は至って気の良い男の子で意外な才能もあった。粗暴な所もあるけれど指摘をすれば素直に聞く。

 ただ忘れっぽいのが玉に瑕だ。

「見た。見た。見た」

 彼にもまして興奮した嘴を突っ込んだのはアディティだ。

 褐色の肌をした元気な女の子で言葉は古いが男勝りで好奇心旺盛。課題のときたいてい最初に当たって砕けるのは彼女だ。

「ハンマーガール格好良かった。あともうちょっとだったのになあ」

 二人の後ろでミーティコが何度も頷いている。

 細身で小柄、引っ込み思案な女の子だ。口数は少ないが、たぶん頭の中の言葉が追いつかないだけだ。口にするまでの過程がないから少しわかりにくいけど。

 今日のチームはこの四人。僕とギュンター、アディティとミーティコ。男子と女子が二人ずつ。よく顔を合わせるメンバーだった。

 そしてたぶん友だちだと思う。本当の名前も本当の姿も知らないけれど。

「ハンマーガール? ファントムにやられっ放しだったじゃないか」

「負けてないから。もう少しでやっつけられたから」

 ギュンターとアディティが言い合いを始めた。

 ミーティコが一人おろおろとしている。二人の会話に合わせて、テニスの観客みたいに首を振っている。僕は差しづめこぼれた二人の会話を拾うボールボーイだ。

 マイルスパークの騒動は僕もニュースで見た。同じ記録を体感してもモービアスνとアルティラνにはファントムが見えていなかった。

 あれは正体も仕組みもまるでわからない。世界がバージョンアップされた昔から目撃されてる伝説級のバウンティスコアなのだ。

 本来ならブロークの捕獲やクラッカーの摘発は治安隊の仕事だ。バトルハッカーも重治安部隊も本来は不要なのだと思う。ただ彼らではどうしようもない相手もいる。

 僕がまだ神経端子も定着していない頃、アルビオンという街で事件があって重治安部隊の評判は最悪になった。

 信じられない話だけれど、それまで表立って活動するバトルハッカーはまだ少なくてむしろ迫害されていたらしい。

 バウンティスコアが大流行りしたおかげでバトルハッカーは公的な地位を得た。今や派手な捕り物はショーアップされている。子供たちにも人気のコンテンツだ。

「ファントムなんて、アルティメッターが踏んだらぺちゃんこだろ」

 ギュンターの言うアルティメッターはビルも見下ろす巨大な銀色のバトルハッカーだ。ストレージの負担を思うに強化アクセサリではなくメタフレームの一種だと思う。

「だめ、だめ。カイジュウくらい大きくないと無理だって」

 アディティが主張した。

 彼女の言うカイジュウはディザスター指定のクラッカーだ。構造物を取り込んで際限なく巨大化するため出現すれば街が半壊してしまう。

 僕がニュースで見た通り重治安部隊が束になっても敵わないという意味ではファントムはカイジュウと同じくらい凶悪だ。

 ただ幾つかの記録を見た限りファントムが積極的に攻撃した訳ではない気がする。インターセプタもバトルハッカーも同士討ちみたいなものだった。

 むしろファントムはなぜ自分が攻撃されているのかわかっていないような気がした。

「カケルはどう思うよ」

 不意に二人が詰め寄った。思いに耽っていた僕は答えに窮した。ふと懸命に袖を引くミーティコに気づいた。目を遣ると彼女は小さな声で言った。

「課題、もう始まってる」


 課題の大筋は単純で、時間以内に塔の最上階を目指すことが目的だ。ポイント毎に出題があってクリアすればひとつ階を昇ることができる。

 教養基準の知識を使ってルールを探し出し問題を解いてキーを見つけるのが基本だ。情報の使い方とチームの運営がポイントになる。

 傾斜角と歩数で梯子の長さを割り出したり文節と言い回しの組み合わせて鍵を開けたり、要はこじつけ問題を集めたようなゲームだ。

 中には力押しで解ける課題もあって話題の一戦に刺激されたギュンターとアディティの二人にはその方が効率がよかった。

 僕はふとドライスケープのない時代の学校がどんなものだったのか気になった。こんな課題は情報パネル越しに履修したのだろうか。

 ウエットスケープに学校があったら音や匂いや熱や湿気、もっと沢山の情報で一杯になって何も考えられなくなってしまいそうだ。

 ようやく最終課題の部屋に入ると背中でどすんと扉が閉じた。

 石を積んで造ったような広間だ。同じく石積みの巨人が目の前を塞いでいた。手足が大きく、掌だけで身の丈ほどある。見上げるほど上にある額には紅い石が輝いていた。

「きっとあの宝石だ」

 止める間もなくギュンターが飛び出した。呼応するように動き出した巨人が竦んだギュンターを掴んで投げ飛ばした。

 ギュンターは皆の頭上を飛び越え壁に当たって床に落ちた。痛覚設定は標準以下だ。痛くはないがあれだけ飛んだら目が回る。

「喰らえ正義のハンマー」

 アディティが腕を振り回しながら巨人に向かって行った。ファントムとハンマーガールの攻防戦に影響されると踏んでこんな課題を織り込んだのだろうか。

 でも真正面からの殴り合いなんてきっと意図されていないはずだ。

「扉」

 ミーティコが僕を呼ぶ。指さす方を振り返ると入り口の扉に幾何学模様がある。

 明確な中心線の左右に様々な図形が散らばっている。削れて読み取れない個所はいわゆるエックスだ。

「カケル」

 ギュンターの声で気がついてミーティコを抱えて巨人から逃げた。アディティが巨人の踵を蹴って注意を惹く。

「ギュンター数学は?」

 走りながら声を掛ける。

「得意だぞ」

 前に自慢していたの覚えていてよかった。

 僕はギュンターにミーティコを渡して二人に言った。

「あの式を解いたら止まるかも」

 そのままアディティの所に走る。

「アディティ、下がって。あいつを扉から引き離そう」

 扉に向かって走る二人を横目で確認しながら巨人を小突いて回り込んだ。

 アディティの運動神経は抜群で思うさま巨人を翻弄する。僕はどうにか追いついて巨人が扉を向かないよう逆を突いた。

 走り込み過ぎたアディティに巨人が向き直る。

「あっ」

 動作に迷ったアディティを無意識に庇って僕も一緒に蹴り飛ばされた。壁にぶつかり縺れて落ちる。今のは合理的じゃなかった。

 巨人が扉を向いてしまった。ギュンターとミーティコが背を向けて蹲っている。アディティの差し出した手に掴まって一緒に駆け出した。

 二人の歓声を合図に巨人が膝を付いた。身体が前のめりに傾いでいく。背中の石が斜めにずれて階段のように拡がった。

「アディティ」

 行き過ぎた彼女を呼んで背中を駆け上がる。勢いづいて肩先から転げ落ちる寸前、巨人の頭を抱え込んだ。そのまま額の石に手を伸ばす。

『課題終了』

 不意に部屋の真ん中に表示がポップした。巨人も部屋も塔そのものも消え失せた。僕は宙に手を伸ばしたまま床の上に座っていた。

「惜しかったなー」

 ギュンターが駆けて来て僕の手を取って立ち上がらせた。

「ごめん」

 僕は呟くように謝った。もう少し上手くできたはずなのに。

「何言ってんだ。俺たちけっこう上手くやったぞ」

 ミーティコが何度も頷いている。

「ねえ、もうひとつゲームしない?」

 アディティが擦り寄って来て皆の顔を見回した。

「講義が終わったらマイカタに行こうよ。そこで皆を当てっこしよう」

 皆それぞれに歓声を上げた。

 マイカタはディーンガーナの運営するワールドフレームだ。カタノガの一画にある。僕たちの間では手頃なアミューズメント施設で知られている。

 つまりエデュカリオスの外だ。こうして互いに呼び合う名前ももしかしたら本当の姿もフィルタなしで曝き出すことになる。

 もちろんそういう遊びがあることは知っていた。本当の友だちの証だと自慢げに話す生徒もいた。

 こうも厳重に素性を保護しながらエデュカリオス自体は生徒個人の接触に見て見ぬ振りをしている。それが教育の結実であると誰かが意図しているのかも知れない。

 あるいは大人の言い訳だろうか。

「カケル」

 気づけば三人が見つめていた。僕の返事を待っている。

「そうだね」

 皆とは名前と姿を分かち合うだけだ。その後で公になる情報なんて単なる素性だ。有名人の子供は沢山いる。きっと誇らしさと気恥ずかしさが面倒なだけだ。

 そう自分に言い訳した。

「合言葉は何にしようか?」


 光量と温湿度管理が徹底されたその部屋は壁一面が本の背表紙で埋まっていた。遠目には目の細かいコルクのようなモザイク模様に見える。

 天井の高い二層の吹き抜けで框にレールが敷かれていた。透し彫りの覆いの下には機械時計のような歯車が収められている。あまり使用されていないが、本を取り出す自走機と人の載る踏み台が、レールに沿って部屋の中を移動する仕組みだ。

 部屋の中央は見通しのよい空間になっていた。形の異なる椅子と机が幾つもあって自由に組み合わせて使うことができる。

 勝手知ったる長月風介は木と布の長椅子を選んで陣取りクッションを枕にして寝そべっていた。片足を肘掛けに乗せて揺らしている。

「図書室がサーバールームより管理されてるなんて、変な感じだねえ」

 ワゴンを押すモービアスνの靴音に向かって風介は言った。

「紙は貴重でございますから」

「貴重なのは中身の方だよ」

 背凭れに片腕を掛けて半身を起こして風介は細長い脚を床に滑らせた。

 着崩れた白いシャツと黒のベスト、黒のパンツ。ジャケットはサイドテーブルに引っ掛けている。

「翔くんはまだ学校?」

 軽く身体を伸ばしながら、モービアスνに訊ねる。老執事は自慢の茶器が載ったワゴンを手元に停めポットに手を伸ばした。

 ウエットスケープのそれはデジタイズされていない本物だ。

「ありがとうジャーヴィス」

「モービアスνでございます」

 カップを手前のテーブルに置いてモービアスνは風介の対面に立った。

「長月さまの本日のご用件は、翔さまの意思確認でございますね?」

 抑揚のない声で確認する。

「おや、翔くんのお誕生日会だと思ったんだけれど」

 小首を傾げて風介は応えたもののモービアスνの視線に肩を竦めた。

「形だけだけど、役目だしねえ」

「すべての相続事項についてご確認されるおつもりでしょうか」

 今度はモービアスνに向かって意地の悪い笑みを浮かべる。

「あの厄介な代物についてもね。まあもっとも、お歴々は博士が翔くんに何を残したのか知りやしないけれど」

 モービアスνの白い眉が片方だけ上がった。

「財団の方々はやはりご存知ない?」

「誰がそんな面倒な説明をするのさ。知ったところで理解しやしないのに」

 義体にも関わらず呆れた表情を作って見せてモービアスνは風介を見つめた。

「それでは、この地下に費やされた資産をどう考えておられるのでしょう」

「処分に費用が掛かり過ぎて放置する他ない前時代のガラクタ」

 風介は平然と答えた。

 モービアスνは言葉を失い立ち直るまで少し間を置いてから訊ねた。

「貴方は何をなさりたいのです?」

「ぼくは悪い大人だからなあ」

 風介が口を尖らせる。

「翔くんに全部押し付けて逃げるのさ」

「翔さまは」

「クロガネのことは知ってる。ぼくが教えた。博士の遺言でもあるしね」

 モービアスνの目許に怒りと困惑が浮かんだ。ローゼン博士の造った人格は実に人間臭い。モービアスνの表情を眺めて風介はぼんやりと考えた。

「旦那さまが託されたと?」

「君たちが翔くんを護ろうとするのは博士にもわかってた。まあ本人が望んだことだから当然だ。だけど彼の周りには悪い大人も必要なんだ。どれだけ不幸になったって選択肢は隠しておけないからね」

「それが正しいとは思えません」

 モービアスνの重い声は彼が内なるアジモコードと戦っているからだろうか。ニュートは直接的に人を傷つけることができない。

「同感だね。きっと正しくはない。でもモービアスν、君は人としてどこまで正しく造られているんだい?」

 モービアスνの表情を見て我ながらよくもこう酷いことを言えるものだと風介は思った。ニュートにも人にも感情なんてなければよかったのに。

 風介はサイドテーブルに掛けたジャケットを探って掌に収まるほどの握り手を取り出した。それをモービアスνに振って見せる。

「ご覧。こいつは大昔の大仰で馬鹿げた兵器だ。本体は衛星軌道上にある。君ならわかるだろう?」

 モービアスνも元は基幹兵装制御をベースに複数のパペットを操るヘカトンケイル型の軍事ユニットだ。風間博士も本来その分野に籍があったのだ。

「ハードウェアが街のようにひと所に集めて造られていた頃の遺物でもあるね。クロガネ向きだと思わないか?」

 いよいよモービアスνは倫理コードを乗り越えそうな表情をした。

「これをぼくに渡したのは博士だ」

 モービアスνが情動を処理し言語を復旧させるまで一拍の間があった。

「旦那さまが、何故」

「君たちが論理矛盾を起こして壊れるかも知れないからだ」

 風介は囁くように答えた。それこそ彼が壊れてしまわないよう言葉を加える。

「翔くんにはもう君たちしかいない。二度と家族を失うわけにはいかないんだよ」

 モービアスνの表情が落ち着くのを見届けて風介は微笑んだ。

「だからってさ」

 ここから先は彼の愚痴だ。

「酷いとは思わないか? 博士は何の恨みがあってぼくにこんなことばかり押しつけるんだろう」

 身体を折って膝の上に肘をつき上目遣いにモービアスνを見つめる。

「少しはぼくを労ったって罰は当たらないと思わないか?」

「お茶をどうぞ長月さま。もうお口に合う温度かと存じます」

「ありがとうヘンリー」

 彼は片方の眉を小さく上げて応えた。

「ヘンリーは給仕でございます」

 風介は意地の悪い笑みを向け冷めたティーカップを掲げて見せた。

 ふと、モービアスνが表情を硬くした。耳を傾けるような微かな仕草は通話の印だ。並列制御は態度に出ないがコミュニケーション部位は他者に見えるようにできている。

 風介が目線で問うとモービアスνは感情を欠いた声で答えた。

「カケルさまが行方不明です」


 宙に浮かんだ三枚のパネルには女の子が二人男の子が一人映っている。画面の真ん中にフォーカスしてつかず離れず三人を追い掛けて行く。

 きっとギュンター、アディティ、ミーティコだ。言われるまでもなくわかった。外見は少し違うけれど、これなら僕も同じように見えただろう。

 誰よりも早く皆を見つけたのに今の僕には合言葉を囁くことができない。

 皆の背景にはそれぞれ異なる遊具が映っていた。まだ合流はできていないようだ。互いを探しながら施設の中を駆け回っている。

「カケルくんを捜してるのねえ」

 パネルに影を落としているのは長い水色の髪を二つに結んだ女の人だ。胸とお尻が大きくて蜂みたいに腰が括れている。僕を振り返って紅い唇の端を吊り上げた。

 アニマ。彼女は僕にそう名乗った。

「でもアタシが先に見つけちゃった」

 エデュカリオスを出た後、ターミナルディスクからマイカタに入るなり彼女は僕をこの部屋に閉じ込めた。真っ直ぐ前を向いて立つ二人の黒服のパペットが両脇で僕の腕を痛いくらい掴んでいる。

 転移も緊急退避も上手く行かなかった。どうやらこの部屋全体にアンカーが仕掛けられている様子だ。

 身体は今も屋敷にある。万一の時は強制的にゲートアウトさせて貰えるだろう。だけど彼女が僕に三人の姿を見せたのはそのための保険に違いない。

「どれだけ学校がお固くても外は危険が一杯なの。カケルくんのお友だちには色々虫がくっついてたワケ」

 アニマは指先をひらひら振って皆の映ったパネルに波紋を立てる。彼女はエデュカリオスの外側で生徒の情報を拾い集めていたのだろう。

 ぼんやりした情報を絞り込んで僕の友だちにあたりをつけた。もしかしたら、ずっと前からこうした罠を仕掛けていたのかも知れない。

「皆をどうするつもり?」

「ンー、カケルくん次第かなあ」

 指先で唇を捏ねながら目を細めて僕を見つめる。綺麗な女の人だけど仕草がねっとりして気持ち悪い。アルティラνとは正反対だ。

「カケルくんのお父さん。風間博士。博士が最後に遺したもの知ってる? この界隈じゃけっこう話題でサ」

 僕の身元だけじゃなく彼女はあのことまで知っている。逆だ。あれが欲しくて僕を捕まえたに違いない。伯父さんはこういう輩もいると言っていた。でも本当に出くわすなんて。身元が公開された後だろうなんて、僕は勝手に思い込んでいた。

「僕は」

 正直こうしたことに心の準備ができていなかった。

「良く知りません」

 まるで嘘の匂いを嗅ぎ分けるようにアニマは顔をすごく近くに寄せて、小鼻をひくひくと動かして見せた。

「カケルくんのお父さん、この世界の生みの親っていうケド、それまで戦争の道具ばっか造ってたワケだし。息子にね、その処分を委ねたって噂はホントだと思うんだ」

 不意に顔を引いて僕の頬を平手で打った。痛くはなかったけれど目に星が散った。

「僕は兵器なんか捨てちゃいまス。良い子なんでス。スっごくお金持ちですケレド」

 アニマは急に変な声色で宙に声を張り上げた。目だけは僕を向いている。瞳の奥に落ち着きのない光がある。両手で僕の頬をぱちんと挟んで捏ね回した。

「処分しちゃうならアタシに頂戴?」

 どこか作ったような狂気。皮膚の下に別の物が入っているような顔。わざとそれを装っているような感じがする。

「あなたはそれが何か知っているんですか?」

 頬を掴まれているせいで変な声になった。

「ああン? 知っていたらこんな面倒な事する訳ないじゃない。遺産ってからには坊やのコアに紐付いてンでしょう? お金で解決できないことがアタシの役目なのよ」

 どうやら単純な話ではなさそうだ。あの遺産の行方は僕の一存で決められる。だからこそ真っ当な方法では誰も手が出せない。つまりその逆もあるということだ。

「サアお友だちが大事なら所有権をお渡し」

 不意に言葉を切ってアニマは背後を振り返った。部屋の外、ステップディスクの方に目を眇める。背中が被って何があるのかよく見えない。

 いつの間にかアニマは右手に変な器具を持っていた。色とりどりのピンポン玉を連ねたような杖だ。きっとロクな物じゃない。

 僕は思い切り身を乗り出してアニマの膝の裏を蹴った。

 変な声を上げて仰け反ったアニマの頭越しにアルティラνの黒髪と、今まで見たことのない怒りに満ちた紅い瞳を見た。

 部屋の扉を蹴り開けるなりアルティラνは目の前のアニマを真横に薙いだ。虹色の杖が飛んで行く。

 黒服が握り潰しそうなほど強く僕の腕を掴んだ。転がった主人を助けるよりもアルティラνに向かって拳を構えた。

 身を翻したかと思うとアルティラνは独楽のように回って右側の黒服に並んだ。その勢いのまま黒服の首に手刀を食い込ませる。黒服の首が肩にくっついた。

 身を乗り出した左の黒服に向かって僕の鼻先を掠めて真っ直ぐに脚が伸びた。アルティラνの踵が黒服の顎の下に突き刺さった。

 白い太股とガーターの白いラインが僕の目の前にあった。一瞬目が合ってアルティラνはバレエダンサーのように半身を起こした。

 ばさりとスカートを両手で押さえる。

「お怪我はございませんか?」

 両手を腰に当てアルティラνが自慢気に振り返る。残念ながら僕は崩れ落ちた黒服の手に引き摺られ床に転びそうになっていた。

 アルティラνが膝をつきわざと擦りつけるように僕に身体をくっつけて支えた。アルティラνが背中越しに黒服の指を引き剥がす。バキバキと嫌な音がした。

 千切れはしなかったけれど黒服の指先は全部明後日の方を向いていた。黒服を左右に放り出しアルティラνは僕の無事を確かめる。

 突然に声にならない声を上げアルティラνが仰け反った。硬直したまま呼吸と喘ぎが一緒になって剥き出しの白い喉が震えた。

「アルティラ」

 掴んだアルティラνの肩越しにアニマの姿が見えた。遊具のような杖を向け歯を剥き出して笑っていた。

「無礼なお人形さんはお仕置きイ」

 落雷が横に走るような演出で杖から出た光がアルティラνの背中を打った。アルティラνの身体が魚のように跳ね上がる。喘ぎ声が喉を震わせた。

「際限なく痛みを感じちゃうわよン。ここじゃ離脱もできないしネ」

 目を細めて笑う。

「でもニュートだったらもともと逃げようもないか」

「アルティラに手を出すな」

 悶えるアルティラνを掻き抱いた僕の腕を、杖の光が掠め過ぎた。悲鳴も声にならなかった。身動きひとつできない。錆びた刃物が僕の身体を抉って行く。何度も何本も、延々と続く。そんな痛みだ。離脱で逃げることさえできない。

「カケルくんカッコいい」

 けらけらと笑う声が頭の中を滑って行く。

「本当はカケルくんのお友だちに使うつもりだったんだけど。こっちの方が手っ取り早かったわ」

 アニマが杖を振って言った。

「まさかお人形さん相手にマジになっちゃうなんて。お姉さんカケルくんの将来が少し心配だワ」

 余計なお世話だ。投げつけようとした言葉はまだ声にならない。

「ちょいとごめんよ」

 緊張感を欠いた声がした。

 アニマの後ろから伸びた手が無造作に杖を取り上げた。テンポが違い過ぎるせいかアニマの反応が遅れた。

「これはまた、悪趣味だな」

 伯父さんだった。目の前に翳した杖をしげしげと見つめている。不意に杖が本物のシャボン玉のように弾けて消えた。

「何、アンタ、誰」

 毒気を抜かれたアニマが消えた杖越しに訊ねる。伯父さんは口許で笑った。

「やあ、レッドマン。いやアムデジールだったか。見ない内に色々混ざったね、君」

 伯父さんの目を覗き込むなり彼女は素の表情になって飛び退いた。

「何で」

 動けたのは半身だけだ。彼女の右手、右胸、右足は、真っ白な氷になって伯父さんの前に立ったままだった。

 割れ残った左半身が二、三度跳ねたあとバランスを崩して床に転がった。狂ったように身悶える。まるで奇怪な虫のようだ。

「何でお前が、畜生」

 悲鳴のような罵声を残してアニマが転移して消えた。

「伯父さん皆を」

 伯父さんが何をしたのか、どうしてそんなことができるのか、僕は辛うじて質問を呑み込んだ。今は皆が先だ。

「セバスチャンが手を回しているよ」

「失礼。モービアスνでございます」

 パネルから声がした。モービアスνが追尾マーカーを支配した証拠だ。映像の三人はまだお互いを捜している。追跡には気づいていないようだ。

「よかった」

 ひと息吐いて腕の中のアルティラνを見ると紅い瞳と目が合った。

「てへぺろ」

 アルティラνが仏頂面で呟く。

「大丈夫ならそう言ってよ」

 アルティラνを引き剥がした。

「『僕のアルテラに手を出すな』」

 僕に押されてかくんかくんと首を揺らしながらアルティラνが言った。

「カケルさまのお言葉、私、生涯忘れません」

「『僕の』なんて言ってない」

「追って証拠を公開いたします」

「捏造する気だろう、アルティラ」

 ふと、呼び名に気づいた。

「カケルさま?」

「はい、お時間です」

 喘ぐように向けた視線の先で伯父さんは肩を竦めた。

「選びたまえ。ぼくが博士に話すよう言われたことは、もう伝えた」

 僕に処分を委ねられたのは個人の手に余る遺産だ。

 アニマの言う通りそれは兵器だった。

 処分を拒むこと、すなわちそれを僕が所有することいいうとは、僕個人がさまざまな戦略グリッドに組み込まれてしまうということだ。もう普通には暮らせない。

 二人の家族が望んでくれた当たり前の生活が秤の向こうに載っていた。

 不意に、モービアスνの気配が変わった。パネルの中の三人が立ち止まっている。周りの人も一緒だ。

「お気をつけくださいませ」

 地響きと波打つような振動があって地面が大きく縦に揺れた。天幕を手繰り上げるような仕草で伯父さんが部屋の壁面に外を映した。フリーコースターや観覧車の向こう、鏡のようなビル群の只中に巨大な影がゆっくりと動いている。

 施設が次々に崩れ瓦礫が散って土煙が爆炎のように舞い上がる。灰色の霞の中、所々で電光が弾けた。蠢いているのは巨大な恐竜のような影だ。瓦礫そのものが形を変えて姿を形作って行く。

 カイジュウ。ディザスタークラスのクラッカーツールだ。

「どうしてこんな所に」

 アニマの狂ったような笑い声が聞こえたような気がした。伯父さんが振り返り面倒臭さそうな顔で僕に頷いた。

「まあ、博士の遺産を狙ったのは趣向としては正解だったな。オルタの飼い犬だけのことはある」

「オルタ? アマルガムオルタのこと?」

 まるで後先を考えないアニマの行動を見て、もしかしたら強力な後ろ盾があるのかもとは思っていた。だけど。

「カケルさま、退避を」

 背中からそっと僕の肩に触れてアルティラνが囁いた。

「皆を」

「退避勧告が出ております。ご友人は私が誘導いたしましょう」

 パネル越しにモービアスνが応えた。

 街に目を遣る。逃げ散る人やニュートの動作が妙に緩慢に見えた。崩れる建屋、割れ散る硝子さえゆっくり落ちる。

 カイジュウがパフォーマンスを食い潰している。それとも僕の意識の問題だろうか。

「博士がワールドフレームの基礎を造ってから、もう二十年だ」

 隣に立って伯父さんが言った。

「世界の秘密を解いた気になって騒ぎを起こす奴も増えるだろう」

「お父さんは」

 こんな日が来ると知っていたのかも知れない。だけどそれに対抗する力は余りにも大きくて、誰にそれを託すのか決めないまま死んでしまった。

「だから君に置いていった」

 伯父さんは僕の胸を指先でつついた。

「僕に?」

 僕の肩を掴んだアルティラνの指先が少し痛かった。

「君はどっちを選んだって後悔する。でもね、困ったことに後悔っていうのは後にならないとできないんだな」

 伯父さんは飄々とした口調で勝手なことを言った。

「君が格好良いと思うのはどっち?」

「後で叔父さんを責めるかも知れないですよ?」

「選ぶのはカケルくんだもの、ぼくに責任なんてあるもんか」

「大人って狡いな」

「それ以外に大人に取り柄なんてないんだよ。それにさ、どっちを選んだって君には家族がついているものね」

 自分を棚に上げて叔父さんはにやりと笑った。

 僕は振り返って三枚のパネルを見た。ギュンターもアディティもミーティコも互いと僕を捜している。見つけたら一緒に決めた合言葉を言って、お互いに友だちだって確かめるのだ。こうして三人を見ている僕は皆より有利なはずだったのに。

「モービアス」

「準備はできております。カケルさま」

 意を汲んで応えたモービアスνの声はどこか誇らしげだった。肩に置かれたアルティラνの手を軽く叩いて僕は部屋の外に出た。

 街を擂り潰す轟音と灰色の突風が身体を攫う。

 いつか後悔する日が来る。だけど誇りに思う日も、きっと。

 どんな日が来たって僕らは一緒だ。

 空に向かって僕は叫んだ。

「来い、クロガネ」

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