第十二話 ファントムバディ#3:ハンマーガール

 たったひと月で世界は変わった。日常はそのまま続いているけれど世界はどこかで道を間違えた。小さな犯罪はむしろ減っている。重治安部隊が街中を闊歩するおかげで。でもそれはもっと大きな黒い影が世界を覆ってしまったからだ。

 ヒーローもヴィランもいない世界を人々は概ね受け入れようとしている。だって何もできない。どうしようもない。ボクみたいに。

 誰も空を指差して言わない。あそこに悪い奴がいるって。


 あの日ブルワークは壊滅した。追い詰められたファントムがワールドフレームに介入し世界を道連れに自壊した。そう報じられている。

 そんなのは嘘だ。みんなそれを知っている。

 ファントム出現の直後からブルワークは接続不全に陥っていて、緊急退避さえ不能の状況だった。当事者さえ全容は把握できていなかったはずだ。

 だから真相は不明だ。憶測でしかない。もちろん管理陣営の憶測だ。

 接続者の状態回復は迅速に行われた。帰還障害は確認されなかった。情報災禍の教訓は帰還措置に最大限の権限を与えたことだ。

 ブルワークの管理者は人命優先の名の下に接続したすべての個人情報を接収した。ファントム討伐に参加したバトルハッカーも含めて。

 結果ドライスケープに名を馳せた著名なバトルハッカーはそのほとんどが姿を消した。フレームを破壊され隠した素顔を暴かれた彼らはもはや単なる犯罪者だった。

 現在ブルワークと呼ばれるワールドフレームは存在ない。アドレスは抹消されあらゆる公的ルートから接続を断たれている。ファントムによって破壊された世界の解析と復旧は支援企業のひとつに委譲された。アマルガムオルタだ。

 ボクはフレームチェンバーの中にいる。あれから毎日だ。重力設定をゼロにして、ぼんやりと宙に漂っている。

 ウエットスケープの身体も同様に調整槽の中に浮かんでいる。あれのおかげで部屋中に薬液の匂いがする。

 帰還して最初の五日ほどは近くの病院にいた。らしい。その頃はただ朦朧としていて悪夢以外の記憶はない。

 六日目からは父さんの診療所に移された。説教漬けの毎日かと思いきや硝子越しに覗き込まれただけだった。心配そうな両親の顔は余計に堪えた。

 外部接続を許可されたのは一〇日目だ。フレームチェンバーの中でだけ。二人はボクが飛びつくと思っていたかも知れない。きっと肩透かしだっただろう。

 ボクはなにかと理屈をつけて神経接続を引き延ばした。

 もうここに、ボクの中にロビイくんがいないことを知っていた。

 それと向き合うのが嫌だった。

 あの時ボクの身体を突き飛ばしたのはロビイくんだ。ロビイくんはファントムの中にいて、たぶん生まれて初めてボクと顔を合わせたのだ。

 証拠はない。証明もできない。でもあの仮面の下に、底のない伽藍堂の隻眼の奥にロビイくんがいたの間違いない。

 ああしなければボクは還れなかった。そんなことはわかってる。

 ロビイくんを失ったこと。ロビイくんを置いてきてしまったこと。伸ばした手が届かなかったこと。全てが悔しかった。

 正直、ブルワークもスペリオーラも今の世界の在り様だってどうでもよかった。きっとボクはロビイくんと一緒に心まで向こうに置いてしまったに違いない。

 壊れたフレームの同期に時間が掛かるからと、ボクは自分に理由をつけてずっとチェンバーの中にいる。

 許可が出てから三日後に接続はしたけれど、それはストレージのアラートが消せなくなったからだ。ボクは外に出なかった。

 でもメッセージが臨時ストレージを圧迫していて焼却炉なみに強力なフィルタを掛けなければならなかった。

 事実上受け取りはすべて拒否した。エージェントにも引き篭もりを宣言した。

 診療所の父さんも急遽帰国していた母さんもボクに何も言わなかった。もしかしたらアルビオンの時もそうだったのかも知れない。

 あのときは一〇日ほど意識があやふやで覚えているのはその後のことだけだ。叱られたのはそのあとだった。

 ボクはしばらくチェンバーの中で、呆けて叫んで怒って泣いてそれを何度か繰り返していた。フレームチェンバーは広くない。大抵が手の届く範囲内で事足りる。なのにがらんとして見えた。

 倉庫はさんざん拡張したけれど居室はずっとそのままだった。ロビイくんが場所を取らないからずっと手を抜いていた。そのくせ片付けろとうるさかった。

 ロビイくんのせいで散々だった。あんなにうるさく言わなくたって課題くらい一人でできたし時間通りに起きられた。

 そもそもロビイくんのせいで独り言の多い変な奴だと思われていた。

 ロビイくんがいなければ友だちだってもっとできたし男の子とデートすることだってできたはずだ。たぶん。

 このまま何もしないまま、ロビイくんに何の文句も言えないまま、黙って理不尽の言いなりになっていて良いはずがなかった。


 ボクの死んだようなひと月の間に世界はすっかり変わっていた。ハンマーガールのいた世界はもうどこにもなかった。

 賞金制度が休止して賞金首と賞金稼ぎが世界から消えた。スペリオーラを筆頭に自身の意思で活躍していたビジランテは表舞台から姿を消した。

 クラッカーは存在する。だけど彼らは重治安部隊にに制圧された。冷厳に。圧倒的に。

 ファントムとバトルハッカーの狂騒が世界をひとつ壊してしまったことで人々はヒーローとヴィランから目を背けていた。

 ブルワークが壊れたのはファントムのせい。バトルハッカーが身元を掌握されたのは仕方のないこと。二度とこんなことが起きないよう全てを管理するべきだ。

 アマルガムオルタが? 外の世界は最悪だった。

「こんなの、いやだ」

 ボクは思わず声に出して呟いた。自分の声を聞いたのは久しぶりだ。

 答えてくれる相棒はいなかったけれどエージェントがその声に驚いて転んだ。ボクの不在処理に奔走している最中でガジェット化されたメールを床にぶちまけた。

 足許に封書が舞い落ちた。ハンマーガール宛のメッセージだ。手に取ってしまったのはどうしてだろう。ぼんやりと手を伸ばしたまま封書を眺めた。

 差出人はおじさんだ。父の関係で知っている人だった。拒絶に近いフィルタを潜り抜けたということはよほどの内容か、それとも優れた到達ギミックがあるのか。

 ぼんやりとテキストを眺めて(いまどきテキストなんて何の公文書かと思ったけれど、音声だったらきっと聞き流してた)ボクは微かに息を大きく吸った。

 大切な話だった。だけどその先にもしかしたら。話し掛けようとして飲み込んだ。独りだからこそやらなきゃいけないことがあった。

 何もできないかも知れない。何だおまえって馬鹿にされるかも。でもこれがボクのすべきことだって思うほどには、ボクは少しだけ回復していたのだ。


「ようこそ、ツバサさま」

 見知らぬアドレスの先でボクを迎えてくれたのは古風なディナージャケットを着こなした銀髪の老紳士だった。一式人格のニュートだ。

 髭の先まで隙のない格式。目許の優しい好々爺。そしてどこか凄みのある老練さ。深く腰を折るせいで頭頂部さえ見えた。

「お初にお目に掛かります。私、モービアスνと申します」

 ボクも慌ててお辞儀した。慣れなくて前屈しているみたいになった。

「本来は風間家の執事を務めておりますが、本日は故あってこちらのご案内をさせていただきます」

 ボクを見て平然と言葉を続けるが血の昇ったボクの頬にはぷつぷつと汗が噴いてくる。

 ドレスコードがあるなら先に言って。声にならない悲鳴を上げた。

 あの事件以来、初めて余所行きのフレームを引っ張り出したもののハンマーガールの一式は使い物にならなくなっていた。

 口実のはずが蓋を開ければ言い訳より酷い有様だった。まるでボクが別人になってしまったみたいに認証が不安定でバックアップにさえ同期できなかった。

 ロビイくんが出て行ってカーネルが変質してしまったのだろうか。二度と使用できない訳じゃないけれど再登録には再構築と同じくらいの手間が必要だった。

 手持ちには測定素体かスクールグリッドの規定フレームしかなかった。どのみち襟首のゆるんだトレーナーとショーツで外に出るわけにはいかない。選択肢は一択だった。

 すっぴんのフレームは裸みたいで不安だったけれどスキンで格好をつけるしかない。

 ああ。そこでボクが考えたことといえば、万一これが何かの罠だった場合に備えて動きやすい格好にしようということだった。スキンなんてフレームの性能に関係ないのに。

 だから、ジャージだったのだ。

 えんじ色の上下のセットで、白いラインが入っているやつだ。

「ところで、ツバサさま」

 モービアスがさりげなく言った。

「よろしければお姿をご用意いたしますが、いかがされますか?」

 モービアスの問い掛けに目が泳いだ。

「やっぱり制服の方がよかったですかね?」

 定規を当てたような老紳士を前にボクのジャージの裾を引っ張った。

 素直にエージェントの選んだ服をデジタイズすべきだった。

「確かに場所と目的に応じた装いはございますが」

 モービアスは小さく首を傾けた。

「それは次の機会に。その際は私がご用意させて戴きましょう」

 次の機会って何。ボクはおじさんに呼ばれて来ただけなんだけど。

「それでは改めまして秘密基地へようこそ」

 モービアスはそう言って扉の奥を振り返った。

「秘密基地?」

「秘密基地でございます」

 大真面目に返された。

 モービアスの言う秘密基地はどこともわからぬアドレスにあった。怪しことこの上ないけれどボクを招待したおじさんはウエットスケープの知人だ。

 当然ボクがハンマーガールだと言うことは知らない。知らないはずだった。

 おじさんの名は長月風介といって父の診療所の設立に関わった財団の人だ。

 幾度か見掛ける程度だったけれど、診療所の中庭に寝転がっていたりパペットに悪戯をして追い掛けられたりしていた。要するに変な人だった。

 そのおじさんがハンマーガール宛に寄越したのだ。どこでボクの正体に気付いたのか知らねばならなかったし、手紙の内容にも興味があった。

 ボクがブルワークから救出された顛末を教えてくれるというものだったのだ。

「皆さまおそろいですよ」

 モービアスはそう言って、重い木の扉を開けて腰を折った。


 扉の向こうは夜の街を眼下に見る高層ビルの最上階だった。吹き抜けの全面硝子を背にした広い広いラウンジだ。

 剥き出しの黒い鉄骨でできた柱や梁が真っ直ぐ通り個別に設定された照明器具がそこかしこに誂えてある。もちろんドライスケープには必要のない建材だ。

 硝子の外はどこの風景だろう。この雑然とした感じは外界だろうか。いまどきウエットスケープにこれほど無駄な電気を使う街があるとも思えないけれど。

 何のためにこんなラウンジを作ったのかは知らないけれど秘密基地なんて呼ぶなら確かにそれっぽい。正気を疑うレベルではあるけれど。

「理事はさておき先に皆さまをご紹介いたしましょう」

 硝子張りの夜を背景にぽつりぽつりと距離を置いた人溜まりを指してモービアスが告げた。理事って風介おじさんのことだろうか。

 モービアスを含めて九人の人がいた。曰くブルワーク崩壊に前後して集められた選抜メンバーらしい。でもそれが何のメンバーなのかボクは何も聞いていない。

 最初に紹介されたのは腰掛けた椅子から靴先もまだ床に届かない少年だった。傍には紅い目の綺麗なメイドが寄り添っていた。

 カザマ・カケルと侍従のアルティラ。モービアスは本来この少年に仕えているそうだ。

「ニュースで見たことある」

 ボクは思わず声を上げた。

 風間十蔵博士の忘れ形見だ。カケルくんはその利権を管理するベル・クレール財団の全権理事で若干十二歳の大富豪だった。

 風間博士のマテリアル構造体はワールドフレームの基礎を成している。つまりこの世界を造った人のひとりだ。

「僕もです。マイルスパークの事件、学校の友達が噂してました」

 カケルくんは頬を真っ赤にしてそう言った。ボクはいやあまいったなーなんて言いながら身を捩り、ふと我に返った。

「もしかしてボクの正体ってバレてる?」

「皆さまご存知ですよ」

 モービアスが代わって答える。

「そりゃそうか」

「誰にも言いません。友達にだって秘密にします」

 柔らかそうな頬と真っ直ぐな瞳。意志の強さと傷つきやすさが同居する剥き出しの硝子玉のような少年だった。

 なんというか、ボクは兄も弟もいないけれど、カケルくんはいたくお姉さん心を擽った。

 ふと寄り添うアルティラに目を遣った。人形のように整った容姿で無表情。むしろ仏頂面にも関わらずボクに目線で訴えかけていた。

『主の魅力がお分かり戴けただろうか?』

 カケルくん推しに全振りだ。無表情の後ろに恐ろしくマニアックな心情を構築したニュートだった。ボクは黙ってアルティラに旧英語圏に準拠したサムズアップを向けた。


「こちらはアリアンさま、シリウスさま。レクター家のご姉弟です」

 次に案内されたのは長い黒髪と白衣のコントラストが艶やかな美女。そして涼やかな目許の青年だ。このまま額に入れて飾っておきたいほど絵になる二人だった。

「君、冬堂博士の?」

 アリアンの紅い唇に一瞬見惚れ、我に返って慌ててかくかくと頷いた。まるで彩度設定を間違えたかのような艶やかさだ。

「そうか、君が」

 でも何を思ったのかはおおよそわかった。

 冬堂夏海は名声に自惚れて娘を実験台にした。帰還障害の回復に挑み娘を歪に再生してしまった。そんな噂はいまだ根強く囁かれているからだ。

 慣れたと言えば嘘になるけれどボクはそれが間違いだと知っている。

「まあ色々噂はあるんですけれど、半分本当で半分嘘です」

 アリアンは頬を打たれたような顔をした。綺麗な顔が子供みたいに歪んで目を逸らした。ボクに謝ったのはシリウスの方だった。

「ごめんねツバサ」

 調整の熟れていないフレームは思いのほか表情が出てしまったようだ。ボクは少し恥ずかしくなった。

 シリウスは姉と同じく美貌だけど子供のように邪気がなかった。笑顔がまるで天使のようだ。諌められたアリアンは視線を伏せて拗ねたような顔をしている。

 きっと彼女は素直に表情を作るのが下手なのだ。歳上でキレキレの美女なのに弟の前だと少女のように可愛いらしい。なんだか擽ったくなってしまう。

「まあ散々検査してまだよくわからないんだから、うちのお父も大したことないです」

 ボクは取り繕うように言って頭を掻いた。

「私で役に立てるなら言ってくれ」

 シリウスと視線を交わしてアリアンが言った。モービアスの囁くところアリアン・レクターは神経工学の権威だ。父さんの分野にも近しい。

 アリアンの視線にボクはそわそわと辺りを見回し、シリウスを避けるようにアリアンに顔を寄せた。

「あの、それ、本物ですよね。どうしたらそんな風になれるか教えて欲しいです」

 ボクは目線をアリアンの張り出した胸許に落とした。高く組んだボリュームのある脚も艶のある紅い唇もスキンではない本物だ。

 ボクの目線を追って呆れた表情のその後に、アリアンはそれを和解のサインと受け取ってくれた。

「まずそのジャージをなんとかしろ」

 アリアンはボクに向かって身体の芯があああってなるくらい婉然と微笑んだ。

「十年早い、と言いたいところだがなんとかしてやる。君に似た奴を良く知っているからな。私は厳しいぞ?」

「頑張ります先生」

「姉さん」

 シリウスが呆れたような吐息をついた。

 モービアスが背後で咳払いをした。いつの間にかアルテラがすぐ近くで聞き耳を立てていた。目が合うと、ボクにサムズアップして無表情のままカケルくんの隣に帰って行った。


 次にモービアスが紹介しようとしたのはクロームの支柱に背中を預けた男の人だった。黒髪で色白、長身痩躯で全体的にコントラストの強いモノトーンの印象があった。

「お兄さん」

 この人を知っていた。ウエットスケープでたまに会う思いも寄らない人物にボクはポカンと口を開けた。不意打ちで知人に出くわすなんて。

 シンこと朱川臣は父の診療所で見掛ける人だ。妹の真琴ちゃんが処置病室に移される際、ボクがいつもお見舞いに行くからだ。でもここで会ったということは。

「ボクってわかっちゃいました?」

 ハンマーガールの髪はボクと同系色でマスクも目許を覆っただけだった。ヒーロー女子の変装は最小限が基本だからだ。あと露出も少々。

 ボクのこだわりに、ロビイくんはいつも呆れていたっけ。

「むしろ隠していたのか」

 お兄さんもロビイくんと同じことを言った。

「真琴ちゃんには内緒にして。あとお父さんにも」

 ボクは縋りつく勢いで懇願した。

「真琴にも? 楽しい夢を見られそうだが」

「目が覚めたとき引かれちゃうから」

 お兄さんは虚を突かれたような顔をした。ボクを見る目は表情に迷っているみたいに複雑だった。

 帰還障害の身内に慣れた人はいつか目覚めること忘れてしまうらしい。あるいは会えない間に変わってしまった自分が怖いのかも知れない。

 もう診療所に訪れることも少ない、たくさんの延命チューブの身内の人に父さんはそう言ったことがある。もしかしたらお兄さんもそうなのかも知れない。


 最後に紹介されたのは草臥れたジャケットを着た渋いおじさんと艶のある薄いジャンバーを羽織った金髪の女の子だった。

 二人してバーカウンターのスツールに腰掛け肘の先にグラスを置いている。

「お二人はチャリオットさまとレイνさまです」

「元気そうで何よりだがなんでジャージなんだ」

 ツバサに軽く手を振っておじさんはそう言った。スツールに両足を浮かせたレイは尻尾を膨らませた猫みたいな目でボクを凝視している。

「変ですかね、やっぱり」

 呟くと、レイが身を乗り出した。

「なんで、かっこいいじゃん」

「いや、ジャージだぞ?」

 おじさんがレイのセンスを疑うような発言をして二人は言い合いになった。ボクはなんとなくおじさんの横顔を眺めながら記憶の隅をつついていた。

「もしかしてアルビオンの人?」

 ボクの声にラウンジの何人かが視線を向けた。少し空気がぴりりとなっておじさんの頬が微かに強張った。

「アルビオンでボクと友だちを助けてくれたおじさんでしょう?」

 ボクは思わずおじさんの手を掴んでぶんぶんと振し回した。呆気に取られたおじさんがボクを見つめ返している。

「治安隊の人だったのに、ボクらを庇って逃がしてくれたでしょ? 覚えてない?」

「あ、いや、そんなことも」

「凄いなボクは二回も助けられたんだね。ねえおじさん。ボクあのときヒーローになろうって決めたんです」

「おじさんは、ねえだろ」

 辛うじてそれだけを呟くとおじさんは皆の視線が居心地悪かったのかそっぽを向いて所在なく顎の無精髭を掻いた。

 支柱に寄り掛かったお兄さんが微かな含み笑いを洩らしているのが見えた。


「やあツバサくん、よく来たね」

 場違いに間の抜けた声が呼ぶ。長身で童顔、惚けた感じの男の人がターミナルから歩いて来るところだった。

「主幹理事のフースークさまです」

 外の天気でも話すようにモービアスが言ってボクを空いている椅子に案内した。これで総勢一〇人だ。皆なんとなく間隔を空けて座った結果、およそ円を描いている。

「取り敢えずこれで全員かな」

 フースークは皆を見渡した。

「風介おじさん?」

 声を掛ける。招待状はこの人からだ。フーなんとかではなかったけれど。

「ここではフースーク」

「じゃあフーおじさん」

 ボクは少しだけ妥協した。

「これでようやく本題か?」

 チャリオットが聞こえよがしに呟いた。ここに集まった皆もどうやらまだ招待された理由をちゃんと聞かされていなかったようだ。

 互いの事情こそ違えここにいる人は何かしらアマルガムオルタの計略に関わりがあるらしい。ファントムだけでなく、レイチェル・ローゼンやアニマといったボクに関わりのない幾つかの名前が皆の間の横串になっていた。

 フースークはブルワークの壊滅に前後してアマルガムオルタに追われる身になった人をカケルくんの館とこの秘密基地に集めたのだという。

 もちろん理由があってのことだ。

「そうだね、まずは」

 フースークは一拍ほど考えた。

「僕は、そう、大雑把にいうなら利害関係の交通整理をしている。依頼者が特定の誰かであることも単独の誰かであることも少ないが。課題を集めて手立てを見つけるのが仕事なんだ」

 彼をただの暇な資産家だと思っていたボクはフーおじさんって仕事してたんだなどとぼんやり考えた。

「仕事してたんですね、伯父さん」

 神妙な顔で呟いたのはカケルくんだった。彼もフースークをおじさんと呼んでいる。そう言えば彼はカケルくんの財団の理事のひとりだ。

「そりゃあ、ぼくだって働くさ」

 拗ねたように応えてフースークは皆を見渡した。

「今回の課題は少々厄介でね。少々人手と荒事が必要だ」

 まるで苦手な料理が出てきたみたいにフースークはうへえって顔をしてそう言った。

「アマルガムオルタを解体しなきゃならない」

 誰も何も言わなかった。たぶん皆フースークの頭のネジを探していた。二つ三つは弾け飛んでそこいらに転がっているはずだった。

「君たちはアマルガムオルタに縁がある。どちらかというと敵対関係だ。うまくいけばメリットはあるよね?」

 フースークはその外れた調子を崩しもせずに続けた。

「俺たちにテロリストになれと?」

 ようやく応えたのはチャリオットだ。

「バトルハッカーがいまさら。カーネルこそ覗かれなかったけど身許はとうに割れてるだろう? 探偵バッヂを失くす寸前じゃないか」

「え? バトルハッカーなの?」

 ボクは驚いてチャリオットを振り返った。それこそ何をいまさらと彼はボクに肩を竦めて見せた。そう言えは皆あのブルワークからボクを助けてくれたらしい。

 最後の方は朦朧として正直見たものすべてが曖昧だった。考えてみればあの状況で普通のフレームに何ができるだろう。と言うことは。ボクは皆を見渡した。

 全員が苦笑を返したものだからボクは真っ赤になって頬を押さえた。

「何か方法が?」

 フースークに訊ねたのはシンだった。このとんでもない話を真面目に聴いている。冷然とした感じなのに意外とアグレッシブだ。

「あるとも。君たち向きの方法だ」

 フースークは微笑んだ。なんとなく口が耳まで裂けたような笑顔だった。

「ブルワークだ」

 フースークは右手を宙に掲げ、芝居掛かった仕草で指を鳴らした。つもりが掠れた音しかしなかった。いちいち決まらない人だなおじさん。

 ラウンジの中央に映像が浮かんだ。幾重にも重なったいびつな立方体だ。

「ファントムを拘束するためにワールドフレームそのものが食い潰されてる状態でね」

 箱の中心に黒いグリッドが現れたかと思うとモデルの外縁が拉げてくしゃくしゃと端から縮んで行った。

 するとこれはブルワークの視覚化モデルだ。ブルワークは消えてしまった訳ではなくてアドレスが不通になっているのだ。

「どうにもあれを捕まえておくのは大変なようだな」

 フースークは鼻で笑った。

 ブルワークはあっという間に三分の一に満たない大きさになって二重構造の入れ子の箱ができた。内側のそれは黒く塗り潰されている。

「ファントムを懐に仕舞いたいがどうにも動かない。そこでとうとう彼女は本社をここに繋げた」

 箱の中心に斜め上から赤いラインが突き刺さった。

 共有表示のおかげで皆それぞれの場所からマーカーが読み取れる。赤いラインの起点はアマルガムオルタ。そのメインフレームだ。

 大企業の多くがそうであるようにアマルガムオルタのメインフレームもまた独立した占有ハードウェアだ。アクセスは一方通行で物理位置も厳重に秘匿されている。

「今ならアマルガムオルタのメインフレームに直通なわけだ」

 繋がれた経路はワールドフレームの環境下に置かれている。つまり、フレームの物理行動でハッキングが可能な状態だ。

 永続的な経路ではないし話によればブルワーク自体も長くない。だがメインフレームに近くづく唯一無二の足掛かりだ。

 ほんの少し手が届くような気がした。もちろん錯覚かも知れないけれど。

「で、メインフレームをどうする。情報を盗むか? 書き換えて壊すか? どうにかできる代物じゃないぞ」

 チャリオットが鼻を鳴らした。フースークはきょとんとした顔をして見せた。

「欲しいのはメインフレームの物理座標だ。まあ候補は上がっているからね、どれかが分かればそれでいいんだ」

「そんなもの何に使うの?」

 ボクは胡散臭げにおじさんに訊ねた。

「クリスマスカードの送り先だよ。隣に着いたら間抜けだろう?」

 そこは言いたくないようだ。

「きっとそう深い場所に書いていないはずさ。簡単だよ」

 アマルガムのような会社にとってそれはきっと隠さないといけない情報だ。ボクはそれ以上は考えなかったけれど皆はどうやらその意味がわかっていたらしい。

 分かった上で何も言わなかったようだ。

「君たち向きだって? テロや軍事行動に加担する気はないぞ」

 少ししてアリアンが言った。長い睫毛の隙間から責めるような視線をフースークに向ける。嗜虐的な表情がすごく似合っていた。ボクはぼんやり場違いな感想を抱いた。

「粗暴で原始的な手法だな」

 シンは感情を欠いた声で呟いた。でも自身の是非は感じ取れない。

「まあいくつかの問題は置いといて」

 チャリオットがフースークに話し掛けた。

 問題だらけだとアリアンが溜息のように口を挿む。チャリオットは構わずに訊いた。

「あんたの意図がどうあれメインフレームの情報はどこまで自由にしていいんだ?」

 フースークは虚を突かれたようにチャリオットを見返し、図式の中の黒い箱を見上げて、再び視線を彼に戻した。

「好きにすれば?」

 フースークはまるで座標以外のことにまるで興味がないみたいだ。けれどその言葉はシンとアリアンの琴線に触れた。ような気がする。

「教えてください」

 カケルが手を上げて質問した。学校みたいで少し微笑ましかった。

「アマルガムオルタがそんなにこだわるファントムって、いったい何なんですか?」

 皆の視線を集めて少し頬を赤くする。

「街を犠牲にしてまで捕まえなきゃいけない価値があるんでしょうか?」

 その問いにアリアンは半ば独り言のように言い捨てた。

「こだわっているのはレイチェルだ。あれがすべての望みを叶えてくれる魔法の鍵だと信じている」

 カケルの顔が少し塞いだ。漠然とした物言いに子供扱いされたと思ったのかも知れない。しかし、今度はシリウスが促す前にアリアンが気づいて首を振った。

「ファントムに積年の課題の解決策がある、彼女はそう考えているんだ」

「積年の課題ですか?」

「オムニスケープの欠陥だよ」

 オムニスケープはカケルが物心ついたときからすでに日常の一部だったはずだ。ボクにもそれがなかった頃の記憶はあまりない。

「待ってください。オムニスケープが欠陥品だっていうんですか?」

 動揺するカケルにフースークは意地の悪い笑みを浮かべた。

「欠陥品じゃないさ。仕様書がないだけだ。どうやって動いているのか誰もわかっていないんだ」

「そんな馬鹿なことがあるか」

 思わず洩らしたチャリオットをアリアンが制した。

「よく知っているな」

 フースークに訝しむような目を向ける。

「身内が関わってたからね」

 そう言ってフースークは肩を竦めた。

「基盤を開発したのは在野のヴォイドというハッカーだ。完成直前に情報災禍で亡くなったと聞いたが」

「そうだね」

 なんだろう。胸が少しチクチクする。

「そんなものがどうして世界中で使われているんですか」

 カケルの素直な疑問にチャリオットが苦い顔をした。それは世代にもよるのか。

「情報災禍でな、ネットと神経接続そのものの自体の信頼性が地に堕ちた」

 災禍の当事者だったボクの記憶は未だ曖昧だ。

「アマルガムの屋台骨さえ揺らいだ時期だ。追い詰められての見切り発車が実情だろうが彼女は賭けに勝った」

 アリアンが言葉を継いだ。

「引き返せなくなるくらいに勝ちすぎたな」

 フースークはまだ曖昧な表情のカケルに向き直った。

「つまりそのヴォイドくんが化けて出たのがファントムだ」

 全員がぽかんとした。

「ファントムはヴォイドくん由来のプログラムで、いわばこの世界の一部だ。彼女はメンテナンス機構の一部だとでも考えてるんじゃないかな」

「本当に?」

 ボクは素っ頓狂な声を上げた。そんなものがどうしてボクからロビイくんを持って行ったのだろう。

「たぶんね」

 ひっくり返りそうになった。

「僕はローゼン女史でもなければファントムでもない。ただ、ヴォイドくんがそんなものを造るとも思えないし趣味でもないだろうからね」

 アリアンが眉を顰めた。

「レイチェルに言ったら発狂するな」

 口許が少し嗜虐的だ。ちょっとだけぞくぞくする。

 オムニスケープの世代交代を図るアマルガムオルタは、もはや後退の余地がなかった。アマルガム傘下の組織は同士で喰らい合っている。レイチェル・ローゼンは栄光と破滅の針の先にいた。もしかしたらそれこそがフースークの依頼元かも知れない。

 アマルガムオルタが推し進めているのはクォンタムスケープと仮称される第四世代の自律世界だ。それは完全人格ダウンロードを実現するインフラだ。人はドライスケープの中で生まれ、育ち、永遠に生きる。そんな世界だ。

 オムニスケープは世界を変えたがクォンタムスケープは人類を変える。そう謳っている。

 だけどヴォイドの築いた唯一無二の仕組みはクォンタムスケープにも継承されているはずだ。つまり今と同じ病巣を抱えているのだ。

「彼女のやり方は気に入らないが」

 シンは前置きして言った。

「オムニスケープが欠陥品でなくなることに何のデメリットがある?」

「ないね」

 フースークはあっさり頷いた。

「でも世界の仕組みなんて理解しなくても何も変わりゃしない。現実だってそうだろう? 知りたきゃコツコツ学べばいいのさ。神さまに聞こうなんてムシのいい話じゃないか」

 フースークは皆を見渡した。

「さて、どうする?」

 ボクはサロンの中央に浮かんだ黒い箱を見つめていた。

 フースークを振り返って訊ねる。

「フーおじさん。あそこに行ったらファントムに会える?」

 皆は何も言わなかったけれど微かな気配は伝わって来た。

「まあ、それがひとつの目的ではあるね」

 フースークはボクに不思議な目を向けて小さく肩を竦めた。

「何より君とあれの因果が鍵だ。この中の誰でもない。君がやると言わなきゃこの作戦は始まらない。だから君がここにいるのさ」


 ステップディスクからチェンバーに移るとボクはジャージのスキンを脱ぎ捨てた。下着姿のフレームは微かに汗をかいている。情動演出が少し大仰だ。

 侵攻作戦に備えて高揚しているのは間違いない。コネもない引き篭もりが掴んだ幸運だ。こんなチャンスは二度とない。

 自分がどこまで役に立つのかはわからないけれど断る選択肢はなかった。土下座したってついて行く。絶対に相棒を取り戻すのだ。

 メタフレームとしても中途半端なハンマーガールだけどおじさんはボクにしかできないことがあると言った。

 ファントムとの因果回線とボクの具象化能力。正直僕にはよく分からない。前者はシンが何となく納得し後者はアリアンが呆気に取られていた。

 どうやらボクはファントムと何らかの繋がりができていてイマジネータドライブの意識拡張を使ってアマルガムオルタのメインフレームに突破口を作ると言うことらしい。

 あのあと皆は賭けに乗った。

 それぞれ目的があってのことだ。チャリオットはそう言って笑った。

 皆の作戦会議は各個と細部の詰めに入ったけれどボクはメインフレーム侵入の鍵がどうのと言う話でアリアンに拉致されてしまった。連日彼女のラボに通うことになり何やかんやで十日ほどは経った。

 ブルワークへの侵入には物理的な段取りも必要だ。あと政治的な課題も少し。

 それらは適した人材に任せれば良いとして、ボクは今できることをするだけだ。とは言え戦いに備えて何かしていたかと言うと、全くそんな実感がない。

 アリアンのラボでハンマーガールの強化を期待していたボクだけど、実際そんなことは全然なくて、どちらかと言えば父さんの検査に似通ったことばかりして日が過ぎた。

 解析と調整の合間にレイにジャージをあげたりスカジャンをお揃いにしたりアルティラにはジャパニメイドのスキンを新調して仲良くなったけれど。

 アリアンが言うにはボクはイマジネータドライブとの相性が良くて限定的な事象変換ができるらしい。

 ボクとしてはそんなことよりハンマーガールが飛べるようにして欲しかった。

 ところがハンマーガールはボクのワンオフでいま手を加えると件の能力に影響しかねないと言う。何となくこの頃から胸が不安でちくちくし始めた。

 結局メタフレームはボクが用意するしかない。皆には黙っていたけれど実はそこには凄く大きな問題があったのだ。

 ボクは今ハンマーガールになれなかった。


 何となく久しぶりの感じがするチェンバーを見渡しボクはひとしきり唸った。取り急ぎ、ボクは医療チューブに浮かんだ身体を外に放り出す手配をした。少し時間は掛かるけれど意識のある状態で薬液に咽せたり溺れたりするのは御免だ。

 エージェントにカーネルの再認証状況を確認しながら万一に備えてストレージを開ける。大量のメッセージを篩に掛けた。願わくばこれは最後の手段だ。

 メンテナンスレポートに手を伸ばす。

「うわ」

 ボクは思わず声を上げた。

 ブルワークの後遺症は思った以上に深刻だった。フレームの再認証に神経接続の再スキャンが挙げられていた。

 最悪だ。

 障害暦のあるボクには父さんの認証が必要だ。医療チューブに漬けられた娘に改造を前提にしたフレーム登録なんて許可するはずがない。

 諦めて面倒で手間の掛かる最後の手段に出た。

 ハンマーガールにスポンサーシップを申し出た企業、特にフレームメーカーを探して回った。試供品がまだ残っていると良いのだけれど。

 ボクのメタフレームは既製品がベースだ。スキンオプションを取り払い、限界までオーバークロックし、可能な限りのモディを詰め込んだ乱暴な素人改造だ。

 つまり稚拙な改造故に基本性能以外の特性がない。それは同時に単純明快な想像力を最大限に活かせるフレームでもあると言うことだ。

 だからアリアンにも手の出しようがなかったのだけれど。

 間の抜けた喚起サインと同時にエージェントがボクに答えを投げて寄越した。ロビイくんがいたせいでエージェントのインターフェイスは極端に無機質だ。

 表示されたリストを眺める。

 カスタマイズを前提にすると人気のベンダーはオービッツ、バルカス、アザンの三社だ。それぞれ髪や肌の再現、筋肉の動きなどの方向性が少し異なっている。

 まあ好みの問題だ。ハンマーガールはオービッツ製だったけれど拡張性が高いぶん最初の設定はやたらと面倒だった。

 加えて問題は予算だ。自宅療養は許可されたものの金銭周りは管理されている。

「フレームなんか買ったらバレるよね。カケルくんに相談してみようか、お金持ちだし」

 そうぼやいて嗜める声を待っている自分に気が付いた。

 やばい。チェンバーで気が緩んだ。

 理性が必至に言葉を押し留めようと足掻いているけれど、無理だった。

「ねえ、何か言ってよ」

 口に出してしまった。

 震えが抑えられなくなって身体を丸めた。噛み締めた口の隙間から嗚咽が漏れ出した。止められない。声を上げて泣いた。上辺の自分は一瞬で跡形もなく壊れてしまった。

 どうして何も言ってくれないの。どうして助けてくれないの。ボクの中の剥き出しの子供が泣き喚いている。

 もう一度あの声を聴くためならボクは何だってする。ファントムにだってアマルガムにだって喧嘩を売ってやる。絶対にロビイくんを取り戻す。

 ボクは必死に心に足掻いた。


 落ち着くまで少し時間が必要だった。逃げ出すようにフレームチェンバーから這い出した。とたんにウェットスケープの重力に身体が押し潰された。

 口の中はまだ薬の味がする。高濃度酸素の輸液の匂いも身体中に染みついている。重い手を上げて顔を擦った。頬に涙を拡げただけだった。

 エージェントに声を掛けボクは部屋を這い出した。道々濡れた医療下着を脱ぎ散らかしながら何とか浴槽に這い込んだ。

 腫れた目許を何度も洗って美容器のなすがまま蒸気に頭を突っ込んだ。

 ロビイくんは本当にボクの中から消えてしまったのか。それとも本当はまだここにいて接触だけが失われてしまったのか。それについては父さんも歯切れが悪い。

 そもそもロビイくんの存在は仮説の域を出ていないのだ。

 ただボクのブレインマッピングに居座る正体不明の空白はブルワーク以降少しずつ縮小していた。それを回復と呼ぶのは絶対に嫌だったけれど。

 気を取り直してオーバーサイトを立ち上げボクは検索を任せたエージェントを呼び出した。思いのほか早い万一の出番だった。

 この際でかでかと企業エンブレムが入っていても構わない。フレームが欲しい。

「ガジェッタ、アザン。あ、オービッツ。アマルガムオフ」

 確かにフレームの試供品はあった。でもどれも紐づいたリンクが切れている。

 今となってはハンマーガールもアマルガムオルタのお尋ね者だ。スポンサーシップは少し厚かましかったかも知れない。

 あのとき見返りや拘束が怖いからと見ぬ振りをせずにさっさと高そうなものを受け取っておけばよかった。ボクは後悔しながらエージェントの集めたメッセージを手繰った。

 その中にまたボクに宛てたメッセージを見つけた。ウエットスケープの翼にだ。今度はフーおじさんでもなさそうだった。割り込みのロジックは少し似ているけれど。

 秘密基地の面々を除けばハンマーガールの正体を知っている人は限られているはずだ。いま思い当たるのは咲耶くらい。

 咲夜はウエットスケープでも数少ない友人だ。同じ歳の女の子でボクのヒーロー業にもつき合ってくれている。現在は家業の都合で休止中だったが。

 ただ彼女には現状を連絡してあった。見舞いに行くと連絡があったしそれなら咲耶がこっちにメッセージを寄越すはずがない。

 ボクは無意識に開封した。差出人がないことに気づいたのはその後だ。

「誕生日おめでとう」

 縫いぐるみの熊のガジェットが手紙から飛び出して喋った。既成のバースデイカードのようだ。何だかよくわからない。第一、今日は誕生日でもない。

 どうしてフレームの入手コードで篩に残ったのだろう。ボクはエージェントの精度を疑った。メッセージを捨てかけ、ふと縫いぐるみに目線を留めた。

 引き留める乾燥機を無視してボクは水滴を垂らしたまま浴室を飛び出した。

 寝室に入って飾り棚に目を遣る。視界のコンソールに認識マーカーがポップした。ボクが見つめているのは古い縫いぐるみだ。バースデーカードと同じデザインの熊だ。

 あれは誕生日に……誰に貰った縫いぐるみだったっけ。

 同じものが写った写真を最近見た。父さんの部屋と母さんの研究室だ。幼い自分が縫いぐるみを抱えていた。

 でも少し違う。隣が変に空いていた。この前偶然のぞき見た母の研究室の写真はあの人が背景に消されていたからだ。

 あの人?

 いつもの眩暈が近づいて来た。この部屋であれが来たことなんてなかったのに。

 泥濘を這うような思考にぼんやりとして、ボクの意識はどこか遠くにあった。何かがボクのストレージにダウンロードされ始めたけれど、ただ眺めているだけしかできなかった。

 フレームだ。だからエージェントの篩に残ったのか。

 不意にチャイムが鳴った。我に返って屋外のモニタを映すと小振りの花束が目に飛び込んできた。

「こんにちは翼ちゃん、大丈夫?」

 花束の後ろから咲耶が顔を覗かせた。小柄で童顔、一見は子供のようだ。

「いらっしゃい。すぐ開け、駄目、大丈夫じゃない」

 素っ裸だ。ちょっと待って、と声を掛け、慌てて部屋着を引っ張り出した。

 下着に足を引っ掻けて転び、濡れた床に滑ってまた転び、インターフォンのモニタがそれを全部中継していたりして、ボクも咲耶ちゃんも騒々しい一幕にすっかり気を取られた。


 その騒動のせいでボクは咲耶ちゃんのカートから這い出した小さな蜘蛛型のパペットやそのあとモニタに走った小さなノイズには気がつかなかったのだ。

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