第四話 女王の恋人:クイーン&ザ・ビースト
吐息も囁きもない夜が明けると、いつも微睡みの中で煩悶する。ベッドの上にあるのは只の冷えた肉塊で自分は醜い情欲の抜け殻に過ぎないと自覚するのだ。
シーツの皺が固着するまでアリアン・レクターはそう意味のない自虐を繰り返す。
強くもない酒を呷った翌朝は、医療ボットがアセトアルデヒドを分解し尽くした後もこうして鬱々とした澱だけが残っている。魂の澱だけは分解できない。
乱れてほつれた黒髪越しにサイドテーブルに手を伸ばすと爪が乾いた音を立てた。当たってグラスが床に落ちる。溢れた雫を目敏く見つけてクリーナが這い寄った。
しばしそのまま虚ろな間を過ごした。
耳障りな清掃音を覚醒の種火にしてアリアンはようやく理性を立ち上げた。視野の隅に展開したパレットにポインタを遣って血圧を上げる。
シリウスの夢の後は往々にして身体を持て余す。だが情欲はしょせん欠落が招いた日和見感染に過ぎない。パレットを操作すれば少しはドーパミンも抑制できる。
学位と病歴の双方で得た身体環境操作の権利を最大限に、あるいはそれ以上に駆使してアリアンは人為的に均衡を保っていた。
パレットの縁に来客のサインが点滅した。消そうと滑らせたポインタがうっかり名前を表示させてしまう。
呻いた。やり過ごせない相手だった。逡巡して承諾した。承諾せざるを得なかった。理性を起こすのはまだ早過ぎたかも知れなかった。
ベッドに寝そべったまま意識をチェンバーに移しデジットサイトを立ち上げる。天井を見つめ気合いの吐息をひとつ洩らしてフレームを選択した。
瞼を取り払ったかのように視界が澄んだ。フレームから見た現実の視界だ。部屋が無機質なせいか移行の境目もわからない。
周囲は既に実存の映像を対物設定にして重ねた風景だった。シーツの跡さえ同じだが見つめているのは肉眼ではない。
持て余した胸の脂肪の重さもなくアリアンは身体を置いて羽のように身を起こした。二つの世界を同時に見たなら幽体離脱のような風景だっただろう。
進んだ科学はオカルトに近づいて行くのだ。
ベッドを振り返れば寝乱れた女がいる。身につけているのは、はだけた大振りのシャツとショーツだけ。見る者には全裸より扇情的かも知れない。
質感と量感のある真白な肢体は艶やかで厚みのある大理石のよう。淡く浮いた静脈さえトラバーチン柄の美点に映る。それも宝の持ち腐れだ。
今は手入れも全て機械任せだった。生体の品質維持という一項目に過ぎない。
己の肉塊を一瞥してアリアンはベッドを滑り下りた。生々しい牝の匂いがした。
だがドライスケープの呼び名の通りこの世界は体感湿度が低い。フレームが今の身体を寸分違わず再現していても印象は異なっているはずだ。
ただそれを誤魔化し切れる相手でもない。扉の前に立ち自嘲の吐息を吐いた。
可能な限りイマジネータドライブを続けたせいで澱が思索にこびりついている。パレットの数値を端から上げてアリアンは脳に目一杯の覚醒を促した。
本来脳内物質の分泌調整は量刑の重い改造だ。複数の博士号がマイナスに働く恐れもあって、アリアンはサークルクレジットにそれなりのコインを注ぎ込んでいる。
いま隔離処置の解消を取り消される訳にはいかない。危険は冒せない。快楽装置に関するヘブンサーキットの誘いも魅力的だが、シリウスとの再会が最優先だ。
扉を開ける。距離感のないホリゾントのただ中に、ぽつんと作業机が置かれていた。
現実はリビングに繋がる扉だが、ここでは契約ラボだ。イマジネータドライブも可能な特殊な環境にある。接続できるのは契約者とアマルガムオルタの幹部だけだ。
「わざわざ貴方が来るなんて。手続きに不備でも?」
佇む女に声を掛け扉を閉じて背中を預けた。目の前にいるのは隙なく切り揃えられた黄金の髪、緑味の強い青の瞳、エナメルのように滑らかな白い肌の女だ。
何もない机上から目線を上げてレイチェル・ローゼンはアリアンを見つめ返した。
「いいえ。ただ話しをしに来ただけ」
光沢のない白のトガ、アンダーは黒のハイネック。指先まで同じ素材に包まれている。抑えた服飾テクスチャが輪郭にハレーションを引き起こしていた。
「起こしてしまったかしら?」
そう言ってレイチェルは微笑んだ。疲弊しているのは知っているはずだがベッドの上を這い回る怠惰な生活まで覗き見られたようで少し腹が立った。
この女と肌を合わせたことはないし、そうした女にもその姿を見せたことはない。
「課題は完遂した。少なくとも私の分は。何か不満だ? レイチェル」
詰めた息を吐いて問う。この女に警戒を隠すつもりはない。無駄な行為だ。
「いいえ。それには満足している」
そう言ってレイチェルはアリアンの目を覗き込んだ。実年齢はアリアンより上のはずだが、彼女のフレームは年齢を、ともすれば性別をも超えている。ニュート嫌いの癖に誰よりも人間味を欠いたニュートに似ていた。
「もっと満足させて欲しいの、アリアン」
レイチェルの言葉にアリアンは口許を歪めた。
「貴方のようにメインフレームに繋がれと?」
レイチェルは自身の白い首筋をなぞってアリアンの首にあるチョーカーを差した。銀のリベットを打ち込んだ黒いレザーの首輪だ。
「あなたが考えているよりずっと自由よ?」
「私の仕事は終わった」
そう言い捨て視線を外した。
ブレインマッピング、人格成型、自律型ディープドライブ。アリアンがプロジェクトに加わったことでアマルガムオルタの目指す完全人格ダウンロードは事実上の完成を見た。
彼らに欠けているのは社会体制の構築と法整備、モーゼの如き人心の誘導。そして贖罪だ。この先の煉獄に神経工学の仕事はない。
「私はヴォイドになれないぞ」
アリアンの余計な一言でレイチェルの目に初めて情動が過ぎった。
アマルガムオルタは今もそしてこれからも彼、もしくは彼女の創り出した巨大なオーパーツの上に成り立っている。だがそれを知る者は限りなく少ない。
かつての震災に起因する情報災禍は神経接続を第二の原子力に変えようとした。世論が掌を返したのはオムニスケープの成功に他ならない。それは復興に余りある振興と革命の代名詞だ。
だがそれは破滅に喘いだアマルガムの見切り発車だったのだ。
現行オムニスケープの基幹プロトコルには未だ解析不能なプログラムが要所に散在する。どれ一つ欠けても致命的な障害となり得るそれは存在の意味すら解っていない。
今や欠かすことのできない世界そのものとさえ言えるシステムは、その実、得体の知れない爆弾を抱えているのだった。
この女が欲しているのはその深淵の解体だ。
完全人格ダウンロードを備えた次世代ワールドフレームはもうそこにある。だがその基幹システムは未だ巨大なブラックボックスを抱えたままだからだ。
この女はそれを支配せねばならない。瞳の奥の具象化に至らないレイチェルの感情はヴォイドに対する憧憬もしくは恐怖が垣間見えた。
「そうね。でも彼に似ているわ」
本物のヴォイドを知っているのはこの女だけだ。在野の天才技術者はどんな人物だったのか。その為人など及びもつかないが現存する成果は狂気さえ孕んでいる。
とてもそうはなれない。
「過大評価だ」
「貴方は探求者。身内にメスを入れても真理を見ずにはいられない。そうでしょう?」
アリアンは息を詰めた。彼女に情動を隠すのは無理だ。それは端からわかっていた。視界の隅で接続安定枠が赤く揺らぐ。仰け反って扉に後頭部を打ちつけた。
「あなたには関係ない」
動揺と怒りに身体が震えた。たとえこの女がシリウスの正体に辿り着いたとしてもあのことだけは知りようがない。あの子に触れることなどできない。
「真理なんか要らない」
真理には生贄が必要だ。辿り着く先が人間以上なら獣の箱にその価値はなかった。あれをシリウスに埋めたのは探究ではない。低俗な独占欲だ。
「もうすぐ素敵なものが手に入る。貴方もきっと興味を」
「何があろうと」
遮って声を上げた。この女は言葉を切られるのが嫌いだ。
知っていてアリアンはそうした。
「そう。首輪は必要なようね」
ほんの少し間を置いてレイチェルは独り言のようにそう言った。
「契約は完了した」
アリアンは答えて後ろ手に把手を弄った。レイチェルは止めなかった。薄く笑って、最後に囁いた。
「更生の実績は二年で足りそう?」
問い返す間もなくラボから排出された。目の前で扉の痕跡が掻き消えた。
立ち尽くし、アリアンはレイチェルの言葉を反芻した。
リーガルアシスタントを呼び出しながらデジットサイトの寝室を苛々と歩き回る。表示されたレポートを開いて更生評価を確かめた。
『隔離継続』の文字が加えられていた。
視界が警告表示で埋まるほど声を上げてあの女を罵った。昨夜までそんな文字はなかった。馬鹿みたいに浮かれて独り祝杯を上げたのはつい数時間前だ。
アマルガムオルタは社会ポイントが高い。勤続が有利に働く一方で人物評価は更生の評点に大きく影響する。レポートの要観察項目にはおの女のサインが入っていた。
アマルガムを選んだのは自分だ。あの女に尻尾を振ったのは自分自身だ。罰というなら受け入れよう。だが彼らにシリウスを渡すことはできない。
あの女の喉笛を喰い千切ってやりたい。
ベッドの自分を見下ろして爪を噛む。鈍る思考を急き立てあの女の知らない駒を数えた。圧倒的に少ない。だがひとつ残ったそれは最強、もしくは最悪の札だ。
少し迷って、脳裏に埋もれたコードを掘り起こした。記録にはない脳の中だけのデータだ。捨てたものを拾い集める時だった。悔いも恥も一緒に。
アリアンは半日ほどを虚ろに過ごした。リミットメータが針を戻すと自分の肉体にも嫌気が差してフレームで古い馴染みの街に出た。
アリアンのフレームスキンは昔と変わらないままだ。凍てつくような白衣の下は、鋲を打ったブラックレザーのボンデージだった。
身体を縛る衣装を好むのは自傷行為の代替だ。こんな作り物の世界でさえシリウスの言葉を守って肌を刻むのを躊躇っている。
ラボの外、部屋の外に出るのは二年振りだった。つまりシリウスとも二年、会っていない。二〇年と少しの人生で半身を喪うのは今が最長だ。
ムセイオンのラボグリッド、アカシア通り。アリアンが昔通った馴染みのカフェは範囲を拡張していた。大学のオープンエリアだけあって前の通りは若者が多い。
テラス席はそこそこ埋まっている。以前はもっとこぢんまりしていた。流行り廃りの波はあっても優れた調香士を抱えたカフェは安定した人気があるようだ。
馴染んでいたカフェのシートは対物知覚を書き直ささねばならなかった。ときおり向けられる男の(そして女の)視線は鬱陶しかったが、じき風景と割り切った。
ぼんやりと人の流れを追っているうち目の前にカップが置かれていた。
「ごゆっくり」
心地のよい声に耳を擽られたが気づけば店員の姿はなかった。
以前はテーブルごとにカップがポップしたはずだ。この規模になって給仕を使うのは些か不合理だ。二式人格のニュートであってもコストに見合わない。
だが変わらず漂う香りの再現率は高かった。ドライスケープの飲食はあくまで五感の満足に過ぎないが精神が強く作用するこの世界には有用だ。
経験反応を利用して得るカフェインの効果は微々たるものでしかない。アリアンに至ってはパレットの数値を変えた方が遥かに早いかも知れないが。
この街で研究室を持っていた頃はまだそんな芸当もできなかった。十代だ。扶養債務の目途がつきシリウスと一緒にレクターの家を出たのもその頃だった。
アリアンとシリウスは同じラボで生まれた。二人は出所の似通った遺伝情報で混成されており身体的にも姉弟と呼んで差し支えなかった。
共にレクターの家に引き取られたが、シリウスの他にラボ出身者と会ったことはない。遺伝子銘柄は抹消を義務づけられていたしラボも疾うに解体されていた。
二人きりの姉弟だ。同じメーカーの製品という意味でもそうだ。
二人の優性ハイブリッドの資質は恵まれた環境で開花した。ことアリアンは優秀だった。そして致命的に壊れていたのだ。
彼女の業績はシリウスへの依存に比例した。シリウスを独占することで精神の安定が辛うじて保たれていた。だが独占は嗜虐に、それはやがて虐待に転化した。
以来幾度となく家庭監査による隔離処置を繰り返している。
アリアンにとって知性と理性は別物だ。業績などシリウスを得るための副産物に過ぎなかった。狂気と知性は併存するのだ。
そしてついに何者もシリウスを奪えぬようシリウスを奪った。初めての血でシリウスを汚しシリウスから人であることを奪った。自分だけの獣にしようとした。
いっときだがアリアンにも捌け口はあったのだ。歪んだ理性が周囲を見渡す頃もあった。挑んだのは反社会的なゲームだが気は紛れていた。
だがそれも相手の引退で行き場をなくした。そのせいでシリウスへの依存は歯止めが効かなくなってしまった。
レイチェル・ローゼンの勧誘はその後シリウスと隔絶されたアリアンにとって自死との二者択一だった。結局アリアンは自身の隔離と拘束を目的にアマルガムオルタと契約した。自らを研究に縛りつけることで全てを塗り潰そうとしたのだ。
以来シリウスとは互いの居場所さえ知らないまま二年を過ごしていた。
「やあやあご無沙汰です。クイーン」
元気な声が唐突に湯気を割った。子供のような目をした女が向かいのシートに陣取ってアリアンに向かって大きく身を乗り出している。
かつての同業あるいは敵だ。アリアンの唯一のゲーム相手だった女だ。深く炒ったカフェの香りに彼女の日向の草原の匂いが混じった。
「引き篭もるの、やめたんですね」
きらきらした深い緑の瞳でアリアンを覗き込む。黒い髪も、光の加減で緑の艶が入る。
白のブラウスに青のリボンタイ。ハイウエストの黒いフレアスカート、黒のオーバーニーソックスと青のパンプス。以前より服装は少し落ち着いた気がする。
見入った自分が腹立たしく、アリアンは舌打ちして目を逸らした。呼び名を咎めようとして彼女のタグに気がついた。堂々と名前を晒している。
「その名前、大丈夫か?」
不審に思ってそう問うと、彼女は突然、うッと叫んでテーブルに突っ伏した。縁を掴んでよよよと呻く。周囲の客が引くほどのリアクションだ。昔からこうだった。
「そうなんですよー」
叫んで頬を膨らませる。子供かと思うくらい驚くほど表情がくるくる変わる。ばんとテーブルを叩いてカップを鳴らした。
「酷い。狡い。悔しい。男ならちゃんと責任とって欲しいですよ」
「いや、そうじゃなくて。その名前。おまえ、手配されてるだろう」
八割九分アリアンは呼び出したことを後悔していた。
「あ、そっち? 大丈夫です。よくある名前です」
「タコジゾウがか?」
「苗字は少しカッコ悪いですけど」
口を尖らせてもごもごと答える。
「チヅルなんて呼び難い名前もそうないぞ」
「そっちは変えられないです。何としてもあの人に呼んで貰わねば」
ふんす、と鼻息を荒くしてチヅルは拳を握り締める。
正直、そんなチヅルの事情はどうでも良かった。だがこの女を一方的に責めるのも些か自分を顧みない言動だと思い直した。
「まだ『ヒメ』なのか。何年越しだ、おまえたち」
古い渾名を思い起こすと彼女は再びテーブルに突っ伏した。
「胸のせいです」
テーブルに頬を貼りつけたままモゴモゴ呟く。
「顔と性格は良いと思うんですよ、自分。でもせめてクイーンほど胸があったらもう少し進展すると思うんです」
「胸は関係ねえだろう」
苛々してテーブルの脚を蹴ると、振動が盤面に伝わる前にチヅルは身を躱した。アリアンは舌打ちして白衣の前身頃を掻き寄せた。
以前はこの女もまだ十代だった。確かに胸許はあの頃とぜんぜん変わっていない。
今とて輪郭は柔らかく目も大きくて少女のようだ。ぱつんとした肌は艶を通り越して健康優良児という方が相応しい。
「そう言えば。おまえ二代目なんているのか」
以前の容姿を思い起こし、つい最近の記憶を辿る。ニュースパネルは部屋の壁紙に過ぎなかったが、それでも多少は見聞きをしていた。
「そう、あの子。私がハンマーをあげたんですよー」
顔中を微笑みにして言った。
「可愛いですよね。先輩ヒーローとして是非お世話してあげたい」
口振りからすると現在は関係はなさそうだ。
「ヒーローって、おまえ」
「おや私にヒーローの何たるかを語らせると止まりませんよ?」
んふー、と鼻を膨らませる。迷惑だから止めろと呟き少し声を落とした。
「ファントムとやり合ってたぞ。少し大物を狙い過ぎてやしないか?」
チヅルあるいはヒメは胸の前で腕を組み、ううんと唸って考え込んだ。
「あれを狙ってる人、多いですもんねえ」
片目を開けてアリアンを見つめる。
「クイーンもですか?」
「馬鹿言うな」
「でも、あのオバサンとの取引材料にしたいんでしょ?」
カップを投げつけようとして辛うじて堪えた。この女のことだ。相変わらず変なところで賢しい。だが元々こちらの事情を知って会う気になったのだろう。
アリアンは目を逸らしてカップを睨んだ。
「クイーンって、運命は信じる方ですか?」
「その名で呼ぶのはやめろ」
「じゃあ、姐さん」
「煩い」
不意にカップに添えたアリアンの手を包んでチヅルは顔を近づける。
「今、どこまで闘えます?」
口調で気づいた。
「フレームはノーマルだが、アクセサリなら多少はある」
二人ほどテーブルを縫って近づいて来るのがわかった。他者の動作や視線、風、音響。ドライスケープの中でも気配の要素は感知できる。客観視点も必要ない。
「後でアドレスを送ります。ここだと私、サーバに迷惑を掛けちゃうので」
「自分で蒔いた種だ。何とかするさ」
チヅルは顔を近づけて「だいじょうぶですよ」と唇で囁いた。いきなり掴んだ手を離しテーブルの上に乗り出していた上半身を跳ね上げる。
「そろそろ行きます」
立ち上がる勢いでシートを蹴倒した。
「それでは、また後で」
びしりと親指を突き出すと、くるりと背中を向けて早足に歩いて行く。
何なのあいつ。心の中で呟いてアリアンは呆気に取られた自分を強引に立ち直らせた。意識を背中の敵に向ける。
問題はこれだけの人の前でどう立ち回るかだ。イマジネータドライブはリミットが早い。アクセサリで応戦するとしてどの辺りで手を打つか。
だがここに来て転移表示が動かないことに気づいた。緊急退避も縛られている。間抜けに過ぎる。これほど強力なアンカーをいつ仕掛けられたのか。
舌打ちして解除処置にリソースを割いた。完了予想のアナログバーは思いのほか長い。応戦か解除か。逃走も含めて時間を稼がねばならない。
テーブルを突き飛ばすように席を立った。身を捻る間に二人は距離を詰めている。無個性な男女。二式人格のニュート。治安隊のパペットだろうか。
その手がアリアンに触れる寸前、目の前で指先が凍りついた。傍から伸びた腕がパペットの手首を掴んでいる。
一拍も置かず、その腕に引かれてパペットは捩じれて転がった。アリアンが視線を移した時にはもう一人も膝をついていた。
握り潰されたように頸が拉げて顔が半分ほどの大きさになっている。呆然と見上げるパペットの目を黒い踵が踏み抜いた。
アリアンの視界を白いシャツの背中が埋めた。ようやく上がった悲鳴を浴びて彼女の前に佇むカフェの店員が丁寧に一礼する。
後ろ手にクラシカルなエプロンの帯を解きながら店員はアリアンを振り返った。
「姉さん、あとどれくらいでここから出られそう?」
少し癖のある黒髪を揺らして微笑んだ。
睫毛が長く童顔で天使よのように邪気がない。庇護欲と嗜虐性を同時に擽ぐる顔立ちは二年の隔たりさえも呆気なくアリアンの芯を打ち砕いた。
「シリウス、どうして」
吐息のような呟きは大勢の悲鳴に掻き消された。
通りを埋めた人波を広く円形に弾き飛ばして重治安部隊のフレームが現れた。怒声と悲鳴と人の身体が波紋のように押し流されて行く。
白のカラーリングはアマルガムのインターセプタだ。アリアンが外部と接触を持ったことで、どうやらあの女は社会的処刑に舵を切ったようだ。
襲われたはずのアリアンに暴力行為のマーカーまで立っている。追い詰めて行き場をなくすつもりか、単なる口封じかはわからないが。
インターセプタの放った分捕縛ワイヤが人々の頭上を渡ってアリアンに飛来した。
幾つかのアクセサリが対抗処置を起動した。それらが効果を生じる前にシリウスの指先が捕縛ワイヤの先端を掴んでいた。
子供の投げたボールを受け止めるくらい、無造作に。
シリウスならそれが可能だと知っていた。そうしたのはアリアン自身だからだ。それでも感情は驚嘆を隠せない。
アリアンの鼻先で袖捲りをした白い腕がしなった。撓んだワイヤに綺麗な波が走る。その振りにどれほどの重さがあったのか人の倍ほども身の丈のあるインターセプタがワイヤに打たれて仰け反った。
シリウスがなおもワイヤを手繰る。動作の端々が極端に疾い。足を浮かせた白い巨体が、あっさり地面に引き倒された。
どよめきと囁きと歓声が上がった。
シリウスはワイヤを投げ捨てて思い出したように呟いた。
「そうだ。人前じゃこれをつけないと」
片袖に巻いていた黒いバンダナを解いて目許を覆った。その色が移ったかのように、指先が黒いレザーに包まれて行く。
カフェの店員姿から大きく変わったわけではない。腕捲りをした白いシャツ、黒のスラックス、黒のベストはそのままだ。ただ、髪が美しい銀色に塗り変わって行く。
「シルバービースト」
テラスに黄色い声が舞った。アリアンが訝しげな目線で問うと、シリウスは口許にはにかんだ笑みを浮かべた。
「師匠がマスクはヒーローの基本だって。あとマフラーかケープ」
「師匠?」
「さっきここにいた人」
アリアンは逃げるように去って行ったチヅルを思い返して茫然とした。
いつの間にシリウスを見つけたのだ。いつの間にこんな破廉恥な芸当を仕込んだのだ。純真無垢な弟にヒーローの真似事など。
「あいつ、殺してやる」
混乱と嫉妬に凍りついて思わず呪いの言葉を吐いた。
気づけばカフェの学生どもが寄り集まっている。小娘がシリウスを遠巻きにして黄色い声で囁き合っている。
アリアンの怒りに慄いたエージェントが諛うようにシリウスの記事を差し出した。
バウンティスコアで話題沸騰。新進気鋭の美形ヒーロー。女性を中心にタキシードやムーンシャドウの人気票を切り崩す、云々。
「解除に専念して七二秒」
呼吸を落ち着けアリアンは言った。目線は大人気なく学生達に凄む。
「後でちゃんと訊かせて」
底冷えのする声で告げるとシリウスは微笑んで姉の手を取った。アリアンは白く優しい弟の喉許を仰いだ。これほど背が高かっただろうか。
「ケープは格好悪いからだめだ」
インターセプタが体勢を立て直すのに合わせて、新たに二体が出現した。
アリアンの手を引いてシリウスが駆け出した。黒いマスクが目許を覆っていても立ち尽くす人波を踊るようにすり抜けて行く。
フレームの視界は眼に依存しない。ましてやシリウスの視覚は突出した感覚器官ではない。それはドライスケープでも変わらないはずだ。
シリウスは疾い。アリアンの歩幅は月の上を歩くように点々と跳ぶ。宙を舞うアリアンの身体を巧みに振って人や建物に触れることなく擦り抜けて行く。
インターセプタは巨体だが大股で速かった。しかも市民を気に掛けようともしない。後方で悲鳴が連なったかと思えば行く先を見越して転移する。
不意に目の前に現れた一体が二人に向かって腕を伸ばした。シリウスが無造作に手を払い上げるとインターセプタの腕は関節から折れ飛んだ。
傍を擦り抜ける間際、腹に指を突き通す。まるで粘土細工のように装甲を掴み寄せ片足を軸に身体を捻ってインターセプタを放り投げた。
白い巨体が宙に舞う。見上げる人々の頭がそれを追って、みな同じ方向に動いた。
落ちた影が通り過ぎるのを見送ると、その先には後続の二体がいた。宙でもがくインターセプタが、逃げ遅れた一体にめり込んで巴になって転がった。
「危ないことに慣れてるのね」
インターセプタを振り返ってアリアンが呟く。不安と嫉妬の混じった黒々とした感情が鎌首を擡げる。これ以上の言葉を抑え込もうとして目線を逸らした。
不意にシリウスが腰を抱いてアリアンを引き寄せた。胸が潰れて吐息が洩れる。
「掴まっていて」
地を蹴り、店先のスタンドを踏んで、シリウスはアリアンを抱いたまま小屋根に跳んだ。風音と鼓動に揺さぶられながらアリアンの身体は加速と浮遊を繰り返した。
シリウスに身を預けたままアリアンは脳内物質の抑制もできずに打ち震えた。足下が落ち着いたのは傾斜した屋根の上だ。
見渡せば取り取りの色彩が混然となって牧歌的な混沌を表している。棟は比較的低層だが屋根の形は様々だ。
アリアンの腰を抱えたままシリウスは片手で目許を覆うマスクを少しずらした。
「強くならなきゃいけなかった」
吐息の届く距離でシリウスは囁いた。
自分はどれほどこの肌を傷つけたか。いまさら己に慄いてアリアンは目を逸らしかけた。だがシリウスの強い目がそれを許さない。
覗き込んだ黄金色の瞳がふとアリアンの背中に逸れた。小さな溜息をひとつ洩らしてシリウスは再びマスクで目許を覆った。
突風が髪を攫う。インターセプタが跳び込んで来た。
「解除、終わった」
無粋な白いフレームを横目にアリアンは視界のパレットを確認して呟いた。
「少し待ってて」
言葉と同時にシリウスの姿が掻き消えた。予測のできない疾さと動きにアリアンの目はついていけない。
インターセプタの頭部が弾け飛んだ。振り向けば倒れ込む巨体の肩先にひと抱えほどの白い塊を掲げたシリウスが立っている。ビーチボールでも投げるようにシリウスはもぎ取ったインターセプタの頭部を放り投げた。
シリウスの投げた仲間の頭部を弾き落としてインターセプタは弾丸のように距離を詰めた。だがその一瞬にシリウスの姿を見失っている。
虚空に突っ込んだインターセプタは背後から膝裏を蹴り折られ空を仰いで背中から落ちた。そのままシリウスの踵に頸を踏み千切られる。
シリウスは転がった頭部を蹴り上げた。
メタフレームは箍の外れた精神構造やその歪みに合わせて成型されたデバイスだ。だがシリウスは違う。その超常的な力は身体そのものの箍が外れているせいだ。
ポテンシャルが人間の枠を超えているのだ。
ウエットスケープでは物理的な制約がシリウスを押し留めている。だがドライスケープにはそれがない。ここでは彼は日常的に人間以上の存在なのだ。
そうしたのはアリアンだった。
幾筋もの捕獲ワイヤが宙に躍って、屋根の上に突き立った。その内の一本は仲間の頭部も串刺しにしている。
引き抜かれた捕獲ワイヤの先端が土砂を撒くように屋根の破片を散らした。避けて下がったシリウスを追ってワイヤが触手のように蠢いた。
シリウスに目を奪われたアリアンの背後に新たなインターセプタが転移した。虚空から鋳造品のような鉄柵が降り落ちて屋根に突き刺さった。
アリアンに伸ばしたインターセプタの腕が串刺しになり、咄嗟に身を引いた者は腕を千切り取られた。アリアンの戦術アクセサリだ。
鉄柵越しに手を振るとインターセプタに鋳造の槍が降り注いだ。転がるように後退る先にワイヤを軸に弧を描いた巨体が激突した。
鉄の槍を打たれた巨体がワイヤを引いた巨体に絡まって宙に飛び出して行く。軒より遥か遠くに飛んで視界から消えた。
間を置いて地上から悲鳴が聞こえて来た。振り返るとシリウスが傍に立っている。
「僕もまだまだだね」
そう言って微笑んだ。
シリウスの身体に幾つもの標的マーカーがポップした。遠巻きに複数のインターセプタが出現する。シリウスは徐にアリアンの身体を抱き上げた。
「ここから出て、姉さん。でも僕が良いって言うまでチェンバーから出ちゃだめだ」
「シリウス、待って」
屋根の縁に立ちシリウスは両手を広げた。
「姉さん、向こうで逢おう」
腕が、髪が、白衣の裾が、空を背にしたシリウスを覆い隠した。浮遊感と風を切る音。緊急退避が起動する前にアリアンはチェンバーに転移した。
浮遊感の区別はないが体感記憶が尾を引いて落下する感覚はしばらく続いた。
チェンバーに表示された身体データをぼんやりと眺める。情事の後の気の抜けた空白に似ていた。意識は覚醒を急いていたがパレットを触るのが嫌だった。
シリウスの声や吐息や指の感触の記憶に溺れる一方、アリアンの意識は今の状況を検討している。
アリアンがレイチェルの監視下に置かれたのは決別の以降だろうか。ドライスケープのみが監視対象だったのか。
いずれも違う。解除にあれほどの時間を要するアンカーは物理回線に要因があるはずだ。既にウエットスケープの肉体が檻の中にあっても不思議ではない。
そもそも、家も設備もあの女の手配だ。自分なりに安全策は取っていたものの捕獲処置が早い理由は考えるまでもない。
向こうで逢おうと言ったシリウスはこのことを予測しているだろうか。
過ぎた時間は微々たるものだが焦燥は限界に達しつつあった。監視、干渉へのカウンター処置に時間を費やしたがそれも自分への言い訳だ。
待つこと意外の施策をすべて終えゲートオフをカウントする。アリアンはチェンバーから意識を引き抜いた。
伸し掛かる自重、浮遊感。自分の白い膝と素脚が目に入った。
折り曲げられた身体が宙にある。熱い身体に寄り掛かっている。仰け反ると間近にシリウスの喉があった。
抱きかかえられていた。ここは自分の寝室だ。
生身の身体は情報が多すぎた。容赦なく鷲掴みにされた肌に痺れるように熱い指先を意識した。細く柔らかなシリウスの四肢は鋼の芯を宿したかのようだ。美しい獣に攫われて、抉られ、裂かれ、喰らわれて果てる自分を想像して身体が震えた。
「どうしてここに」
咽が掠れた。低く荒れた声だ。思えば生身で声を出すことさえ久しい。老いて嗄れたようで涙が出た。
「少し前から近くにいたんだ。こうなるんじゃないかなって」
さり気に応えてシリウスは微笑んだ。動揺を通り越しアリアンはただ茫然とした。独り寝に身悶えた日も少なからずあったのに。いっそ声を上げて崖から身を投げたい。
凍りつく姉が抗わないのを良いことにシリウスはアリアンの身体を抱いて歩き出した。まるで重さを感じていないように軽々と運んで行く。
扉を潜ると隣の部屋には騒乱の痕があった。人かパペットの区別はつかないが見渡しただけで三人。床に、机に、窓枠に突っ伏している。
シリウスの身体能力なら二つの世界に境界はない。理論的には。
だがこちらの世界には物理的な閾値がある。シリウスの超常的な活動はイマジネータドライブより制限時間が短いはずだ。
「呼ぶまで駄目って言ったでしょ? 間に合ったから良かったけれど」
責めるようなアリアンの目に悪怯れる様子もなくシリウスは答えた。
「待って、降ろして」
シリウスが玄関に向かっていると気づいてアリアンは声を上げた。
「私、こんな格好」
「裸足じゃ危ないよ」
じたばたと足掻いてもシリウスの腕はびくともしない。
「大丈夫、僕しか見てない。他の誰にも見せない」
言葉を失くして微笑むシリウスを見上げた。頬が熱くなる。
「こんな子じゃなかったのに」
目線を逸らしてアリアンは負け惜しみのように呟いた。
「少しは強くなったかな」
シリウスが微笑む。
「本当は攻められる方が好きなはずだって師匠も言ってたし」
涼しい顔をして告げるシリウスにアリアンは耳の先まで朱に染まった。聴くに耐えない姉の悪態をシリウスは微風のように受け流した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます