第十話 ロビイ

 文月蒼士と冬堂翼が一緒にいた時間は実際のところ一年にも満たなかった。

 当時、翼はまだ五歳だ。元気な娘だが人との距離感が量れずコミュニティ作りがとても下手だった。

 少子化の例に洩れず翼の近くには同世代が少ない。幼年教育の集団カリキュラム以外は家に引き篭もりがちだった。

 神経接続で生活圏を拡げるのも身体的にまだもう少し先だ。父の冬堂夏海はあくまで現実社会で対人距離を習得する機会を模索していた。

 蒼士は夏海のグリッドに籍を置く学生だった。確か十七歳だ。優秀だが人と話が噛み合わず、彼も人付き合いが壊滅的だった。

 彼は夏海のグリッドのほか幾つかのラボに籍があったものの、いずれも実績と悪評は群を抜いていた。後者は重度のディスコミュニケーションが原因だった。

 隣人とのコミュニケーションに関して、二人はまったくの同類だったのだ。


 その頃、夏海はすでに幾つかのラボを束ねていた。

 彼の初期ブレインマッピングは二桁のパテントを獲得しており、出資者の不満は夏海が家族に時間を割き過ぎることだけだった。

 夏海は蒼士に学生として関心があり、人間として興味があった。何より居住地が物理的に近かった。

 夏海の見るところ翼と蒼士は同様の課題を抱えていたが状況は正反対だった。翼はコミュニケーションには積極的だが距離感や方向性、機微や加減がわからない。

 夏海が二人を引き合わせたのは、ローゼン博士が実娘と呼んだ疑似人格、アルテミスを育成するにあたり彼女を幼年学校に通わせた逸話に倣った。

 つまりは単なる思いつきだ。

 むしろ蒼士の容姿を見せて家族を驚かせようとしただけのことだった。

 現実世界にあって蒼士は並外れた美貌だったのだ。青味のある黒髪と瞳。輪郭は鋭く目許が強かった。そのでき過ぎた容姿のせいで彼のアバターは素顔だと知られていないほどだ。居住距離が近いからこそ夏海も初めて知り得た事実だった。

 案の定、玄関口で蒼士を見るなり翼は真っ赤になって部屋に逃げ込んだ。妻のエリンさえ壊れたパペットのようにぎこちなく挨拶をした。夏海の期待した反応だ。

 ただし後でエリンに夏海の性的嗜好について問い質された。少々驚かせ過ぎたかも知れない。

 最初は扉の隙間から次にテーブルを挟んで最後はソファの隣を陣取って翼は蒼士の友人になった。むしろ蒼士を独占してしまった。

 常識と協調性を残さず削り取り知性と容姿に全て割り振ったのが文月蒼士という青年だ。変わり者だが悪意も敵意もない。むしろ何もない。

 翼はすぐにそれを感じ取った。人として自分の方が先輩だとでも思ったのか。あるいは庇護者として蒼士を許容したのか。

 例え飯事遊びの延長線だったとしても二人の関係はあたかも最初からそうであったかのように形を成していった。

 ラボにおける文月蒼士は協調性と成果が反比例していた。課題はいつも誰の理解も及ばない代物になり果てた。高度であることは解る。だが説明されても解らない。

 そのうち、彼は説明さえしなくなった。

 彼の残した成果はすべてオーパーツだ。様々な要素や発見を経て初めてそれが画期的だと気づくことがほとんどだった。

 そのほとんどは既にない。大企業に根こそぎ買い取られてしまったからだ。

 蒼士のディスコミュニケーションは図抜けた知性に加えて致命的な対人スキルにあると夏海は考えていた。

 ハードとソフトの問題ではない。インターフェイスの欠落だ。自らの情動が希薄な上に適切な言葉の割り振りに感情の関連付けができていない。

 その点、翼には教師の資質があった。何を嬉しく思うか、何を悲しく思うか、自身が素直にはっきりと伝えること。翼にはそれができた。

 少し過剰すぎるのが空回りの要因で、同世代には受け入れられなかったが。

 教師として翼は感情的で短気だったが、生徒として蒼士は冷静で根気強かった。何より蒼士を鏡にして翼自身が対人距離を学んだ。決して永遠に続くはずはないがいつまでも続くと誤解するほどに二人は理想的な関係だった。

 蒼士が冬堂家を訪れる頻度は増えていった。

 冬堂家と一緒に出掛ける機会も格段に増えた。翼は彼が訪れる度、帰る時間を引き延ばし、次はいつ来るのかと約束をせがんだ。

 そのうち夏海がひとりで家に帰ると不機嫌を隠さなくなった。それをエリンに嘆くと残念ながら彼女は翼の肩を持った。

 大騒ぎするのは一方的に翼だが冬堂家は以前にも増して賑やかになった。


「誕生日、おめでとう」

 定形の文言だけを呟いて、これで良いのか何の意味があるのかと問う蒼士に、翼は思いの大切さをひと講釈垂れた。

 それでいて蒼士の抱えた箱に何度も目を遣り、とうとう痺れを切らして奪い取った。

「もう一度おめでとうって言って」

「おめでとう、翼」

「ありがとう、大好き」

 開封して現れたテディ・ベアに息を呑み、思い切り抱きしめた。モヘアの感触を何度も頬で確かめながら蒼士に笑って見せる。

「縫いぐるみなんて子供っぽい」

 しっかり抱きしめているくせに文句を言う。

「ママみたいな指輪でも良かったのにな」

「それは夏海に止められた」

 肩を竦めて蒼士は正直に答えた。

 情動や慣習に絡んで理解の及ばない事象にはそんな仕草を覚えていた。使用の幅が広く曖昧なマーカーだ。正確でないぶん汎用性が高い。

「パパはオトメゴコロをわかってないのよ」

 流れ弾の飛んだ夏海は慌てた。エリンは笑って知らん顔をしている。

「いや、まだ早いだろう」

「早くないわ。指輪って大好きの証拠でしょう? ママに訊いたもの」

「翼、この子の名前は何?」

 エリンの助け舟、いや保身に指摘されて翼は考え込んだ。

「玩具に名前を?」

 蒼士が訊ねる。夏海もエリンもこうした彼の質問にはもう慣れていた。

「翼にとっては玩具じゃない。この子は君だ」

「僕の代替品か?」

「違うよ。言わば君のアイコンで」

「決めた」

 翼が声を上げて飛び上がった。縫いぐるみを両手で抱き上げ蒼士に重ねて見せた。

「この子の名前はね、ロビイくん」


 リビングのソファに二人並んで座っているのが冬堂家の日常になっていた。それは夏海やエリンにとっても家族の風景だった。

 娘には構って貰えないものの聞くとはなしに夏海は二人の会話に耳を傾けている。

 他愛ない会話だ。ひとつひとつが断片的で忙しなくあちこちに話が飛んでいる。もっぱら翼が話しかけ蒼士はそれに応えている。

 コミュニケーションは成り立っていた。なのに会話が噛み合っていない。移り気で脈絡のない翼のせいか。単に夏海が二人の符丁を知らないせいだろうか。

 そんな会話を聴くうちに、時折、蒼士の言葉が時間軸を欠くことに気付いた。

 表現上の倒置ではなく因果関係に前後がない。言葉が点と全体で成り立ち無関係な会話がメタな因果関係で結ばれている。

 まるで昨日観た映画をもう一度始めから観ながら話をしている。蒼士の思考過程は異質だ。夏海はようやくそれに気付いたのだ。

 蒼士の対外的な会話はいわば彼の中のコンパイラが人のために翻訳した結果だ。翼とのコミュニケーションは彼の翻訳精度を高めているに過ぎない。そんな気さえした。

 翼の言葉が多いせいで夏海は主従を取り違えていたのだ。翼の方が距離を縮めようとしている。言葉の壁を取り払い翼は蒼士の思考に合わせようとしていた。

 文月蒼士はありきたりのシェアチャイルドだ。記録ではそうなっている。多くがそうであるように遺伝情報は非公開だがそれは特異な要素がないことの証だった。

 育成投資を得て幼い頃に自立していたが環境におかしな点はない。何が今の彼を作ったのか全くもってわからない。

 生物の気まぐれか、あるいは皆が噂するように地球に迷い込んだ異星人なのか。いずれにせよ彼はコミュニケーション不全を拗らせただけの青年ではなかった。

 せめて翼が十代であれば。思考の共通フォーマットが確立していれば。いま翼にイレギュラーを擦り込むのは危険だ。今後のコミュニケーションに著しい齟齬を生む。

 夏海はエリンに打ち明けた。二人で幾度となく話し合った。最初エリンは杞憂だと言ったが二人の会話を意識して聴くうち夏海と同じ不安を共有した。

 それでも二人の間に距離を置くという夏海の案には最後まで反対だった。

 だが蒼士の状況が夏海を後押しした。


 当時、蒼士はネットに別の名を持っていた。プロフィールを捨てることで人間性も容姿も関係なく枠と倫理に縛られない研究環境を手に入れることができたからだ。

 彼の字名はじきにネットを席巻した。蒼士に目をつけ数多の依頼を排除した巨大企業が彼が路傍に放り出した幾つかのツールと一緒に彼を独占していた。

 そのプロジェクトが進むに連れ蒼士は拘束されることが多くなった。

 その機を見て夏海は蒼士に告げた。

 何もかもを正直に打ち明け翼と少し距離を置いて欲しいと頼んだ。

 このままでは翼は同世代の子供たちとコミュニティを築くことができなくなる。そう聞いて蒼士は静かに頷いた。

 蒼士は自身の影響を知っていた。その良し悪しの判断ができなかっただけなのだ。

 人は互いを変える。それは人としての前提だ。だがその資格が自分にあのるか。それは彼女にとって善きことか。世界との関わりを失くしても翼は翼だと言えるだろうか。

 彼もまた出口を探していたのだ。

「翼には十分教えて貰った。僕はもっと人を知った方が良いのだろうね」

「強がりじゃないだろうな?」

 夏海が辛うじて明るく言うと蒼士は微笑んで見せた。この感情も表情も翼から知ったのだと彼は言った。

「ほら。僕はいま人並みに上手く笑えていると思わないか?」

 一方で翼の説得はうまくいかなかった。予想はしていたが大荒れだった。怒る、泣く、拗ねるを繰り返し何日も塞ぎ込んだ。

 縫いぐるみのロビイを抱いたまま、寝室から出ない日もあった。翼が悪い訳ではない。誰にとっても理不尽な話でしかない。

 納得も理解もできるはずがなかった。夏海自身がそうだったのだから。

 翼の関心を外に向けようと夏海とエリンは彼女に様々なものを見せ、聴かせ、体験させた。その多くは必然的にドライスケープと呼ばれ始めたもうひとつの世界にあった。

 やがて翼は神経接続端子の移植を急くようになった。ブレインマップと生体チップの安定性を考えると移植はもう少し先の予定だったがこれは夏海の研究分野だ。

 専門家本人の診断があれば話は別だった。いずれ神経接続は必要になる。社会はすでにドライスケープが生活の中心になりつつあった。

 そこでは物理的な距離だけでなく人との距離も縮めることができる。何より翼自身が関心を示したことだ。夏海はそう考えた。

 夏海の研究は専用機材が必要な段階にあり物理ラボに通うことが多かった。エリンも研究室のフィールドワークが始まれば地球規模で遠出をすることになるはずだった。

 翼と一緒にいる時間は今よりずっと少なくなる。ドライスケープはその解決策のひとつだ。移植期日を待つ選択肢はなかった。


 だが翼は考えたのだ。

 忙しくて会えない人に会う方法は何か。

 一緒に様々な体験ができる世界はどこか。

 翼が神経接続を急いだ理由は、ただそれだけだったのだ。


 二一四七年十一月五日、極東のプレート境界を震源地とする巨大地震に起因し世界規模のネットワーク障害が発生した。

 神経接続による意識障害約七〇〇〇名。内、三〇〇〇名が何らかの後遺症を発症し永続的な意識喪失は三八二名に登った。

 俗に帰還障害と呼ばれるその中にドライスケープを覗き見た翼も含まれていた。

 繋がった世界は災いも連鎖した。世界中が混乱する中、夏海は娘と同時に幾百という接続神経障害患者の対応に押し潰された。

 帰還障害はいわば思考ソフトの喪失だ。神経接続の過負荷はあっても脳そのものに損傷はない。プログラムの復元が可能ならば意識を再構成できるに違いない。

 夏海が完成させた汎用ブレインマッピングはその想いに縋った成果だともいえる。

 だがバックアップのないソフトは中断された作業を回復できない。

 それは夏海にもわかっていた。

 震災以来連絡の取れない蒼士の元を訪ねたのは夏海に託されたエリンだった。彼なら帰還障害に何らかの糸口を見つけることができるかも知れない。そう思ったからだ。

 だが奇跡を頼る思いでエリンが辿り着いたのは焼け焦げて倒壊した廃屋だった。

 立ち尽くすエリンの頬を風が撫でた。

 ふと目線を向けた先に揺れるものがある。半ば炭化した木枠の端に何かを裂いて作った布切れが結んであった。

 誰に宛てたものか文字が書き殴られていた。


「僕が迎えに行く。扉を開けておいて」

 世界が鎮魂のクリスマスを過ごし、年が明けると、アマルガムが次世代神経接続VRをリリースした。オムニスケープの公開は災害からわずか三ヶ月後のことだった。


 その日、寝室の窓を開けるとカーテンが大きく風を孕んだ。エリンが翼の髪を梳かし夏海が機器の接続をチェックする。今ではそれが日課になっていた。

 もうじきここを引き払い新設した診療所に移る予定だ。夏海の実績に数多の申し出はあったが、唯一ベル・クレール財団だけが帰還障害者の専用施設を創設を提示した。

 代理人は飄々とした男で、どことなく雰囲気が蒼士に似ていた。

 ひと通り機材の数値を見て回り、夏海はベッドの端に腰掛けて翼の頬を掌で包んだ。今日は少し温かい。そんな気がした。

 指の先、翼の左耳の後ろにある生体コネクタには医療ケーブルが繋がれている。医療ボットとブレインモニタ、そしてオムニスケープがその向こう側にある。

 幾多の批判を浴びながらもオムニスケープはその偉業を確かなものにしつつある。イマジネータドライブはすでに既存の技術を書き換え二つの世界に革新を迫っている。

 従来のネット環境をすべて取り込んでドライスケープは急速に成長していた。

「パパ、お髭、ざらざらだね」

 まるで何気ない朝のように翼は目覚めて夏海に言った。夏海の頬に小さな手を遣って無精髭を撫でた。

 二人がなぜそんなに驚いているのか、どうしてそんなにきつく抱きしめるのか、翼はよくわからなかった。枕元にロビイを見つけると翼は急いで抱き寄せ、顔を埋めた。

「ロビイくんがね、こっちだよって。早く帰らないとごはんに間に合わないよ、って」

 翼は夏海とエリンを見て笑った。

「おなか、すいちゃった」


 翼は帰って来た。まるで悪魔との取り引きのように、いちばん大切なものを引き換えにして。翼には文月蒼士の記憶がなかった。まるでそれだけを切り欠いたように蒼士に関連する事柄だけが消え失せ帳尻を合わせて置き換えられていた。

 失くしたことさえ気づかない。それが唯一の救いだろうか。

 ロビイと名づけた縫いぐるみだけが、ぽつんと彼女の記憶に取り残されていた。

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