第九話 フェッセンデンの宇宙

 街灯さえ疎らな田舎道を延々と走り抜けレイチェル・ローゼンを乗せたカートが辿り着いたのは、何もない平原の一軒家だった。

 午後の陽は疾うに山稜の向こうに落ち館の灯だけが闇の中に滲んでいた。マップによれば周辺の真っ暗な空隙は一面の向日葵畑だという。

 鑑賞用ではない。土壌浄化を目的とした再生花だ。最悪ここは発電施設の跡地だろう。利便性以前にまだ人の生活する場所ではない。

 カートを降りるとレイチェルは無意識に髪を払って館を見上げた。ヒールの下の安定感にログアウトに似た安堵を覚える。

 酷使されたカートと同様、身体は休養を求めていた。勿論ここに長居をするつもりはない。たった一行の英数字を手に入れることだけが来訪の目的なのだ。

 レイチェル・ローゼンは二〇代でアマルガム社の開発管理官の一人に選抜された。競合開発を進めるオムニスケープ三.〇の開発主任だ。

 対敵する幹部には広報担当と揶揄されていた。容姿を逆手に取った嫌味だ。地位に纏わる湿った噂も日常的に飛び交っていた。

 だが先の内覧を経てレイチェルの評価は一変した。革命的な逆転劇だった。

 今ゴールに最も近いのは自分だ。レイチェルには確信があった。間もなくアマルガムコンプレックスにおける歴史的な勝者になるはずだ。

 称賛と同じだけの憎悪も得た。過剰な妨害行為もあるだろう。生死に関わることさえ、もはや絵空事ではないのも事実だ。それほど巨大な利権が掛かっている。

 レイチェルは極秘裏に勝利を確定させる必要があった。現実の距離と時間をこれほど費やしてまでここに訪れたのはそのためだ。

 レイチェルの見出した彼が全てを握っている。

 到着を告げると、ノッカーを探すまでもなくレイチェルの目の前で扉の錠が外れた。鼓動より大きな音に思わず身を竦めた自分に苛立った。

 今回の件は彼に拒否権を与えなかった。来訪もその目的も彼は認知しているはずだ。

 覗き込んだ館の照度は思いのほか照度の低い薄暗がりだった。点々と浮かぶ灯りが却って外より闇を想起させる。

 それは大小さまざまな硝子のパネルだ。いくつもの方形が距離感を欠いた薄暗がりの中に朧げな光を放っている。

 パネルはパーティションのように無意識に順路を仕切っていた。まるで夜の水族館のようだ。コードを映すものもあれば街角の定点カメラのような映像もある。

「こんな所までようこそ」

 四方をパネルで囲まれた部屋に客に用意されたものと思しき一脚の椅子とテーブルがあった。他には何もない。どうやら謁見の間に辿り着いたらしい。レイチェルは躊躇いもなく椅子に腰掛け、脚を組んだ。

 正面のパネルが硝子に返った。

 水槽を覗き込むような透明な板の向こうに青年が佇んでいる。

 硝子越しの薄明かりに浮かぶ姿は創作と見紛うほどの非現実性があった。情動の読めない相貌は有り得ないほどに整っている。

 彼がヴォイドだ。経歴上、彼女より十歳ほど若い。その才能と同様に呆れるほど現実味が欠落していた。印象は対面してなお変わらなかった。

「要件は先に話した通りです」

 レイチェルは口調に逡巡した。彼を前に心理的な隔たりを越えられずにいた。むしろ物理的な距離に反比例していた。現実のヴォイドを前に平静を装うのは難しかった。

「管理権限と仕様でしたっけ」

 気負うことなく彼は応えた。好意も悪意も何もなかった。

 レイチェルの目的はその入手だ。場合によっては彼の権限を奪うことも辞さないつもりだ。他のセクションはすでに見切りで実装を進めている。もう後戻りはできない。

「権限はそこに」

 呆気ない対応に却って戸惑った。彼の指差したテーブルの上にはいつの間にか湯気の立つティーカップとその端に敷かれた一枚の紙切れが載っていた。

 紙に書き殴られているのは長い英数字の羅列だ。

「仕様書は……ありません」

 紙切れを間近に目を顰めていたレイチェルは顔を上げてヴォイドを見た。

「馬鹿なことを言わないで」

「必要なかったので」

 レイチェルに向かって彼は指先で自分の頤をつついて見せた。あり得ない。だが一方で得心の行く自分もいた。彼なら有り得ると思ってしまう。

 実際、ヴォイドの先手を打って発注先を辿ったが存在していたのは部品と思しきコードだけだった。まるで意味をなさない。どう組み合わせても全体像が見えない部品だ。

 無意識に喉の具合を確かめた。声が上擦らないように。

「本当にないのなら私の所に来て。あの世界を一緒に創って」

 まるで歳下の情夫に乞う女だ。屈辱に首筋が疼いた。感情のない目線が耐え難い。頬が焼かれて爛れるような気さえする。

「あれが動けば人が面倒を見る必要はない。権限者の器も用意してある。問題はあれが貴方の要件を満たしているかどうかです」

 レイチェルの要請には直接応えず彼は自分に問うように呟いた。創造主にしか見えない不満、それとも瑕疵だろうか。

「何をいまさら」

 システムはすでに完成している。だから引き渡しを求めた。彼は産み落とすだけだが彼女はそれを育てねばならない。例え今が完全でなくとも完全になれさえすればよい。

 だからこそ全てを知る者が必要なのだ。

「人が人として生き、そして人以上である世界」

 彼は吐息のように囁いた。

 それはプロジェクトの最初に掲げられた、どこにでもある歯触りのよいコピーだ。いまさら誰も憶えてはいない。そんなものは建前に過ぎない。

 彼一人だけがそれを馬鹿正直に追及している。

「まだ解っていない。彼女だけでは足りない」

 初めて彼が歳相応に見えた。ヴォイドは吊り下げられた硝子の向こうを歩いて巡っていた。指先でパネルを辿りながら独り言のように懊悩を呟く。

 レイチェルはただ魅入られたように彼を目で追った。息を詰めたせいか意識が微かに輪郭を失って行く。疲労のせいもあるのだろうか。夢の中にいるようだ。

 人の記述は微細な要素の掛け合わせと組み合わせで事足りる。

 彼は硝子の向こうで呟いた。

 相互に容易く変容する永遠の不完全性。記述は簡単だ。なのに納得できない。

「あなたは、どうですか?」

 ふと真っ直ぐに向けられた目は硝子に映った自身が問うているようだった。

 レイチェルの右手のパネルに定点画像が映った。昼間の公園の一角だ。疎らな人通りと露店を見渡している。

 その世界の向こう、硝子のパネル越しに彼の姿が透けて見えた。

「ここは」

 見覚えがあった。自分もつい先程までそこにいた。実動するオムニスケープ二.三の中央都市だ。カートの中からアクセスしていた場所だ。

「スノーボール。人と世界のシミュレーションです」

 定点カメラの視点の片隅に小一時間ほど前の時刻が表示されていた。四二秒のタイムラインが刻まれるたび同じ動作を繰り返している。

 彼の指先で世界が分岐した。

「世界が変わったら人はどう変わるか」

 砂漠化した世界、凍りついた世界、捕食者の現れた世界。それは現実味を欠いた現実だった。神の目で時間が流れて行く。

 世界のひとつが灰色に煙った。溢れ出した水が平地を奪った。水棲形態にフレームを改造した者、人の姿を保ったまま環境を改造した者が、互いにリソースを巡って争っていた。身悶えする単細胞生物のように、人と世界は分化と統合を繰り返した。

「人が変わったら世界はどう変わるか」

 水の世界で覇権を得た一群が彼女の公園に移された。彼らは環境の改変を試みて辺りを泥に埋めていく。また争いが起こった。世界を壊しながら形態の異なる者が争った。

 無意識に覗き込んだ目線に合わせて、スケールが人の目に移る。泥を跳ね散らす触手を持ったフレーム。馬乗りになって何度も何度もナイフを突き立てる人の形をしたフレーム。二人は共にレイチェルの顔をしていた。

 悲鳴を上げてレイチェルは画面を突き飛ばした。留め具の撥ね飛ぶ音がして硝子のパネルが床に落ちた。全体が撓んで真っ白になり雪のように砕け散った。

 それが一瞬だったのか、延々と時が過ぎたのか、レイチェルには記憶がない。

 辺りは枠の崩壊に連鎖して閃光が散っていた。機材のそこかしこが乾いた雨垂れの音を立てていた。反動で後ろに転んだレイチェルは座り込んだまま頭を庇って蹲っていた。

 砂利を流し落とすような音が止み小さな破片が断続的に撥ね飛ぶだけになった。無数の小さな警告音に混じって、何かが擦れて軋るような音を立てた。

 辺りには焼け焦げた金属の匂いが漂っている。

「まいったな。貴方のコードを感知して会社が何か仕掛けたみたいだ」

 降り注ぐ破片から庇うようにヴォイドはレイチェルの前に佇んでいた。

「あそこで何が見えました?」

 こんな状況にも関わらず彼は静かにレイチェルにそう訊いた。

 あれは幻覚か。自分は何を見た。あるいは何を見せられたのだろう。

 見上げる整った貌の片側に眼を縫う三筋の傷がついていた。硝子の破片が抉ったのだろう。まるで爪痕のようだった。

 不意に血が湧き出した。薄明かりの中の黒い血は、見る間に顔の半分を染めた。まるで闇が溢れ出したかのようだ。血は雨垂れのような音を立て床に滴った。

 呼吸と悲鳴を喉に詰めレイチェルは這い擦るように後退った。彷徨わせた目線の先、硝子の散った床の上に権限コードの紙切れがあった。

 咄嗟に掴み取って逃げ出した。何度も滑って手をつきながらパネルに囲まれた薄暗がりを死に物狂いで駆け抜けた。

 振り返らなかった。混乱していた。悲鳴を上げていたかも知れない。

 カートに滑り込みドアを閉じる間さえもどかしくコンソールを叩いた。急発進させカートの特定認識を阻害する。彼の言う通り誰かが彼女を補足しようとしていた。

 専用車が身の安全性を担保する間レイチェルはシートに蹲って震えていた。かちかちと鳴る歯に苛立って口に指を押し込んだ。

 命を狙われたことよりも脳裏に刻まれたあの映像が拭えなかった。あれは彼の意図したものだったのか、それとも幻覚だったのか。

 どれくらい経ったか。気付いて社用回線を立ち上げた。幾度も安全を確かめて手の中でくしゃくしゃに潰れた紙片を広げた。

 コクピットに照らされて初めて自分の手が傷だらけだと気づいた。視線でコードを読み取り、入力する。拍子抜けするほど簡単に管理権限はレイチェルに移行した。

 他の幹部はもう、これから生まれる彼女の世界に手出しできない。

 ヴォイドにさえも。

 レイチェルは流れ込むリストをぼんやりと目で追った。

 ヴォイドの構築したマン=マシンコンパイラ。第三世代ワールドフレーム、オムニスケープ三.〇の基幹エンジンだ。

 そして世界から切り取った四二秒もそこにあった。彼のスノーボールだ。

 あれはどこまでが幻だったのだろう。

 数日を経ず館のあった地域は巨大な災害に見舞われた。情報災禍の元凶となった震災だ。見る者のいない向日葵畑に建つ館は焼け崩れた黒い瓦礫と化した。

 神がその名を譲るのを拒んだのだ。

 ヴォイドの生死は不明だった。彼の存在した証拠さえもがどこにも残っていなかった。

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