第八話 オムニバースα
ブルワークはビジネスコンプレックスを擁した古参のワールドフレームだった。ただし区画の固定された現実志向の構造は流石に今の時流から外れていた。
歴史の分だけブランドはあっても形骸化したアドレスが多く流動は少ない。中規模のサーバだが正直その容量を持て余していた。
一時はフレームごと身売りする噂もあったらしいが結論は不明だ。スポンサーがつくのならまだ再構築の目はあるかも知れないが。
景観を縦に伸ばす癖は当時としてはまだ無意識的なものだった。通りから見渡す施設群はどれもこれも同じに見える。ウエットスケープの古い街そっくりだ。
ビルの中は小割の商取引区画やディープドライブ対応のフリースペースがほとんどだ。しかも箱だけが積み重ねられている。林立するあのビルの中に幾つものフロアが収まっているのだ。
ドライスケープの「古参」はたいていデザイン的に老朽化している。デザイン刷新の身軽さはシステムの自由度にに直結するからだ。
ブルワークもその部類だ。要は型に嵌って身動きが取れない。一度すべてを壊す勇気と予算が必要な世界だった。
自走路の流れに乗ってボクはブルワークの中央エリアを横切った。
ここのフォーマルな移動方法はたぶんマップから直接ビルのステップディスクに転移することだ。目当てのアドレスがはっきりしていれば有効な手段だが今のボクには当てがない。エマノンはそこまで指定しなかった。
転移以外の交通手段といってもここにあるのは都市景観の付属物ばかり。観光地でもないブルワークはなおさら通りに人けのない街だ。
そのはずだった。
「寂れたところだって聞いてたんだけどな」
ボクはロビイくんに囁いた。思いのほか辺りが人で溢れている。何よりボクの乗る自走路は後ろに沢山の人影が固まっている。
「何の団体だろう」
〈そうだな。みな服の下にタイツを着た人々だ〉
ロビイくんの声はボクに対して心持ち呆れているように聞こえる。
「冷え性の全国大会かな」
そう言って笑っている途中でようやくロビイくんの言う意味に気がついた。血の気が引いた。首を竦めるようにしてぎこちなく周囲を見回した。
「ウソでしょ?」
〈年鑑の外見と差のない者も多いな〉
ロビイくんは一拍ほど間を置いて言った。
〈君のようにね〉
変な汗が出た。演出過剰の街なら顔が緑色になっているところだ。
「気づかれてるかな」
〈当たり前だ。みな君を監視している〉
思わず自走路を降りて逃げ出した。ロビイくんが何か言ったけど聞き損ねた。蹴躓いて転びそうになるのを小走りで誤魔化し、ボクは辺りを伺いながら足早に歩き出した。
四角い建屋が同じ顔で居並んでいる。ここがどこかもわからない。もちろん当てがあって降りた訳でもない。無意識の行動だ。ただただ、いた堪れなかった。
ふと背中を振り返る。ボクを追って自走路を降りようとした人々が通路に詰まって塊になっていた。
「何、何で」
ボクの歩調が急ぎ足から小走りになった。誰も目を合わせない癖に同じ歩調で追って来る。その数を見てとうとうボクは駆け出した。
「何でよう」
悲鳴を上げる。
〈みな君とファントムの因縁を当てにしている。本当に気付いていなかったのか?〉
ロビイくんの口調はいつも一様だが呆れ果てた気配は十分に感じ取れた。ボクはもはや形振り構わず路地を走った。次は左にその次は右に、目的もなく角を曲がる。
結果、追って来た群れに合流しかけてたたらを踏んだ。
踵を返してまた走り出す。
〈ツバサ、君は餌だ〉
「齧ったって美味しくない」
〈それは同意するが仕掛けたのはバウンティスコアだ〉
「同意しないで。もっと気を遣って」
聞き流しそうになった言葉を問い詰めようとしたとき数ブロック先まで見通せる大通りに飛び出した。両手を振ってつんのめるように立ち止まる。
〈訂正しよう。君は魅力的な餌だ。マニアックな相手に好かれる性質がある〉
何時になく口数の多いロビイくんの声を聞き流し、ボクは視線の先に佇む影のようなフレームを睨んだ。
隻眼の白い仮面。鋼と革を鋲で繋いで貼り合わせたような黒装束。踵に届く上衣の裾が微かに揺れている。
「本当に出たじゃないか」
掠れた声で呟いてドライブモードの選択をポップさせる。操作表示に視線を移した瞬間、銀色の突風が身体のすぐ傍を突き抜けた。風に突き飛ばされて身体がのめる。掻き乱された前髪の隙間からファントムを貫く軌跡が見えた。
「私の正義を行使する」
決めの台詞が遅れて届いた。ファントムの向こうに人がいる。燃えるような赤毛の女の人だ。黒と白とが斜めに切り分けられたボディスーツを身に纏っている。
スペリオーラだ。タグを見なくてもわかる。世界有数のバトルハッカーでバウンティスコアのトップランカーだ。
彼女は怪力と耐久性に優れ反応速度も段違いに速い。自身の正義を信条にする強靭な意志と飛行能力がある。おまけに容姿もスタイルも完璧だ。
艶のある黒のドレスグローブとサイハイブーツ、四肢の付根まで切り込んだボディスーツを難なく着こなしている。
さすがにあれを何の羞らいもなく着るなんてボクには無理だ。空を飛べることを除けば、(たぶん)容姿も能力もいいところまで行っていると思うのだけど。
「おっと、何も言わないで」
ボクは心の声に口を挿もうとするロビイくんを制した。
スペリオーラの閃光のような打撃がファントムの身体を擦り抜けた。まるで境界設定のない映像を打つようだ。上衣の裾さえ揺らがない。
ファントムが初めて反応したのは背後から頸を突き抜けたスペリオーラの蹴り足だった。それもただ視界に入っただけのことだ。そんな気がした。
ファントムはブーツの先を無造作に掴んで彼女を身体ごと引き抜いた。余った糸屑のように投げ捨てる。スペリオーラはその反動を利用して壁を蹴った。
ファントムの懐に飛び込もうとした寸前、スペリオーラは身体を逸らして頭を庇った。明後日の方向から飛来したダガーがファントムに吸い込まれた。
矢継ぎ早に一、二、三、四本。三つが擦り抜け、四つ目がファントムの掲げた腕に突き刺さった。その腕の後ろにスペリオーラの赤い髪があったのは多分偶然だ。
ボクの眼の前、何もない場所が突然揺らいで収縮し、漆黒の塊になった。黒いケープを解いて現れたのは鋼のような身体に暗い灰色の迷彩を纏った男の人だ。
ナイトシーカー。彼も有名なバトルハッカーだ。スペリオーラとトップを争っているが信条は正反対。正直、仲はまるでよろしくない。
ナイトシーカーの両手には鉄の角材を荒く組み合わせたような銃があった。あれならたぶん殴られても痛い。
刃の突き立ったファントムの腕に向けナイトシーカーの二つの銃口が鉄柵を叩いて走るような音を閃かせた。
〈ツバサ、フレームを〉
ロビイくんに急かされボクは点滅する選択表示に視線を走らせた。ナイトシーカーがケープを被った。何事かと思う間もなく視界が白く破裂した。
服が千々に裂け爆風に舞い散った。布片の中、真紅のマフラーが真後ろに棚引く。壁に殴られたような衝撃にくらくらしながらボクは爆風でずれたマスクを手早く直した。
顔を上げて目を眇めた。床も壁もファントムがいたはずの場所は大きく抉れていた。
「そこの貴方、大丈夫?」
スペリオーラが空から舞い降りて問い掛けた。ボクの黒いベストとスカート、鋼の靴とガントレットを順に眺めて、はたと手を打つ。
「ハンマーガールだな?」
「ロビイくん、聞いた?」
ボクの声はたぶん上擦っていた。
〈君の渾名はニュースに出ていたからな〉
憧れの人に掛けられた声を何の感慨もなく受け流してロビイくんはボクの視線を破砕痕の手前に促した。
ナイトシーカーの黒いケープが佇んでいた。ボクの目線に気づいて、スペリオーラが振り返った。完璧な形の眉がぴくりと跳ねる。
「やり過ぎだナイトシーカー。子供を巻き込むな」
子供はどうかなと言いたいのを堪えたせいでボクは微妙な表情をした。
ナイトシーカーのケープが落ちて床に黒い三日月の山を作った。佇んでいたのは白い仮面のフレームだった。
ファントムの身体には傷も破損も見当たらない。本物のナイトシーカーはその影の向こうにいた。肩を押さえて蹲っている。
ボクはハンマーを振り抜きながらファントムの前に飛び出した。ほとんど無意識だった。長い柄を振る反動で身体を回しそのままの動作でファントムに向かって鎚を薙いだ。
突き抜けるかと思いきやファントムが槌を受け止めた。
黒い洞穴のような隻眼がボクを見つめる。
「ハンマーガール」
エナメルの艶のある腕がボクの腰を掻き抱くや身体が宙に引き上げられた。スペリオーラの暴力的なクッションがボクの背中に押しつけられている。
ボクらを見上げるファントムに巨大な岩塊が突っ込んだ。ファントムごと側面の壁に大穴を開けて減り込み十層のビルを傾ぐほど揺らした。
「ロックグリムだ」
スペリオーラが囁いた。攻撃はそれだけで済まなかった。幾筋もの光線が閃いて破裂と粉塵を巻き上げる。一拍を置いて空にも轟音が届き始めた。無数のバトルハッカーがファントムを目掛けて殺到して行く。まるでマイルスパークの再現だ。
膨れ上がった塵埃を破って巨大化したロックグリムが半身を起こした。ファントムよりも大きく膨れ上がった掌を虫を潰すかのように足許に叩きつける。
「うわあ。あれは痛いかも」
ボクは思わず声を上げた。
ロックグリムは瓦礫を自分の身体に加えて大きくなる。先日謎の巨大ロボットに倒されたカイジュウと同じ仕組みだ。というよりスナッチャーの機能ハックが横行した結果ロックグリムの能力をコピーして生まれたのがカイジュウだと言う噂だ。
巨大な掌の下にファントムが消え辺りが静まり返った。ロックグリムは覗き込むようにそろりと掌を持ち上げた。いや、地面から持ち上げられていた。
巨人の手首がぐるりと捩じれ肘がその後を追って回る。悲鳴とも咆哮ともつかない叫びと共にロックグリムの腕がつけ根から折れ飛んだ。
大型バスほどもある塊が宙を飛び賞金稼ぎたちの頭上に落ちた。
粉塵に見え隠れする景色の中にファントムが佇んでいた。黒い長衣の裾を揺らして巨大な半身を支える片腕に歩み寄る。
ボクの位置からは見えなかったが想像は容易だった。間を置かずロックグリムは盛大に瓦礫を巻き上げて突っ伏した。
粉塵に垣間見える黒い影は巨人の首筋に立って後頭部に腕を突き入れた。
「何故、奴は実体化した」
髪の上から聞こえるスペリオーラの呟きにボクは答えた。
「街の構造物ならファントムに当たるんだ。ボクもそうだったもの」
恐らくナイトシーカーが最後に投げたナイフもブルワークの、この街の構造材に由来するもので作られているのだろう。スペリオーラが感心したように頷いた。
密着した感覚に焦るけれど、ボクの髪もスペリオーラの頬を擽っているはずだ。無暗に頭を動かしたりして落とされないようにしなければ。
「そういうことか」
スペリオーラが苦々し気に唸った。
「カリオストロの姿が見えた。奴がロックグリムを嗾けたのかも知れん」
カリオストロの外見はボクの知る限りフード付きのケープを纏った鎧の男の人だ。一見武闘派に見えて実のところ多彩な手管を使って暗躍するタイプだった。
バトルハッカーも様々で賞金稼ぎはその一部に過ぎない。生業でもない限り個々の信条と承認欲求が彼らの原動力だ。
スペリオーラとナイトシーカーのように考え方の異なる者もいるし一般的な善悪の規範を持たない者もいる。もちろん度を越せば凶悪な犯罪者だ。
そうした者はクラッカーやネオギャングスタと呼ばれて自身が賞金首になることも珍しくない。カリオストロも時にその境界を越えることがあった。
ロックグリムの後頭部を割ってファントムは痩せた少年を引き摺り出した。恐らくロックグリムの中の人だ。巨人が形を失って崩れ瓦礫に帰って転がった。
地上に再び喧騒が戻った。
スペリオーラに抱えられたボクは三、四〇メートルほどの高さに浮かんでいた。ビルの四角い屋上越しに再開した地上の混戦を見下ろしている。
先にも増して閃光や炎やよくわからないものが飛び交っていた。ファントムの周囲は再び爆炎に揺れていた。街ごと壊れそうな勢いだ。
オリーブドラブの大きな人型が周囲の人などお構いなしにファントムに向かって執拗に砲撃を続けている。インターセプタに似たシルエットだがさらに武骨で凶悪だ。
ボクも何度か見たことのある有名な賞金稼ぎだ。
「フォートレスだな。他に沢山もいるようだが」
辺りには無数のバトルハッカーがいる。地上だけでなく壁にも空にも奇抜なフレームが群れをなしてファントムを包囲している。ボクは既視感に身震いした。
〈まるでアルビオンだな〉
ロビイくんが代弁した。ファントム周辺の建物が見る間に巨大な爪に抉り取られて行く。路も壁も引き裂かれついには四方のビルが礫片の噴煙を上げて傾いだ。
ビルはゆっくりと頭を突き合わせるように抱き合って瓦礫の雨を降らせる廃屋のアーチと化した。
手近な屋上にボクを降ろそうとしていたスペリオーラは迷う内に行き場を失くした。彼女には珍しいことだと思う。いつもはサッと飛んで来てサッと去って行くイメージだ。たぶん何か考え込んでいたからだろう。
「自業自得と言ってもおれまい。あの馬鹿騒ぎをやめさせねば」
彼女の呟きにボクは訊ねた。
「ファントムは?」
「あれの実害とは何か。それを考える必要がある」
自分が口火を切ったことを忘れたのかスペリオーラはボクを抱えたままそう宣言した。
〈彼女に賛成だ〉
ロビイくんの声の調子に口が尖る。
「綺麗な女の人の言う事は聴くよね、ロビイくん」
〈まるで君の言うことは聞かないような口振りだな〉
「今度こそお父さんに言って消してもらうからな。覚悟しろ」
「ボーイフレンド?」
スペリオーラが笑いを堪えるような声で訊ねた。ボクのは傍目にも大きな独り言だ。ましてや抱えられて密着している。ボクは真っ赤になって返答に喉を詰まらせた。
「違う。違います。友達というか、ボクの相棒で」
〈君自身かも知れない〉
戦場から少し距離を取り、スペリオーラは倒壊寸前のビル群の外れに降り立った。ボクの腰から手を解いて戦乱の中心を振り返る。
断続的な破裂音と地響きはここからでも耳を聾していた。
「ファントムに試したいことが」
ボクは思い切って言った。スペリオーラは振り返り、じっとボクの目を見て頷いた。何故だろう彼女には答えがわかったようだ。
「恐らく君でなければ駄目なのだろう。君とファントムのどちらが求めているのかは、わからないが」
ボクは真っ直ぐな目に焦って肩を竦めた。
「相棒が言うには変な人に好かれるって」
気を取り直し短く息を継いでスペリオーラに宣言する。
「ボクは自分の正義を行使します」
自身の台詞に虚を突かれスペリオーラはにやりと笑った。
「では、できる限り皆を隔離しよう」
すごい。これって世界最強のヒーローとタッグを組んでる?
手を振って踵を返す彼女を思わず呼び止めてしまった。
「あの動画、アップしても良いですか?」
何かを投げるような仕草でスペリオーラが指先を振った。ボクの視界にアドレスが表示される。宛名はアルテミス。どうやら彼女のプライベートメッセージらしい。
「検閲するから連絡して」
そう言ってスペリオーラは微笑んだ。遠くの騒乱を振り向きざま弾丸のように飛んで行く。ファントムの周辺に新たな音が加わった。
「見た?」
ボクは震えてロビイくんに囁いた。
「なんて、カッコいい」
〈言っておくが無暗にアドレスを投げて回るのは止せ〉
「さすが、私」
「予想の範囲内だ、相棒」
擽ったい声を喉の奥に飲み込んでボクは乱戦に向かって駆け出した。
何となく考えていたことがある。最初の戦いの後たくさんの記録を眺めてそれを感じた。どこか違うのだ。ファントムの印象が。
ファントムの記事はすべて人の目を通した記録だ。ボクとの違いはきっと実際に戦ったかどうか。あの真っ暗な仮面の奥を覗き込んだかどうかだ。
ファントムが何を考えていたかなんてわかるはずもないけれどファントムを捉まえたい人が何を考えているかが分ったような気がした。
もしどこかに黒幕がいて……でもそんな話ロビイくんは馬鹿にするかも知れない。
だから、ファントムに試したいことがある。意味なんてなくて、いまさら遅いのかも知れないけれど。
ファントムを巡る闘いは中央エリアに並んだ直方体の施設群をすでに三割方引き倒していた。でたらめな整地工事みたいに地面は拓け空は近くなっている。地上の視界は粉塵と瓦礫の迷路だ。
超大型フレームが参戦したせいで文字通り踏み潰された建屋もある。ステップディスクは早々に封鎖されており、物理移動のみが交通手段だ。
この馬鹿騒ぎに一体どれだけの人が巻き込まれたのだろう。みな無事に退避できれば問題はないが。感じるのは不吉な予感ばかりだ。その証左が目の前を埋めている。
あちらこちらに離脱カウントを刻むオレンジ色のマーカーがポップしていた。まだ復旧を諦めていないのかそれとも意識を失っているのか。
みな死体のままブルワークに留まっている。
「やっぱり変だよね、これって」
呟きながら瓦礫を払う。埋まっている者、路に伸びている者、離脱マーカーの出てしまったフレームは、もうこちらから手の出しようがない。
リミットメーターを睨みながらできる限り無事な人を助けようとしたものの、ボクにはせいぜいメッセージを投げるくらいのことしかできなかった。
偶然先日の紅いボディスーツの女の人を見つけた。確かチェイスという名だった。
身体に触れるとボクに既知者専用の自動メッセージが入った。あの後の騒動を知って登録してくれていたのだろう。
『罠だ』
ボクは慌てて操作パネルをポップした。この警告は何に対してだろう。ふとコンソールの表示に目を遣ると退避と離脱が非アクティブに変わった。
血の気が引いた。みな退避できないのだ。
これが表示の故障でなければ見渡す限りポップした無数の離脱カウントは延々と空回りしている。みなドライスケープの死体に接続されたままこの街に囚われている。
ボクは真っ青になったまま意味のない深呼吸で心を落ち着けようとした。ウエットスケープで断線すればまだ身体には帰れるはずだ。
だけどカーネルは置き去りになる。アドレスも認証もすべてここに残して行くことになる。ウエットスケープとの現実との繋がりが暴かれてしまう。
「カリオストロの仕業かな?」
幾分歩調を速めながらボクはロビイくんに呟いた。いつもの〈ツバサ、鼓動を数えろ〉が効いている。心臓のない胸にまだ動悸を感じているけれど。
〈干渉の規模が大きすぎる。ワールドフレームに対して我々の与り知らない取り引があったと考えるべきだろう〉
ロビイくんの言葉を咀嚼して首を捻る。いつも遠回しで難解だ。ロビンくんがボク自身かも知れないって? ボクはここまで捻くれていない。
〈この状況を利用できる者は限られている〉
「だって、ファントムの捕獲はバウンティスコアの公式オーダーだよ?」
〈そうだな〉
「エマノンが仕組んだみたいに聞こえるんですけど?」
〈そう言っている〉
「いやいやいや。カリオストロの方がまだそれっぽいでしょ」
頸の怖気を押し隠してボクはロビイくんに嘯いた。バウンティスコアはボクらの土台みたいなものだ。それが黒幕なんて考えたくもない。
地面は絶えず震えていた。
破裂音や金属の悲鳴何かが砕けて崩れる音。土と石灰、焼けた鉄の匂い。粉塵が霧のように漂っていた。ウエットスケープなら息もできない状況のはずだ。
それでも銀色の軌跡が閃く度、騒乱は小さくなって行く。その中に飛び込むにはまだ勇気が必要だが事態は確実に沈静化している。
スペリオーラは同士討ちを阻止しようと飛び回っている。きっとそうしながらカリオストロやこの騒動に油を注いだ連中を探しているはずだ。
ファントムは原因だが元凶ではない。二人で空から見降ろしてボクらは同じ結論に至った。何だかあのスペリオーラのサイドキックみたいで、ちょっと興奮する。
ボクは大きな銀色のオブジェを陰伝いに進んでファントムに近いた。ふと見上げてようやくそれが倒れたアルティメッターだと気づいた。超大型フレームもこの有様とは。
アルティメッターは活動時間が極端に短い。ゲートアウトしていないのはやはり離脱がブロックされているせいか。タイムアップで空の彼方に飛んで行く演出がアルティメッターの見せ場だったのに。
巨大な踵を出て壁だけの建屋に這い込んだ。
硝子があったはずの枠から戦場の中心を覗く。笛のような音と爆発があって白い全身タイツの男の人がボクの頭上を跳んで行った。
その向こうに、ファントムがいた。
〈この状況で突入するのは危険だ〉
「変身時間がなくなっちゃう。フラットドライブでも大丈夫だと思う?」
〈流れ弾で全損するだろうな〉
ロビイくんはにべもなく答えた。
「じゃあ行くしかないでしょ」
〈仕方がない。君を支持する〉
「何をするかまだ言ってないんですけど?」
〈結論は言った。君を支持する〉
無意識に口許が綻んだ。
背中で蛙を踏んだような音がして思わず首を竦めた。頭の上を飛んで行った白い全身タイツだ。もう一度、壁の向こうを伺い直して三つ数えた。
三、二、一。
「ファントム」
ハンマーも抜かず、拳も構えず、ボクはファントムの前に飛び出した。
自分なりに考えた策だ。虚空の隻眼を正面から覗き込み、逃げるか殴るかボクは最後の最後までどちらの衝動にも激しく苛まれた。
これ程の戦闘があったにも関わらずファントムには何の変化もなかった。鉄と革を継ぎ接いだ衣装には傷ひとつ塵ひとつついていない。
そろりと一歩、踏み出した。手と足が一緒に出たかも知れない。自分でもぎこちない不自然な動作だと思う。でもロビイくんが指摘しないだけましだ。
不意にファントムの背後に夜空を切り取ったような人影が飛び出した。
構えた両手が白い炎の尾を引いている。コルドフレアだ。ランキング二〇台の実力者。彼の攻撃がファントムを透過したら逃げられない。
突然コルドフレアは直立した姿勢のまま真横に飛んで行った。細いケーブルに全身を絡め取られている。ボクの視界の隅に黒いケープが翻るのが見えた。
凍りついたボクの視界の隅でナイトシーカーは口許で笑って姿を消した。うへえ。無茶苦茶カッコいい。
「ボクの声、聞こえてる? さっきはいきなり殴ってごめんなさい」
気を取り直し、ボクはファントムに向かってひらひらと手を振って見せた。
〈君のコミュニケーションスキルは絶望的だな〉
「うるさい、黙って」
思わずロビイくんを詰ってしまい、ボクは慌ててファントムに首を振った。
「いやキミに言ったんじゃなくて。その煩い虫がいて。ぶーんって。刺されたら大変、なんて」
〈ファントムを笑い殺す作戦か?〉
真っ赤になって歯を食いしばる。唇の隙間で「後で覚えてろ」と呟いた。
歩いて近づく。佇んだまま見つめ返すファントムに触れることができるくらいに。
「キミは、何しに来たの?」
白い仮面が微かに陰る。ボクに目線を合わせて俯いたから。そうだと嬉しい。
ボクが賭けたのは殴り合い以外の方法だ。ただ話し掛ける相手にファントムはどう反応するのだろう。そんな記事や記録はどこにもなかった。
誰も試さなかった? そんなことがあるだろうか。そこに莫大な懸賞金があって、あってもおかしくない情報がないのなら疑うべきは別にある。
誰かが故意に隠したのだ。それがボクの結論だった。
不意に空に穴が開いたように見えた。雨雲よりも黒い雲が空の向こうから突き出して来る。それは腕よりも太く身の丈の幾倍もあるベンタブラックの無数の杭だった。
まるで天罰のような杭は隙間もないほど空を埋め辺り一帯に降り注いだ。
立体感のない黒い杭は動く者、伏した者を問わず次々と地に縫い留めていった。杭に貫かれたフレームは瞬きの間に凍りつき彩度の落ちた石像と化した。
軒の下、建屋の中、地中でさえも避けられなかった。杭はワールドフレームの構造材を擦り抜けて人のフレームだけを串刺しにした。
地に突き立った杭はじき脆い構造体に変化した。風化した岩のように崩れて、砕けて、後には黒い土埃だけが残った。
最初に降った杭の雨で大半の者が動かなくなった。逃げ残ったのは少し、ほんの少しだけだ。杭はまだ止むことなく延々と降り続いていた。
砕けた杭を踏み割って距離感の消失した黒い塵埃に朽ちていく街を見渡した。賞金稼ぎたちの盛大な同士討ちは街の一部を瓦礫に変えた。だが空から降るこの黒い杭はサーバ全土を黒い土塊で埋めようとしている。
「まるで神サマ気取りだな」
ガンズロウの声に佇んだ影が振り返った。漆黒のケープが風に揺らいで血のように紅い内側の生地が垣間見える。
「神に知り合いがいるのか」
そう問うとデアボリカはなおも空を埋める黒い軌跡を睨んだ。
「昔ちょっとな」
ガンズロウは目深に被ったキャトルマンの鍔を押し上げた。
デアボリカとガンズロウが互いを見つけたのは偶然だった。空を埋めるベンタブラックの第一波を生き延びた数少ない悪運の持ち主だ。
だがそれがいつまで続くかはわからない。共に無傷ではなかった。デアボリカは身体の一部を細分化して捨てガンズロウは杭に触れた左腕を自ら撃ち壊して逃げ延びた。
「これはワールドフレーム全部を使った罠だ。刺し網みたいに根こそぎ捕獲する」
杭の行方を見定めながらガンズロウは言い捨てた。退避も離脱もブロックされている。ウエットスケープで断線しない限りブルワークからは脱出できない。
「こいつらはカーネルを抜かれた成れの果てだ」
あちこちに転がる彩度の抜け落ちたフレームを指して言う。個人情報を根刮ぎ取られて放り出された抜け殻だ。大半の者はまだフレームの中に意識を留めたまま身動きもできずに蹂躙されたに違いない。
「俺たちも同じか」
「退避ボタンを連打してるんだろ?」
二人の眼前に杭が連なって降った。息を合わせたように無言で疾る。自由に道を選べるほど回避ルートは広くはない。二人は未だ声の届く範囲に留まっていた。
馴れ合うつもりは毛頭ないが降り注ぐ杭の軌道を避けるうち否応なくつかず離れずになってしまう。
「まるでアルビオンだ」
デアボリカの呟きにガンズロウは口許を歪めた。
その言葉の通り、これは二一五三年、アルビオンで実施された大規模一斉検挙と同じ原理だ。ワールドフレームの管理権限を奪ってゲートアウトを阻害し拘束したフレームからカーネルを接収する。
ギルネットと名付けた仕組みだった。アルビオンでは最終行程に至らずカーネルの接収は重治安部隊による行動に留まったが。本来の計画はいま目の前にある状態だ。
「固定柵まで降らせたんだ、こっちの方が徹底してる」
「詳しそうだな」
「昔ちょっとな」
ガンズロウはまた同じ台詞を吐いた。
アマルガムオルタか。デアボリカは口の中で呟いた。彼の知る限りこの状況はブラックレインと呼ばれていたものだろう。不遜なコードネームだ。
ガンズロウによればアニマはアマルガムオルタのエージェントだという。彼女が例のフレームをどこで手に入れたのか、デアボリカが知りたかったのはその手掛かりだった。
ニュート売買に暗躍するアニマを追いデアボリカはブルワークに潜入した。そこで掴んだのがブラックレインだ。悪名高いカリオストロがアニマと組んでそれを実行しようとしている。その情報に不穏なものを感じてやって来たのだ。
「これが、例の亡霊を捕えるためだけに仕組まれたとでも?」
ブラックレインの、アニマの、アマルガムオルタの目的はファントムの捕獲だ。そう聞いた。
「形振り構わずだな」
ガンズロウが鼻を鳴らして呻いた。
ガンズロウの目的はファントムの捕獲に固執するアマルガムオルタの筆頭管理官レイチェル・ローゼンの計画を知ることだった。
彼女はファントムを認識できるニュート、レイνを求めていた。もし彼がレイνを引き渡していたらこの惨状は起きなかったのだろうか。
黒い柱が巨大な檻のように連なって突き立ち次々と自重で折れて行く。立体感がないためまるで視界に直接描き込まれたかのようだ。
杭が活動するフレームを追尾しているのなら疎らに降るほどに生き残りが減ったということだ。いよいよもって狙いは集中するだろう。
回避先を選ぶこともできず、気づけば二人の周囲は折り重なって伏した者や天を仰いで目を見開く者の抜け殻だらけになっていた。
デアボリカは掠め過ぎた石像に目を眇めた。フードを被った鎧の男だ。アニマが接触していたカリオストロだろう。鉄の仮面の奥の目は呆然と空を見つめている。カリオストロの胸元を掴んで頭上に吊り上げているのは確かスペリオーラだ。
結局カリオストロも裏切られたのだろう。
「見てみろ」
ガンズロウが抑えた声でデアボリカを呼んだ。
「ファントムだ」
黒い影、白い仮面。誰かの囁く声に光景が霞んだ。
何かに胸が押し潰されてボクは浅い呼吸を繰り返す。身体が上手く動かない。視野が濁ってよく見えない。煩いくらいにごうごうと耳鳴りがした。
前に傾いだファントムの身体を幾本もの杭が貫いていた。胸に腹に突き通された真っ黒なその杭は重ねてボクを貫いて二人を地面に縫い止めていた。
仰け反るようなボクの身体は杭と踵の端だけで接地していた。自力では立っていられない。意識さえ重い泥濘みの中にあった。
〈君を思い出した〉
ボクのすぐそばでロビイくんが囁いた。
「まだ生きている」
デアボリカが呟いた。ガンズロウは訝し気に目を凝らした。ファントムに少女が対峙している。ニュースパッドを賑わせたハンマーガールだ。
ファントムが少女に覆い被さり少女は白い喉を晒して仰け反っている。まるで古い吸血鬼映画のポスターのようだ。
何本もの杭が二人を重ねて貫き二人の姿をオブジェのように留めていた。
「そんなわけあるか」
この状況でフレームが機能するはずがない。ガンズロウはそう言おうとした。杭に絡んだ少女の長いマフラーが揺れている。腕が微かに動いた。
「ファントムのせいか」
デアボリカを振り返ると姿がなかった。既に二人に向かって駆け出している。
「助けたってゲートアウトできないんだぞ。って待てよこら」
逡巡と悪態を同時に切り捨てガンズロウは後を追った。まるで二人に気づいたかのように漆黒の杭が空から降る。二人の踵を追って列を成し瓦礫に突き立って行く。
「またおまえの妹じゃないだろうな」
「妹の友人だ」
ガンズロウの嫌味に振り返りもせずデアボリカは答えた。
ファントムを貫いた幾本もの杭は未だ硬質のまま突き立っている。機能を全うした杭が脆くなるのだとしたら、それらは無効化されているということだ。
ハンマーガールがフリーズを免れているのがそのせいだとしても、ファントムの意図的な行為かどうかは知りようがない。
ただ彼女を貫いた杭が物質の状態を維持したままだとしたらスティグマで内臓が自壊する恐れがある。ガンズロウは首筋に刺すような焦りを感じた。
不意に破裂音がデアボリカを掠め、まだ頭上にある硬質の杭を折り飛ばした。振り返る必要はなかった。あの男が馬鹿げた人情家なのはデアボリカも知っている。
ハンマーガールは震える腕を掲げた。ファントムに触れようと指先が宙を掻いている。唇が小さく動いていた。ファントムに何を言おうとしているのか、そこまでは聴こえない。
二人が辿り着いた刹那、頭上に漆黒の影が落ちた。
刹那、黒衣の腕が宙を薙ぎ自身と少女を刺し貫く杭を掴んで折り取った。支えをなくしたハンマーガールの身体が崩折れる。辛うじてデアボリカが受け止めた。
視覚も朧な少女はその腕に抗いなおもファントムに手を伸ばそうとする。ファントムはよろめくように後退った。
三人を掠めて杭が降った。
ファントムの身体を無数の杭が貫いていく。少女ごとデアボリカを抱えるようにガンズロウは二人を引き摺り出した。ファントムの意図は理解できた。無駄にはできない。
ファントムを黒で塗り潰しなおも杭は降り注ぐ。
ルートを取るガンズロウの後ろをハンマーガールを抱えたデアボリカが疾る。ファントムを喰らい尽くせば、じき三人の頭上にも杭が降る。
互いにどこへと問う余裕はなかった。瓦礫と死体と塵埃に荒れた廃墟は思うように路を選ぶことができない。遂に杭の群れが行き先を埋めた。
方向を定めて踏み出そうとした瞬間、足許が垂直に捲れ上がった。
数層のビルより巨大な鋼の腕が空に向かって拳を突き上げた。雨垂れのような音を立て杭を弾いて伸びて行く。
「彼女をお預かりします。貴方たちも、早く」
気づけば銀の髪の青年がハンマーガールを抱えていた。一拍を置いて砂埃と突風が青年に追いついた。
「確か」
シルバービースト。ガンズロウが名を呼ぶ間もなくその姿は掻き消えた。デアボリカの手は未だハンマーガールを抱えていた位置のままだ。
「こっちです。早く」
子供のような声が二人を呼んだ。黒髪の少年が巨大な腕の間際で手を振っていた。その付け根の辺りにハッチドアが開いている。
ガンズロウとデアボリカは視線を交わした。
「どうする?」
「選択肢があるのか?」
デアボリカが駆け出した。後を追おうとして、ふとガンズロウが振り返った。先には黒く塗り潰された森のような塊があった。今なお杭が降り注いでいる。
ファントムの姿は黒一色に塗り潰され、もうどこにも見えなかった。
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