第05話 逢魔が時

 静宮深雪しずみやみゆきは屋上でフェンス越しに街を見下ろしていた。吹き込んでくる風が彼女の髪をその中で踊らせる。六月の下旬とは言え、夕方の風はまだ少し冷たかった。

 日が沈みつつある稜線からは茜色の光が街に広がり、昼間に見られる白い街並みに青の空が映えるコントラストとはまた違った風景を見せてくれていた。


「やっと見つけた」


 そんな深雪のいる屋上に、訪れる者があった。この時間帯に人が来るのは珍しい。聞き覚えのある声だったこともあり、深雪はそちらに目を向けた。


「教室にも生徒会にもいないから捜しましたよ」

「伊薙君?」


 意外な人物に深雪は驚きを見せた。料理を習う日でなければ日没の時間には家に帰っていることが多いはずだったからだ。


「美波から聞いてません? これ、返そうと思って」

「あ……」


 海斗がカバンから取り出したレシピノートを見て深雪は日中に美波から連絡があったのを思い出す。


「料理部に置いていってくれてよかったのに」

「いえ、ちゃんとお礼を直接言いたかったので」


 レシピノートを受け取る。深雪はカバンを持っていなかったので胸に抱えるようにして持つ。


「今回の、二十年前のレシピとは思えないほどいいレシピ入ってました」

「ふふ、役に立ったならよかった」

「ええ、特に豆腐を使った和風ハンバーグは家族も凄く喜んでましたよ。お陰で強制的にレパートリーに入れられましたけど」


 苦笑する海斗を見て柔らかく笑う深雪。これが本当に周りで噂されるような高嶺の花なのだろうかと、海斗の中でミサキは思った。


「そう、和風ハンバーグの……」

「何か?」

「ふふ。実はそのレシピ、私のお母さんが考えたものなのよ」

「えっ!?」


 レシピノートに記載されている日付は今から二十年前。確かに計算上は深雪の母親が関わっていても不思議はなかった。


「私のお母さんは家の方針にずっと従って生きてきた人でね、卒業後すぐに結婚することが決まっていたの」

「そんな若い頃から……」

「変でしょ? 平成の世の中に時代遅れって思うけど、それだけ旧い家だから。伊薙君の家はそうじゃないの?」


 深雪の家は海斗同様に裕福で、長い歴史も持つ家だ。だが、彼の家はそこまで伝統やしきたりに厳しくない。


「……うちは特に。学校も好きに選ばせてくれましたし、家庭環境の違いをどうこう言われませんし……じいちゃんが勝手に流派を作っちゃうくらいなので」

「ふふ。愉快なおじいちゃんなのね」


 深雪がクスっと笑いを漏らす。だが、それは面白いというよりは羨ましいという気持ちの方が強いように海斗とミサキは感じた。


「そんな家に生まれたお母さんが、唯一自由でいられたのがこの部活だったの。自分で人間関係を作って、挫折も成功も味わいながら料理の腕を上達させて、みんなで作り上げたこの三年間は何にも代えがたい宝物だって言ってた」


 海斗は今の生活が当たり前で、未来はこれから道が決まっていくと思っていた。

 だが、世の中にはそれが許されない家庭もある。高校生で未来が決まっていた深雪の母親。その中で得た自由。どれだけ充実した日々だったのだろうか。


「だから私がこの学校に通いたいと言った時にはお母さんも応援してくれたし、部活動に料理部を選ぶのも許してくれた。このレシピノートに出会えた時は本当に嬉しかった。私が小さい頃から食べていたハンバーグの味そのものだったんだもの」

「そんなに大事なものを借りていたなんて……」

「ううん。むしろ伊薙君も気に入ってくれて嬉しかった」


 深雪がレシピノートを胸元で強く抱きしめる。それを通じて母親とのつながりを感じているのだろうか。


「みんなと作り上げること……大好きなお母さんと同じ経験は、私にとっても宝物になったわ。家から出された条件もこなしながらだったから、大変だったけどね」

「条件?」

「成績の維持や習い事をちゃんと続けること。成績が落ちたらすぐに退部って約束させられていたの」

「……そんな生活を三年も続けていたんですか」


 初めて知ることに、思わず海斗は息をのんだ。

 学校内では才媛さいえんとして知られる深雪。生徒会長と料理部の部長を兼任し、クラスでは学級委員を務める。学内テストでは常に上位、全国模試でも上位の常連。周りはそれが当然のことだと思っていた。

 だが、彼女自身の立場でそれを考えたことが、果たして誰かにあっただろうか。自由が制限される家で自分が自由でいられるために努力し、勝ち取ったこの三年間。その裏には想像を絶する努力があったに違いない。


「だからね。私は今度の学校祭は絶対に成功させたいの。この三年間の集大成。お父さんもお母さんも忙しい中、来るって約束してくれたのよ……でも」

「でも……?」


 つい漏れた言葉に、深雪ははっとする。そして慌てて取りつくろうように言った。


「……レストランの準備が遅れているから。毎年この時期にはメニューも全部決まっていたから」

「仕入れもしなくちゃいけないんですよね」

「人手も足りてないし……あ、でも伊薙君が手伝ってくれるんだっけ?」

「ええ。美波にハメられた感じですが、先輩のそんな話聞いたらやる気が出てきましたよ」

「ありがとう」


 夕陽を背にする深雪の笑顔はとても綺麗で、だけどどこかはかなさを感じさせるものだった。何かをまだ隠している。そんな気はしたが海斗はそれ以上の追及はできなかった。


「そう言えば、料理部もう活動してますよ。ここで何やっていたんです?」


 深雪がきびすを返してフェンスまで歩み寄る。その視線の先は夕日に染まる街、そしてその先の夕陽だ。


「……昔から嫌なことがあるとね、ここへ来るんだ」

「先輩?」


 後ろ向きのままフェンスの網に指をかけているその表情は海斗にはわからない。だが、やはり深雪が何かを抱え込んでいる様子なのは伝わって来た。


「……誰だって、落ち込みたくなる時はありますよ」

「……そうだね」

「そういう時は、ここで黄昏たそがれたって良いんじゃないですか?」

「ふふっ」


 先輩が笑いを漏らした。海斗は自分の言葉にどこか変なところがあっただろうかと首をかしげる。


「伊薙君。今の“黄昏たそがれる”って言葉、間違った使い方なのよ」

「え?」

「正しくは、ピークが過ぎて衰えていることを指すの。あと、今のような状態。日が暮れてる様子のことを指す時に使うの」

「へえー、知らなかった」

「明かりのない昔はこの時間になると、近くにいる人もわからなくなるの。だから“誰そ、彼”から“誰彼たそがれ”とも言ったそうね」

「ははは。何だか、そう思うと怖い言葉ですね」


 段々夜が近づき、闇に染まっていく光景は昔の人から見たらさぞ怖い時間だったのかもしれない。その中で生まれた言葉にしては、また随分詩的な響きを伴った言葉だと海斗は思った。


「……ねえ伊薙君。実はこの光景を指した言葉で他にも怖い言い方があるの、知ってる?」

「え?」

「日が沈めば、夜は妖怪たちの活動する時間。だから昼と夜が入り混じる今の時間を、昔の人はこう呼んだの」


 そう言って深雪は海斗に振り向き、逆光の中で告げた。


「魔に逢う時間――逢魔おうまとき


 その言葉は、どこか不気味な雰囲気を伴って海斗に届く。中にいるミサキもその雰囲気に呑まれたのか、弱い恐怖の感情を海斗に伝えて来た。

 夕陽を背負って俺を見つめるその顔は暗く、表情がうかがえない。いつも穏やかで優しい表情の深雪に、海斗は言いようのない怖さを感じた。


「……ちょっと脅かしすぎたかな?」


 だが、次に聞こえた言葉がいつもの深雪の声のトーンだったことに海斗は安堵あんどした。横を向いて日の光に照らされたその表情も、いつもの優しい彼女のものだった。


「お話に付き合ってくれてありがとう伊薙君。ちょっと気分転換になった」

「……いえ、何か力になれることがあったらまた言ってください」

「それじゃ、ちょっと大事なことを聞いてみようかな」


 唐突に真面目な表情で深雪が海斗の顔を覗き込む。つい今しがた、不気味な雰囲気を感じた後だから思わず身構えてしまう。


「伊薙君は特定の好きな子はいるの?」


 だが、予想外の軽い質問に海斗は肩透かしを食らった。


「いないですよ、特に」

「ほんと? その年ならいてもおかしくないんだけどなあ。神崎さんとか水泳部の八重垣さんとか。料理部にも可愛い子は多いでしょ?」

「まあ、人並みに女の子に興味はありますけど……でもあの二人は付き合いが長くて兄妹みたいな感覚です。それに料理部の人たちにもよくしてもらっているので、そんな目で見たら失礼になると思っています」

「真面目なのね……それじゃあ」


 見たことのない、熱っぽい視線を注いでくるその表情に海斗はドキっとなる。


「私が伊薙君の事を“好き”って言ったらどうする?」

「え?」


 高嶺の花と言われていた人だった。だけど料理を習うようになって、接する機会が増えてからはその人柄が人間味あふれる人だということを知り、とても魅力的だと海斗も感じたことはある。だが、夕陽に照らされた誰もいない屋上、異性としてはどうかと彼女から聞かれ、改めて考えると――。


『ちょっと海斗、目を覚ましなさい!』

「わっ!?」


 ミサキの一喝いっかつで海斗は我に返る。そんな彼の鼻先を深雪は指で突っついた。


「冗談よ。伊薙君、雰囲気に流されすぎじゃない?」

「……からかいましたね」

『まったくこの女、油断も隙もない』

「お前は保護者か」


 強い警戒心がミサキから伝わって来る。だが、不貞腐ふてくされる海斗を見てクスクスと笑う深雪はいつも通りの彼女に戻っているようだった。


「そもそも、私も卒業後のお相手は決まっているもの」

「えっ?」

『えっ?』

「先輩は……それでいいんですか?」

「いいもなにも、それが当たり前の家だから。それに、不幸になるって決まってるわけじゃないわ。私のお母さんみたいにね」


 深雪は確かに母親のことを誇らしげに話していた。自由恋愛であれ、決められた婚姻であれ、幸福かどうかは選択肢の自由にるものではない。彼女が決められた婚姻を受け入れると決めたのも、そんな人生観を親から学んだからなのかもしれない。


「だから、自由に恋愛できる立場の君は、もっと周りの女の子のことを考えてあげなさい。君はモテるんだから」


 そう告げると、深雪は屋上から去っていく。その後ろ姿を見送りながら、海斗は言われたことをもう一度思い返していた。


「別に昔からモテた覚えは無いんだけどなあ……」

『当たり前じゃない?』


 その独り言に答えたのはミサキの声だった。


『誰かを好きになっても、それを伝えるのって凄く勇気がいるのよ。もし拒絶されたらって想像したら怖いもの』

「そう……かもな」


 好きという気持ちを否定されるのは確かに辛い。それならいっそ、好意を封じていつもと変わらない関係を続けたいと思ってしまうのだろうか。

 だが、その一方で相手を独占したい気持ちもある。その両方が同時に成立しない気持ちを抱えたまま、果たして耐えられるのか。


『みんな本音を隠しているのよ。言ったら関係が壊れるかもしれないって不安と戦いながら……海斗だってそうじゃない?』

「どうだろうな。俺、告白されたことも、したこともないし」


 海斗にとって恋は日常の外のものだ。周りに女の子が常にいる生活を送ってきていたためだろうか。美波たちとは一緒にいて心地よい気持ちはあるが、それが交際をしたいという気持ちや独占欲にはなかなかつながらない。


『……朝はあんたのことを軽い男だって思っていたけど、違ったわ』

「なんだよ?」

『不可解』


 不可解な存在に言われたくないと、海斗は思うのだった。

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