第36話 妖狐―芦原病院の怪異―

 先ほどから邪悪な気配が強まっているのをミサキは感じ取っていた。


『海斗……』


 不安げな言葉を漏らす。ミサキが顕現し、美波も深雪らと同様に怪異を操れるのであれば生身の海斗に勝ち目はない。だが、豊秋を置いてこの場を離れることはできない。

 美波の抱えていた闇。それは彼女をこれまで支えて来たものそのものだ。大好きな誰かが失われる悲しみを知っているからこそ、その悲しみも深い。

 深雪や御琴は自身が抱えていた大切なものを失った悲しみ、そして失われる恐怖から闇に落とされた。だが、美波はその両方を抱えている。

 だからこそ、封印されていた母親の死の記憶を呼び起こされたこと、そして父親が死の危機に瀕するという二つの強い悪意が、彼女を闇に落とした。


『私の過失だ……私が、もっと早く海斗に伝えていれば』


 自分の判断ミスを悔やむ。記憶と力が徐々に戻り、一人で活動できるようになって来たことで、海斗らを巻き込みたくない気持ちがどこかに生まれていた。

 芝居の後も、美波を慰めている海斗らをそっとしておいてあげよう。せめて自分一人で怪異の元凶の尻尾だけでも見つけてやろう。そんなことを思い、一人で動いたのが仇になった。

 一緒に居れば豊秋の異常にもっと早く気が付けた。もっと早く海斗に美波を見張れと注意ができた。


『……謝罪は後でいくらでもする』


 だが、悔やんだところで全てが好転するわけではない。今は償いのためにも起きた事象に全力を傾けるだけだ。


『海斗、もう少しだけ頑張って』


 気を抜けば膨れ上がる邪気を必死に抑え込みながら、ミサキは願うのだった。





 美波は、誰かをいつも笑顔にしようとしていた。茶目っ気のある所や抜け目のない所があり、それでいてどこか抜けていた。でも、そんな美波を嫌う者はいなかった。いつだって誰かを動かすきっかけになっていた。


「可愛いでしょこれ、ミサキって言うんだよ」


 人間大の狐が美波の足下に降り立つ。その眼は海斗を睨みつけている。


「この子はずっとそばにいてくれる。だからもう私は悲しまないでいいんだって」


 優しくその頭を撫でる。そんな様子はいつもの美波だ。だが、その美波がその優しい気持ちを反転させた。誰かと一緒に居ることが好きな彼女の思いは全て裏返る。全てを拒絶する。


「だからね――バイバイ、カイくん」

「……っ!」


 美波のその言葉が告げられた瞬間、妖狐は動き出す。風を切って走り、すぐに海斗との距離を詰めて牙をむく。


「やめろ、美波!」


 直線的な動きを読んで、何とか身をかわす。それでも妖狐は反転して海斗に噛みつこうと飛び掛かる。


「この!」


 その鼻先に蹴りを思い切り浴びせる。だが、相手の勢いの方が強く、逆に海斗が突き飛ばされる。倒れた海斗にのしかかり、その顔に食らいつく。


「食らうか!」


 倒れた表紙に紙袋から零れ落ちたネギを海斗は手に取る。そして、妖狐の横面を思い切り殴りつける。


「ギャッ!?」


 一撃を受けた妖狐は慌てて跳び退き、美波の元まで下がった。思った以上に効果があったことに海斗も驚く。


「やっぱり粗塩と同じか……ほんとに魔除けになってる」


 間一髪で海斗は事なきを得たが、ネギが無ければ噛みつかれていたのは間違いない。だが、今の衝撃でネギは真っ二つに折れてしまっていた。美波からもらったネギは全部で四本。あと何回攻撃に耐えられるか不安を残す。


「あらら、キツネはネギ嫌いだもんねー。うーん、カイくんにネギあげたのちょっと後悔」


 美波が一歩歩み出す。虚空に手を伸ばすとその先に薄青色の炎が塊となって現れた。


「なっ!?」

「それじゃ、ネギは私が料理するね」


 次々と美波の周りに炎が生じ、それらが一斉に放たれる。

 深雪が風を操ったように、御琴が芦原川の水を操ったように、美波もまた、怪異によって炎を操っていた。


あつっ!」


 すぐに海斗は走り、狙いを絞られないように動く。次々と足下に炎が着弾する。炎がはじけて火の粉が海斗に降りかかり、持っていた紙袋にも引火する。


「くそっ!」


 紙袋に手を入れ、ネギをまとめてつかみ出す。燃える紙袋を放り投げ、ネギを抱えて海斗は逃げ続ける。

 もしも、ネギが全て失われてしまえば海斗は邪気の影響で動けなくなる可能性がある。何としてもミサキが来るまで持ちこたえなくてはならない。そのためにはこれを手放すわけにはいかなかった。


「やめるんだ、美波!」


 辺りが燃える中、必死に海斗は叫ぶ。しかし、容赦なく美波は炎を放ち続ける。


「はい、そこだよミサキ」


 炎の壁を突き破り、妖狐が海斗の目の前に出現する。完全に意表を突かれ、海斗はネギで迎撃する間もない。


「――っ!」


 とっさにかばった左腕を爪で引っかかれる。その衝撃で抱えていたネギを一本落としてしまう。


「さあさあ、本日の夕飯は焼きネギなのです」


 そこに、美波の炎が着弾する。薄青色の炎に焼かれ、あっという間にネギは真っ黒に燃え尽きていく。


「く……」

「あと二本。それともミサキに噛み殺される方が早いかな?」


 海斗の左腕に紅い筋が走る。深手ではないが痛みで顔をしかめる。


「あはは! どこまで頑張れるかなカイくん!」


 再び美波が炎を放つ。妖狐も一度引き、身を隠した。海斗は残された二本を両手に持ち、深呼吸をする。


「二刀流はやったことないけど……」


 いつもの自分ならネギをこんな持ち方するなんて「食べ物に失礼だ」と自分で言っていたかもしれない。そんな冗談ですら今は笑えない。


「来い!」


 美波の炎をかいくぐり、次の襲撃を待つ。今度は必ずその姿をとらえるために意識を集中させていく。


「――そこだ!」


 炎を突き破り飛び掛かって来る気配を感じ、海斗は振り向く。手にしたネギで一撃を入れようと――。


「やっほー、カイくん」

「なっ!?」


 そこにいたのは、にこやかに手を振る美波だった。だが、海斗は今の今まで美波の攻撃を受け、その動きを見ていた。それなのにいつの間に後ろに回ったのか。その驚きに、海斗は思わず手が止まってしまった。


「――なんてね」


 目の前の美波が笑う。美波の全身から噴き出した邪気が薄青色の炎に変わる。


「うわああーっ!」


 炎に巻かれ、海斗は地面を転がった。全身を焼かれる痛みにのたうち回る。

 クスクスと笑う美波の隣に、炎を放った美波が歩み寄る。美波が二人いるという事態に海斗は混乱していた。


「カイくん、油断大敵。キツネは人に化けられるんだよ?」

「う……」


 全身の痛みですぐに立ち上がれない。ネギも今の攻撃で落とし、二つとも焼かれてしまった。残っているのは最初に攻撃した時に折れた一部分だけだ。


「み……な、み」


 立ち上がろうとしたが、痛みで倒れてしまう。ネギも一部しか残っていないためか、魔除けの力も弱まり、海斗も遂に喉の奥から湧き上がる不快感にさらされ始めていた。


「……あれ?」


 海斗が倒れた拍子に、何かがポケットから零れ落ちて転がった。それは美波の足に当たって止まった。


「ICレコーダー? ああ、そっか。カイくんお芝居の直前まで台詞の確認していたもんね」


 それを拾い上げ、手で弄ぶ。そして面白いことを思いついたとばかりにそれを海斗に向けた。


「ねえカイくん。最後に一言、残させてあげる」

「……なんだって」

「私、この後みんなを殺すけど、たぶん御琴みこちんたち、最後にカイくんに『助けてー!』って叫ぶと思うんだ。だから、カイくんが死んだってことを教えてあげるために。ね?」

「……ふざ…けるな」


 柵につかまり、海斗が体を起こす。転落防止用のフェンスは既に美波の炎で焼け落ちている。もう一度、海斗は攻撃を受ければ柵を乗り越えて転落しかねなかった。


「俺が……言いたいのは一つだけだ」

「一つ?」


 海斗が柵にもたれながら必死に立ち上がる中、美波はICレコーダーの録音を始める。気絶しそうな痛みの中、歯を食いしばって、必死に海斗は言葉を紡ぐ。


「言っただろ……俺たちを信じろって。一人で抱え込むなって」


 それは、芝居の最中に海斗が言った言葉だった。美波が母親の死を思い出し、倒れそうになった時に支えてくれた時のものだ。


「大切なものを失う辛さは俺もわかるよ……ばあちゃんが死んだ時、俺はもう会えないんだってわかった時に涙が止まらなくなった」


 海斗が人の死というものを強く意識した時だった。美波に比べればそれに気が付いたのは遅かった。


「だって、いきなり死んだって言われたってわかんないよ……頭の中、ぐちゃぐちゃになって、それで大泣きして、やっと人が死ぬってどれだけ辛い事なのかわかった」

「そうだよ……だから私は」

「――でもな。ばあちゃん、苦しいとも辛いとも俺には言わなかったんだ」


 美波が押し黙る。海斗にはその心中を推し量ることもできないが、言葉を続ける。


「いつも美波と御琴と遊んだ話をさせて、俺の前じゃ笑ってたんだよ」

「それは……」

「自分が死ぬってわかっていたのにだぞ……でも、今ならその気持ちがわかるよ」


 不快感はどんどん強まっていく。今にも吐いてしまいそうだった。だが、必死に残った力で美波に言う。


……そう思ったからだ」


――でも、私は狐より美波の花嫁姿を早く見たいなー。

――うん! 私、カイくんのお嫁さんになる!


「――っ!?」


 美波の脳裏に何かが浮かぶ。それはあの日、夕焼けの中で交わした母親との会話。


――あらあら、美波ったらもうお相手決めちゃったの?

――うん。御琴みこちんも一緒だよ。


 子供の他愛もない話。普通なら笑い飛ばしていいくらいの、幼い頃の子供の「好き」「嫌い」の話。だけど、美波の家庭は海斗と御琴の家庭と家族ぐるみの付き合いをしていた。だから、二人がどんな存在なのか、紗那は知ることができている。


――大丈夫。いつだって、ずっとそばにいるから。


 それがあったからこそ、紗那は笑顔で死ぬことができたのではないだろうか。


「確かに、誰かがいなくなるのは辛いよ、悲しいよ……でも、いつだって心の支えになってくれる人がいるから……辛い気持ちを乗り越えられるんだろ。一人じゃ絶対に耐えられない」

「でも……私にはこの子がいる。ずっと一緒に居てくれるこの子が!」

「……ほら、やっぱり欲しいんじゃないか。心の支え」

「……っ!?」


 誰もいらないと言いながらも、常に自分を支えてくれる存在を求める。そんな矛盾した論理。そして、それを成すために自分の心の支えを自ら壊そうとしていること。それが、海斗の言葉で美波は自覚してしまった。


「……だったら、俺が支えてやる」

「え……」

「これまでずっと一緒に居たんだ。これからも付き合ってやるから、ミサキそんなやつに頼るな」

「カイ……くん」

「……ダメだよ。惑わされたら」


 美波が揺れかけた瞬間、美波ミサキが会話を遮った。美波の持つICレコーダーも止めさせる。


「困るなあ、カイくん。美波わたしの決意が揺らいじゃうじゃない……やっぱり君、いちゃだめだよね」

「何が私だ……美波を惑わしてるのはそっちだろ!」

「これ以上、話し合う事なんてない。だから――」


 妖狐が再び獣の姿をとる。狐火を発し、まとって海斗目掛けて突っ込んでくる。


「はは……そっちから、来てくれるなら……ありがたいよ」


 ポケットに入れていた手を出す。包みが半分焼けていたが、幸い少しだけ中身は残っていた。


「死ね!」

「――お清めには、粗塩なんだよな、美波?」


 いざという時のため、持ち歩いていた粗塩。残っていた分を飛び込んで来た妖狐目掛けて叩きつける。


「う……がっ!? こ、これは!?」


 やはり十分な量ではないために効き目が弱い。だが、今の海斗にはその一瞬の硬直で十分だった。


「お前がいると、美波が悲しむんだよ!」

「は、放せ!」


 妖狐を抱え込み、体を後ろに倒す。残された力で海斗にできる攻撃はもうこれだけだった。


「――!」


 これまでの経験からミサキに物理的な衝撃は通じる。鎌鼬かまいたちの例からも、その身が耐え切れない衝撃を受ければ消えてしまうはず――。


「カイくんっ!!」


 そして海斗は、妖狐と共に柵を乗り越え、その身を宙に躍らせた。

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