第16話 宣戦布告

 土曜日は雲一つない良い天気だった。

 気温も朝からどんどん上がり、昼の記録会の始まる時間帯には今年初の真夏日を記録すると天気予報では言っていた。


「暑い……」


 学校に向かう中、海斗かいとは流れ落ちる汗をぬぐいながら太陽を恨めしそうに見上げた。


「何も今日暑くならなくてもいいのに」

「あはは。まあ水泳するには絶好の日だけどね」


 これから冷たい水の中に飛び込める御琴みことを羨ましく思う。自分もその内プールへ行こう。そう決める海斗だった。


御琴みこちん、今日はちゃんと食べて来た?」

「も、もちろんだよ」

「むー……」


 じっと見つめる美波の視線から御琴は耐えきれずに目を逸らす。そして、ため息をつきながらカバンをあさり始めた。


「ぱらぱぱー。どら焼きー!」

「その音、つけなくちゃダメなのか?」


 某ネコ型ロボットのような音と共に、再びカバンからアイテムが出て来くる。なお、海斗の指摘は黙殺された。


「はい、これ。あんまり泳ぐ前に食べちゃダメだと思うけど、ちょっとはお腹に入れておいた方がいいよ」

「……敵わないなあ、美波には」


 苦笑しつつもどら焼きを御琴は受け取る。そして、それをカバンに入れてまた歩き出す。


「部室着いたらちょっと食べるよ」


 既に学校の正門にまで三人は到着していた。ここからは別行動だ。


「……無茶したら、だめだよ?」

「わかってる。さすがにもう一度海斗に助けられるのは恥ずかしいからね」

「頑張れよ」

「もち!」


 サムズアップして御琴は背を向ける。海斗たちもプールサイドに設けられた観覧席へと向かう。


「……なあ、ミサキ」

『え、ええっと。私、休日の学校の中って見てみたいから一度離れるね!』

「お、おい!?」


 有無を言わせずミサキが海斗の中から出ていく。昨日の件から海斗がミサキに話しかけようとするたびにこれだ。何かと強引に理由をつけては海斗から離れてしまう。

 海斗は彼女に触れることができないし、一度離れられてしまうと彼には彼女の居場所がわからなくなる。お陰でろくに話もできなかった。


「……あの馬鹿」


 ため息をついて海斗は歩き出す。駐車場では取材に来た新聞社の車を誘導するのに教師たちが忙しなく走り回っていた。




 部室についた御琴は水着に着替え、準備運動を始めようとしていた。その時、偶然カバンの中から先程美波からもらったどら焼きが見え、思わず手を伸ばす。


「……」


 だが、昨日の光景が蘇り、それを手に取ることはできなかった。美波は御琴が今日も食事を抜いていたことを見抜いていた。だが、その原因にまでは思い至っていない様だった。


「大丈夫……今日を乗り越えれば、また食べられるようになる。きっと」


 日に日に強烈なプレッシャーが彼女を襲っていた。記録を期待されている自分、それを求めている周囲、そしてそんな輝いた自分の姿を見せたい幼馴染たち。それだけならまだ耐えられた。

 自分の後ろを猛烈な勢いで追いかけてくる後輩――三木まどかの存在。それが彼女を焦らせた。既に過去ちゅうがくの自分は敗北している。今年、水泳部に入部してきてその上達ぶりと自信に満ちた姿に脅威を感じた。

 トレーニングの量を増やし、過酷ともいえる量をこなした。食べる物も厳選した。誰よりも陰で努力をした。そんな自負がある。だけど拭いきれない不安。プールでの練習が始まってからはそれがより大きくなる。

 そのフォームに、スピードに、スタートを切るタイミングに、何もかもが自分を上回っているのではないかと恐れを抱き始めた。間違いなく、全国へ行けるレベルだと。自分の立場を脅かす存在だとそこで彼女は認識してしまった。

 そして今日、ここまで積み上げて来たものの結果が出る。いつもなら心地よいくらいのプレッシャーが重苦しく感じてくる。築き上げてきたものを失いたくない。虚勢じゃなく、いつもの自信に満ちた自分でいたい――。


「先輩、ちょっといいですか?」


 そんなモヤモヤした気持ちを抱えていた御琴に声がかかった。振り向けばその後輩ライバル、三木まどかが立っていた。いつの間にか部室には他の部員たちも来ていた。


「……まどか」

「顔色悪いですよ。気分が悪いとか?」

「ううん、何でもない。ちょっと緊張してるのかもね、あはは……」

「よかった……万全じゃない先輩を倒しても面白くありませんからね」


 胸を張ってまどかは御琴に燃えるような視線を叩きつける。御琴は一瞬、気圧されそうになるが先輩としての矜持がある。立ち上がり、その視線を正面から受け止めた。


「ずっと先輩を追いかけて来たんです。今日は全力で挑みますから、覚悟してください」

「……ええ」

「さて、競泳選手としての宣戦布告はここまで……もう一つ、女としてライバル宣言させてもらいます」

「え?」


 思いもよらぬ台詞に、御琴は気を抜いてしまった。そこに彼女の言葉が突き刺さる。


「私は、伊薙いなぎ先輩が好きです」

「――っ!?」

「中学の頃から二人に憧れていました。この高校に入ったのも、八重垣先輩と、伊薙先輩を追いかけて来たからです。先輩を倒したら……私、本気でアプローチしていこうと思っています」

「い、良いんじゃないかな? でも、別に私に言わなくたって――」

「本気で、そう思ってます?」

「え?」

「……気が付いてないならそれでいいです。でも、絶対に負けませんから」


 話を打ち切り、まどかは視線を切る。あぜんとする御琴はその後ろ姿を追うことしかできなかった。

 なぜか胸の中がモヤモヤする。まどかは御琴に対して発破をかけるつもりでライバル宣言をしたつもりだったのかもしれない。だが、彼女の言葉が時間がたっても御琴の中で渦巻く。それは時間が来て、記録会が始まっても続いていた。


「頑張れー、御琴ー!」

御琴みこちーん、ふぁいとー!」

「……海斗、美波みなみん」


 海斗の名前を口にした時、なぜか胸に何かひっかかるものを感じた。海斗と美波が並んで座っていることに何か違和感を覚える。

 あそこに自分がなぜいないのか――そんなことはわかっているのに――矛盾して、支離滅裂な理論が頭の中で組み上がる。

 新聞記者たちがカメラを向ける。自分が注目の的になっているのは分かる。だけど、なぜかそちらに興味が向かない。

 海斗に見て欲しい。海斗にこっちを見ていて欲しい。どんどんその気持ちが強くなって来る。


《Take Your Marks》


 合図が聞こえ、御琴が飛び込み台に立つ。まだ彼女には自分の中にあるものの正体がわからない。

 集中ができなかった。これから一秒を争う大事な時間が来るというのに、頭の中にあるのはまどかの言葉。


「私は、何か気付いていない……?」


 御琴じぶんを倒したら本気でアプローチをする。その宣言をあえて彼女自身に宣言した。つまりそれは御琴をライバルとして見ているという証。まどかがもし、海斗に本気でアプローチをかけて二人がそういう関係になったら――。


「――嫌だ」


 そう思った直後だった。


「しま――っ!?」


 スタートの合図が鳴り響く。一斉に選手たちが飛び込む中、御琴は誰が見てもわかるほどに反応が遅れた。

 必死に水をかき、御琴は遅れを取り戻そうとする。しかし、元々エネルギーがほとんど空っぽの状態だ。そんな彼女が最初から飛ばして最後まで持つわけがない。皆が見ている中で見る見るうちに失速する。

 彼女がたった五十メートルを泳ぎ切る時間が、期待されていた彼女の凋落ぶりを見せられる観客や、海斗たちにはとてつもなく長く感じた。


「御琴……」

御琴みこちん……」


 そして、新星が一躍注目の的となる。まどかは一位。しかも二十五秒台前半。去年の御琴が打ち立てた記録を破ってだった。そして御琴は――。


「はあ……はあ……そんな」


 二十九秒台後半――中学時代の自分の記録にすら届かない。惨敗だった。

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