第61話 命の封印
朦朧とした意識の中で、美波は懐かしい声を聞いていた。
『美波……美波』
「おかあ……さん?」
暖かさの中で、美波は意識を覚醒させる。ずっと会いたくて、ずっと話したくて、今ではそれが叶わない大切な人の声が、十年ぶりにそこにあったから。
『美波、おはよう』
「お母さん……生きてたの?」
美波の目の前には、あの日の紗那がいた。夢の中でもいい、その姿に会えたことが美波には嬉しかった。
だが、美波の言葉に紗那は悲しげに
『私はもう死んでるの、あの十年前の時に』
「十年前……」
『時間がないわ。もうすぐ
「なに?」
『あの日、何があったかを知る勇気はある?』
「……っ!」
胸が締め付けられる痛みがあった。今でも時折思い出す最後の時、紗那が橋から飛び降りた夕暮れの芦原大橋の光景を。
『あなたが思い出せないのは、私が死の間際にその記憶を封じたからなの。だから、私の力を使えばそれを解くことができる……だけど』
「何があったのか、全部思い出しちゃうんだね?」
紗那がうなずく。幼子に苛烈な光景を見せたくなかったからこそ、最後の時に紗那は一部始終を封じた。だが、生来の
「……それが、カイくんとミサキさんを助けることに繋がるんだよね?」
だが、迷いなく美波はうなずいた。
「いいよ、お母さん。私はカイくんの……大好きな男の子の力になりたいから」
『あら、海斗君のお嫁さんになるって本気になったの?』
「もー、こんな時に茶化さないでよ」
『ふふ、でもまあ、どうやらそれも叶いそうだから良しとしますか』
「え?」
『こっちの話よ。それじゃ、早速始めましょう、美波』
紗那が美波に手を差し出す。その手を美波が取る。
『あの日、美波との帰り道に起きた全てのこと……それがこれよ』
「――っ!」
紗那の霊力が光となって美波を包み込む、記憶の扉を縛っていた鎖が
◇ ◇ ◇
それは、幸せな光景だった。夕陽の中で降る雨、狐の嫁入りの話をして、狐の窓を教えてもらって、美波の花嫁姿を楽しみにしていると話した――その直後。
「……まさか」
「お母さん?」
紗那が自転車を止めた。その視線の先には一人の少年が歩いて向かって来ていた。
「……やあ、ごきげんよう。良い夕陽だね」
「あなた……人間じゃないわね」
「おや、いきなり当たりとは運がいい」
少年が顔を上げる。その表情は読み取れない、顔がないから。
「完全復活前の肩慣らしだ……せいぜい楽しませてくれよ、人間」
「くっ……!」
少年――
「絶対に、ここから動いちゃだめよ、美波!」
「う、うん」
美波を置いて紗那が走り出す。
「韓非子に曰く、『虎に翼』なんてね」
「まずい……伊薙家はまだ戦える人が育っていない!」
祖父の武志は高齢、末裔の海斗は美波と同じ七歳。家長である海斗の父は武道の心得はあるものの、仕事で出張中だ。血を引いていない嫁の咲耶は論外だ。
「どうして、こんな時に
「封印に綻びができててね、力と意識の一部を外に出してみたのさ。どうやら伊薙も
「そうはさせないわ。あなたはここで止める。例え伊薙がいなくても!」
祓いの力を
「
「舐めてるのか?」
だが、その術はあっさりと弾かれる。
「先祖二人でようやく封じたこの
邪気が
「ぐうっ……!? あああああっ!」
放たれた
「ハハハ! 威勢が良かったくせに、もう消耗したのか。まだ
「これが……
先祖から伝え聞いていた
「勝てない……私一人じゃ。でも!」
後ろにいる愛娘だけは守り通さなければならない。まだ美波は何が起きているのかまるでわかっていない。突然発生した雷に身を縮こまらせている。こんな危険な場所に居ていい存在ではないのだ。
「普通に生きて、普通に恋して、普通に家庭を作って……そんな生活をさせてあげたいのよ、美波には!」
幼い頃から過酷な修行が始まった。どうしてこんな目に遭うのだろうと親を恨んだこともある。だが、その力を伝えなければならない一族に生まれた、退魔の一族に生まれたからこそ力を得なければ誰も守ることができないと耐え忍んだ。
「たとえ刺し違えてでも、この子だけは守ってみせる! それが
美波ももうすぐ訓練を始める時期だ。だが、家庭をもって分かった。
「そいつが次の
「あなたは、ここにいたらいけない……この世界にいていい存在じゃない!」
再び襲う
「そいつは!?」
「
砕け散った勾玉から膨大な霊力が溢れ出る。先ほどを超える力の障壁で受け止め、
「馬鹿め、お前の術は効かないと分かったばかり――」
「誰が一個だけって言ったのよ!」
続いて二つ目の勾玉を投げ放つ。砕けた勾玉が紗那の術を増幅し、
「ぬうっ!」
「あと二個……っ!」
「……これが勾玉の力か」
だが、
「そいつを使えば、もっと面白いことになりそうだ!」
「しまった!?」
紗那が走る。
「美波っ!」
先にたどり着いた紗那が美波を抱え込む。そして、その直後に
「おかあ……さん?」
「くっ……大丈夫、美波?」
顔を上げる美波に紗那は笑顔で返す。だが、その背中には深々と
「くくく……親子の愛情とやらか。自分の身を挺してでも子供を守る……実に人間らしくて、弱い奴らが身を寄せ合う滑稽な姿に見えるよ!」
紗那から爪を引き抜いた。心臓に直結する血管を傷つけたその一撃は致命傷だった。だが、最後まで紗那は美波に苦しい姿を見せないように気丈に振る舞った。
「ねえ、何が起きてるの? お母さん、怪我したの?」
「大丈夫……大丈夫だから。美波はなーんにも心配しなくていいんだから」
「
「なにっ!?」
三つ目の勾玉を使い、気流を暴風に変える。激しい気流の動きに
「行かせはしない……絶対に!」
橋の下に落ちた
「……できることなら、この子の成長を見届けたかった」
そして、紗那が決断を下した。最後の勾玉を取り出し、いまだ状況がわからず泣き出しそうな美波を優しく抱きしめた。
「お母さん?」
「強く、生きて。美波」
その温もりをしっかりと刻みつける。例え魂だけになっても忘れないように。
「大丈夫。いつだって、ずっとそばにいるから……」
「お母さん、何を言って――」
「さよなら、美波」
そして、紗那は美波に術をかけた。この出来事は間違いなく彼女にとって忌まわしい記憶になる。だからこそ、何が起きたかをわからないように封じなければならない。
「おか……さ」
紗那は思う。せめて、幸せな日々を過ごして欲しいと。その願いがどこまで適うのかわからない。その時に自分は側にいてあげられないのだから。
してあげたいこともいっぱいあった。教えたいこともいっぱいあった。幸せになる姿を見届けたかった。
「豊秋さん……美波を、お願いします」
だからこそ、自分の愛した人に、我が子を託す。自分はもう助からないから。
いつかまた、
「あとは……私の手でできることをする」
そして紗那は退魔の一族としての顔に戻る。これからすることは、残り少ない命を懸けてするだけの価値はある。できるのかはわからない。伝えられているだけで、これまでその術を試した者はいないと言うのだから。
橋の欄干に立つ。眼下には変異を終えて川を下ろうとしている蛇と化した
「
全ての霊力を解き放つ。命すら、魂すら燃やして霊力に変え、その強大な存在を封じるために紗那は全てを注ぐ。
「我が命、
わずかな時間でいい。できれば十年。それだけあれば伊薙の末裔が戦えるくらいの年齢に育つ。美波が大好きな伊薙の後継ぎ――海斗が。
「
そして、紗那は欄干から飛び降りた。最後の勾玉を使い、術を限界まで強化する。
「何っ!?」
まさか人間が死を覚悟して飛び降りるとは想像していなかった
「
「き、貴様あああああ!」
その術はかつて、
「うがあああああ!」
紗那の術が炸裂し、
「やっ……た――――」
そして、わずかな時間を勝ち取った満足感のまま、紗那は河川敷に墜落していった。残された希望に、全てを託して。
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