第14話 ミサキの悩み

 海斗のクラスの体育は三クラス合同で行われる。それは、海斗かいと美波みなみ御琴みことの三人が同時に同じ授業を受ける数少ない機会でもあった。


『海斗、私しばらく離れているから』

「ああ」


 休み時間に更衣室に移動する途中で、ミサキはそう切り出した。海斗が返事をするとミサキが抜けてどこかへと行く。相変わらず海斗にはどこへ行ったかわからないままだ。


「あいつ、朝からどうしたんだ?」


 倒れそうになった御琴を支えた時からミサキの様子がおかしかった。だが、聞いてもミサキはただ『少し考えさせて』と言うだけだ。

 確かにあの時、勝手に体が動いたような気がしたが、その後は特に何も異変が起きていないので、海斗も反射的に動いたので行動と記憶が前後で混濁したのではないかという結論で自己完結していた。


「……ま、何か思うことがあるんだろうな」


 また後で彼女から話を聞こう。海斗はそう思うのだった。


「おい、海斗。早く行こうぜ!」

「ああ、悪い!」


 クラスメイトに急かされ、海斗は水着袋を持って走り出す。今年に入って初のプール授業ということで生徒も沸き立っている。


「なあ、お前は何組の女の子が目的だ?」

「俺はA組。かわいい子多いからな。海斗は?」

「あのなあ」


 海斗は廊下を歩く中でニヤけながら「いかにも」な話題を振る友人たちに非難の目を向けた。


「いい子ぶるなよ。お前だって興味のある女の子の一人や二人はいるだろ?」

「……そりゃあな」

「やっぱ幼馴染の神崎かんざきさんと八重垣やえがきさんか?」

「別に、あいつらの水着なんて見慣れてるし」


 そう海斗が言った途端、友人たちに漂う浮ついた空気が固まったような気がした。そもそも海斗たちは小さい頃から一緒だ。昔から毎年一緒にプールや海に行っている。学校で水着姿を見れることに何の新鮮味も感じない。


「……これだよ」

「お前、金持ちなのに家庭的な子かんざきさんに加えて健康的な水泳少女やえがきさんまで幼馴染だなんて贅沢すぎるぞ」

「なんだその理不尽な言いがかりは」


 生まれる家庭を選べと言わんばかりの抗議だった。だがしかし、さすがに小二まで一緒に風呂に入ったこともあるという過去は、彼らに更なる爆弾を投下しそうなので、海斗は口をつぐむことにした。


「ああくそ、俺もモテたい!」

「……モテてもろくな目に遭わないぞ」


 深雪みゆきが闇に落ちたあの事件の遠因は、言ってしまえば海斗を巡ってのものだ。本人が直接関係したわけではないにしろ、知ってしまえばいい気分ではいられない。


「おい、こいつ後でプールに突き落とそうぜ」

「なんで!?」


 だがその発言は、海斗にとって友人たちから嫉妬の制裁を受けつつ更衣室へ引きずられる結果となってしまった。


『……』


 そんな彼らのやり取りを廊下にたたずみながらミサキは見ていた。こうして眺めていると海斗は普通の男子高校生だった。とても怪異に足を踏み入れているようには見えない。


『……海斗』


 ミサキは胸に苦しさを覚える。そんな世界に彼を引きずり込んだのは自分が原因なのではないかと。自分が来る前には彼は普通の高校生として生活していた。美波や深雪にしたってそうだ。

 しかし、もし自分が来たことが、全ての怪異の始まりなのだとしたら、いったい自分は何なのだろうか。彼女が取り戻した記憶の中にあった「ミサキ」の意味がより彼女を悩ませる。


 ミサキ。それは神や悪霊。精霊などの出現前に現れる霊的な存在の総称であり、主神の先鋒を意味する「御先みさき」に由来する名称。

 動物の姿を取っていることが多く、日本神話に登場し、神武天皇を大和の地へといざなった八咫烏やたがらすが代表的な存在だ。


 そして、もう一つ。憑き物としての「ミサキ」

 不慮の死を遂げ、祀られることのない人間の怨霊が人に憑いて災いをなすもの。

 ミサキは人の目には見えず、行逢えば体調不良を起こす。そして、高熱に見舞われ、死んだ人間の行く先が――。


『……そんなわけない』


 ミサキが唇を噛む。憑りついて、憑り殺し。だなんてあるはずがないと――そう思っていた。少なくともこの日の朝までは。


『私は何なの。何でができたの?』


 自分が異常な存在ではないと思いたかった。だが、朝に発現した力は明らかに異常なものだ。海斗はまだ気づいていないみたいだが、それを知れば彼女のことをどう思うだろうか。せっかく築かれ始めている信頼関係が壊れてしまうのではないか。そんな不安が彼女を押し潰しかけていた。


『誰か教えて……私は誰なの』


 その切なる声は誰かに届くことはなく、雑踏の中で空しく消えて行くのだった。


『……あれ?』


 生徒たちが次の授業のために忙しなく廊下を往来する中、ミサキはある三人を見つけた。


『確か深雪さんと……あの二人』


 それは二日前、深雪を追い込んだ二人だった。二人が先頭になって深雪を連れ、一緒に人気のない方へと歩いていく。

 海斗は既にプールへ向かっている。追いかけていては間に合わない。せめて見届けようとミサキは三人を追いかけることにした。


『確か……こっちに』


 校舎裏の非常階段。ミサキはそこで三人を見つけた。既に話し合いの途中だ。


「ごめんなさい!」

『……え?』


 のぞき込んだミサキが見たのは、深雪に頭を下げる二人の姿だった。


「あんなことしたのに……あの時、救急車に乗るまで私たちをずっと元気づけてくれて」

「今はバカなことしたと思ってる。許してもらえるなんて思ってないけど……本当にごめんなさい!」


 それはあの光景を海斗と共に見ていたミサキにとっても意外な光景だった。二人は破けて、一度はボロボロになったレシピノートを、テープで補修したそれを深雪に差し出す。深雪も二人の行動に驚きつつも言葉を返す。


「レシピノートのことは残念だったけど……これまでのことを謝ってくれるのなら、私に拒む理由は無いわ」

「深雪……」

「それに、私こそごめんなさい。もっと二人と話していれば、いつか分かってもらえるなんて思っていないで自分から動いていればケンカにならなかったと思うの」


 深々と頭を下げる深雪に二人も動揺する。共に頭を下げ合い、顔を上げた時には三人の間にわだかまりと言えるものはもう見えなくなっていた。


『……よかった』


 少なくとも自分が、海斗がしたことが無駄になっていなかったことを知り、ミサキは少し心が軽くなった。


『そうだ。海斗にも教えなくちゃ』


 ミサキはその場を後にしてプールへと向かう。まだ不安は消えないが、今はできることをしよう。記憶が戻ればまた、何かが進展するはずだ。それから自分がどう動く感を考えて行けばいい。


『そうよね……海斗も相談に乗ってくれるよね』


 ミサキが広い学校に迷いながら、やや時間をかけてプールに到着する。ちょうど生徒たちが泳ぎ始めていたところだった。


『ま、後でいいか』


 楽しそうにはしゃぐ生徒たち。海斗もプールに突き落とされたりしながらクラスメイト達と楽しそうに笑っている。そんな少し危険な行動を見た女性の体育教師に彼らは怒られ、ばつの悪い顔をした。よく見ればその女性は海斗にどこか似ている。


『ああ、あれが海斗のお母さんなのね』


 海斗に憑依した日から、毎日早朝に出勤しているのでミサキが彼女の姿を見るのは初めてだった。

 自分にも親はいるのだろうか。ミサキはそんな事を思う。そう言えば朝、美波は「母親が生きていれば」と言っていた。もしかして彼女も母親を亡くしているのだろうか。後で海斗に聞いてみよう。そうミサキは思った。


『いいなあ……』


 空を見上げる。夏の日差しは容赦なく照り付ける。こんな日にプールに入るのはさぞ気持ちがいいだろう。

 だが、ミサキには肉体がない。暑いという感覚も、水に入って気持ちがいいという感覚も、感じることができない。もしかしたら過去に経験しているのかもしれないが、今のミサキにその記憶はない。


『そうだ、せっかくだから普通じゃできないことしてみよう』


 ずいぶんとネガティブな思考になっていることに苦笑して、ミサキは気持ちを切り替えるべく空へと飛びあがる。海斗の中にいる時にはできない空からの眺めを楽しむことにした。

 揺れる水面が太陽の光を反射し、特等席でミサキはそのきらめきを鑑賞する。ひとしきり楽しんだ後は水中へとミサキはダイブした。


 コバルトブルーの水の中から空を見上げる。普通はこんな体勢をすれば鼻に水が入って頭が痛くなったりするのだが、ミサキには息継ぎの必要がないのでゆっくりと潜っていられる。そんなことを知っているあたり、もしかしたら自分は本当に人間だったのではないかと、静かな水の中でミサキはそう思った。


『ふうっ……』


 水面から顔を出した時、そんな必要はないのに思わず息を吸い込むような動作をしてしまった。だが、その人間らしい行動が少し自分を勇気づけてくれる。


『きゃっ!?』


 と、顔を出したミサキの前に水しぶきが立った。見れば一人だけ、隣のコースで猛烈な速度で泳ぐ生徒がいた。


『御琴さん?』


 それは御琴だった。一人だけ競技を想定したコースを使って練習をしている。一人だけレベルが違うのでコースを区切っているのだろうか。


「はぁ……はぁ…もう一度!」


 泳ぎ切るとプールから上がり、飛び込み台から再スタートを切る。その表情は真剣そのものだが、素人の彼女から見れば、どこか鬼気迫るものを感じさせた。


『……ペース早くないかな?』


 ミサキがそう思ったその時だった。御琴が水をかく手を突如止めた。


『えっ?』


 不審に思ったミサキが水中で体を伸ばす彼女のそばに近づいてみる。徐々に速度を落としていく彼女が泳ぎを再開するような様子はない。


『まさか、意識がない!?』


 プールにいる誰も、この状況に気付くものは無いない。気付いたのはミサキだけだ。


『そうだ、海斗に!』


 プールから飛び上がる。幸いにも海斗はすぐ近くのコースにいた。ミサキは全速力で彼の下へ向かう。


「痛ってー、脚つった!?」

「あはは。準備運動足りてねえんじゃねえか、海斗?」

「プールから出て休んでろよ」


 ふくらはぎの痛みに顔をしかめながら、海斗はプールから出ようと片足で跳ねながら進む。そこにミサキが辿り着いた。


『海斗!』

「わっ、ミサキか!?」

『御琴さんが溺れてる!』

「なんだって!?」


 海斗が御琴の泳ぐコースを見る。水しぶきも立たない水面にはもう御琴の姿は無い。海斗は全身から血の気が引く気がした。


『海斗、急いで!』

「わかってる、だけど足が!」


 足の痛みを堪え、手だけで水をかいて御琴の下へ向かう。だが、スピードが上がらない。


「くそっ、御琴!」

『……海斗、ごめん!』

「えっ――!?」


 ミサキの言葉が聞こえた瞬間、海斗は自分の体が自分の物ではない感覚に襲われた。足の痛みはまだ続いている。だが、それをまるで感じないかのように彼の手足は動き、水をかき沈んでいる御琴の下へ向かう。


(なんだこれ――!?)

『……やっぱり』


 やはり朝の感覚は間違いではなかった。ミサキが強く念じたことで、海斗の手足が彼女の意志の通りに動く。海斗は息が苦しいという感覚があるのに顔を上げることもできない。完全に体の支配権をミサキに奪われていた。

 プールの底に沈む御琴を抱きかかえ、一緒に水の上に顔を出す。ここでようやく海斗は体の自由を取り戻し、息を吸うことができた。


「げほげほっ……御琴、しっかりしろ!」

「海斗、御琴ちゃんをこっちに渡して!」

「母さん、頼む!」


 海斗の突然の動きはプールにいた他の者の目を御琴のコースに向けていた。お陰で海斗の母親も気付き、体育教師たちによって既にプールサイドで対処が始められていた。

 幸い、プールから引き上げられた御琴はすぐに呼吸を取り戻し、意識も回復した。だがミサキから伝わる悲しい気持ち、罪悪感に苛まれた気分の悪さに、海斗は何も言えないでいた。

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