第59話 鵺ー天原神社の怪異ー

 一歩、一歩と石段を上っていく。日は傾き、太陽の光は赤みを帯びていた。この階段を上ったのは彼と出会って二日目のことだった。深雪の事件を解決し、いまだ何をすべきかわからなかった時だ。

 この場所で封印が破られていたことを知った。封印されていたのはぬえ。四百年前にこの地にわざわいをもたらし、海斗の先祖、伊薙武深いなぎたけみと退魔の一族の岐春くなどはるによって洞窟に封じられた強大なあやかしだ。


「……全てはここから始まったのよね」


 そして時は流れる。妖怪退治に使われた霊刀「三日月」は御神刀として神社に奉納され、伊薙家はこの地を治め、封印の監視と魔を断つ技を、くなど家は退魔の術を伝え、ぬえの復活に備えて来た。全てはいつの日にか封印が解け、解き放たれたぬえを討伐するために。

 だが、太平の歴史の中で、動乱の維新の中で、激動の戦争の時代を経て、革新の時代を迎え、いつしか伊薙はそれを忘れていった。くなども歴史の中に消えて行った。

 だがそれでも、それを今に伝える者がいた。忘れられた伊薙の技を備え、消えた岐の力を持った少女が。


「……いる」


 石段の上、天原神社にはどす黒い邪気が立ち込めていた。ミサキは三日月を握る手に力が入る。


「全てを守る……だって私にしか、それはできないんだから」


 決意を胸にミサキはまた一歩、石段を上っていく。あの時は海斗がこの長い石段で音を上げていたっけ。そんなことを思い出してミサキは少しだけ笑ってしまった。

 二週間に及んだ四つの御魂を祓う戦い。共にそれを潜り抜けて来た海斗との関係は悪い物ではなかった。いつも女の子に囲まれて最初は軽い男かと思ったが、美波と御琴に対する温かな気持ち、深雪に対する尊敬の気持ち、まどかに対する親愛の気持ち。そして、四人をとても大切に思う彼に少しずつ惹かれて行った。


「やっぱり、いい人だったなあ」


 今になって懐かしさと、寂しさを覚えていた。彼が知っているミサキは霊体として出会ってからの自分だ。だが、彼女は彼のいい所をもっと昔から見ていた。それは幼い頃から、ずっとそばで。


「……でも、だからこそ」


 そんな彼だから守りたい。決してこれからの死闘に巻き込みたくはなかった。右腕が使えなくても彼はここへ来ただろう。自分を庇うだろう。彼女が何と言ってもだ。


「だから、ここで終わらせる。私が」


 石段を上り切る。ミサキが見据える先には境内の中央に立つ顔のない少年がいた。彼はミサキの姿を見てニタリと気味の悪い笑いを浮かべた。


「待っていたよ、くなどの末裔」

「今日こそ最後よ、ぬえ。あなたを討って終わりにする。四百年の復讐も、伊薙とくなどとの因縁も、今日で!」


 三日月を抜き放つ。ぬえは懐から鏡を取り出しその手に握りしめる。


「因縁……最早そんな言葉で表すのも生温い」


 その声が低さを増す。まるで声から怨念が漏れているかのように、呪詛の塊となってミサキに届く。


「お前らの封印がどれだけ屈辱だったかわからないだろう。のあの時にも邪魔をされた。その時ならお前らに邪魔されることもなかっただろうに」

「……十年前?」


 手にした鏡に亀裂が入り、そして鏡は音を立てて砕け散る。これまでに溜め込んだ負の力が鏡からあふれ出していく。


伊薙武深いなぎたけみの勾玉を使い、怨念をため込み、心の闇を蓄え、やっと本来の力を取り戻せたんだ。力を取り戻すのに、どれだけの時間が必要となったか」


 深雪の、御琴の、美波の、まどかと施設の人々の抱えていた心の闇。和魂にぎみたまが転じた憎魂ぞうこん荒魂あらみたまが転じた争魂そうこん幸魂さきみたまが転じた逆魂ぎゃっこんに、奇魂くしみたまが転じた狂魂きょうこん。それらが禍々まがまがしく染まったぬえと言う曲霊まがひに集っていく。


「一人じゃ何もできない。愛だ絆だ、そんな綺麗ごとを振りかざしながら僕らにあらがうちっぽけな存在が、四百年も僕を縛り続けた。死んだ後もだ!」


 もはやその姿は人間の形をとどめていなかった。その肉体は様々な動物のパーツで構成されていく。虎であり、猿であり、猪であり、蛇でも、狐でも、狸でも、鶏でも、猫でもあり、そしてそのどれでもない。


「そして、今も子孫が僕の邪魔をする。鬱陶しいんだよ、ハエみたいにまとわりついて!」


 定まった形のないぬえは、裏を返せば何にでもなれると言うこと。人にとって恐れの対象である巨大で鋭い牙と爪を備え、獣の姿でミサキの前にその姿を現した。


「ただ殺すだけでは物足りない。お前たちの御魂みたま全てを絶望に染めなければ気が済まない」


 夕陽に照らされたその巨体は、真っ黒な異形の獣。まるでその内面が現出したかのように醜い風体でミサキを上から睨みつけた。


「まずはお前からだ、くなど! お前の首を飛ばし、絶望に染まった伊薙のはらわたを引きずり出し、お前らに関わった全ての血筋も根絶やしにしてくれる!」

「……っ!」


 決して直接の関わりがあったわけではなかったが、それでも海斗を信じ、成長させ、導いてくれた武志や咲耶、深雪。彼に好意を寄せ、支えてくれた美波と御琴、まどか。そのいずれもが海斗にとって、そして彼女にとっても大事な存在だ。


「……あんたには永遠にわからないでしょうね。思いが人をどれだけ強くしてくれるか」


 『かすみ』の構えをとる。体に染みついた伊薙の技。受け継いだくなどの力は必ずぬえを倒すことができるとミサキは確信していた。


「四百年の憎悪、思い知れ人間!」

「四百年の思い、受け取りなさい化け物!」


 臆さず、怯まず、ミサキはぬえに切りかかる。ぬえもその爪をミサキ目掛けて振り下ろす。


「はっ!」


 だがそれをわずかな動きで回避する。地を叩いたぬえの爪は深々と突き刺さり、石畳を破壊する。懐に飛び込んだミサキはその刃を振り上げ、ぬえの前足に傷をつける。


「ハハハ。そうだ、少しは歯ごたえがなくちゃ面白くない! せいぜいあらがえ、復讐の時間をゆっくり味わわせろ!」


 そんな傷をものともせず、真下のミサキに牙を向ける。噛みつかれれば確実に胴を食いちぎるであろうあごを飛び退いて回避する。


くなど御名みなにて霹靂はたたかん!」

「ぐうっ!?」


 ミサキが霊力を炸裂させる。強烈な光と音でぬえはその姿を見失う。その隙にミサキは懐から勾玉を取り出す。


憎魂ぞうこんいて和魂にぎみたま争魂そうこん恥じて荒魂あらみたま!」


 勾玉を四方に放つ。霊力を注がれて光を帯びた勾玉が浮遊しながらぬえを取り囲む。


逆魂ぎゃっこんおそれて幸魂さきみたま狂魂きょうこんかくして奇魂くしみたま!」

「その技を使わせるか!」


 ぬえが蛇の尾を振り回す。狛犬を破壊し、その破片が四方八方へと飛散して勾玉を叩き落す。そしてその一部はミサキにも飛んでくる。


「きゃっ!」

「そこか!」


 声のする方へ向けて狛犬の頭を飛ばす。避けたところへぬえの巨体が迫る。


くなど御名みなにて逸速いちはやぶ!」


 霊力を全身にみなぎらせる。人の身では届かない強大な一撃に抗う力を瞬間的に放ち、ミサキは真正面からぬえの爪を迎え撃つ。


「何っ!?」


 ミサキが三日月を振り上げ、爪を受け止める。予想を超えた反撃にぬえも驚く。


「人間を……舐めないでよね!」


 爪を横へはじき、再び懐へ入り込む。鵺の足を踏み台に、高々と跳びあがる。


「ぐああああっ!」


 その一撃が鵺の右目を切り裂く。耳障りな悲鳴を上げてぬえは後ずさった。


「こいつ……やっぱり伊薙とくなど、両方の技と力を」

「……終わりよ」


 祓いの力を三日月の刀身に帯びさせる。『かすみ』の構えをとり、祝詞を唱える。


われたつは、御魂みたまを染めし禍津まがつなり。我は妖言およづれまどいしえにしを正す一族やからなり!」


 すべてを終わらせるべく、その力を最大限に注ぎ込む。四百年の因縁を断ち切るために。これで海斗たちが求めた平穏な日常が戻って来る。


はらえ給い、清め給え、かむながら守り給い、さきわえ給え!」

「……くっ」


 苦々しい表情でぬえは後ろへ退く。だがそこには天原神社の社がある。後ろへ跳び退くには邪魔でしかない。


くなど御名みなにて神逐かむやらう。御神威みいつをもって禍津まがつを断つ!」」


 ミサキが地を蹴る。ぬえを目掛け、石畳を一直線に駆け抜ける。


「……やっぱり保険は掛けておいて正解だ」


 ぬえが突如きびすを返し、社を破壊する。そしてその中に顔を突っ込んだ。

 ミサキが跳ぶ。下段から三日月を跳ね上げ、顔を上げたぬえを真っ二つにするために――。


絶刀ぜっとう――なっ!?」


 顔を上げたぬえはその口にあるものをくわえていた。


「美波さん!?」


 それは美波だった。ぐったりとして気を失っているのか、ぬえくわえられて牙がわずかに服に食い込んでいても反応がない。


「斬れるものなら斬ればいい。この娘ごとな!」

「ぐっ……!」


 神威一閃かむいいっせんを放てば確かにぬえを両断できるかもしれない。だが、それは美波も共に真っ二つにすることを意味する。無論ミサキにはそんなことはできない。


「ハハハハハ! やっぱりお前たちはに弱いな!」

「きゃあっ!」


 三日月を引き、無防備になったミサキを鵺は空中で叩き落す。石畳に叩きつけられ、その衝撃で三日月も手放してしまう。


「う……がっ!?」


 そこへ、ぬえが上から踏みつける。足と石畳に挟まれ、徐々に重量がかけられていく。


「ぐうっ……ああああ!!」


 骨が軋む。圧迫で息が徐々にできなくなっていく。物凄い力で抜け出すこともできない。


「愚かだ。ああ、あまりにも愚かだよ、人間って奴は!」

「うっ……」

所詮しょせんは他人の命じゃないか。自分には何の関係もない他人の命を守るために千載一遇せんざいいちぐうの機を逃した。これを愚かと言わず何と言う!」


 美波を吐き出し、地に転がす。勾玉もぬえによって奪われているのか、その表情は邪気によって意識を失い、熱にうなされているそれだった。


「み……みな…み…さん」

「健気だねえ……こんな時にも他人の心配か!」

「あぐっ!」


 手を伸ばすミサキをぬえがもう一度踏みつける。一撃で楽にするつもりがない。じわじわといたぶり、苦しむのを楽しむつもりだ。


「他人じゃ……ないわよ」

「……あ?」

「私に、とっては……他人じゃ……ない、のよ」


 あの日、記憶がわずかに戻った時に真っ先に思い出した言葉。そして、記憶が完全に戻った時に思い出した父親から与えられた最も重大な使命。


 ――み――を守るんだ。


「絶対に……守らなくちゃいけない人なのよ!」


 ――美波みなみを、守るんだ。


「……そうかい。それじゃあ」


 ぬえがその矛先を変えた。彼女にとって最も辛い結末を。精神的にも追いつめてその上で殺すための極上の材料がそこにあった。


「……っ! やめて!」

「そうだ……その顔が見たかったんだ。お前が絶望に染まるその顔が!」


 ぬえの意図に気付き、ミサキが必死に暴れる。体が動かせないにもかかわらず、ぬえの爪が背中に食い込むのに美波を守るため手を伸ばす。


「この娘を守り切れなかったとき、お前はどんな顔を見せてくれるのかな!」

「いやあああーっ!」


 ミサキの悲鳴が境内に響き渡る。美波の心臓目掛けてぬえの爪が迫る。


「……何っ!?」

「……あ」


 だが、その爪が届くことはなかった。間に一人の少年が飛び込んでいた。手にした刀でぬえの爪を防ぎ、美波を守るべく立ちはだかる。

 その姿に、ミサキが歓喜の声を上げる。


「……ああ」

「お前の思い通りにはさせないぞ……ぬえ!」

「貴様……伊薙海斗!!」


 どこまでも邪魔をする。その先祖、伊薙武深いなぎたけみと全く同じ、人を守る決意を秘めたまっすぐな眼はぬえをさらに苛立たせるのだった。

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