第30話 そばに誰かがいる限り

 夕陽も沈み、遅くなってきたので練習を切り上げて海斗たちは学校を出た。深雪は家から来た迎えの車に乗って帰り、海斗たちは途中まで道が一緒ということもあり、まどかと共に帰宅の途についていた。


「ほんっとにもー。メチャクチャ心配したんだからね」

「あはは、ごめん御琴みこちん。カイくんも、助けてくれてありがと」


 稽古の最中に倒れた美波だが、意識はすぐに戻った。ただ、倒れた瞬間のことは何も覚えておらず、美波自身も何が起きたのかつかめていない状況だった。


「いきなり倒れたので、私もびっくりしました」

「んー、たぶん貧血じゃないかな。最近鉄分取れるもの食べていなかったし」

「あたしも貧血起こすことがあるし、気を付けないとなあ。ねえ、何かいい食べ物知ってる?」


 御琴が海斗と美波に尋ねる。こういう時は料理経験の豊富な二人が頼りだ。


「うーん、一般的なイメージだとレバーだけど」

「ひじきや納豆でだって取れるな」

「あとは吸収率をよくするためにビタミンCも一緒に取らないとだね。あと、赤血球を作るためにもビタミンB12と葉酸ようさんも必要」

「さすが二人とも。で、そのビタミンとかはどうすればいいの?」


 料理を美波に教わり始めたとはいえ、彼女にとって栄養関係は未知の領域だ。まどかも真剣に二人の栄養学講座に聞き入っている。


「そんなに難しくないよー。ビタミンCはピーマンやキウイに多く含まれているし、アセロラジュースにもたっぷりなのです。ビタミンB12は魚介類やチーズ。葉酸ようさんは大豆やほうれん草がいいかな」

「御琴ならカツオやマグロがいいんじゃないか? 刺身とか大好きだろ」

「へー、なんかあたしは好きなもの食べていたらいい気がしてきた」

「なるほど、そう考えると園での食事ってちゃんと考えられているんですね……これは参考になります」

「でも、気を付けてね。お茶に含まれてるタンニンは逆に吸収を妨げる効果があるから。あんまり渋いお茶やコーヒーはNGなのです」


 いつの間にかまどかはノートを用意し、注意事項もしっかりとまとめ始めていた。


「ふむふむ……神崎先輩も伊薙先輩も凄いなあ。どうやったらそんなに詳しくなれるんですか?」

「誰かのために作ってあげようって思うと、自然と覚えるかもしれないよ。私は最初、いつもお仕事で忙しいお父さんに健康にいいものを食べてもらいたかったからだし」

「うちは父さんも母さんも帰りが遅かったからな。じいちゃんも作れないし、あまりに腹が減って自分で作り始めた」

「あの頃のカイくん、食いしん坊だったからねー」

成長期ちゅうがくせいだったからだよ。で、自分の食べたいものばかり作ってたら栄養が偏ったんで、好きなもの食べた上で健康も考えられるように勉強したのが始まりだよ」

『……ある意味食い意地が張っているというか、変に真面目というか』


 少し離れたところで一行の後をついて来ているミサキが、呆れ交じりで笑っていた。


「それでも、静宮しずみや先輩に教わるまで見た目なんてほとんど無視だったな」

「私は、栄養重視で味の組み合わせが良くなかったなー。だから料理部で深雪先輩に教えてもらって良かった」

「むむむ……先輩たちの料理の師匠は会長さんでしたか」

「そうなのよねー、うちらが追い付こうとするなら死ぬほど練習しないといけないわよ……あ、そうだ。練習と言えば、まどかに聞きたいことがあったんだ」


 御琴がまどかに向き直る。その表情は真剣そのもの。仲のいい先輩後輩ではなく、運動部の先輩としての顔だった。その雰囲気を察したのか、まどかも少し萎縮気味だ。


「今日の練習、もしかして手抜いてた?」

「い、いえ……違います。私は真剣にやっていました」

「じゃあ聞かせて。今日のまどかはこの間とはまるで別人だった。何本泳いでもあたしに勝てなかったじゃない。もしかして倒れた影響残ってる?」


 まどかはかぶりを振って答える。御琴自身、まどかが手を抜くような子だとは思っていない。だからこそ、練習中に抱いた違和感はあまりに不思議なものだった。


「……それが、自分でもわからないんです。あの時は自分でも『できる』って感じがして」

「あの時だけ実力以上の力が出せたってこと?」

「はい。いつもだったら先輩のベストには届かないくらいなんです。二十五秒台なんて絶対出せないのに」


 まどかの返答に御琴は考え込む。彼女が嘘や下手な誤魔化しをしているようには見えなかった。彼女自身、土曜日の結果には驚いているのと同時に納得できていないのだ。


「……まあ、本番に強いってこともあるか。でも、いつもあのくらい出せないと上に行くことなんてできないと思うよ」

「はい。目指すはあのタイムが当たり前に出せるようにすることです!」

「よーし、あたしも負けないからね!」

「はい! あ、私は帰りがこっちなので。ここでお別れしますね」

「うん、まどかちゃん。また明日ね」

「また明日ね、まどか」

「土曜日、頑張ろうな、三木」

「はい、先輩も台詞の練習、頑張ってくださいね」

「……頑張るよ」


 三人が手を振る中、まどかが軽い足取りで去っていく。そして角を曲がってその姿が見えなくなったところで、美波が突然声を上げた。


「あ、いけない。サラダ油切れてたんだった。買いに行かないと」


 いつも美波が使っているスーパーは、今来た道を少し戻った所にある。帰る方向が違うので海斗と御琴とはここで別れなくてはならなかった。


「ごめんね。私、買い物行ってから帰るよ」

美波みなみん、一人で大丈夫?」

「大丈夫だよ。御琴みこちん心配性だなー。もし何かあったら電話するから」

「うん……美波みなみんがそう言うなら」


 美波のことを気にかけながら、御琴は海斗と一緒に帰っていく。美波はスマートフォンで時間を確認して、もうすぐスーパーの閉店時間が迫っていることに気付いて走り出した。


「……?」


 ふと、歩道と車道を分ける縁石が目に入る。美波は何の気なしにその上に飛び乗り、少し歩いた後に飛び降りた。


「うん、だいじょーぶ」


 何かが彼女の中で引っかかっていたが、先程と同じように飛び降りても何の問題もない。劇の稽古中に倒れたのはやっぱり貧血なのだろう。美波はそう結論付けた。

 スーパーでサラダ油といくつか食材を買い込み、美波は家に帰る。珍しく家には明かりがついていた。


「ただいまー」


 久し振りに言う言葉。彼女よりも早く家に帰っていることは稀なので、久しぶりに一緒の夕食を取れると美波の気分も自然と軽くなった。


「お帰り、美波」

「お父さん、今日は早いね」


 リビングには新聞を読む美波の父親、豊秋とよあきがいた。娘の帰宅に新聞をたたみ、彼は穏やかな笑みを向ける。


「珍しく仕事が早く終わってね。たまには娘の暖かいご飯を食べようと思って帰って来たんだ」

「ちょっと待ってて。すぐに作るから」

「しかし、美波は遅かったね。部活の方、そんなに忙しいのかい?」

「ううん。カイくんたちと劇の練習してたんだ」

「劇?」

「深雪先輩にお願いされて、今度の土曜日に病院のボランティアに行くことになったの。そこで劇をやるんだ」


 美波はエプロンを着けると、さっそく夕飯の用意を始める。

 買って来た絹ごし豆腐の蓋を切り、余分な水分を流しに捨てる。包丁で適当な大きさに切って二人分の器に入れると、続いてネギを刻み始める。


「そうか……海斗君たちとはいい付き合いを続けているんだね」

「うん。カイくんと御琴みこちんがいない生活なんて考えられないのです。あ、そう言えば中学で仲良しだった後輩のまどかちゃんも一緒に劇をやるんだよ」


 ここぞとばかりに美波は学校でのことを話す。彼が帰宅する時間と美波の生活サイクルはなかなか合わないので、豊秋にとっても娘が楽しく学校で過ごしているのを知ることができるのは嬉しいことだ。


「そうか、部長さんが作った台本なんだね」

「うん。古典とか言葉のルーツとかに詳しくて、このお話もその一つを劇にしたものなんだって」

「へえ、面白そうだね……美波、その劇って一般の人も見に行っていいのかな?」

「え、もしかして観に来てくれるの?」


 思わぬ言葉に美波は調理の手を止め、顔を上げた。

 母親の紗那さなが亡くなってから、豊秋は父子家庭の家計を支えるため、朝早くから遅くまで働いている。だから学校行事もあまり参加できず、海斗や御琴の親が撮った写真や映像を後から見せてもらうことが多い。


「たまには娘が頑張っている所をこの目で見たいからね。ちょうど今週の土曜日は久しぶりに休みが取れそうなんだ」

「ほんと!? やった、私頑張るから!」


 美波も寂しさは感じているが、それを口に出すことはない。こうして、豊秋は空いた時間をできるだけ娘と過ごそうとしてくれる。彼が自分のために頑張っていることは小さい頃からよくわかっているからだ。


「さて、それじゃあご飯を食べたら残ってる仕事を片付けないといけないな」

「あー、またお仕事持って帰って来たんだ。ダメだよお父さん、最近肩こり酷いって言ってたのに」

「すぐに終わる仕事だから大丈夫だよ」

「そんなこと言って、いつも遅くまでかかってるよ。朝だって起きられないこと多いし、長時間のデスクワークも睡眠不足も健康の天敵なのです」

「はは、美波にはかなわないなあ」


 頬を膨らませて美波は豊秋に注意する。そんな娘の姿を見て、彼はなぜか表情を綻ばせる。


「もー、お父さん。聞いてるの?」

「聞いているよ。ごめんごめん」


 気が強くても優しさを奥底にしっかりと抱いている姿は、亡くなったさなによく似ていた。最近は性格だけでなく、見た目も彼女を思い起こさせるようになって来ている。

 紗那が亡くなってからは一人にすることが多くなってしまったが、ずっと海斗や御琴が一緒に居続けてくれたからこそ、彼女は孤独にならないでいられる。言葉にはしないが、豊秋はそんな二人に心の中で感謝を送るのだった。

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