通り魔(2)

 混雑する学生食堂の隅で、広見ひろみ優也ゆうやは周囲の様子を注意深く窺っていた。四コマ目の講義が終わった直後のため、食堂の席はほぼ埋まっている。テーブルの最低単位は二人掛け。この混み具合の中、一人で二人分の席を占領するのは気が引ける。知り合いでも通りかからないかと、こうして網を張っている次第だ。

 とはいっても、そこらに並んでいる学生とは違い、優也は大学院生である。同じ院生を探そうにも、指導教員と外に出ていたり、研究室でカップ麺を食べたり、そもそも昼食を食べているのか疑わしい人も多い。かといって、後輩が友達といるところへ声をかけるのも躊躇われた。

 五分も経つと、少し諦めの気持ちが入ってくる。幸い次のコマは空いているので、少し昼食の時間をずらしても問題はないのだ。

 仕方がないと踵を返しかけたときに、ようやく見つけた。大学院で同じゼミの後輩。友達と一緒でもなく、二人掛けのテーブルを図太く一人で占領している。

江波えなみちゃん」

 名前を呼ぶと、後輩・江波透夏は麺をすすりながら顔を上げた。その顔は見慣れた今でも、全体的に整った造形をしていると思う。二重瞼も、長いまつげも、白く滑らかな肌も、絹糸のような黒髪も。花のかんばせに周りの男の視線が吸い寄せられるように動いたのが分かった。そして、すぐに逸らされた。

 優れた容貌ゆえに、残念な部分がより際立つのだ。まずは、口の端にネギが付いていることに気付いて欲しい。

 江波は、数回の咀嚼で口の中のものを飲み込み、優也に向かって軽く手を振った。

「ヒロミさん」

「江波ちゃん、くち、くち」

「口?」

「ネギ付いてる」

 首をかしげて自分の口元に手を伸ばす江波に、もっと右、下の方と指示を出しながら、優也はその正面に座った。特に許可は得なかったが、文句が出てこない程度に気心の知れた間柄である。無事にネギは取れた。

「相席いいでしょ?」

「座ってから言うんですか、それ」

「細かいことは気にしない! ダメって言われる気、しなかったし」

「まあ言いませんけど、私で手を打ってもいいんですか。もっとノリのいい人と食べた方が美味しいでしょうに。向こうに山野さんとか飯田くんもいましたよ。断られたんですか?」

 江波が何でもないように落とした問いかけに、優也は内心で舌を巻いた。周りなんて気にならないという顔をしているくせに、見るところは案外見ているのだ。こういうところが面白くもあり、油断できないところでもある。

「んー、いるのは気付いたんだけど、友達と一緒だったから。流石にこの格好で話しかけるのはまずいわ」

「ああ、ヒロミさん今日、可愛い服ですもんね」

 江波が発した微妙にズレたコメントに、意図せず笑い声が漏れた。

「ホント? 可愛い?」

「嘘じゃないですよ。まあ、私の趣味ではないですけれど。どちらかといえば美幸と似た感じですね」

「あー、確かに。小倉ちゃんとは服の好みが似てるのよね」

 相槌を打ちながら、透夏の友人の姿を思い出す。小倉美幸は、頭のてっぺんから足のつま先まで気を抜かない、ザ・女子という感じの女の子だ。

 優也の今日の服装は、Vネックの白いブラウスに、裾の透けたネイビーカラーのスカートといったフェミニンなもの。生物学的な性別に鑑みれば、少数派であることは自覚しているが、優也は自己表現の一つとして、レディースファッションを好んでいる。そして、口調も少し意識したものになる。元々中性的な外見であるため、初対面であれば八割はバレない。そして、知り合いにとっては……公然の禁忌だ。

 話の裏側を察したのだろう。江波は特に表情を変えずに言う。

「そういうことなら、私は人の格好に興味はないので安心してください」

 優也自身は周囲の目をほとんど気にしていない。だが、それを他人にも同様に求めるのは暴力的だと思っている。異質さを嫌い、好奇の対象になることを恐れる人間を巻き込む気はないのだ。

 その点、「趣味ですもんね」とあっさり片付ける江波との距離感はそれなりに心地よい。……実際のところ、優也にそれほど関心がないだけなのだろうが。

 正直なところ、江波の興味のツボはよく分からない。そもそも誰かに特別な関心を持つことがあるのかすら、不明である。確かに他人のことはよく見ているが、深入りをしない。それは対人関係に限った話ではなく、何事に対しても常に外側から様子を窺っている風なのが、少しだけ気がかりだった。

 人どころか物にもあまり関心はないようだ。服装はいつも、量販店のシンプルなシャツとセーター、ジーンズという代わり映えのしないものだ。自分の食事にすら興味がないようで、トレーの上にあるのはきつねうどんのみ。食生活が少し心配である。



 食堂は、各々が好きなメニューをトレーに乗せ、レジで会計を済ませるセルフ方式だ。優也が食欲のままにおかずを選ぶと、トレーはずっしりと重くなった。大盛りサイズのご飯、味噌汁、豚の生姜焼き、ほうれん草のおひたし、きんぴらごぼう、フルーツヨーグルト、とはみ出そうな皿の量だが、食べきる自信はある。会計を済ませて席に戻ると、江波のうどんの丼は空になっていた。

 優也の昼食を見て、「健康的ですね」と他人事のように口にする江波に、ほうれん草の小鉢を無理矢理押し付けて食事を開始した。眉間に皺をよせながら渋々口に運んでいる様子を見て、にんまりと頬を緩める。野良猫を餌付けしている気分だ。

「そういえば、江波ちゃん聞いたー? 佐藤が入院だって」

 食事中の世間話に、昨日聞きかじったばかりのニュースを選んだ。食べながらするには少々刺激的かもしれないが、この後輩が気にする性質ではないと見込んでのチョイスである。案の定、江波は顔色を全く変えずに応じた。

「ニュースでやってましたね。通り魔」

「そうそれ! 普段はさ、通り魔とかニュースでやってても他人事にしか思わないんだけど、知り合いがやられるとはねえ。怖すぎ」

「身近に危ない人がいるってことですもんね。犯人って捕まりました?」

「まだ。だからビビってんのよ。防ぎようがないじゃない」

「多少は対策できますよ。取り敢えず、人通りの少ないところを歩かないとか、夜遊びは避けるとか」

 江波の口から常識的な意見が出てきたのは意外だった。無頓着かと思っていたが、流石に自己防衛の心掛けはあるらしい。

「そんなの分かってるけど、それでも怖いのは怖いでしょ。ま、確かに予防策は大事ね。江波ちゃんは大丈夫なの?」

 淡々と淀みなく受け答えしていた江波が、なぜか言葉に詰まった。その表情が苦々しいものに変わる。そして、口にするのも不愉快そうに言葉を絞り出した。

「大丈夫、です……うちは、同居人が過保護なので」

 一瞬だけ意味を考え、江波の言う『同居人』の顔を思い出し、こらえきれずに吹き出した。江波の『同居人』の事はよく知っていた。何せ、優也のアルバイト先のトップである。

「そりゃあ、うちの所長、あんたに甘々だから」

「正直、鬱陶しいです」

 そのきっぱりとした物言いに、優也は声を上げて笑う。普段はあまり動じない江波も、あの男に関しては別らしい。この後輩が振り回されるところや、丸め込まれるところを目にしたことのある人間としては、ついついからかいたくなってしまう。

「いいんじゃない? 喧嘩するほど仲がいいって言うし。うまくやれてる証拠よ。さっきの防犯対策ももしかして」

「受け売りです。毎日耳にタコができるほど言われてますから。別に、心配とか頼んでないのに」

 拗ねたように鼻を鳴らす仕草は、年齢よりも大分幼く見えて、微笑ましい。だが、これ以上つついても意固地になるのが目に見えている。野良猫からは引っ掻かれる前に手を引くのが得策だ。

「まあまあ、向こうは仕事でいろいろ見てるわけだし、大事にされてる証拠よ。甘やかされときなさいって」

 すっかり不機嫌になった江波を適度に宥めつつ、話題をすり替える。

「ところで、佐藤のお見舞い行く? あたしはこれから行ってこようと思うんだけど」

「あ、私、午後から先生に呼ばれてて」

「そうなの。まあ、行かないほうがいいかもね」

 透夏がきょとんとした顔で優也を見る。

「どうしてですか?」

「だって佐藤、江波ちゃん狙いじゃない」

「あー……」

 はっきりと肯定はしなかったが、その言葉だけでこちらの意図は通じたらしい。つまり、普段からそれなりに佐藤との距離感を意識に入れていたということだ。

「気付いてたの?」

「まあ、何となくそうかなって。ヒロミさんは、どうして気付いたんですか」

「女の勘よ」

「そうですか」

「ちょっと、ジョークをスルーするのやめてくれる」

「いや、本気かと」

「もう、分かって言ってるでしょ! まあいいわ。話を佐藤に戻すけど、結構分かりやすくアピールしてたじゃない」

 透夏は視線を上へ泳がせて、思い出しながら言う。

「確かに何回か飲みに誘われたことはありますね。断りましたけど。それなら食事でもって、結構しつこかったです。結局、先週一回だけ」

「え、行ったの!?」

「他にも研究室に残ってた子がいたので、ゼミ飲みにしちゃいました」

 今と変わらない何でもないような顔で、上手くあしらったのだろう。普段毒気を見せない癖に、ある部分ではやはり透夏は強かなのだ。

「ならいいけど。やっぱり江波ちゃん的に、そういう気はゼロ?」

「ゼロですね」

「バッサリ切り捨てるわね」

「興味がないんです」

「佐藤に? 恋愛に?」

「どちらも」

「ふうん。じゃあ、他に気になる相手もいないわけだ」

 なんということはない、世間話のつもりだった。だが、江波は僅かに動揺を見せ、瞳を揺らす。

「……ゼロ、です」

 少なくとも、即答ではなかった。返答までのゼロコンマ数秒が意外で、思わず顔を覗き込む。透夏は一瞬の躊躇いを、なかったかのように言葉を続けた。

「そもそも、そんなこと言い出したら、うちの同居人が大騒ぎするのが目に見えてるじゃないですか」

 冗談めかすような言い方に、かえって壁を感じる。話題を逸らして触れられたくないときの語り口だ。

 そこを敢えてつつく気は優也にはなかったので、警戒してこちらを窺う瞳から目をそらし、手を合わせる。

「ごちそうさま」

「あ、ごちそうさまです」

 優也につられたらしい。押し付けられた小鉢を前にしても、律儀なものだ。

 場の妙な緊張が解けたのを確かめてから、席を立つ。

「とにかく、そこまで脈なしなら、変に期待させないほうがいいでしょ。お見舞いはあたしに任せてちょうだい」

「お言葉に甘えさせていただきます」

 優也に続いてトレーを持ち上げた透夏を盗み見て、優也はこっそり息を吐く。

 それなりに長い付き合いになるが、彼女の深いところまでは踏み込めていない。裏側を探ろうとすれば、するりと躱される。

 近付いているように見えて、未だに一線引いた立ち位置が透夏との適切な距離だった。

 変化のない関係が、少しもどかしい。

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