Epilogue(2)


「あれ、透夏も来たの?」

 桜庭の病室には、先に美幸が来ていた。

「一応ね」

 短く答えると、ベッドの上で体を起こしていた桜庭が、不満げな声を上げた。

「え、イヤイヤなの……ショックだなあ」

 桜庭はおどけた様子で大げさに嘆いてみせる。その様子を美幸が鼻で笑う。

「刺されないだけありがたいと思ってよ。私と透夏が仲良くて良かったね。最悪、異母姉妹のデスマッチに発展してるわよ、パパ。重症の父の病室で異母姉妹が鉢合わせ、なんてシチュエーション、昼ドラでよくあるんだから」

「ドロドロなシナリオは勘弁願いたいね」

 美幸と桜庭は他愛ないやりとりの息が合っていて、透夏の目からは、きちんと親子に見えた。さて、それでは、透夏と桜庭ではどうだろう。透夏は桜庭に向かって深々と頭を下げる。

「今回のことは、本当に申し訳ございませんでした。あなたが怪我をしたのは、私の短慮が原因です」

 ずっと、心配されていたのを知っている。それを過保護だと突っ撥ねたのは透夏だった。ずっと優しさに気付かないフリをして甘え続けていた。

 桜庭のことが嫌いだった。嫌いでなければならなかった。桜庭を嫌えば、母を好きでいられるから。だが今となっては、これが必要なことかどうか分からなくなっていた。思い出した母の最期が鮮烈に焼き付いている。透夏を疎み、刃を向けた、鬼のような姿が。

「頭を上げて」

 促されて顔を上げた。桜庭がこちらを見ていた。

 これまでの桜庭はどうだっただろう。声を荒らげたりはしない。あまり動じず、いつも穏やかだった。何かにつけて透夏に会いにきた。大学進学の際、一緒に住もうと提案してたのも彼だった。何度も突っぱねても諦めが悪く、結局一緒に暮らし始めた。

「透夏ちゃん、俺はね、怒ってるよ」

「……私も、怒ってます。西末くんのことを隠してたから」

「君が怒るのを知ってて、どうして俺がそんなことをしたか、理由は分かる?」

 桜庭の問いに、素直に頷いた。

「心配、してくれたから」

 思えば、昔からそうだったのだろう。桜庭は母と透夏の関係を危ぶみ、間を取り持とうとしていたのかもしれない。それに気付けないほどに透夏は幼く愚かで、母に従順だった。

 もう一度頭を下げる。

「心配かけて、ごめんなさい」

 今度は、普段の肩肘張った言い方ではなく、自分の心から出た言葉だった。

「俺はやっぱり、君があの子と関わるのは賛成しないよ。あの子が犯した罪のことだけを言っているんじゃない。西末くんは、妙に達観した子だけど、その一方で今でも不安定な子どもの性質が残ってる」

 透夏ちゃんも、と桜庭は続けた。言わんとするところは理解できた。今は自覚している。

「二人共危うすぎる。子ども時代に色々あり過ぎたんだ。君たちの所為じゃないことも含めてね」

「それでも、私は西末くんと一緒にいたいです」

 桜庭は首を振り、語調を強めた。

「もう一度言う。俺は反対だ。だから、退院したら君たちを引き離そうと思う。だから」

 反射的に睨んだあとで、続きがあることに気付く。

「俺が入院中にせいぜい羽を伸ばすことだね」

 桜庭の横にいた美幸が頭をはたく。

「もう、意地悪な言い方しない!」

 まいったなあと頭を掻く桜庭の目を盗み、美幸が窓の外を指差した。口の形で、『いるよ』と告げる。誰のことかは直ぐに分かった。



 病室から出ると、広見優也が見舞いに来たところだった。

「ヒロミさん、お見舞いですか」

「仕事の報告も兼ねてね。クノさんと所長が動けないと、人手不足で大変なの。所長起きてた?」

「相変わらずでした」

 透夏が不機嫌を隠さずに言うと、広見は噴き出した。

「そういえば、友達には会えたの?」

 頷くと、なんも衒いのない声で「よかったね」と返された。それに少しだけ気分が軽くなる。広見は西末と透夏の事件のことをあまり知らない。だからこそ、透夏が友人と再会できたことを心から喜んでくれる。

「また紹介してよ。一緒に仕事始めたのが最近だから、あんまり知らないんだよね。下で待たせてるから行っておいで」

 透夏が礼を言って踵を返しかけると、チョンと肩を叩いて引き留められた。広見は透夏の耳元に口を近付け、病室内には聞こえないボリュームで言う。

「進展したら教えてね」

 相変わらずの可愛い格好で、意味深に微笑みながら。


***


「そこで江波ちゃんに会ったわ。すっかり春ねえ」

 優也が意味ありげに呟くと、所長は眉間にシワを寄せ、美幸はくすくすと笑い声を上げる。

「優ちゃんはあの二人に賛成なのかい?」

「よく知らないから見守ってるだけ。こういうのは外野が口出しするもんじゃないわ。透夏ちゃんがいいならそれでいいんじゃない?」

 渋い顔の所長に仕事の報告を済ませてから、座っていた美幸に声をかける。

「買い物にでも行きましょ。春物見繕ってあげる」

 美幸は歓声を上げた。

「やった! お兄ちゃん、趣味が合うから好きー」

 いそいそと支度する妹を待っていると、所長であり父でもある男が話しかけてくる。

「で、優ちゃんは明かさないの? 自分が異母兄だって」

「別にこのままでもいいかなーって。今でも結構仲いいし、このぐらいがちょうどいいでしょ。家族とか、そういう枠にこだわる必要もないじゃない」

 透夏は元々他人に対する警戒心が強い。桜庭絡みとなると、かえって距離を取られる気がする。

「お父さんがちゃらんぽらんだとね、苦労するんだよ子どもは」

「それには同意。まあ、お互い母親似で良かったよね、お兄ちゃん。外見もそっくりだったら目も当てられない」

 けらけらと笑う美幸を小突きながら、江波のことを思う。外見も雰囲気も、桜庭に一番似ているのは江波だ。本人は無自覚でも、自然と人を惹きつける。そしてその本質は、自分の願いに忠実な面に表れている。桜庭も江波も、結局自分の希望を通そうとするのだ。

 江波が唯一心を許した人物を思い浮かべ、心の中で呟いた。

(苦労するわよ、新入りくん)


***


 西末は、病院からの帰り道を送ってくれる気で待っていたらしい。通り魔事件は終わり、恭二がこれ以上関わってくるとも思えないが、用心に越したことはない。ありがたくその申し出を受けて歩き出す。

「そう言えば、通り魔のことは何て言って誤魔化したの?」

「桜庭さんは薄々気付いていたみたい。それもそうだよね。単純な消去法だし。でも、美幸には内緒にしておいてね」

「了解」

 美幸といるときの恭二は、いたって普通の男だった。透夏に向けるような暗い目をすることもなく、関係を築いているように見えた。美幸が危険な目に遭うことはないはずだ。それに、桜庭がそれを許すとも思えない。

 通り魔のことは、しばらく取り沙汰されるだろうが、何もなければ、このまま人々の記憶から忘れ去られていくだろう。覚えておくべきなのは、透夏だけだ。

 西末と透夏がこうして並んで歩くのは、随分と久しぶりのことだった。八年前に随分と薄着だった少年は今、分厚いコートに身を包んで鼻の頭を赤くしている。背は際立って高いわけではないが、透夏とは以前よりも差が開いた。ほんの少しの違いを見つけては、安堵を覚えたり、少しの寂しさを感じたりする。

 会話の途中で間があくことが増えたように感じる。埋まらない時間を埋めようとして、かえって何も思い浮かばなくなるのだ。とはいっても、自分からは言いたくないことが一つだけある。果たして西末は、透夏の長い髪にいつ気付くのだろう。

「明日も仕事だよね。お弁当作ろうか?」

 隣の西末に尋ねると、予想外に眉をひそめられた。

「うわ、出た」

「何が?」

「江波さんの親切癖。昔、言わなかったっけ? 都合よく使われるからやめといた方がいいって」

 呆れたように言う西末の横で、記憶を手繰り始める。

「あー、言われた。誰にでも優しくするのはダメだって」

 ほらね、と鬼の首を取ったように言う西末に対して、透夏は一言。

「西末くんだけならいいの?」

「は?」

 隣からあがる焦り声に、頬を緩める。

「いや、だからそんな、僕に都合のいいことしてどうするのさ」

「西末くんが喜んでくれるなら、それでいいよ」

 透夏がそう言うと、西末は顔を覆って息を吐く。

「この八年で、すっかりたちが悪くなったね、江波さんは」

「嘘じゃないよ?」

「分かってる。だからこそ、たちが悪い」

「お褒めに預かり光栄です」

 芝居がかった口調で返すと、西末も諦めたらしい。「弁当、お願い」と透夏の提案に乗る。別に今更、遠慮する必要はない。『使えるものは使う』主義だと告げたのは西末の方だ。

 今なら胸を張って言える。これは哀れみでも同情でもない。ただ、透夏がそうしたいだけ。少し盲目がすぎるかもしれない。けれども、それぐらいでいい。水底で藻掻くような日々を過ごしてきた彼が、再び一人にならないならば、別に透夏は一緒に溺れたって構わないのだ。もっとも、こんなことを言えば、美幸やヒロミは怒るかもしれないが。

『もう、いなくならないで』

 透夏の言葉に、西末は返事をしなかった。もしかすると、ある日突然姿を消すつもりなのかもしれない。そんな日が訪れないように、透夏にできるのは、忘れること。後悔して、後悔させて生きていく苦しさに比べたら、忘却を誰かに咎められる程度は痛みに入らない。

 全部忘れることはできなくても、忘れたフリはできる。嘘をつくのは得意だ。少なくとも、西末と同じぐらいには。

「それで、卵焼きは甘いのとしょっぱいの、どっちがいい?」

 西末は耳を赤くしたまま、短く答えた。

「……あまい方」


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