Epilogue(1)
「深呼吸して」
その言葉で、透夏は自分が息を止めていた事に気付いた。浅い呼吸を繰り返していると、念を押すようにもう一度、同じことを言われる。深く息を吸おうとした途中で、息が詰まって咳き込んだ。慌てて抱き起こされ、背中をさすられた。
呼吸が落ち着き、涙で霞んだ視界がクリアになって、西末が自分を抱え込んでいると気付いた途端に、身体が強張る。
透夏の様子に気付いた西末は、そっと距離をとった。
「えっと……効いた? ショック療法」
「……僕はもうあんまり近付かないほうがいいね」
「帰ったら、怒る、から」
立ち上がりかけた西末は、その言葉で大人しく座り、口を開いた。
「あの日、下の階から怒鳴り声が聞こえた。それから江波さんの声も。嫌な予感がして、江波さんの部屋に行ったんだ」
チャイムを押して、中から物音がしなくなったから様子を見に入ったらしい。鍵は開いていたそうだ。
「そしたらあの状況だったから。ああする以外に思いつかなかった」
わざわざ包丁を抜き、返り血を浴びたのも全て、西末が自分を殺人犯に仕立て上げるためだった。
「どうして。だって、西末くんは何にも悪いことしてないじゃない」
思わず責めるような口調になる。
「充分やったよ、悪いこと。怪我させたし、もっと酷いことも。加害者が僕じゃないと悟られたらダメだった。部屋から、江波さんがやったという痕跡が見つかったらアウトだ。警察は馬鹿じゃない」
つまりは、透夏を明らかな被害者にするための手段だった。
「江波さんの命には関わらないやり方で、尚且つ君が僕を遠慮なく恨めるような方法を選んだ。君が罪悪感に負けて自白してしまえば、全部無駄になるから」
「全部、私のため……? なんでそこまで……」
「江波さんは僕のこと信用しすぎだよ」
西末は自嘲気味に呟く。全部自分のためだった、と彼は続けた。
「江波さんは、僕の友達で、恩人で、共犯者で……とにかく、いなくなって欲しくなかった。君のおかげで僕は、生きていられたから。君がいなくなるぐらいなら、僕がいなくなったほうがましだと思った。全部、僕のわがままだ」
西末は薄く笑って、言い残すように告げる。
「でも、もう一緒にはいられないよね」
西末が静かに立ち上がり、その足音が遠ざかっていく。我に返って追いかけると、、西末は靴を履いたところだった。
「……西末くんの、嘘つき」
ドアノブにかかった手が止まる。
「今更、何言ってるんだか」
「私にだって、沢山嘘ついてた。一蓮托生だって言ったのに」
「うん」
「嘘つき」
「そうだよ」
「私、平気な顔して嘘つく人は嫌い」
「知ってるよ。昔からだ」
「でも、西末くんは、平気じゃなかったんだよね」
「平気だよ。ずっと昔から、それこそ江波さんと会う前から、嘘ついて生きてきたんだから。今日の話で充分、分かったはずだよ、僕は目的を果たすためなら、平気な顔して何だってする」
「じゃあ、どうしてあのとき『ごめん』って言ったの」
「優しい江波さんは、ああ言えば許してくれるでしょ? でも、もう言わない。許してもらうようなことじゃないから」
頭の中がまとまらないまま、思いついたことを全部口に出す。なんとか彼をその場に引き留めるために。
「私ね、西末くんのこと嫌いじゃないよ」
西末が苦しげに顔を歪めた。
「あれだけ酷い目にあっても懲りないの? ……嫌いになっていいよ」
「無理だよ。だって西末くん、カッコつけた言い訳も、取り繕うようなことも、何も言わないから」
俯いて黙り込んだ西末を前に、言いたいことがようやく定まった。
「ごめんね」
一回溢れると止まらなくなった。
「ごめん、西末くん、ごめんね。嫌な役、押し付けた」
「……僕が勝手にやったことに対して、江波さんが謝る必要はない」
「自分のために言っているんだよ。言えば、許してもらえるから。気持ちが軽くなるから。私だって、自分勝手だ」
裸足のまま、玄関に降りる。
「私はね、嘘つきでも、友だちに優しい西末くんが好きだよ」
「僕のこと、怖くないの」
「怖くない」
西末が唇を噛むのが見えた。
「約束してくれたよね、私の望みを叶えに会いに来るって。お願いをきいて。本当に、ひとつだけでいいから。この他には何もいらないから」
その手を取り、祈るような気持ちで告げた。
「もう、いなくならないで」
西末は、返事をしなかった。
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