追想D【約束と結末】(2)
母の誕生日を二人で過ごしたい――この申し出に、桜庭はあっさりと頷いた。
「いいよ、当然のことだ。俺は今回は遠慮させてもらう」
「本当にいいんですか?」
「いいよ。ゆり子には俺からうまく言っておくから、透夏ちゃんは何も心配しなくていい。当日を楽しみにしておいで」
「母は……あなたと一緒の方が喜ぶかもしれません」
うまくいきかけたのに、透夏の口は何故か水を差すような事を言っていた。桜庭は少し考えて、口を開く。
「そうかもしれないね。でも、今回俺に会いに来たのはゆり子じゃない。透夏ちゃんだ。君は俺に来て欲しいのかい?」
否定の言葉が、上手く出てこなかった。いつもならもっと激しく冷たい言葉を浴びせかけるのに、何故か声がでない。
「そんな風に困った顔をしなくていいよ。君は当たり前のことを言っているんだから。母と娘、水入らずで過ごしなさい」
桜庭と目が合う。桜庭誠吾という人は、自分勝手に透夏のことを振り回す人間だと、ずっと思い込んでいた。でも、それだけの人間ではなかったのかも知れない。透夏が過敏になりすぎていた部分もきっとある。透夏の母が夢中になるのだから、いい部分もあって当然だ。透夏は母に関することでは、視野が極端に狭くなっていたのだ。もう自覚できていた。
「誕生日プレゼントに花を送ってもいいかい?」
桜庭の申し出を、今回は素直に受け入れることができた。
「ありがとうございます。母も喜ぶと思います」
これから忙しくなる。誕生日の夕飯のメニューを考えなければならない。
西末にも、餞別の代わりに良い報告ができるだろう。
***
当日、桜庭からは予告していた通り花が届いた。両手でようやく抱えられる大きさの、百合の花束。上品な甘い香りが鼻をくすぐる。本人は姿を現さず、代わりにメッセージカードが添えられていた。
夕飯の用意も終わり、あとは母の帰宅を待つのみだった。
やがて、玄関の鍵が音を立てた。待ちきれずに出迎えに行く。
「ただいま。クーラーつけてないの?」
「お帰りなさい。今つけるね」
母のカバンを持って、いそいそとリビングへ向かう。食卓に並んだ皿を見て、母は何か言ってくれるだろうか。
母はまず、部屋の隅に置いた花束に目を向けた。
「その花、どうしたの?」
「お母さん宛だよ。ハッピーバースデーだって」
「そう」
母は花束を透夏から受け取って抱え込む。
「今日の晩御飯は、ちょっと頑張ったんだよ。お母さんの誕生日だもん」
母の返事はない。母は、花束に挟まっていたメッセージカードを開いたところだった。視線が文字を追い、手入れされた指先がカードの表面を撫でて――引き裂いた。
「この恥知らず!」
透夏に向かって叩きつけられた花束からは、場違いなほど甘い匂いがしていた。
「あなた何したのっ!?」
「何、って……」
「何したかって聞いてるのよ! おかしいと思ったのよ。誕生日はいつも一緒だったのに、急に断ってきて、娘と過ごせだなんてつまらないこと言い出して。何で、誕生日カードにあんたの名前が書いてるのよ!」
床に散ったカードの切れ端には、二つの名前が並んでいた。『誕生日おめでとう。ゆり子、透夏』。それを見て驚いた。桜庭は、透夏の誕生日も覚えていたらしい。透夏の誕生日も、今日――母と同じ日だった。
母親が怒った理由が分かった。母はさらに激しく詰め寄ってくる。
「私に黙ってコソコソと、実の娘のくせに色目を使って、あの人を誑かして」
「違う、そんなことしてない」
「うるさいッ!」
頬を走る熱とともに、床に叩きつけられる。
「おかしいと思ったのよ。急に髪を伸ばしたいなんて言い出したり、休みの日にこそこそと出かけて行ったりっ! あの人だって、急に誕生日は会えないなんて言い出して。今までそんなこと、一度もなかったのに……全部、あんたのせいだったの……」
最後は呆然とした呟きだった。激昂が嘘のように、母は感情の抜け落ちた顔になった。
「私は、別にあんたはいらなかった。子どもができれば、あの人が手に入ると思ったのに、結局手に入らなかったわ。その時点で、もう用済みなのよ。それでもここまで育ててやった恩を忘れて……あんたさえ、あんたさえいなければ」
呪いのような声だった。しかし、不思議とショックは受けなかった。聞き覚えがあるような気がしていた。直接言われたことはなかったけれど、ずっと知っていたことだった。初めから、分かっていた。透夏が母に愛されることは、ない。
繰り返される声を聞きながら、体が勝手に後退りした。本能が、危険だと告げている。血走った母の目は透夏の方を向いてはいたが、透夏を見てはいない。
「お母さん」
母の足は止まらない。
「お母さん、やめて」
台所まで追い詰められる。いつの間にか、母の手には包丁が握られていた。
「いや……」
足がもつれて転倒した。母が透夏の体を踏みつけ、蹴り上げる。息が詰まって蹲ったところに、のしかかられ、身動きが取れなくなった。
窓から差し込む西日が包丁に反射して、刃が煌く。今にも透夏の体に差し込まれようと近付いてくる。母の腕を押しのけようとするが、力では敵わなかった。もう、諦めたほうがいいのかもしれない。
そのとき、場違いなチャイムの音が響いた。
透夏も、母も、返事はできなかった。
ただし、力の均衡が一瞬だけ崩れた。本当に一瞬だったが、それが命運を分けた。低いうめき声が聞こえた。ぽたり、ぽたりと生温かい何かが上から落ちてくる。
「江波さんっ!」
いつの間にか上がり込んだ西末悠が、透夏の上から母親を引き剥がすのが見えた。あんなに強く透夏を排除しようとしたものが、呆気なく無くなった。抱き起こされて、その場に座る。
透夏に突きつけられていた包丁がどこにも見あたらない。あれは、危ないものだ。母から取り返さないといけない。しかし、それはもう母の手には無かった。深々と、女の腹に突きたっていた。そしてその柄には、透夏の手が。血まみれになった母の前で座り込み、流れ出した液体の生々しい熱さを感じながら、透夏は西末を呆然と見上げた。
「どうしよう」
「江波さん」
「おかあさん、どうしよう、わたし、おかあさんが」
気付けば口が勝手に動いていた。
「ごめん、ごめんなさい。お母さん、ごめんなさい」
「黙って」
母の腹に刺さった包丁、その柄の上で透夏と西末の手が重なる。包丁を握って凍りついたように動かなくなった指を、西末が一本一本丁寧に剥がしていく様子を、呆然と見ていた。
「大丈夫。下がってて」
彼は透夏を庇うように立つと、包丁を躊躇いなく掴み、母の体から抜いた。血が噴き出した。ビクビクと跳ねた体を見て、まだ生きているのかと冷静に感心した自分がいたが、今度こそ絶命したのは明らかだった。
西末は、包丁を握ったままこちらを振り返る。シャツの前面にベッタリと血が噴きかかり、元の色が分からなくなっていた。袖口や刃先から、濁った液体が鈍く滴っている。
「おかあさん、おかあさんが。病院、救急車呼ばなきゃ」
「無理だよ。もう死んでる」
「うそ」
「嘘じゃない」
現実だということは、透夏自身がよく分かっていた。信じたくはなかっただけで。
「大丈夫? 怪我はしてない?」
「して、ない。大丈夫」
「赤くなってる」
頬に手が伸びてくる。撫でられると、ピリピリと痛みが走った。頬に触れた手はそのままで、親指が透夏の唇をなぞる。
「唇切れてる。口あけて。歯とか折れてない?」
西末は指先で唇をこじ開けて覗き込んでくる。続けて視線で手足をなぞり、切り傷がないことを確認すると、「良かった」と一言口にした。
顔を上げると、彼が唇を噛み締めるのが見えた。それは逡巡と呼ぶには、刹那の間だった。
「悪いけど、手当てはしない」
淡々と告げ、部屋の様子を見回しながら、透夏の手を引く。次の瞬間、透夏は腕をつかまれ、強い力で引き摺られた。床に叩きつけられる寸前に頭を庇われる。彼の背後に天井が見えた。のしかかるようにして、西末が透夏を見下ろしている。
空を切る音がして、私の喉元に何かが突き付けられた。それが、血に濡れた包丁だと気付くのに、少し時間が掛かった。
「西末く」
「黙って」
刃の切っ先が、肌に触れるか触れないかの位置で動かされる。首から胸へ、腹へ、足の方まで行ってから再び戻り、二の腕で止まった。グッと刃が押し付けられ、痛みが走る。息を止めて次の瞬間を待つが、包丁はすぐに離れていった。西末は短く息を吐く。
「駄目だ……これじゃあ本当に殺しちゃう」
彼が諦めたように包丁を投げ捨てたのが見えた。包丁は鈍い音を立てながら着地し、部屋の隅に転がる。
西末は苦々しげに透夏を見下ろし、一度視線を逸らして何かを考え、再び透夏の方を向いた。そして、搾り出すように言葉を紡ぐ。
「今から酷いコト、するから」
「ひどいこと?」
「江波さんが絶対忘れられないような、最低のこと。一生引きずっちゃうぐらい傷つけること」
「何、するの」
透夏の疑問には答えず、彼はただ困ったように微笑んでみせた。
「恨んでいいよ。僕のこと恨んで、大嫌いになって、一生許さなくていい」
内容はあまり理解できなかったが、ただその目に気圧された。掠れた声が宣告する。
「今から君を、被害者にする」
初めて唇に触れた他人の熱は、血の味を帯びていた。母に殴られて切れた唇を舌先が不器用になぞる。痛みで顔をしかめると、宥めるようにもう一度口付けられた。
西末の手が震えながら透夏のシャツを掴み、胸元から左右に裂く。プラスチックのボタンが壁まで飛び散って、パチパチと音を立てた。これから何をされるのか、正確には理解できなかった。分かったのは、透夏が知らないことを西末がやろうとしているということ。
「抵抗すれば殺す。母親みたいになりたくなかったら大人しくしろ」
西末は、別人のように芝居がかった台詞を言った。低く落とした恫喝する声で。
それが演技だと、透夏に分からないはずがなかった。相手の瞳に自分が映っているのが見える。暗い水底のような両目に映るのは、冷たい色ではない。瞳は迷いを隠せず、やけに人間らしく揺らいでいた。
部屋の中も、彼の体も、短く吐いた息も、全部があつかった。
「ごめん」
あまりにも一方的な謝罪に対して、たった一言の許しすら与えられず、透夏の意識は暗く沈んだ。
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