追想D【約束と結末】(1)


 二週間、口をきかなかった。それだけで、随分と長く会っていないような心地がした。

 約束したわけでもないのに、透夏の足は自然とその場所に向いた。アパート階段下の、西末がいつも座っている場所に座り込む。ひんやりとした空気が心を落ち着かせてくれた。膝を抱えて目を閉じる。いつの間にかこの場所は、一番の拠り所になっていた。一人になってみて初めて、透夏は自分が一人ではなかったのだと知る。傷の舐め合いでも、自己投影でも、なんでも良かった。気付いてしまえば、一人はこんなにも息苦しい。

 ゆっくりとした足音が聞こえる。迷いなく近付いてくるそれが、誰のものかはもう分かっていた。

「ごめん」

「なんで謝るの」

 西末の謝罪に対し、透夏の声は硬さを帯びる。自分自身のこういう狡さが嫌いだ。

「江波さんと仲直りしたいから。この前は言い過ぎた。わざときつい言い方した」

 返事はできなかった。応えれば、全てを許すことになる気がして。黙ったまま俯き、地面を睨む。そうしても西末は諦めが悪かった。こちらが動かないのを悟ると、一歩ずつ距離を詰め、スニーカーのつま先が視界に入る位置で立ち止まる。

「僕視点だとやっぱり、江波さんはお母さんを盲信しすぎ。依存しすぎ。今みたいな一方通行を、ずっと続けるのは賛成できない。いつか絶対破綻する」

 仲直りと言った割には、喧嘩別れの原因と同じことを再び投げてよこす。何もなかったような顔をして、いつものように笑っておけば楽なのに、これは敢えてぶつかり合うやり方だ。らしくない。しかし、だからこそ、その場限りの誤魔化しをしに来たのではないと分かる。

「でも、それって僕が言うことじゃないなって気が付いた。僕は、何ていうか……親父は僕のことが気に入らないし、僕だってあいつが嫌いだ。それでいいと思ってる。でも、江波さんはお母さんのこと好きなんだよね」

 不思議と素直に頷いていた。頭の上から、微かに苦笑が落とされる。だがそれは嘲るような笑い方ではなかった。否定せず、仕方がないなあと許容するような。

「好きだから望まれることをしたい、っていう気持ちは否定しない。何となく分かるから。でも、江波さんがそれで満足してるとは思えない」

「満足、してる」

「嘘だ」

「私は……お母さんがいればそれでいいの」

「君はそこまで無欲じゃない」

 短く鋭い言葉が透夏を追い詰めた。好意に見返りを求めずにはいられない浅ましさを、真っ向から突きつけてくる。

「だから……好きになってもらいなよ」

 思わず顔を上げた。

「今まで飲み込んできたことを、一回でいいから口に出してみればいい。少しぐらい甘えてもいいと思う」

 これは多分、正論だ。透夏が放棄してきたことを、やってみせろと言っているだけ。自分で蒔いた種を、芽が出る前に刈り取るのをやめろと。

 西末は分かっていないのだ。それがどれほど恐怖を伴うか。わずかな幸福さえも消え失せるかも知れないのに。無理だというのは口に出す前に伝わったらしい。西末はしばらく考え、再び口を開く。

「いきなり母親に言うのが無理ならさ、あの男――桜庭さんに言えばいいじゃん」

 突然出てきた名前に思考が止まる。

「嫌いな相手になら、思ったことガンガン言えるんでしょ。この前みたいに」

「もしお母さんにバレたら?」

「あの人は、隠れて江波さんに会いに来てるんでしょ。江波さんは反抗してたけど、本当ならいくらでもコントロールできるはずなんだ。お母さんに言いつけるだけでいい」

 確かに、桜庭は透夏の態度を母親に伝えることはしていない。二人で会っていることを隠したいからだと解釈していたが、そうではないのかもしれない。よく考えれば、絶対に母親は桜庭の意に反するような真似はしないし、透夏は母には逆らわない。透夏に会うのなら、母親と約束を取り付けるのが一番確実なはずだ。恋人が多少不機嫌になっても、取り成す話術は持っているのだから。反抗的な娘に毎回噛み付かれるよりは、そのほうがずっと楽なはずだ。

 そして、あることに気がついた。桜庭が母親になにか言えば、きっと母はその通りに行動する。つまり、桜庭を通せば母親の心さえも動かせるのではないだろうか。

「……何て、言えばいいのかな」

「江波さんがどうしたいかによる」

「私は……お母さんが好きだよ。ずっと一緒にいたい」

 西末は何か言いたげな顔をしたが、口を挟みはしなかった。しゃがんで透夏と目線を合わせ、小さく頷く。それを合図に、これまで表に出さなかった言葉が、堰を切ったように溢れ出した。

「毎晩早く帰ってきてほしい。旅行なんて行かないで、家にいて欲しい。お母さんが楽しみにしてるから、全部は無理でも、少しでいいから減らして欲しい。一緒にご飯が食べたい」

 脈絡なく並べ立てた言葉が出なくなるまで、西末は静かに聞いていた。透夏が全部吐き出し終わり、息が整った後、穏やかに問いかけてきた。

「それは、どうすれば叶うと思う?」

 もう分かっていた。分かるようにしてくれた。

「桜庭さんに会ってくる。会って、頼んでみる」

「何を?」

 ずっと諦めていたことが、今なら何でも叶う気がする。その逆で、欲張り過ぎたら全てを失くす気もしていた。少しだけ迷って、一つの望みを口にする。

「お母さんの誕生日はうちでお祝いしたいですって」

「それだけでいいの?」

 拍子抜けしたように呟く西末に笑いかけて、言葉を付け足した。

「桜庭さん抜きで」

 西末は目を丸くして、その後すぐに笑いだした。

「いいね! 言っちゃえ言っちゃえ」

「昔から、あの人と三人か、私は留守番だったから。今年はお母さんと二人がいい。お母さんの好きなものを食べきれないぐらい作って、二人でおしゃべりしながら食べたい。『いつもありがとう、お母さん大好き』って言うの」

「……うん、上出来」

 こちらに伸びた手のひらが透夏の頭をゆっくり撫でる。その不慣れな動きに、初めてこの少年の優しさに気付いた。決して無条件に甘やかしてはくれない。しかし、傷つけながら、皮肉りながら、それでも透夏が答えを出すまで離れずにいてくれた。正しい方向に気付いていても、透夏が自分の意思でそちらを向けるよう、根気強く待っていてくれた。

 誰かに本心を伝えるのは怖い。だからこそ、透夏にも西末にも嘘が染み付いている。でも、今日の西末から嘘の匂いはしなかった。

「ごめんね」

 自然と零れた言葉に、頭に触れる手が止まる。そして、もういいよ、とでも言うように髪をグシャグシャと撫で、そっと離れた。

「結果、また聞かせてよ。できればでいいから」

「言うよ。当たり前でしょ?」

 しかし、西末は顔を曇らせた。

「いや、もしかしたら僕の方が無理かもしれない」

「どういうこと?」

「親父の転勤が決まった。詳しいことはまだ分からないけど、近々引っ越すことになる」

「そう……」

「でも、案外前向きな気持ちかも。夏は別に外で過ごしたって凍え死んだりはしないし、いざとなったら『計画』があるし」

 明るい西末の口調に救われる。西末が去っても、二人の殺人計画は彼の手元に残るのだと気付いた。透夏にも、友人として差し出せるものがあったことに安堵する。与えられるばかりではなかったのだ。たとえ計画が実行されずとも、逃げ道があるということが支えになればいい。

「私がいないところで勝手にニュースになったら嫌だよ?」

「分かってる。実行する前に、ちゃんと打ち合わせしに来るよ」

 共犯者は冗談めかして笑う。もう、西末が共犯者になる機会は訪れないかもしれない。だから、せめて友人として言葉を贈る。

「愛想笑いばっかりしてないで、色々と話せる友達を作りなよ」

「ん。また、江波さんみたいな友達を作る」

「仲良くなったからって便利に使ったらダメだよ?」

「はいはい。甘やかしてもらいたい時は、また江波さんに会いに来るから」

「何かあったら逃げてきて。晩ご飯食べさせてあげる」

「いつでも?」

「お母さんがいない時なら」

 正直に言えば、西末はやっぱりと恨めしげにこちらを見た。

「……もう少し、一緒にいたかったな」

 零した言葉は、やけに未練がましく響いた。引きとめる術はない。ただ、きっと寂しくなる。

 西末は考え込むような様子の後、何かを思いついた様子で手を叩いた。

「色々と助けて貰ってばっかりだったからさ、何か餞別がわりに、僕にできることはない? できる範囲で叶えるよ」

 予想外の申し出に、一瞬思考が止まる。助けてもらったのは、透夏の方だったのに。あれこれ考えても、望みは一つしか思い浮かばなかった。

「今じゃなくて、今度、会えた時に言うよ。それじゃあ駄目?」

「いいけど。急で思いつかなかった?」

 不思議そうに言う西末に対して、首を振る。

「そういうことにしておけば、絶対私に会いに来なきゃいけなくなるでしょう?」

「……江波さんって、見た目に似合わず策士だよね」

 西末は苦笑して溜め息を吐いた。それでも、反故にする気はないようで、こちらに手を差し出してくる。最初で最後の握手を交わす。

「約束する。君の望みを叶えに、絶対会いに来るよ」

 西末は非現実的な約束を、真剣な目で言ってのける。再会は有り得ないことではないのかもしれない。握った手を放すのが、少し名残惜しかった。


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