追想B【凍りの眼】(1)
母は毎日仕事で忙しい。父は生まれた時からいない。母子家庭で育ったゆえに、透夏は昔から一人で留守番をすることが多かった。帰ったら宿題をして、料理が出来るようになってからは夕食を作り、じっと母を待つ。だから、学校から帰ったときに母の靴があると、心が少々浮き足立つ。
今日は、透夏よりも母の方が先に帰宅したらしい。黒のパンプスが玄関の中央に並んでいる。透夏の頬が自然と緩んだ。
先日、服を買うお金はもらったものの、まだ買いに行けていない。もしかすると、買い物に連れて行ってくれるかも知れない。それから、ご飯の用意を一緒にするのもいい。あるいは、たまには外食しようということになるかも知れない。期待を膨らませながら、人の気配のする方へ向かって、ただいまと声をかける。
返事はない。
「お母さん?」
部屋の中から声がした。初めはテレビの音声かと思って、すぐにその考えを打ち消した。
母の声だった。はしゃぐような、ひどく楽しそうな、若々しい女の声。聴き慣れたはずのそれは、別人のもののようだった。透夏の前では絶対に出さない声だった。
「そうなのよ、一度行ってみたいと思っていたの。ねえ、いいでしょう? ……本当? 嬉しい」
女の声が、耳にこびりついて離れない。
「ええ。ええ、そうするわ……え? いいのよ、そんなこと気にしないで。明日、楽しみにしてるわ」
電話口の向こう側に居る人物は、容易に想像できた。透夏の母を、唯の女にしてしまう相手。盲目的な愛を受けておきながら、母の望みを叶えようとはしない者。
「愛してるわ、誠吾さん」
透夏が、世界で一番嫌いな男だ。
「何、透夏、帰っていたなら声をかけなさい」
電話を切った後、透夏に気付いた母が、鋭い口調で言う。
「ごめんなさい、お母さん」
素直に謝罪を口にする。母は応えず、額を押さえて息を吐いた。
「お母さん、明日からまた出張だから、頼むわね。後で晩ご飯のお金、渡しておくから」
「うん……分かった」
部屋の隅に、荷造りが途中になっている。よそ行きのスカート、真っ赤なワンピース、ブランド物の旅行鞄……それらが、果たしてビジネスの場にふさわしいものなのか、透夏には分からない。
行き先は聞かない――子どもが『仕事』に口を出すのはおかしいから。
同行者も聞かない――『仕事先の人』なんて、透夏が知らない人に決まっているから。
機嫌がいい理由も聞かない――本当に『出張』に行くのだと、信じていないといけないから。
明日は笑って見送るのだ。何も疑わず。
「気をつけてね、お母さん」
***
週が始まったばかりだというのに、最悪の気分だった。
嫌な人物を見かけたからだ。校門から少し離れた場所に、その男は立っていた。服装はモノトーンで纏められており、一見飾り気には欠ける。だが、質がいいものであるのは何となく分かった。妙に気取った立ち姿も、上背があるおかげで絵になる。
「透夏ちゃん」
男は透夏に気付くと、笑みを浮かべて手を挙げる。どの角度から見ても完璧な、手本のような笑顔。近くを通りかかった女が、吸い寄せられるように振り向くのが見えた。歳はもう四十半ばの筈だが、自分の魅せ方を理解した振舞いは、誘蛾灯のように異性の目を引く。
透夏は、機嫌のよさそうな男とは対照的に苛立っていた。いくら洗練されていようとも、一挙一動が癇に障る。
下校時刻にタイミングよく現れた時点で、透夏に会うのが目的だろうとは思っていた。しかし、これほど外れて欲しい予想はなかった。無遠慮に近付いてくる男を睨みつけるが、こちらの不機嫌に気付いているのかいないのか。いや、気付いていたところで、態度や行動を改めるような男ではない。それならまだ、他人の心情に鈍い方が、救いがあるだろう。
「やあ偶然だね。今、時間ある?」
白々しい言葉に、思わず出そうになった舌打ちを飲み込む。母の躾がなっていないと思われるのは嫌だった。
「断ってもいいんですか?」
「この前、美味しいケーキ屋さんを見つけたんだ。ご馳走するよ。ケーキは好き?」
崩れぬ笑みに、有無を言わせぬものを感じ取り、息を吐く。
「あまり、人の多くないところにしてくださいね」
並んで歩いているところを、知り合いに見られたくはない。
女性客が多い喫茶店に、男は何の躊躇いもなく足を踏み入れた。
男――桜庭誠吾(さくらばせいご)は、メニューを透夏の方に向けて視線を寄越す。注文を終えるまで口を開く気はないらしい。透夏としては、早く用件を済ませて帰りたかったのだが、読まれている。渋々写真を指差すと、桜庭は店員を呼んで二人分のケーキセットを注文した。本題に入ろうとしても、のらりくらりと躱され、透夏は苛立ちを募らせる。結局飲み物とケーキが揃うまで、まともに話を出来なかった。
「……それで桜庭さん、一体何の用ですか?」
自然と語調が荒くなる。しかし、不機嫌をそのままぶつけても、桜庭は微笑むだけだった。
「透夏ちゃんに会いに来たに決まってるだろう? それにしても、随分と他人行儀な呼び方だなあ」
「他人です。母の交際相手と私には何の関係もありませんから」
「確かに戸籍上はね」
「戸籍上も、です。それとも、母と入籍する気があるのでしょうか?」
わざわざ聞かずとも、答えは分かっていた。多数の人間との浅い付き合いを好む男だ。案の定、最低の返答がなされる。
「ずっと言っていることだけど、俺は誰とも結婚する気はないんだ」
「では、やはり他人ですね」
ぴしゃりと跳ね除けても、桜庭は気を悪くした様子を見せず、ただ苦笑する。
「つれないなあ」
「私はあなたに用はありません。何もないなら帰ります」
「まあまあ、ちょっと待ってよ。ここのケーキ美味しいんだ。せっかくここまで来たんだから、食べてから帰りなよ」
「……母は、あなたが私とこうやって会ってるの、知りませんよね? 多分いい顔しないですよ」
透夏が懸念しているのは、これだった。透夏が小さい頃は三人で出かけることもあったが、ここ数年は透夏を置いて二人きりで会っている。それも透夏に隠れて。今の母は、桜庭と透夏が親しくするのに乗り気ではない。
「見つからないように気をつけなきゃいけないかな」
「私と会わなければいいんです。母とあなたは今まで通りの関係を続ければいい。それに私を巻き込まないでください」
本音だった。透夏にとっては、母がいればそれで充分だ。母が誰と付き合おうが構わない。ただ、親子の仲を中途半端に掻き乱すような真似をして欲しくないだけだ。
「それはちょっとなあ」
だが、何回言っても、桜庭はこの提案に乗ろうとはしないのだ。そして顔色一つ変えず、透夏にとって最も不愉快な事実を持ち出してくる。
「可愛い娘とのふれあいは、俺にとっても生き甲斐なんでね」
「私に、父はいません」
「父親がいなければ君は生まれてないよ。男と女がいなきゃ子どもは出来ないんだから。中学生にもなったら知ってるでしょ」
桜庭は、さらりとそんなことを口にした。言葉で受ける印象ほどには、いやらしい響きではなかった。それでもどうしようもなく不快で、透夏は眉間に皺を寄せる。
「私はあなたを父とは思いたくありません。万が一あなたが母と結婚することになれば、受け入れるしかありませんが」
「そうか、ゆり子はまだそんな夢を見てるわけだ」
桜庭は透夏の母を下の名で呼ぶ。当たり前のことなのかも知れない。しかし、そんなことすら馴れ馴れしい態度に感じられて、嫌な気分が増した。
「結婚に関してはどうしようもない。変に期待は持たせられないから言うけどね、俺がゆり子と一緒になることはないよ」
「そうでしょうね」
「やけに物分りがいいね」
「あなたがどんな人間か、よく知っているので。桜庭さんは自分が都合よく楽しめればそれでいいんでしょう? 私のことも、動物園のパンダと似たようなものでしかないですよね。物珍しくて、好きなように可愛がっていればよくて、自分は責任を持たなくてもいい」
「手厳しいなあ」
桜庭が透夏を見る目はひどく静かだった。こんな風に何を考えているか分からないから嫌いなのだ。何を言おうとも、どんな態度を取ろうとも、苛立ち一つ見せない。手応えなく受け流される。
「私は別に驚かないですよ。母と同じ立ち位置の女の人が何人いても。もしかしたら、私の兄弟だっているかもしれない」
「やっぱり透夏ちゃんは鋭いなあ」
図星をつかれて気まずさを感じる様子もなく、へらへらと笑んでみせる男に、頭痛すら覚えた。
「詳しく聞きたい? 同じ境遇で気の合う友達になれるかもよ。年の頃も近いし」
「別に。そこまで興味はありません」
透夏は淡々と返し、すっかり冷めた紅茶を口に運んだ。呆れてこれ以上話す気が起きない。
「でも、時々思う事があるんです」
「へえ、どんなこと?」
「もしも私に兄弟がいたら、桜庭さんは、きっととっくの昔に刺されていますよ。私と気が合う子なら、絶対にあなたのことを嫌っていると思うので」
「怖いなあ」
透夏はこの男を怒らせてみたかった。一度だけでいい。声を荒らげ、小娘に怒鳴り散らして、醜態を晒せばいい。しかし、何をしようともそんな機会は訪れない。せめて傷ついたような顔でも見ることができたら溜飲が下がるのに。
「ともかく、私に極力関わらないでください。できるなら母にも」
「それは無理な相談だ。ゆり子が怒るよ」
桜庭は目を細めて笑みを深めた。異性の本能を刺激する類の、酷く魅力的な笑みだった。背筋がざわつく。
透夏が口を開く前に、男は立ち上がった。
「そろそろ帰るよ。俺がいたらゆっくり味わえないだろうからね」
男の皿は綺麗に空になっていた。伝票を取り上げ、優雅に一礼する。
「今日は会えて嬉しかった。また会いに来るよ。君と会う時間は、俺の人生の中でとても重要だ。優先順位、高いよ?」
透夏の他がいることを匂わせる台詞に吐き気がこみ上げる。
「あなたのそういうところ、やっぱり嫌いです」
男が去った後で、目の前のケーキを片付けにかかった。クリームやフルーツで繊細に飾り付けられたケーキは美味しそうに見えたが、食欲がわかない。疲れた所為か味はよく分からなかった。
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