追想B【凍りの眼】(2)
「江波さん」
アパートに着くと、相変わらずの場所に西末は座っていた。珍しいことに今回、先に話しかけてきたのは彼の方だった。
「今、暇? ちょっと手伝ってくれる?」
首をかしげていると手招きされる。近くまで行くと、ツンとした薬の匂いがした。しゃがんだ膝の上に、湿布薬と固定用のテープが乗せられる。
「怪我したの?」
「手首痛めたんだよね。慌ててたら、滑って転んで着地失敗。変な手のつき方しちゃって。しかも利き手」
そう言いながら、ぎこちなく左手を持ち上げて見せる。手首には既に湿布が貼られていたが、よれて皺になっていた。
「大変だね。大丈夫?」
「江波さん、やさしーね。学校で友達に話したら死ぬほど笑われたんだけど。でさ、悪いんだけど手当てしてもらってもいい? 片手じゃ上手くできなくてさ」
特に断る理由はなかった。向かい合って座り、湿布のフィルムを剥がす。皺にならないように少し伸ばして貼りつけていると、西末が口を開いた。
「何かあった?」
静かに落とされた声が問いかけだと、初めは分からなかった。しばらくしてから、答えを待つ視線に気付く。質問の意図を掴めず答えあぐねていると、西末は唐突に笑い声を上げた。肩を震わせながら、よりにもよって「ひどい顔」と呟くのが聞こえた。
「江波さんてさ、ずっとニコニコしてるイメージだったけど、今日は眉間に皺寄せてる。初めて見た」
思いがけない事を言われ、透夏は酷く混乱した。自分がどんな顔をしているのか分からない。それがとても不安で、顔が見えないように俯き、やっとの思いで言葉を返す。
「私、いつもニコニコしてるわけじゃないよ」
「そうだね。僕の勝手なイメージだったみたい」
「……そんなに、変な顔してる?」
「割とね。悲愴な感じ」
臆面もなく言われ、本調子でないことを自覚するしかなかった。桜庭とのやり取りが、まだ心をささくれ立たせているのだ。
切り替えのために一度目を閉じた。澱んだ気持ちを吐き出すように、静かに息を吐く。瞼を開いたとき、西末はまだ笑っていた。透夏が狼狽える様子が余程面白かったらしい。それを眺めて簡単なことだと気付いた。目の前の彼と、同じ顔をすればいいのだ。
「ちょっと疲れてるだけ」
次に出たのは、ちゃんと普段通りの声だった。表情も、思い通りに動いている感覚がする。しかし、西末は一転して不満げに顔を曇らせた。ふうん、と納得していない声で呟く。
「まあ別に詮索はしないけど、無理して笑うのはやめたら?」
「無理なんてしてないよ?」
それを聞いて彼の表情が消える。空いた手で髪をかき揚げ、大きく息を吐いたのが分かった。呆れた、とでも言いたげに。その瞳が剣呑な色を帯びる。
「江波さん、ダウト。大嘘だ。それとも、ホントに無自覚?」
「別に、嘘なんて……」
「いい加減、愛想笑いはやめたらいいのに」
どこか馬鹿にしたような響きで告げられる。流石にその言い草には腹が立って、透夏は思わず言い返していた。
「それを、西末くんが言うの?」
透夏の声が硬くなったのには、西末も気付いたはずだ。しかし、ぶつけられた苛立ちを歯牙にもかけず、彼は口元に笑みを浮かべた。
「ほらね、やっぱり気付いてたんだ。江波さん分かってる? そういう発言した時点で、僕と同類だってこと。他人の裏に気付くのは、自分も裏がある証拠」
彼の表情は穏やかだった。だが、目には鋭い光が宿っている。それには見覚えがある。始めた話しかけた日の、あの目だ。
「僕はもう、こっちのほうが楽だからやってる。でも江波さんはさ、猫被らなくてもいいじゃん。優しいし、可愛いし、勉強できるし。僕と違って色々持ってる。そんな風に、無理してニコニコする必要あるわけ?」
「……無理なんて、してないよ」
「へえ」
今まで考えてこなかったことを突きつけられ、じわじわと空気を奪われるような思いがした。息苦しさに喘ぐように、一言だけ返すのが精一杯で。だが、冷ややかな相槌が、まだ許さないと告げている。
「じゃあ……教えてよ、上手な心の殺し方」
透夏は口を開いた。声は出なかった。言うべきことが、見つからなかった。黙り込んだまま、時間が止まったように二人とも動かない。
「なんてね」
しばらくして、凍った空気を打ち消したのは、西末の方だった。
「冗談だよ。ごめん、八つ当たり。怪我してちょっとイラついてた」
空々しく、軽い言い回しをする。
「まあ、無理が良くないってのは本音。お互いにね」
空気が緩んだおかげで、それまでどれほど緊張していたのかを実感する。久々に呼吸ができたような気がした。
西末が再び口を開く。反射的に身体が強ばったが、尖った気配はもうしなかった。
「ありがと」
唐突な言葉が何を指すのか一瞬分からず、反応が遅れる。西末の左手が透夏から離れていく。剥がしたフィルムと薬の匂い。そこでようやく、手当ての途中だったことを思い出した。
「あ、まだ、テープ貼ってないよ」
それを聞いた西末は、何故か噴き出す。
「ホント優しいよね。僕とは大違いだ」
もう一度手を差し出しながら呟く西末に、透夏は恐る恐る尋ねた。
「西末くんは、さっきみたいなことを私に言って良かったの?」
西末は少しだけ考える素振りを見せ、いつものように柔らかい口調で答えた。
「優等生の江波さんは、人の悪口を言いふらしたりできないでしょ?」
細めた目の奥は、相変わらず暗く光っている。夜の湖のように、底が見えない。
翌朝、彼がアパートの階段を下りてきたところで鉢合わせた。常のようにわざとらしく微笑むかと思いきや、気まずそうな顔をする。透夏はその横を通って、何も言わずに歩き出した。
通学路が同じなので、すぐ後ろにいるのが分かる。静寂に耐えかねたのか、西末が透夏に向かって呼びかけてきた。
「ねえ……怒ってる?」
「何のこと?」
「ほら、昨日色々……」
「全然? 気にしてないよ」
立ち止まって振り向き、不自然なほど明るい声で返すと、西末は呻き声を上げた。
「……嘘だ。顔が笑ってないもん」
「昨日、いいアドバイスもらったから。『笑うのはやめたら?』って」
「ニュアンスが違う」
「私がどんな顔をしても、西末くんには関係ないよね」
「確かにそうだけどさ、調子狂うんだよ……どうしたら許してくれる?」
昨日の勢いが嘘だったかのように、弱った声を出すのがおかしかった。実際のところ、怒りが続いているわけでもない。わざわざ考える素振りをして見せたが、望むことは決まっていた。
「もう学校で無視しないなら」
「……友達のことは無視しない。だけど、本当にそんなのでいいの?」
「だめ?」
首を振る西末に、透夏は微笑みかけた。知らないうちに、西末にとっての透夏は、友達という言葉で表せるようになっていたらしい。それだけで、充分報われたような気がしていた。
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