追想B【凍りの眼】(3)


 二月末の、最後の雪が降った日だった。

 西末とは、下校時刻が重なって一緒に帰ることも増えたが、そうでない日は階段の下を覗き込むのが、透夏の日課になっていた。息が凍りつくような日でも、彼は相変わらずアパートの階段の影で隠れるように過ごしていることが多い。『鍵を忘れちゃって』は最早常套句だ。うっかりも度が過ぎている。父親が帰ってくるのは夜遅いらしく、長時間外で待っているらしかった。冷たいコンクリートの上で、特に何をすることもなく。それでも、風邪一つひかないのだから大したものだけれど。

 その日もいつものように声を掛けようとして、息を飲んだ。明確な言葉は出ず、引き連れた悲鳴のような声が漏れる。荷物が手から滑り、音を立てて落ちた。

「西末くんっ!?」

 駆け寄ろうとしたところで、気付いた西末から鋭い声が飛ぶ。

「来るなっ」

 強い拒絶に一瞬怯んで足が止まる。だが、気にしてはいられなかった。

 西末は、コンクリートの上に座り込んで俯いていた。右手が顔を隠すように添えられている。その隙間から、赤い雫が滴り落ちている。血が手首や顎まで伝い、足元に小さな水たまりを作っていた。

「なに、これ……病院、救急車、呼ばなきゃ」

「いい」

「だって血が」

「いいから、大丈夫」

 目を瞑りながらも尚、硬い声を返してくる。せめて傷の具合を見ようと手を伸ばせば、西末は逃げるように身体を引いた。顔を背け、透夏の手を阻むように腕を上げる。

「汚れるから」

 無視して、傷口を覆う手を剥がしにかかった。西末は払い除けるような素振りを見せたが、自分の両手が血で染まっているのに気付くと、結局諦めたように腕を下げた。

 髪の生え際に、パックリと線が入ったようになっている。傷口は大きくはないが、血は乾いていない。顔に幾筋も垂れて、シャツの襟を血で汚していた。

「……ちょっと切れてるだけだから」

 言い訳のように、大したことないと繰り返すのを聞き流す。ハンカチを取り出して傷口を押さえると、ぎょっと驚いた顔を見せた。

「ちょっ、待って、血が付く」

「緊急事態でしょう!」

 口をついて出たのは怒鳴りつけるような声だった。西末はオロオロと頼りなさげに視線を彷徨わせる。

「あー……自分で押さえるから」

「じっとして」

「ごめん、ハンカチ、弁償……」

「黙って!」

 西末は今度こそ静かになった。重なった布の裏側まで赤い染みが広がってくる。落ち着いたところで、傷口の圧迫は本人に任せたが、このまま放っておくわけにもいかず、透夏は隣に腰を下ろした。

「どうして怪我したの?」

「格好悪いからあんまり言いたくないんだけどな」

 いつもの調子を取り戻した西末は、ヘラヘラと笑いながら答える。

「そこの階段で足を踏み外して、下まで転がり落ちそうになったから、咄嗟に手すりを掴んだわけ。そうしたら、落ちはしなかったけど、勢い余って頭ぶつけてさあ。痛くて頭を押さえたら手が真っ赤になってるんだもん。本当、焦った……」

 言いながら、言葉が尻すぼみになっていく。明らかに嘘だ。目を見ずとも分かった。苦しい言い訳だというのは、自身でも分かっているのだろう。俯き気味の横顔は頑なにこちらを見ない。

「僕が迂闊だったのが全部悪いから……信じてよ」

 絞り出すような声に、これ以上は何も言えなかった。

 ぐったりと目を閉じる西末が、そのまま動かなくなってしまいそうで、肩を揺すった。

「西末くん。ここで寝たら駄目だよ」

「大丈夫。起きてる。でも……ちょっと疲れた」

 西末は弱々しくかすれた声で言いながらも、透夏には家に入るよう促した。

 透夏はそれに答えず立ち上がる。救急箱を持ってこよう。何かしら手当の道具は入っているはずだ。それから、何か身体の温まるものを。今日もらしい西末は、きっと夜遅くまで父親の帰りを待つのだろうから。


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