追想B【凍りの眼】(4)


 あの日以降、怪我の話が持ち越されることはなかった。しばらく一緒に過ごして分かったのは、西末は友人が相手でも隠し事が多いということだった。慣れてきたからか、彼は大分砕けた様子で接してくるようになった。しかし、尚も続く愛想笑いには壁を感じることがある。

「来週のテスト、どう? 提出物、多過ぎだよね」

 頭を抱える西末を横目に透夏は首をかしげる。テストだからといって特別なことは何もない。いつも通りのことをするだけだ。

「期末だからでしょう。ほとんどノート提出だから、普段の授業でちゃんとしていたら大丈夫」

「その『普段』に自信がないんだよなあ。優等生の江波さんと違って」

「それどういう意味?」

「褒めてるんだって。江波さんは、授業中に居眠りなんかしなさそう。いつも背筋伸ばしてちゃんと聞いてるイメージ」

「確かに居眠りはしたことないなあ。お母さんに怒られちゃうから」

 ほらやっぱり、と恨めしげに呟き、西末はテスト範囲を写した紙を広げた。鉛筆でチェックを入れているものが提出済みの課題らしいが、まだ半分以上残っている。

「困ってるなら、ノート見る?」

 見かねた故の純粋な提案だったが、何故か西末は眉を寄せた。少し躊躇いながらも、溜め息混じりに言う。

「……あのさ、友達だから忠告しとく。その親切癖、やめた方がいいと思うよ。誰にでも優しいと都合よく使われる」

 首をかしげると、西末は指を折りながら実例を挙げてきた。カイロ、辞書、マフラー、湿布、ハンカチ、絆創膏、ひざ掛け、ノート、お茶、宿題、チョコレート、話し相手……西末が透夏を都合よく使った分らしい。透夏が自覚していなかったものも含めて並べられると、確かにお節介が過ぎたようだ。

「まあ、僕が言っても説得力ないね。ノート貸して」

「さっきの忠告の意味は……」

「それはそれ、これはこれ」

 使えるものは使う主義だとおどけてみせる。



「ところで時間は大丈夫なわけ?」

 テスト範囲を二人で見直していると、西末がふと顔を上げる。数ヶ月前と違うのは、この言葉が追い払う意図ではなく、気遣いから出たものだということだ。案外彼は、友人相手に親切な振る舞いをする。

「今日は平気。でも、そろそろご飯の準備をしないと」

 西末は鉛筆をはさんでノートを閉じた。

「そ、じゃあ」

「うん、またね」

 別れの挨拶を交わし、階段の影から出る。

 透夏は何の気なしに西末が住んでいる二階の方を見て、ひゅっと息を吸った。脈拍が急に速くなったと感じたのは、緊張ゆえか、高揚ゆえか。あるいはどちらもだ。見つけた、と思った。

 西末が江波と接するときの態度は、大分変わったと感じる。初めの頃のような当たり障りのない受け答えではなく、他愛もない冗談を言ったり、時折皮肉めいたことを言ってみたりもする。

 しかし、内面に一歩踏み込もうとすれば、相変わらず巧く躱される。いい加減、しびれを切らしていた。治らない猫被りには、多少の荒療治も必要だと思うぐらいには。薄っぺらな笑みの貼り付いたよそ行きの顔を、今から引き剥がす。そのための鍵を手に入れた。

 彼の心の中の、深く深く潜って光の差さないところに箱が置いてある。その箱はきっと、綺麗なものだけを詰め込んだ宝箱ではない。開けてはならぬ、禁忌の箱だ。触れることすら彼の意に反すると分かっていても、透夏はどうしても見たかった。夜の湖のような瞳の、その奥に隠された感情を。固く閉ざされた箱の錠を、今なら開けられる。

 緊張を覚えながら、再度西末の隣に腰掛ける。

「どうかした?」

「えっと」

 いつもより速い鼓動を自覚しつつも、平静を装って口を開いた。

「やっぱり、もう少し居ることにする」

 西末は疑う様子もなく、そう、と相槌を打つ。

「……西末くんのお父さんも、西末くんと同じでうっかり屋さんなの?」

「うーん、どうだろ。俺のうっかりは度が過ぎてるから。親父はそんなことないかな」

「そう? 遺伝かと思った」

「なんで? たまに突拍子もないこと言うよね、江波さんって」

 世間話だった。ここまでは。

「だって……部屋の電気、ついてるよ」

「……へえ」

 途端、肌が粟立つような感覚に襲われる。

 隣に座った西末の表情は変わっていない。しかし、声は明らかに冷気を帯びた。

「……親父、つけっ放しで出たんだな。気付かなかったよ」

 もう分かっている。何でもないと装う時の語り口だ。

「嘘。帰ったときに見えるはずだよ。ドアの横にも窓があるんだから」

「いや、実は今日は上まで行ってないんだ。鍵がないのにドアの前まで行ったってしょうがないでしょ?」

「それも嘘。もしかしたらお父さんがいるかもしれないのに、確認もしなかったの?」

 西末は、透夏の追求に対して乾いた笑いを漏らし、さも困ったように眉根を寄せる。

「嘘だって言われても、本当の事だからなぁ……親父は仕事中のはずだし、諦めてたから。階段を昇る分のエネルギーがもったいないっていうか」

「じゃあ、家の前で待っててもいいし、大家さんに鍵を開けてもらったっていいよね」

「今更そういうこと言うの? まあ、こんなところで待つのは邪魔だったかもしれないね。これから気をつけるよ」

「論点はそこじゃない。誤魔化さないで」

 西末は肩をすくめて首を振る。

「やけにつっかかるなあ。別にちょっと待ってたら済む話でしょ。僕の不注意が悪いんだし。これだけのことで、いちいち大家さんに迷惑かけるのもね」

 西末は本心を隠すのに慣れている。柔和な笑みで、社交術で、相手に違和感を抱かせることなく距離を取る。だからこそ追求に慣れていない。追い込まれれば言い訳が増え、喋りすぎる癖がある。

「だから、いつも階段の下にいるんだね。大家さんの家から見えにくいように」

「まあね」

「お父さんが帰ってくるまでの間だもんね。そんなにかからないよね」

「うん、そう。もうすぐ帰ってくるから」

「今は誰も家にいないんだよね」

「そうだよ」

「じゃあ……インターホン鳴らしてみてもいい?」

 立ち上がりかけた透夏の手を、西末はすばやい動きで掴んだ。その手は生きているのが疑わしいほど冷たい。透夏の手首に、凍ったような指先が強い力で食い込む。

「痛っ」

 反射的に上げた声に怯んだのか、少しだけ力が緩む。だが、決して透夏を上へ行かせる気はないようだった。

 夜色の瞳が二つとも彼女を見ていた。その奥底に揺蕩(たゆた)う冷たい色を、透夏は知っている。目を合わせたが最後、彼に逆らうことはもう出来そうになかった。

「……嘘だよ。そんなことしないよ」

 まだ手は緩まない。言葉の意図を掴もうとしているのか、西末は瞬きすらせずこちらを伺っている。剥き出しの警戒心に身が竦ませながら、透夏は慎重に言葉を選んだ。西末を必要以上に刺激しない言葉を。そして、隠すのは無意味だと悟らせるための言葉を。

「いるんだよね、お父さん」

 西末がきつく唇を噛むのが見えた。言葉は何も返ってこない。でも、それでよかった。透夏からの問いかけは、答えを期待したものではない。ただ真実であると確信を持つために。

「いるから、入れないんだよね」

 これ以上追い詰める必要はない。

 力を失った手が、パタリと地に落ちた。

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