追想B【凍りの眼】(5)
「適当に座って。お茶入れるから」
西末を家に入れたのは初めてだった。部屋の作りは上の階と同じはずだが。西末は所在なさげに視線を彷徨わせている。
「家の人は?」
「今日お母さんは出張。明日まで帰ってこないから、遠慮しないで好きなだけいて」
「お父さんは?」
「いないよ。うちは母子家庭だから」
「いいの。勝手に連れ込んで」
「ばれたらまずい、かな。お母さん、私が男の子と仲良くするの嫌がるから。内緒にしてね」
「内緒も何も、話す機会ないし」
俯く西末の前にマグカップを置く。身構えるように身体を強ばらせてこちらを見たが、カップが一つしかないのを見て瞬きをした。透夏は座らず、そのまま台所に戻って冷蔵庫を開ける。
「ねえ……聞きたいこと、あるんじゃないの?」
「話は晩ご飯の後で。一緒に食べよ。卵焼きは甘いのとしょっぱいのと、どっちが好き?」
「……あまい方がいい」
「分かった。待っててね」
静かな食卓だった。それでも母親と二人の時とは違い、相手の存在が強く意識される。食べ物を黙々と口に運ぶ最中でも、時々視線が交差し、その度に少し緊張感が漂う。
食事を終えると、その緊張は目に見えるものとなった。時々目が合っては逸らされる。テーブルの向こう側の手が、カップの取っ手を持ったり離したり、せわしなく繰り返して落ち着かない。
これ以上は埒が明かない。隠し事を暴いたのは透夏だ。ならば、話のきっかけは透夏が作るのが筋なのかも知れない。
「……聞きたいことがあるんだけど」
「何」
西末の纏う空気がピリリと張りつめたのが分かった。彼は少し焦れば饒舌になり、さらに余裕が無くなれば口数が減る。今は後者だ。追い詰め過ぎた。こちらを見る瞳の奥深くから、警戒心の強い獣のような気配がする。踏み込み間違えれば、逃げられる。透夏は慎重に言葉を選び、口を開いた。
「どうして未だに猫被ってるの?」
透夏の前置きに身構えていた西末は、予想が外れたとばかりに力を抜いた。
「別に被ってないし」
「そんなことないでしょう? 初めて話した時の西末くんの素っ気ないことといったら……予想外でびっくりした。あんな風に邪険にされるなんて思わなかったから」
「悪かったよ」
西末は、ばつが悪そうに透夏から視線を逸らす。
「いいよ。今は普通に話してくれるから。で、やっぱりあっちが本当? 学校で雰囲気が違うのは、やっぱり作ってるから? 演技?」
「そこまで器用じゃない。少なくとも江波さんと話すときは、もうほとんど本音だよ」
「あれでも? いつもニコニコしてるのが?」
西末が額を押さえて息を吐く。その目がじとりと拗ねたような視線をよこした。
「……江波さんさ、根に持ってない?」
「何を?」
「前に僕が、愛想笑いをやめろって言ったの」
「どの口が言うんだか、とは思ってる」
その返答を聞くと、西末は肩を落として頭を掻く。
「やっぱり……あの時言ったろ。僕のこれは、もう癖みたいなものなんだよ。楽だからこういう顔してんの」
「ふうん。じゃあ、私が会った時はたまたま機嫌が悪かったわけだ」
「そうだよ……理由、もう察しは付いてるんだろうけど」
西末は、話の流れを自ら本題に導いた。ようやく話すつもりになったらしい。
「お父さんが原因?」
透夏の問いに対し、西末は躊躇いながらも確かに頷いた。
そこからの話は聞き手に徹した。西末は淡々と淀みなく、自身を取り巻く事情を明かしていく。
小さい頃に親が離婚し、父に引き取られたこと。父の転勤が多く、住む場所を転々としていること。父親は外では普通だが酒癖が悪く、酔ったら暴れること。手を挙げられること。いつも殴られる前に逃げているが、時々失敗して怪我をすること。家の中にいると逃げ場がないので、父親が寝て酒が抜けるまでは外で待っていること。そして――このことを誰かに知られるのが嫌だったこと。
「しょっちゅう痣ができるから、夏場は特に困ったよ。水泳の時期でも服が脱げなくて、前の学校では夏風邪をひいたことにして誤魔化してた」
「この前の怪我も全部?」
「うん。そう」
「鍵を忘れたっていうのも」
「全部嘘。どこの世界に毎日家の鍵を忘れる人がいるのさ。自分でついた嘘だけど、馬鹿らしくて呆れる」
「どうして、そこまで」
「知られていいことなんてないだろ! 何かの解決になるわけ?」
吐き捨てるような言葉にはっとする。
初めは好奇心だった。僅かに覗いた本来の感情を知りたくて、近付いた。そして暴き立てた後、何もできることはないと気付いた。今となっては、興味本位で聞き出してどうするつもりだったのか自分でも分からなかった。
いっそのこと、荒げた声のまま非難してくれた方が良い。怒鳴り散らして全部吐き出してくれれば。それなのに、彼の目に灯った怒りはすぐに熱を失くす。常と同じように穏やかな表情で続けるのだ。
「どうせいつかはバレると思ってたから、もういいんだけどね」
透夏の前で吐露した気持ちは、あまりにも無防備に痛みを訴えてくる。しかし、表情も口調も、心を見せるのを放棄していた。嘗ての彼が教えろとせがんだ、『心の上手な殺し方』の意味が分かった。こういうことなのだ。全てを隠し、諦め、悲鳴を上げる感情を無視して体だけはただ笑う。それが楽だと言い切れるようになるまで、ずっと。
「本当は全部、どうにかできるはずなんだ。嫌なら家に帰らなきゃいいし、酒なんて隠しちゃえばいいし、殴られる前に逃げればいい。ここまで分かってるんだから、きちんと対処すればいいのに、そうできない僕が全部悪いんだよ」
西末はすぐ、自分の所為にしたがる。他人を簡単に許す裏側で、自分で背負い込んでいく。傍観者でしかない透夏が、それを間違っているとは言えない。
たかが友人の透夏が、なんの助けにもならないことは理解できた。それでも、稚拙で親切ぶった言葉が口をついて出た。
「何か私にできることある?」
「ない。首を突っ込んでも、いいことないよ」
はっきりとした答えに、返す言葉はもうない。
「じゃあ、そろそろ帰る。晩飯ありがと。美味しかった」
席を立った彼が浮かべていたのは、無防備で嘘のない微笑だった。こんな形で見たくはなかった。本心からの表情であるはずなのに、人はここまで淋しく笑えるのだと突きつけてくる。自分の生き方を悟った少年の、精一杯の幸せが、たったこれだけなのだと。
「そんな顔しないでよ。これでもさ、君には感謝してる」
困ったような声を出す口元は、相変わらず弧を描いている。
「誰にも知られたくなかったのは本当。でも、何にもないって顔をするのも、息苦しかった。だから、今までずっと隠してたことを吐き出せて、少しすっきりした」
ありがとう、と言った声は聞き逃しそうなほど微かに、震えていた。
大丈夫? とは聞けない。大丈夫なわけがない。だが、理不尽な暴力に晒されようと、酷な扱いを受けようと、自分たちのような子どもにとって、帰る場所は一つしかない。傷つくと分かっていて、それでもその場所に帰るしかないのだ。
何も言えないまま、玄関まで着いていく。別れの挨拶をして、見送って、彼は彼の家に帰る。心を凍らせて一人で耐えるしかない場所へ。何の拠り所もなく光も差さない、夜の湖底のような日常へ。
きっと知らないふりを望まれている。次に会ったとき西末は、今夜のことが無かったかのように振舞うだろう。容易に想像できた。
彼がドアノブを掴むその前に、透夏は反対側の手を取った。手のひらはまだ温かい。
「またうちに来て。それで、一緒にご飯食べよ。今日みたいに。何かあったら……何もなくても」
西末は目を見開き、握られた手を見つめた。それから眉を下げて、呟くように言う。
「……さっき忠告した。首を突っ込んでも碌なことにならない」
「だから、西末くんの家のことには関わらない。もう、しつこく詮索しないって約束する。勿論、話したくなったら話してくれたらいい。愚痴ぐらい聞くよ」
「それ、江波さんは何か得するの」
これは透夏の我儘だ。理由が要る。決して嘘ではなく、西末が背負わなくても済むような理由が。
「お母さんがいないときに、一緒にご飯を食べる相手ができるの、私は嬉しいよ?」
西末はそう、と短く相槌を打った。骨張った手が、透夏を少しの力で振りほどく。踵を返した彼はドアを開ける直前に、小さな声で答えた。
「考えとく」
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