凶刃(2)
大学院の講義が終わり、優也が事務所に到着すると、所長と新入りが向かい合わせに座っていた。
「それで、透夏ちゃんに近付く男を次々襲ってるってわけ。これで二人目」
通り魔の経緯を説明しているらしい。貴重な戦力の正所員は、通り魔に階段から突き落とされて足を骨折し、現在入院中だ。未熟な新入所員の手も借りたいほど忙しいのだろう。
説明を受けた新入りは眉を顰め、口を開く。
「本人に心当たりないんですか。全く面識のない人間とは考えにくいんですけど」
「本人は聞いても言わないからね」
所長は首を振り、お手上げ、とポーズを取る。優也も学校の知り合いを順に思い浮かべるが、江波と関わりの深い人物がそもそもいない。
「結構、執着してる感じだものねえ。江波ちゃんの周りでそういうことしそうな人……所長?」
「いやいや。濡れ衣、濡れ衣。ともかく、全然分からないんだよね。こっちとしても努力はしてるんだけどねえ。GPSとか、盗聴器とか」
冗談が冗談にならないレベルの、聞き捨てならない言葉は、無理矢理聞かなかったことにする。触るな危険の領域だ。
頬を引きつらせていると、新入りと目が合った。
「ヒロミさんはどうして襲われてないんですかね」
「そりゃあ、私、こんな見た目だし、こんな口調だし、男にカウントされてないんじゃない?」
新入りが電話を取って仕事に向かったため、事務所内は所長と優也の二人になった。事務処理をこなしていると、不意に所長が悲鳴のような声を上げた。
「優ちゃん、優ちゃん、どうしよう」
「何?」
「まかれた」
意味がつかめず問い返すと、江波の位置を見失った、と返ってきた。
「GPSがあるんでしょ?」
「それがさあ、見てよこれ。」
所長が手にしたタブレットPCを覗き込むと、江波の位置を示す緑色の点が浮かんでいる。地図上でいうと……この事務所だった。
「ここ?」
思わず辺りを見回すが、当然江波の姿はない。
「優ちゃん、今日あの子に会った?」
「ご飯は一緒に食べた」
「ちょっと、鞄の中身見せてくれる?」
優也がレディースファッションをするときは、周りを倣って小さなカバンを持つことにしている。ポケットに財布やスマートフォンを入れて、シルエットを崩したくないからだ。中身を全て取り出すと、自分のではないスマートフォンが出現した。
「江波ちゃんのだ……」
所長が腹立たしげに、ソファの上にタブレットを投げ出した。
***
「西末悠は見つかったかい?」
夜になって事務所に表れた江波に対し、所長は低い声を出す。聞いたことのない名前だったが、江波に関わる人物なのだろう。江波は動じず、質問にも答えなかった。
「知ってますよね? 干渉されるのは嫌いだって。必要以上に干渉しないのが、一緒に暮らすための前提だったと思うんですけど。私、嘘つきも嫌いですよ?」
挑むように所長を見る。
「どうしても気になるなら、GPSを使ったらいいんじゃないですか?」
その言葉に、所長は苦々しい顔をする。出し抜かれたあとにそう言われると、苛立つのは当たり前だ。
「俺はね、君を西末悠に会わせる気はないよ」
「西末くんは、会いに来てくれると思います。約束したから」
「西末悠は君のことなんて、きっと忘れてる」
「分かったような口を利かないでください」
淀みない二人の応酬に、詳しい事情を知らない優也は口を挟みかねる。
「断言するよ、こだわっているのも、執着しているのも、君だけだ。君は母親に依存気味だったね。それなのに、母親が死んでからは全く口に出さなくなった。初めはね、君があまりに強いショックを受けたから、母親のことを話さないのだと思っていた。でも、すぐに違うと気付いたよ。君は代わりに、西末悠のことをよく話すようになった」
「何が言いたいんですか」
所長は穏やかに、止めを刺す。
「母親がいなくなって、依存の対象が移っただけだよ。その執着は、ただのまやかしだ」
聞いていて、随分酷なことを言うと思った。しかし、江波はひるまない。
「西末くんのことを、よく知りもしないくせに」
「中学時代の彼に会ったことがあるよ」
優也がついていけないまま、『西末』という人物を中心に、二人は言い合いを続けている。
「人畜無害そうに見えて、食えない目をしていた。あれは、目的のためならなんでもできる目だ。現に、君の母親を殺した」
その言葉に息を飲む。事件のことは少しだけ知っていたため、繋がった。江波の母を殺して、江波自身にも傷を負わせた少年Aが、西末悠。
「君の関心を奪うことが彼の狙いだったなら、目論見はまんまと成功している。透夏ちゃんは、母親がいなくなって、西末のことばかりに心を奪われている」
黙り込んだ江波から目を反らし、所長はその腕を引いて無理やり立たせた。
「送っていくよ」
「……私。今日は美幸の家に泊まります」
「それでもだ。送っていく。拒否はさせない」
引き摺るようにして連れて行かれる江波が、助けを求めるように優也を見た。混乱した頭では、それに助け舟を出すことは出来なかった。
***
美幸の家に透夏がやってきたとき、いつになく沈んだ顔をしていた。事情は間接的に伝わってきた。桜庭とやり合ったらしい。
「西末くんはね」
布団に入った彼女がポツリと呟く。それが美幸に向けられたものかは分からなかった。
「理不尽のつらさを知ってる人だよ。だから、好き勝手な思いをぶつけたりはしない。自分が壊れる方を選びたがる」
美幸が知っている彼は違う。週刊誌の上での彼は、幼い頃から父に虐待を受け、透夏と母親の仲が良いことを妬み、透夏に身勝手な憎しみを抱いて全てを奪った凶悪犯だ。
しかし、透夏のいう『西末悠』を否定する気にはなれなかった。美幸は昼間の出来事を思い出す。本当は胸に秘めておくつもりだったが、この状態の透夏に隠すのは酷だ。
「透夏、見て」
カバンの中から、図書館で見つけたカードを出して、透夏に手渡した。その文字を追った目に、涙の膜が張る。透夏が泣くところを初めて見た。
「近くにいるの?」
「可能性はあると思う」
透夏の背中を撫でていると、着信メロディがなった。こんなときに、と苛立つが、緊急の連絡だったら困る。
「はい、もしもし」
警察のものですが。
予想外の言葉に、一瞬息が止まった。美幸は声の震えを必死で抑えながら、何とか受け答えをする。
「はい、はい、そうです。桜庭誠吾は私の父ですが。ええ、調査中に? 刺された?」
混乱した頭で、何とか話の要点を拾う。男が通り魔に襲われて重症を負った。男の名前は桜庭誠吾。調査事務所の所長で、美幸の、そして透夏の父。
透夏を起こして着替えながら、震える手で、桜庭調査事務所の電話番号を選ぶ。
***
駆けつけた病室の前で、優也と合流した。美幸が事情を聞いている途中も、透夏はじっと桜庭の様子を伺っていた。桜庭は口に管を付けられ、目を固く閉ざしている。
「……私の所為だね」
透夏の呟きは誰にも拾われなかった。桜庭が聞いていたら、肯定するのだろうか、それとも否定するのだろうか。
***
透夏のアパート前にて、恭二は怪しい男を見つけた。闇に佇み、アパートの方をジッと見つめていた。気になったのは、なんとなく見覚えがあったからだ。その目が恭二の方を向いたとき、その正体について確信した。
貼り付けたような優等生面も、得体の知れない瞳の深さも、記憶の中と変わらない。しかし、彼はもう、少年ではなかった。背も、肩幅も、大人の男のものだった。当時十五だった少年は、透夏や恭二と同じように八年の時を重ねてそこに立っている。
「西末悠」
その名を呼ぶと、男は意外そうに目を瞠った。恭二のことを思い出そうとしているのか、首を傾げる。
「どういうつもりだ。お前なのか、通り魔って」
男は肯定も否定もせず、はぐらかす。
「僕は……江波さんに会いたいだけです」
「何が目的だ。透夏をまた不幸にするつもりか?」
「僕は……江波さんに幸せになって欲しいと思っています」
「……警察を呼ぶぞ」
「どうして? 僕はただ話しているだけです。何か罪を犯しているわけじゃない」
「透夏に近付くな」
男はもう何も言わなかった。恭二の前で左手を後ろに回した。ナイフでも隠し持っているのでは、と警戒したが、スマートフォンの画面を確認しただけだった。
ちらりと恭二に視線をよこしたが、軽く会釈し、結局何もせずに去っていった。恭二は焦りを覚えた。
西末悠が、透夏のすぐ近くに潜んでいる。
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