追想C【殺意のベクトル】(1)
食器を片付け、部屋に戻ろうとした透夏を、母が後ろから呼び止めた。
「何、お母さん」
母はすぐには用件を言わず、振り向いた透夏のつま先から頭までをじっくりと眺める。そして、機嫌よさそうに笑った。
「やっぱり。あなた、髪が伸びたわね」
***
小春日和で、制服の上着が少し暑いぐらいだった。いつもの場所に腰を下ろし、マフラーを解くと、西末が不意に声を上げた。
「あれ、江波さん髪切っちゃったの?」
「肩に付いていたからね」
西末は、ふうん、と納得していないような相槌をよこす。
「言うほど長くはなかったと思うんだけどな。もっと長い女子だって沢山いるのに。結べば良かったじゃん」
「別にいいの。短いのも悪くないから」
「それを言うなら、長いのも悪くないと思うんだけど」
「やけにこだわるね」
からかい半分で言うと、
「単に好みの問題」
というふうに、しれっと返された。
「長いほうが好きなの?」
「個人的にはね」
「でも、ずっと短くしてるから。お母さんも、あんまり長いとみっともないからって」
それじゃあ仕方ないか、と残念そうに呟くのが聞こえた。
「江波さんのお母さんはショートカット派なわけね」
「んー……お母さんはロングだけどね」
西末の目が訝しげに細められる。
「何それ」
「……私も伸ばしたくないからいいんだよ。前にお母さんの彼氏がね、『透夏ちゃんは髪を伸ばした方がかわいいね』って言ったから。嫌いな人にそんなこと言われても不愉快だよね」
身内の話を勝手に晒すことに罪悪感を覚えながらも、透夏は母と桜庭のことを口にした。ここまでの内情を他人に話したのは初めてだった。
西末の秘密を暴いて以来、自分だけが相手の弱みを握っているような居心地の悪さが付きまとっていた。だから今回、自分にとって秘密に近い事柄を、敢えて差し出した。実際に口に出してみると、思っていたよりずっと容易い。ためらいを覚えたのも確かだが、一方で胸のつかえが取れたような心地もした。黙っているのは、自分で感じていたよりも遥かに負担だったらしい。
「その人のこと、嫌いなんだ?」
あまりにも意外そうに言うものだから、理由を聞くと、江波さんに人の好き嫌いがあるとは思わなかった、と返された。西末が抱く透夏像は、実物よりも人間味が薄い。
「私にだって嫌いな人ぐらいいるよ」
そう言うと、別に幻滅されるわけでもなく、西末はそれもそうだと納得したように頷いた。
「とりあえず、お母さんの彼氏が気にくわないんだね」
「うん、嫌い。私はお母さんがいればいいの」
「でも、もし結婚話でも出たら大変じゃん。嫌いな奴と一緒に住むわけでしょ」
「それは大丈夫」
西末の口にしたことは、絶対に現実にならない。それが今のところ、透夏の心の拠り所だった。
「『子どもが出来ても結婚はしない』って断言してる最低男だから」
家庭環境はお互い複雑だ。一度話し出せば、止めどなく溢れてくる。日々の苦労を分かち合ったところでその日は終わった。まだ話し足りないぐらいだった。
数日後に、例の最低男に遭遇するとは思ってもみなかった。
***
「やあ、透夏ちゃん」
桜庭は、中学校の下校時刻に合わせて透夏が通りかかるのを待っていたらしい。透夏にとっては待ち伏せとしか言いようがない状況だった。しかし、男の整った容姿の所為か、見咎められることもなくうろついている。これがもう少し怪しげな風貌なら、近所の住人が通報の一つでもしてくれたかもしれないのに。忌々しいことに、世間は美しいものに寛容だ。
「今、暇?」
「全く暇じゃありません」
「またそんなつれないこと言って……久しぶりに会えたっていうのに」
「別に会わなくていいです」
「まあまあ、そんなこと言わずに。どっか行こう。どこでも好きなところに連れてってあげる。買い物? 映画? カフェ?」
「どこにも行きません」
透夏は、これ以上ないほど冷淡な対応をしていると思うのだ。期待を持たせるようなことは何一つ言っていない。気に入られようとも思っていないし、最低限の社交辞令すら忘れたように接している。それなのに、桜庭はしつこく誘いを続けてくる。考えていることが分からず、手を握り締めて唇を噛んだ。これ以上どう言えば断れるのか思いつかない。頭が痛む。本心の見えない瞳を見るのが苦痛で、目を伏せた。顔を上げる力すら奪われる。
「実はね、ゆり子とディナーの約束をしてるんだ」
挙句の果てに、母と透夏の関係を踏み荒らそうとする。親子ごっこができる時期は、とうの昔に終わったというのに。
「透夏ちゃんも一緒にどうかな。俺が誘ったと言えばゆり子も怒らないさ」
桜庭の手が透夏の肩を抱く。抗う気力はもうない。
「江波さん?」
二人の世界を破るように、その声が耳を打った。いつの間にか近くに来ていた少年が、透夏の隣に並ぶ。
「にしずえ、くん」
西末は透夏の方を横目でちらりとだけ見て、桜庭に向き直る。そして何故か、礼儀正しく頭を下げた。
「こんにちは」
「ああ、こんにちは」
桜庭は、目の前に立つ少年を興味深そうに見つめている。西末はその視線に怯まず微笑んだ。
「江波さんの知り合いの方ですか?」
「ああ、そうだよ。桜庭誠吾と言います。透夏ちゃんの母親の友人(・・)でね。君は?」
「僕は西末悠です。江波さんとは隣のクラスで、仲良くさせてもらってます。彼女に何か用事ですか」
「今日は一緒に夕飯を食べに行こうと思って誘いに来たんだ」
「何だ、そうだったんですね。江波さん、そうなの?」
肯定したくはないが、違うとも言えない。迷った末、仕方なしに小さく頷く。すると、西末はわざとらしく首をかしげて眉根を寄せ、考え込むような素振りを見せた。
「困ったなあ……江波さん、僕との約束忘れてた?」
何の話かと問うように顔を見上げれば、西末は大袈裟な動作で透夏の肩を掴んだ。
「テスト勉強教えてくれるって言ってたじゃん!」
自然と透夏の体の向きが変わり、桜庭の姿が視界から逸れる。閉塞感がなくなり、息がしやすくなったような気がする。
「先約があるなら違う日にしたのに」
テスト勉強の約束については完全に作り話だった。つまり透夏のために用意された、丁度いい逃げ道だ。西末と会話をわざわざ聞かせることで、桜庭と直接話さなくても、同行できないと示すことができる。
「期末試験、明後日からだよ? 分かってる?」
「……分かってる。別に、先約ってわけじゃなくて」
「え、違うの? このおじさんとは約束してない?」
「してない」
「じゃあ、こっち優先してよ。すみません。江波さんは僕と予定があるので。日を改めてください。テスト前なんです。江波さんの助けがないと、成績が本当にやばいんで」
しかし、桜庭は簡単には引き下がらなかった。
「でも、透夏ちゃんのお母さんも来るんだよ?」
桜庭がそう言うと、西末の手に力がこもったのが分かった。首から上はポーカーフェイスのまま。それでも少しだけ焦っている。桜庭の言うことが本当なら、助け舟を出した西末は、勘違いした邪魔者に成り下がる。そうさせるわけにはいかない。
透夏だけでは断りきれなかった。ここで西末も引けば、なし崩しで桜庭に同行することになるだろう。透夏は肩の上に乗った手に、自分のものを添えた。桜庭に向けられていた視線を、もう一度透夏の方へ引き寄せる。
表情で、行きたくないというこちらの意志は伝わるはずだ。そして、続けた言葉の裏に突破口を含む。
「ごめんね西末くん。私、本当に、二重に約束したわけじゃなくて」
西末は少し考えてから、わざわざ怒ったような声を出した。
「……嘘つきは信用を失くすよ。実際ダブルブッキングしてるんだから。そうですよね、桜庭さん、江波さんのお母さんと約束があるんですよね?」
「そうだね。透夏ちゃんのお母さんと、約束してるんだ」
「ほら、こう言ってるじゃん。それとも何? お母さんが勝手に約束してたの? 江波さん、電話でお母さんに聞いてみてよ。他の約束があるから、夕飯の約束をなしにしていいか」
透夏が口を開く前に、とうとう桜庭が折れた。
「……その必要はないよ。透夏ちゃんが来ることをゆり子は知らない」
桜庭が首を振ると、西末は心底驚いたように声をあげる。あくまで、驚いたように。
「えっ、保護者の了解もないのに連れ回す気だったんですか? それって誘拐と変わらないと思いますけど」
西末は無邪気を装って、言葉の裏に刺を仕込む。
「……それもそうだね。今日のところは帰ることにするよ。またね、透夏ちゃん。テスト頑張ってね」
あっさりと引き下がった桜庭を棒立ちで見送り、透夏は西末に肩を叩かれて我に返る。
「帰ろ」
「えーと、あそこまでやってから言うのも変だけど、いらないお節介だった?」
西末の気弱な発言を強く否定する。
「お節介じゃないよ。ナイスアシスト、ありがとう西末くん」
「余計な手出しじゃなくてよかったよ。途中でヒヤヒヤした」
息を吐く西末に重ねて礼を言う。桜庭はやはり手強かった。あそこで西末が来なければ、そのまま連れて行かれていたはずだ。
「珍しく言い合いになってたし、顔も嫌そうだったから。……あれが?」
「そう。お母さんが付き合ってる人。本当に嫌い」
「それ、直接言ってやればいいじゃん」
「言ってるけどしつこいの。断っても全然めげない。いい加減にして欲しい」
そのときタイミングよくスマートフォンの着信音が鳴る。桜庭かと警戒したが、母からだった。文面を確認し、西末の方へ向く。
「お母さん、今日は残業で遅くなるって。晩御飯食べに来る?」
「行く。それにしても、残業ってことは、さっきの人はどっちにしろ空振りだったわけだ」
「んー、そうでもないかな」
「どういう意味?」
西末が首をひねる。正直に言い過ぎたかもしれないが、この際だから多少吐き出してしまってもいいだろう。
「『残業』っていうのは、お母さんが桜庭さんに会ってくる日のことだから」
「は? 何でそんな回りくどいことしてるの」
案の定、西末は顔をしかめる。予想通りの反応に救われた。相手が怒ってくれる分、透夏は純粋に母を庇うことができる。
「うちではそういうことになってるの。『残業』が食事で、『出張』は旅行。本当に仕事の場合もあるんだろうけどね」
「それって、江波さんのお母さんが……」
「いいの。お母さんにも息抜きは必要だよ」
言い切った透夏に対し、西末はまだ何か言い足りない様子だったが、夕飯のメニューについて話を振ると、そちらに注意がいったようだった。もしかすると、触れられたくない気持ちを汲んでくれただけかもしれない。
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