追想C【殺意のベクトル】(2)


 短い春休みが終わり、三年生になった。担任教師も、二年生までとは違う熱量で、今年一年の過ごし方について強く語る。進路について本格的に考えなければならない時期がきたのだ。

 帰り道、西末に進学先を訊かれて、家から少し遠い女子高の名前を出した。母から勧められたところだ。受かれば、おそらくは寮に入ることになる。

「あー、名前は聞いたことある。結構頭いいとこだ。そっかぁ、江波さん成績いいもんね」

 進級時のクラス替えで、西末とは同じクラスになった。春休みが明けて久々に見る西末は、少し痩せていた。

「西末くんは?」

「さあ? 進学は多分させてもらえるだろうけど、そういう話、今まであんまりしたことないから」

「西末くんのお父さんは、外面を気にするタイプなんでしょう? 成績を上げて、三者面談で叩きつけたら、その気になるんじゃない?」

 こちらの言葉は苦笑で受け止められる。成績を上げる、の段階で既に諦め顔だった。本人曰く、授業中の居眠りがすっかり癖になって、授業内容についていけていないらしい。地頭は悪くないはずなのに、勿体無いことをする。

「一緒に帰ったりできるのもあと一年ってことかぁ」

「近くの高校に通えば、放課後に会えるよ」

 西末がしみじみと呟いた一言に切り返すと、露骨に嫌そうな顔を浮かべた。

「あの辺りって、そこそこ頭良いとこしかないじゃん。どれだけ猛勉強すればいいのさ。えーと」

 指を折りながら、学校名を並べていく。確かに、どちらかといえば偏差値が高い学校ばかりだ。いくつか名前が挙がった学校の中に、気になるものが一つあった。

「西末くん、××高校は寮があるよ」

「そうなの?」

「うん、うちのお母さんがそこも勧めてたから覚えてる」

 へえ、と気のない返事をする西末は、まだ気付いていないらしい。

「西末くん、よく考えて。寮に入れば逃げられる」

 安心して帰る場所を、手に入れることができるのだ。それを聞いた西末の目に光が灯る。

「そんな方法思いつかなかった。どうしようもないと思ってたけど、なんとかなるかも知れない」

「成績さえ足りればね」

 今はまだ、中途半端な希望であると釘を刺す。西末もそれは分かっているらしい。しかし、先程とは違い、言動は前向きになった。

「江波さん、勉強教えてよ」

「いいよ」

 今はまだ、与えられたものの中から選び取ることしかできない。だが、選べるカードの中から最大限の利益を得られるよう、考えることはできる。

 自分たちは子どもだが、節目節目で持ち札は着実に増えるのだ。それを活かす努力をすればいい。

「頑張ろうね、西末くん」


***


 毎日続く雨が原因だろう。気分が塞ぎ勝ちになり、会話の内容が不思議と暗くなっていた。湿った空気は心も湿らせる。西末と二人で囲む食卓の空気は重い。

 三年生になって二ヶ月立つが、西末の進路についてはあまり進展していない。父親の説得が難航しているようだ。成績は着実に上がってきているが、寮暮らしに反対されているらしい。疎んでいるはずなのに手放したがらないのが、理解できないと二人で首を捻る。

「このままじゃ、僕は親父に殺される」

 西末からは、物騒な言葉が雨音に紛れて落とされた。

 服に隠れているが、その肩には昨晩出来たばかりの痣がある。服をめくって見せてもらった。惨い日常の痕跡は、特に最近増え続けている。

「このままだと、受験までもたないかもしれない。近頃ますます酷くなった」

 原因については口に出されなかったが、進路についてのやり取りは、トリガーの一つになっているのだろう。

 彼が日に日に疲弊していっているのは分かった。これまでは、極力顔を合わせないようにしていればよかったはずだ。しかし最近は、話をするために早い時間に家に帰っていく。その分、父親とぶつかってすり減る回数も増えているのだろう。たまに上の階から、言い争うような声や、揉み合う音が聞こえる。透夏は翌日の学校で西末の姿を確認して、安堵することしかできない。日増しに追い詰められていく彼を、ただ見ていることしか。

「もしかすると……いつか、僕の方が耐えられなくなるかもしれない。最近よく思うんだ。殺される前に殺してやるって。方法なんていくらでもある。酔わせて寝込みを襲うぐらい簡単だ」

「殺してその後どうするの?」

 それは純粋な疑問だった。

「その後って」

「警察に捕まってから」

「捕まる前提なの? 絶対に犯行が見つからない良い方法を思いつくかも知れないでしょ」

「夢物語だよ、完全犯罪なんて。警察はそこまで馬鹿じゃないと思う」

 透夏が言うまでもなく、それは西末も理解しているのだろう。あっさりと肯定して見せた。

「まあ、上手くはいかないだろうなあ。でもさ、今は何とか正気を保ってるけど、もう限界が近い。こうなってみたら、今まで分からなかった親父のことが分かってきた。止められないんだ、自分では」

 西末が箸を置き、透夏を正面から見る。

「いざそのときになったら、江波さんは僕のこと止める?」

 透夏に向けられた目がどういうものかは察せられた。見極めようとする目だった。優等生の江波さんはどうするの? と挑まれているような。綺麗事なら言える。いくらでも。しかし、求められているものはそうではない。

「……止めないよ。西末くんが辛いのは、よく分かるから」

 それを聞いて西末がわずかに唇を緩める。

 なんとなくだが、西末は最近表情豊かになった気がする。薄っぺらなよそ行きの顔ではなく、ふとした時に無防備な感情が見えるようになった。例えば、たった一言の共感で幸せそうに笑って見せる。

 出来ることなら、ずっとそんな風に穏やかに過ごせたらいい。だが、それができないことは理解していた。暗闇の中でわずかな喜びを糧に生きていくのは苦しい。いっそのこと父親を排除して不安が晴れるなら、と考えてしまう。

「本気なら、きちんと計画を立てたほうがいいんじゃない?」

 透夏の発言は予想外の内容だったらしく、彼はきょとんと目を見開いた。

「お父さんから逃げたいんでしょ? それなのに、今のままじゃ、殺してからもお父さんに振り回されることになるよ。前科一犯になった後、どうやって生きていくつもり?」

 西末は黙って視線を横にやる。現実逃避ではない。真剣に考え込むときの表情だ。

 口にしてから、透夏自身も答えを探り始めた。もしそんなことになれば、西末はどうやって生きていけばいいのだろう。並べてみれば、西末の持つ手札は少ない。頼れる家族はなく、学歴がなければ碌な仕事につけない。あれこれ組み合わせて考えて、そんな中、一つ忘れていることに気がついた。使えるものはまだ残っている。

「あのね、ひとつ提案があるんだけど」

「何?」

「西末くんが出所した後、私が生活の面倒を見るってのはどう?」

 西末が目を見開き、間の抜けた声を上げた。

「えっ、はあ? なんでそんな話になるの」

「私、これでも成績いいほうだし、ちゃんと安定した職業に就けるように頑張るから」

「いや、そうじゃなくて」

「もしその時が来たら、絶対にあなたを助けるって約束する。その代わりにお願いしたいことがあるの」

 その場の思いつきだった。でも、この時は、それが一番正解に近い気がしていた。ゆっくりと頭を下げる。

「もうひとり、私のために人を殺してください」

 自分ではない別の誰かが言っているような心地で、自分の声を聞いていた。

「……誰を」

 否定は返ってこなかった。顔を上げると、西末は静かな目でこちらを見ていた。細められる目を、真っ向から受け止めて、とうとう口に出す。

「私の、お父さんを」


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