後日談 さよなら、もう二度と(2)
「多分なんだけどさ……盗聴器があった」
唐突に出てきた不穏な単語に、江波はポカンと口を開ける。
「え、何で?」
「桜庭さんが仕掛けたに決まってるじゃん。嫌な予感がしたんだよ。昼に電話したとき、やけにザーザー雑音が入ってたから」
同時に監視カメラの存在も警戒したが、そちらは杞憂であって欲しいものだ。
「私の携帯かな?」
「うん、確証はないけど。僕の携帯も細工されてる可能性があるから、一応上着ごと置いてきた」
「あ、だから脱いだの。これから外に出るのにどうしてだろうとは思ってた」
あれだけ動揺して泣き崩れておきながら、見るところは見ているのが面白い。
「そのぐらい冷静なのに、何で大泣きするかな……僕に嘘つくの下手だって言ったの、君でしょ?」
笑い交じりに言うと、江波は顔を顰める。
「不自然なぐらい喋るから嘘だろうとは思ったけど、内容が駄目。本気で悲しくなったから、もう言わないでね」
演技と本気の境目が分からなくなるほど、動揺させたのは事実だ。謝罪の意味も込めて頷くと、彼女はようやく肩の力を抜いた。
「桜庭さんは本気で僕らを引き離したいみたいだから、ひと芝居うたせてもらった。これでしばらくは欺けると思う。さっきの……君が起きたときのことはひとまず保留にして、先に僕の話を聞いてくれる?」
落ち着いた彼女を、再び揺さぶるような真似はしたくないが、今日の出来事の根本的な原因には触れておく必要がある。前置きだけで緊張を覗かせた江波は、戸惑う様子ではあったが、悠の申し出を聞くと黙って頷いた。
「ありがとう。今日、桜庭さんに、君の家の鍵を渡されたんだけど、聞いてた?」
「聞いてないよ。そうか、それで西末くんが家の中にいたのか」
「多分、不意打ちで会わせて、君がフラッシュバックに怯えるところを僕に見せたかったんだろうね。江波さんが眠っていたのも、もしかすると睡眠薬か何かを使ったのかもしれない」
「どうしてそんなことを?」
「さっきの三文芝居だよ。あれが桜庭さんの筋書きだと思う。罪悪感に駆られた僕が、江波さんの元から去るように仕向けたかったんだ」
「それが本当だとして、そんなに上手くいくの?」
「僕の思考と行動に関しては、かなりの精度で読まれてる。考えても見てよ。会うのを散々邪魔してた癖に、今日になって突然鍵を渡すんだよ? おかしいでしょ」
「うん、それは確かに裏がありそう」
「今日、ってのがポイントかな。給料日だったんだよね」
胡乱げにこちらを見る江波に対し、「先立つものがないと、姿をくらませられないじゃん」と言えば、冷たい視線が返ってきた。
「そんな理由……」
呆れたように呟く江波の涙は、ほとんど乾きかけている。話の流れ次第で、再び泣かせてしまうような気がしたが、この機会に決着をつけるべきだと話を続ける。
「……桜庭さんに言われた。『自覚ある振る舞い』をするようにって。自分が罪人だっていう自覚はあるよ。下手に誤魔化すのも嫌だから言うけど、このまま一緒にいていいのか、ちょっと迷ってた」
言いかければ、案の定、彼女の瞳に涙の膜が張る。
「君は望んでくれたけど、やったことは覆らないし、怯えさせたくないのも本音だ。でもね」
彼女の頬へ手を伸ばした。そのまま涙を拭っても拒まれはしなかった。
「今みたいに泣かれるのも嫌なんだよ。君の気持ちを蔑ろにして、自分勝手に逃げるのは卑怯だと思った。だから……僕なりの『自覚ある振る舞い』をしようと思う」
話の風向きが変わったのは伝わったらしい。彼女が顔を上げる。
「僕に、責任を取らせてくれない?」
「責任」
江波は初めて聞いた言葉のように、悠の言った語を反復する。意味が伝わらなくて当然だ。言葉遊びに逃げて相手が気付くのを待つのでは、子どもの時と何も変わらない。
自分が唾を飲みこむ音がやけに大きく聞こえる。頭の芯が熱くなって、くらくらする。常のように余裕ぶった態度は取れなかった。そうする気もない。緊張と不安を抱えながらも、心の奥の一番素直な気持ちで微笑む。誠意と覚悟を示せるように。
「僕と、結婚してよ」
「……本気?」
「勿論」
二の句が告げなくなった江波を、急かさず待つ。
「待って、ちょっと待って」
「うん、待つよ。いくらでも」
「本当に、本気で言ってる?」
「本気。まあ正直言って将来性もないし、桜庭さんの機嫌を損ねると衣食住すらままならないような、情けない生活が現状だから、あまり偉そうなことは言えないんだけど」
「それは置いといていいから。なんでいきなり、そんな突拍子もないこと」
江波が頭を抱える。俯いた拍子に、髪の間から朱に染まった耳が覗いた。希望的観測だが、嫌がっているというよりは混乱しているだけに見える。つまり、今からきちんと納得させればいい。
「一つ目の理由。桜庭さんは僕たちが一緒にいることを快く思っていない。今回のこともそうだけど、いずれもっと強硬なやり方で引き離しに来ると思う。せめて法的な繋がりができれば、対抗しやすいと思って」
敢えて感情論とは離れた部分から並べる。狙い通り江波は、素直にその理由を飲み下した。
「……それなら納得できる。二つ目は?」
「二つ目、桜庭さんにはできない方法を取りたい。あの人の下で働いていてよく分かったけどね、あの人は、君のことが可愛くて心配で堪らないんだ。江波さんだって、相当甘やかされてる自覚はあるでしょ? それでも、絶対に飲まなかった頼み事が一つだけある」
「……あ、『結婚』か。あの人は誰とも結婚しないって言ってたから」
「そうそう」
その言動を江波が嫌悪していたのは、よく知っている。江波の母親は、桜庭と結婚したがっていたらしい。江波自身は桜庭を嫌っていたが、一方で、母親の望みが叶うことを願ってもいた。
「一番口出しできない方法でしょ?」
問いかけると、江波は安心したように頷く。しかし、これだけで納得してもらっては少々困るのだ。最後の理由が肝心の部分なのだから。
「三つ目。理由というか、前提の話なんだけど……江波さんのことが好きだから、これからはできるだけ近くにいたい」
江波は目の前で、面白いほど狼狽えた。首から上全部が赤い。手のひらで顔を覆って、「そんなこと、なんで平然と言えるの」と小さく呟いた。再会した時に、自分は散々言っていた癖に。
「これでも心臓バクバクだよ」
「嘘つき……」
「嘘じゃないって」
「だって、どうして好きになってもらえるのか分からない」
「中学生男子なんて単純だから、可愛い女の子がちょっと優しくしてくれたら、コロッと落ちるんだって」
わざと冗談めかして言う。言った後で、今はそういう雰囲気ではなかったと後悔した。言葉を付け加える。
「本当に、あんなふうに優しくされることなかったから。江波さんには、一番つらいときに沢山助けてもらった。それだけじゃ、不足?」
江波は首を振った。
しばらくして、彼女がこちらに手を伸ばしてきた。細い指が、悠の袖を遠慮がちに掴む。そして、ようやく顔を上げた。
「結婚すれば、ずっとそばにいてくれる?」
その問い掛けに頷きかけて、はっとする。このまま肯定すれば、彼女は悠の望み通りに振る舞うだろう。しかしそれでは、依存の対象が母親から西末に代わるだけだ。誰かに全てを委ねるような生き方は、もう彼女にはして欲しくはなかった。
「そうしなくても、君が望む限りはいなくならないって約束する。だから、選択肢の一つにしてよ」
あくまで手段だ。条件ではない。そう告げると江波は目を伏せた。
「いいの? 私、嘘ついてたよ。平気じゃなかった。西末くんのことはやっぱり少しだけ怖い」
「だろうね。当然だ」
袖口を握っていた手が、悠の手に重なる。
「全部思い出してからね、時々あの日の夢を見る。あの日、西末くんが助けてくれて嬉しかった。でも、やっぱり、あの時の西末くんは別人みたいで怖かった。だから、目が覚めた時に西末くんがいて、夢がまだ続いてる気がして……」
先ほどの悲鳴は、まだ耳に残っている。思わず引っ込めようとした手は、しかし江波に阻まれた。
「怖かったけど、こうして触るのは平気。むしろ、私より西末くんの方が怖がっているよね」
「別に、僕は怖がってなんか」
思いもよらない指摘に言い返せば、江波は口元を緩めた。
「そう? 私に怖がられるのを、怖がっているように見える」
「……それはあるかもね。嫌われたくはない。江波さんには、特に」
「嫌いじゃないよ。これは嘘じゃない。西末くんは理由もなしに人を傷つけたりはしないし、必ず後悔するでしょう? そういう西末くんのことを知ってるから、もう大丈夫……えっと、今の言い方で伝わった?」
悠が頷くと、ほっとしたように身を預けてきた。頭を悠の肩に埋め、表情が見えなくなる。近くなった場所から言葉が続けられた。
「夢を見たら、また怖くなるかもしれない。でも、絶対に西末くんが嫌いになったわけじゃないから、そのときは」
さわって――囁くように落とされた言葉に思わず目を瞠った。言われた通りに手を動かしかけて、躊躇する。
「さっきから結構触ってるから、今更聞くのも変だけど、どういうふうに触れば怖くない?」
耳元で彼女が微かに笑う。
「そんなこと聞いてくれるうちは怖くないよ」
背中に手を回して、潰さないようにそっと抱きしめる。
「平気?」
「平気。でも、改めて考えると恥ずかしいね」
「やめる?」
腕を緩めると、江波が顔を上げた。吐息が触れるほどの位置で視線が合う。
「西末くん、真っ赤だ」
すぐそこで、はにかむのを見て、更に頬が熱くなった。この距離ではどう足掻いても隠せない。照れ隠しに、もう一度腕に力を込めた。
「……お互い様でしょ」
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