後日談 さよなら、もう二度と(1)

 今時、給料袋が手渡しの職場があるとは思わなかった。受け取った茶封筒を物珍しそうに眺めていると、「君は早く口座を作りなさい」と雇い主が苦笑交じりに言う。

 もっともな指摘に、はるかは額を押さえて息を吐いた。銀行口座を作っていないなんてこと、今の今まで思い当たらなかったのだから、自分でも間抜けだと思う。本当なら、新生活を始める上で真っ先に用意したっておかしくはない。

 こんな風に、優先順位が分かっていないようなミスをやらかすのは、久々に吸う外の空気や、約八年の経験不足だけが原因ではない。釈放後(もしくはそれ以前も)、悠の頭は一つのことに占領されていたのだ。昔の友人――江波透夏えなみとうかに。そしてその状況は、現在も継続中である。

「危ない仕事も頼んだから、ちょっと色をつけといたよ」

 書かれた額面と中身が合っているかを確かめるように言われ、封筒を傾ける。すると、紙幣や小銭に妙なものが紛れ込んでいた。百円玉と似たような厚みのそれを、少々苦労してつまみ上げる。

「桜庭さん。これ何ですか?」

「ん? 見た目の通り、鍵だよ」

 雇い主が間違って入れたのかと思い確認を取るが、意図的だったようだ。

「どこの?」

 尋ねてはみたものの、訊かなくても分かるような気がした。悠に渡して意味がある物なら、十中八九。

「勿論、透夏ちゃんの部屋の。君にあげるよ」

 予想通りの答えだったものの、腑に落ちない。

 桜庭はどちらかといえば、悠が江波と接触するのには反対していたはずだ。一度江波が危険に晒された時は、彼女を守るよう託された。しかし、件の通り魔事件が解決してからは、引き離そうとする素振りすらあったのだ。

 桜庭が食えない人物だというのは充分に分かっている。考えなしに飛びつく真似は出来ない。

「理由を聞いてもいいですか?」

「仕事でしばらく帰れそうにないからね。気に掛けてやって欲しいだけさ」

「気に掛けるっていうのは、具体的には」

「解釈は君に委ねよう」

 警戒を込めて問うと、桜庭は勿体ぶった言い回しで煙に巻いてきた。困惑する悠を眺めて意味ありげに笑う。細めた目元は江波によく似ている。

「ちなみに今日、透夏ちゃんは家にいるよ。課題の提出が近いみたいで、昨日から家にこもりっぱなし。出かける予定もないみたいだ」

 どう受け止めるべきかと、鍵を握って思考する。江波本人に相談してもいいかも知れない。家の鍵というプライベートな物を委ねられたのだから、会う許しは得られたと考えていいはずだ。

 桜庭の方を窺うと、彼は相変わらずの胡散臭い笑顔を浮かべていた。事務所を出る悠に、ジャケットをわざわざ手渡しして、肩に手を置く。

「まあ一応、振る舞いを期待しているよ」

 浮き足立った頭に、釘を刺すような一言だった。握りこんだ鍵が、手の中でヒヤリと存在を主張する。


***


 一度電話を入れたが、電波が悪いのか妙に雑音が入って聞き取りづらい。結局、直接会って話した方が早いと判断し、終業後に江波の住むアパートを訪れた。

 しかし、インターホンを二回鳴らしても、家主は出てこない。

「江波さーん」

 近所に気を使った声量で友人の名を呼ぶ。返事は無かった。家の中からは物音一つしない。気が変わって外出したのかとも思ったが、窓から明かりが漏れている。居留守にしてもお粗末だ。

 不自然な状況にふと、あの日の記憶が頭をよぎる。応答のないドアの向こうで繰り広げられていた、惨い出来事が。考え過ぎだとは思った。しかし、一度考えてしまえば確かめずにはいられなかった。

 最悪の想像に突き動かされて合鍵を差し込む。鍵を開けてドアノブを捻った。チェーンはかかっていなかった。靴を脱ぎ散らかして部屋に上がり、江波の姿を探す。リビングにはいない。台所にも、洗面所にも。

 リビングの奥に、もう一つドアがあった。祈るような気持ちでノブに手をかける。勢いよく開けた向こうは、六畳ほどの小部屋だった。中央に置かれたローテーブルの傍らに、横たわる影がある。

「江波さんっ」

 そばに寄り、首筋に手を触れた。温かい。脈はある。胸が上下しているので、呼吸も正常だ。身体を見ても外傷の類はない。

「寝てるだけじゃん……」

 気が抜けた。それと同時に安堵も。八年前の、心臓の止まるような思いは、もう二度と味わいたくない。

「驚かせるのはやめてよ」

 寝ている友人向かって、どう考えても言いがかりでしかない事を言う。

 こちらの気持ちなど露知らず、江波は気持ち良さそうに眠っていた。机の上を見ると、パソコンの電源はつけっぱなしで、作りかけの文書がそのままになっている。レポート作成の途中で寝てしまったのだろう。スマートフォンは床に投げ出され、中身の冷めたマグカップも、片付けずに置いてある。

 首筋に添えたままだった手を引こうとすると、江波は無意識なのか頬を擦り寄せてきた。あどけない穏やかな寝顔に、たまらない気持ちになる。離れがたく思っていると、江波は身じろぎしてうっすらと目を開けた。

 ぼんやりととけた夢見心地の目が、焦点を結ぶ。そして彼女は

「ひッ……やっ」

喉の奥から引きつった声を漏らした。

 悠の手から逃れようと身をよじり、手足を強張らせる。過去に一度、無遠慮に踏み荒らした身体が、全てを使ってひどく怯えていた。悠は手を離して思わず後ずさりする。

 乱れた呼吸が落ち着いた頃、起き上がった江波は、呆然とした顔で悠を見上げた。

「……あ……西末くん。あの、これは」

 今にも泣き出しそうな表情で、何かを言おうとする。それを悠は淡々と遮った。

「急に来てごめん。桜庭さんに頼まれた。しばらく家を空けるんだってさ」

 努めて平常通りの声を出す。誤魔化しにもならないとは理解していた。彼女に悠の作り笑いは通用しない。しかし、江波は、別のことに心奪われているようだった。当然だ。数週間前に彼女がついた嘘が、呆気なく露呈してしまったのだから。

 言葉を失った彼女の代わりに、悠が口を開く。


「さよならしようか」


 苦しい筈の言葉は、思っていたよりあっさりと喉の奥から滑り出た。

「何で……」

「数日前と同じ問答をすればいい?」

「私は、さっきのは」

 江波は動揺を引きずったまま、上擦った声を上げる。見開いた目が潤むのが見えて、ここまで涙脆い人だっただろうか、とやけに冷静な感想を抱いた。悠はこんな状態の彼女に向かって、少しの誤解も無いように、別れを告げねばならない。

「僕は、君が大丈夫だと言ったから傍にいる。僕自身は今でも、江波さんに近付く資格はないと思ってるし、あの日のことは許されちゃいけないと思ってる。それでも、君が望むならずっと一緒にいるつもりだった。でも、やっぱり僕のこと、怖いんでしょ? それならもう、会わないほうがいいと思う」

 江波は息を呑み、少し考えるように俯いた。下を向いた拍子に、涙がぽたりと床に落ちて弾ける。そのまま泣き崩れるかとも思ったが、彼女は息を吸って、もう一度悠に視線を向けた。手がゆっくりと伸びて、恐る恐る悠の手に触れる。

「さっきのは、少しびっくりしただけだから。本当に、大丈夫だから」

「こんなに震えて、何言ってるんだか」

 頼りなく縋る手を、精一杯冷たく振り払い、目をそらす。つらそうな顔を直視することはできなかった。だが、良心が咎めても、今は突き放すべきだ。

「会えて嬉しかった……それだけは信じて。じゃあね、江波さん」

 江波は嫌だと言わんばかりに悠の上着の裾を掴む。大粒の涙が布地に染み込むのが見えた。しかし、今彼女の涙を拭えば、ここまでした意味がなくなる。

「離してくれる?」

 何度も首を横に振るので、上着を脱いで床に放った。追い縋るようにしていた江波も床に倒れる。

「やだ、待って」

 靴を履いて江波の部屋を後にする。ここには戻れない。閉めたドアがすぐに開き、江波は部屋の外まで追ってきた。転びそうになりながら駆け寄ってくる彼女を――抱きとめる。

「あの、一応訊くけどさ……嘘だって分かってるよね?」



 悠の胸に顔を埋める女は、黙ったまま小さく頷いた。

「そうだよね? 分かってるよね? いや、あまりにも迫真の演技だから」

 江波は顔を上げす、未だに肩を上下させてしゃくり上げている。髪は乱れ、ところどころほつれてしまっていた。

「えっと、本当に泣かれると困るというか」

 触れていいものかと躊躇しつつも、肩を抱き、背中を叩き、頭を撫で、抱きしめて……思いつく限りの方法を試すが、江波は泣き止まず、悠の方を見ようともしない。だんだんこちらの声も弱ってくる。

「泣かないでよ。本当に嘘だから。もういなくなったりしないから」

 そう言ってようやく、江波は涙を拭った。真っ赤になって痛々しい目で悠を睨み、鼻声で言う。

「理由を教えて。こんな最低な嘘つく理由」

 ようやく顔が見えたことに安心したが、同時に、相当怒っていることも理解できた。江波の両手が、悠のシャツをしっかりと捕らえている。力が籠った細い指を撫で、一本一本丁寧に解き、代わりに自分の手を掴ませた。

「ちゃんと話すよ。場所を変えようか」

 手を引いて歩き出すと、行き先を聞かれたので、指差した。

「僕の今住んでるとこ。あのマンション」

「……うちから割と近いね」

「そうそう。桜庭さんが用意してくれたんだけど、会うなって言うならもっと遠くにして欲しかったよね」

「もっと早く言って欲しかった」

 拗ねた声を出す江波の頭を撫で、握った手に力を入れ直す。

「ごめんね」

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