後日談 さよなら、もう二度と(3)


「ところで、思ったんだけど」

 腕の中の彼女が、急に声を潜めた。熱を持った頭が、少しだけ冷静さを取り戻す。

「何?」

 江波は、赤くのぼせた顔のまま周囲に視線を彷徨わせて、唇を耳元に近付けてくる。囁くように落とされた言葉は。

「盗聴器って、私の部屋だけなのかな?」

 その指摘に、浮ついた気分が一気に吹っ飛んだ。思考が停止する。

「だってこの部屋、あの人が用意したんでしょう? 元々西末くんの監視をする目的があったんだから、ここに仕掛けていてもおかしくはないんじゃない?」

 思わず舌打ちした。自分の詰めの甘さを呪う。スマートフォンと、江波の部屋は警戒した。上着に付けられた可能性も考えていた。だが、そこで満足したのは迂闊だった。

「江波さんさぁ……それ、いつ思いついたの?」

「盗聴器の話が出たとき」

「いやいや、それなら早く言ってよ」

「気付いてて、わざとやってるのかと思ってた」

「まさか! こっちは目の前の江波さんでいっぱいいっぱいだったの! 見えないものまで考えてる余裕なんか、あるわけ無いじゃん」

 何か余計なことまで口走ったような気がするが、そんなことを気にしてはいられない。情報が漏れているならば、やり方を考えなければ明日にでも引き離される。

「あー……さっきのやり取り、聞かれてるかな……聞かれてるよね」

「聞かせておけばいいんじゃない?」

 頭を抱える悠とは対照的に、江波は何故だか楽しそうに言った。

「これ以上邪魔されるなら、取れる手段もあるよ。私、結構貯金があるの。西末くんも貰いたての給料袋があるし。私を連れて逃げるくらいできると思うな」

 なかなか大胆な、けれども案外実現できそうな提案に、悠は思わず笑い声を上げた。八年前も、そうだった。突拍子もないことを言い出すのは、いつも彼女だ。何も変わっちゃいない。

「僕さ、江波さんと悪巧みするの好きかも。共犯者の会合、結構好きだったんだよね」

 江波はもう一度耳に顔を近付けてきた。きっと、悠だけに聞こえるようにだ。

「さっきのプロポーズの返事をするね。一緒にいられるなら、手段は問いません。だからこれからも、よろしくお願いします」

 冗談めかした語り口でも、気持ちは十分に伝わった。彼女が悠に向かって、愛しいと言わんばかりに微笑むものだから。

 互いに想いを伝えて、二人にとっては一応の区切りがついた。あとは周囲の人間だ。江波の兄妹はともかく、説得に一番骨が折れるのは桜庭だろう。

 さて、手放す気がない以上、覚悟を決めて計画を練るべきだろうか。

「『誘拐』かぁ……んー、前科二犯……」

 上手く連れ去る方法に思いを巡らせていると、共犯者が腕の中で肩を震わせる。

「こういうの、普通は『駆け落ち』って言うんじゃない?」


***


 とある調査事務所にて、通信傍受用のスピーカーに聞き耳を立てていた三人は、三者三様の反応を見せる。

「はーい、パパの負け! 解散!」

 小倉美幸は、晴れ晴れとした顔で立ち上がり、のびをする。

「まあ、収まるところに収まったんじゃない?」

 広見優也は、頬杖をついて息を吐きつつも、薄く笑みを浮かべた。

 そして桜庭誠吾は

「……何だろうね、この結末は」

顔を覆って唸り声を上げた。

 今回の流れは、本当に父の筋書きの外であるらしい。優也は桜庭の様子を見やり、首をかしげる。敗因は明らかだろうに。『解釈は任せる』なんて甘いことを言うからだ。以前西末悠のことを、人畜無害そうに見えて食えない、と評したのは桜庭だ。その癖、なぜ今回は彼を低く見積ったのか。自分が悪者にならない為の予防策が、そのまま利用された形になっている。

「自覚ある振る舞いって、そういうことじゃないよ……」

「好かれてる自覚も、自分が透夏ちゃんを幸せにしなきゃいけないって自覚もあるじゃん。本人達が乗り気だし、いいんじゃない?」

 優也がそう言えば、噛み付くように言葉が返ってくる。

「ちょっと待ってよ、何でそんな風に簡単に賛成できるんだい」

「元々反対もしてないけど。そもそも、どこからどう見たって、江波ちゃんの方が西末悠のこと好きでしょ?」

 桜庭は口ごもり、優也から視線を逸らして美幸を見る。

「美幸ちゃんは?」

「お兄ちゃんと同じ。透夏が本音を出せる相手ってだけで貴重だし、見守る方針で。西末悠も、思っていたよりずっとまともそうな人だし。あと、『責任とります』って発言がポイント高い」

「それ分かる」

 意気投合する兄妹を前に、不機嫌になった桜庭は大きく息を吐く。

「別にさ、パパが結婚する気ないのはもういいよ。今更だし。でも、透夏はそういう主義じゃないって分かってよかったじゃん」

「大丈夫大丈夫。流石に結婚式には呼んでくれるよ。これ以上邪魔したら分からないけどね」

 味方のいない中、珍しく頭を抱える父を眺め、兄妹は顔を見合わせて笑った。


***


 結局、計画は筒抜けだったらしい。しかし、桜庭は邪魔をしてくるでもなく、今のところは静観の構えだ。一部始終を一緒に聴いていたらしい美幸や優也と、どんなやりとりがあったのかは知らない。

 江波の家の合鍵は、今でも回収されることなく悠の手元にある。一緒に夕飯を食べ、話し込んでそのまま眠ってしまうこともあったが、特に咎められることはなかった。

 江波はやはり、ふとした時に悠に対して怯えを見せる。彼女を水底へ落とした悠が、引き揚げる役をしていいのかは、未だに迷うところではあった。しかし、頬を摺り寄せてくるのを見れば、いつまでも悩んでいるのが馬鹿らしくなって、最終的には腕の中に抱え込む。

 罪を忘れるわけじゃない。ただ、いつまでも記憶に閉じ込められているより、目の前の彼女を大切にしたいと思うのだ。

「西末くん」

「何?」

「もう大丈夫」

 腕の中の彼女が離れようとするのを、曖昧な返事ではぐらかした。心地よい熱がじわじわと伝わってくる。彼女の腰まで伸びた髪を梳きながら、目を閉じる。

 凍える夜は、もう終わった。




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