執着(1)

 翌日、所長は意識を取り戻した。

「やれやれ、あれこれ気を回しすぎたツケが、ここで来るとはね」

 優也がベッドの傍らでりんごを向いていると、所長は寝そべったまま独り言のように吐き出した。同室している優也に向けられたものかとも思ったが、そうでもなさそうだ。

「本当のことを言うとね、透夏ちゃんの心はずっと八年前に縛られてる。分かっていて俺はわざと無視してたんだよ。思い出すことを願っているのを知っていて、それを蔑ろにしてきた。心の底ではね、『これだけ俺が尽くしているんだ、いつか忘れてくれるだろう』ってずっと思ってた。……ああ、もう気付いているさ。傲慢が過ぎる」

 そう言って、力なく微笑んでみせる。

「いくら愛を注がれようとも、変わらないものがあるって、俺自身が一番分かってたはずなのに」

 この男・桜庭誠吾は多くの女に求められ、それに答えてきた。美幸の母、透夏の母、それ以外にも。だが、刹那的な愛に身を任せても、身を固めることはとうとうしなかった。

「俺には透夏ちゃんの望みを叶えることはできない。あの子を幸せにする義務はあっても、資格がない。彼女に望まれていないから」

 確かに江波は、母をないがしろにした桜庭を許していないのだろう。それでも、優也から見れば、十分親子に見えた。桜庭は娘として愛情を注ぎ、過保護だが時には行動をたしなめていた。江波も、態度こそ頑なだが、思ったことを伝えていた。不器用ながらも、そういう形の関係なのだと思える。

 そう告げると、桜庭は弱々しく息を吐いた。

「そうなら嬉しいけどね。やっぱり一番にはなれないさ。彼女が縋れるのも、本音を言えるのも、結局一人だけらしい。昔も今も……父親面して邪魔をするのは、中断するよ」

 桜庭の顔が病室の隅に向く。

「ここから先は君に任せる。あの子が無茶しないか、見てきてくれないか。頼りにしてるよ、新入り君」

 ひっそりと立っていた青年が静かに頷き、病室を出ていった。

 入れ違いで着替えの鞄を持った美幸が帰ってきた。

「誰、今の」

 首をかしげる美幸に優也は、調査事務所の新入りだ、と答える。そして、桜庭は微かに笑いながらこう答えた。

「透夏ちゃんの友達だよ」


***


 西末悠が姿を現した以上、透夏を一人にしておくわけにはいかない。

 恭二は病院の前で透夏を待っていた。自動ドアから、透夏が姿を現す。手を挙げると透夏は、小走りに近付いてきて、何故か落胆したような声を上げた。

「なんだ、恭二くんか」

「なんだとはなんだよ。失礼だな」

「ごめんね。会いたかった人と違っただけ。恭二君は何をしに来たの?」

「迎えに来たんだよ。最近物騒だからな」

 夜道を並んで歩く。今日の透夏はいつもよりも口数が多い。

「通り魔のこと?」

「ああ……透夏、お前本当に心当たりないのか」

「何が?」

「だから、通り魔だよ」

「警察が探してくれてるはずだから、任せておけばいいと思う」

「そりゃあそうだけどさ」

 はぐらかす態度が、庇い立てしているようにも取れて苛立った。絶対に一人は思いつくはずだ。透夏がこだわり続けている、危険な男が。

「見当つかないか? お前の周りの人間を排除したがるような、異常なやつだよ」

「さあ? 私の友達は皆いい人だから」

「はぐらかすなよ! ……一人、いるよな。お前に執着していて、平気で罪を犯すようなやつが」

「誰のこと?」

「西末悠」

「……西末くん? あながち間違ってはいないのがなあ……でも、違うよ」

 根拠のない断言に腹が立った。実際に何人も周りの人間が危険な目に遭っている。それでもなお、西末が犯人ではないと言い張るらしい。

 アパートを目前にして、透夏の足音がふと聞こえなくなる。

「どうした?」

 振り向くと、透夏は目を見開いて立ち尽くしていた。恭二の方をじっと見て、いや、見ているのは恭二ではない。恭二を通り過ぎた背後の――


「おかえり、江波さん」


 聞きなれない声が耳を打つ。穏やかな響きに、一瞬だけ警戒を忘れた。男が一人、街灯の下に立っている。暗がりの中でスポットライトのように、その姿が照らされていた。

「西末、悠……」

 咄嗟に透夏を背中に庇う。

「何なんだよ、お前。何が目的なんだ」

「今日は江波さんに会いに来た。おいで、江波さん」

「逃げろ! 透夏。こいつはお前を殺す気だ!」

 悠は反論せずに微笑んだ。顔こそこちらに向いているが、その目は恭二を映していない。初めからずっと、透夏に注がれている。

「今更、どの面下げて会いに来たんだって話だけど……信じてくれる?」

「黙れ! 透夏をお前みたいな危険な奴に渡してたまるか」

「大事なのは、江波さんがどう思っているかだよ。よく考えるといい。約束したから。僕は、君の言うことだったら、できるだけ叶えたいんだ」

「私は……」

「答えなくていい! 相手にするな!」

 大声で透夏の言葉を遮るが、悠は激昂するでもなく、余裕を持って佇んでいた。

 長く関われば、透夏は事件のことを思い出す。危うくバランスを保ってきた心が、きっと壊れる。

「江波さん、望みを口にして。必ず、叶えるから」

「透夏!」

 肩を掴んで揺さぶる。透夏が顔をあげた。瞳に恭二が写る。

「恭二くん、私……ちゃんと全部分かってるから。ちょっと話を聞いて」

 透夏は、淡々と言葉を紡ぐ。目は恭二の方に向いているが、意識は西末の方に向けられているのが分かった。

「西末くんは、私のお母さんを殺した罪で罰を受けた。だから、もう二度と会えないって、会っちゃいけないって分かってた。でもね、私はずっと会いたかったんだよ。だからずっと探してた。恭二くんは勘違いしてる。西末くんに執着してるのは、私の方だよ」

 透夏が、何人もの人間を不幸に追いやった男に微笑みかける。

「私はね、執着以外に、ずっと人を好きでいる方法が分からないから。私は、西末くんのこと、今でも友達だって思ってる。ずっと好きでいたいって思ってる」

「殺されるかもしれないんだぞ!」

「それが西末くんを救うなら、それでもいい。でも、私は生きていたいから、西末くんは私を殺したりしないよ……西末くん」


「私は……許したくない。絶対に許さない。だから、自分で決着を付ける」

 透夏は、穏やかに、けれども許さないと口にした。恭二は息を吐く。安堵した。恭二の思いは、通じていたのだ。

「分かった」

 西末のあっさりとした返答が、かえって不気味だった。恭二は、悠が透夏に対して抱いていた執着心を知っている。こんなふうに引き下がれるようなものだとは、到底思えなかった。

 透夏は静かな口調で告げる。

「巻き込んでごめんね」

「気にしなくていいよ」

 西末がこちらに一歩近付いてくる。警戒したまま、透夏を後ろに下がらせた。目の前にいるのは、目的のたまに何をするかわからない男だ。

 そのとき、視界が揺れた。体に何かが勢いよくぶつかってきて、姿勢を崩して地面に倒れこむ。衝撃は、背後から。

「透夏、どうして」

「もう『全部分かってる』って言った」

 こちらを見下ろす透夏の表情は見えない。ただ、冷え冷えとした声が刺さる。


「恭二くんが通り魔だね」


「何、言って……」

「こうも立て続けに周りの人が襲われれば、全く知らない無差別犯とは思えない。私のことをある程度知っている人間だとは思ってたよ」

 透夏は淡々と言葉を続ける。

「犯人は、私が接触した男の人を襲って、排除しようとしている。流石に女の子の腕力じゃ、不可能ではなくても難しい。だから美幸は除外する」

 人差し指が立てられる。

「次に被害者。自作自演でもない限り犯行は無理だね。特に前の二人――佐藤さんとクノさんが、入院中に抜け出して犯行に及ぶのは難しいし、リスクが高い」

 伸ばした指が三本に増える。

「桜庭さんは、二人目の犯行時刻には、他の所員と一緒に調査事務所にいたらしいから、アリバイがある。そもそも、二人目の被害者は、桜庭さんの命令で私の後を尾行してた。近付けたくないなら、そんな命令しなければいい。よってあの人も除外する」

 四本の指が突きつけられる。

「そしてもう一人。ヒロミさんは何故か被害者には入らなかった。現状、私が一番行動をともにしてる男の人なのに。普通に考えたら怪しいんだけど……もしヒロミさんが犯人なら、桜庭さんを襲うのはおかしい。私が桜庭さんと一緒に住んでることも知ってるし、顔見知りを相手にするのはリスクが高い。……多分犯人は、ヒロミさんのことを女の人だと思い込んでたんじゃないかな。ヒロミさんという呼び方や、遠目から見た姿では男の人だと分からない」

 全ての指を開いた手が下ろされ、反対側の手が恭二に人差し指を突きつけた。

「だから、あなたしかいない」

 恭二は砂を払って立ち上がる。

「何を言ってるんだ? 犯人はそいつだ、西末悠! そいつが出所してから通り魔事件が起こった。タイミングが良すぎるだろ」

 しかし、透夏は首を振る。

「西末くんなら、桜庭さんを被害者にはしないよ。桜庭さんが私のお父さんだって、知っているから。恭二くんは知らなかったでしょう?」

 恭二は言葉を失った。透夏の母は未婚だったはずだ。母親が亡くなったあと、未だに父親と交流があるとは思わなかった。

「犯人は私のことをよく知っているようで、知らない人物。情報源は美幸だね。恭二くんは口頭での曖昧な情報しかもたないから、私に接触した男の人を片っ端から脅すような、短絡的なやり方になる。犯行が夕方以降なのも、日中は仕事に出てるから。西末くんの釈放と同時期に犯行を重ねたのは、罪をなすりつけて、私から引き離したかったから」

「動機! そう、動機はっ?」

 恭二は叫ぶように言葉を発する。苦し紛れなのは自分でも分かっていた。透夏は首を傾けて美しく微笑む。

「だって、恭二くん、私のこと好きでしょう?」



「何を、言って」

「美幸のことがあるから、できる限りはぐらかしておきたかった。味方がいなくなるのが怖かったのかも。でも、今なら西末くんがいるから、いざとなれば何とかしてくれるよね」

「それは買いかぶり過ぎ」

 いつの間にか透夏の隣に来ていた西末が、彼女を庇う位置に立つ。先程まで、恭二がいたはずの場所だった。

「桜庭さんにもよろしく頼まれたけど、刃物を持った相手はどうにもできないよ。暴れる前に警察呼ばない?」

「今回のことは、曖昧なままにしていた私の落ち度だよ。だから自分で決着をつける」

 透夏は頬にかかった髪を払う。そんななんともない仕草ですら、絵になっていた。見とれるほどに。

「恭二くんのこと、嫌いだよ。私は絶対に許さない」

 柔らかく笑んだのと同じ口が、恭二への明確な拒絶を落とした。


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