追想A【階段の少年】(2)


「やべっ。古典の辞書要るの、今日だったっけ?」

「今日だよ」

「まじか、俺忘れたわ。ぜったい怒られる」

「僕も持ってない。誰か別のクラスのやつに借りよ」

 学校で西末にしずえを見かけた。友人と一緒に、教室から出てきたところだった。口元に自然な笑みを浮かべ、小突き合いながら透夏とうかの方に歩いてくる。

 すれ違う直前、西末は透夏に気付き、微笑んだ。わざとらしいほどに影のない微笑だった。先程友人に向けていたものとは違う。比べてみるとよく分かる。こちらは、完全武装の笑みだ。柔和な仮面の裏側に、冷静に様子を窺う目がある。昨日のやり取りが気にかかっているらしい。

 張り詰めた空気を纏いながら、そのまま通り過ぎようとした西末に対し、透夏は自然と振り返っていた。

「山木くん」

 敢えて西末ではなく、友人の方に声を掛けた。うろ覚えだったが、名前は合っていたようだ。友人につられて西末も立ち止まる形になった。

「辞書使う? 私持ってるよ」

「えっ、江波さん、いいの?」

 急に話しかけられて驚いたのか、西末の友人が素っ頓狂な声を出す。隣の西末は貼り付けたように表情を変えなかった。

「いいよ、取ってくるね」

 教室のロッカーから辞書を手に取って戻ると、西末の姿は見えなくなっていた。

「西末くんは、いいのかな?」

「んー、あいつ友達多いし、大丈夫じゃね? 誰か別のやつに借りるって」

「そう? あ、返すのはいつでもいいからね」

 辞書を手渡すと、西末の友人は大袈裟に何度も頭を下げて去っていった。

 さて、こうも露骨に避けられると面白くない。西末と交友関係を築くのは骨が折れそうだ。


***


 買い物を終えてアパートに着く。少しの期待を持って階段下を覗き込むと、昨日と同じ場所に西末は座っていた。

「西末くん」

「ああ……江波さん。昼間はありがと」

 今日の口調は一言目から柔らかだった。予期せぬ遭遇だった昨日とは違い、ある程度の心構えをしていたのだろう。学校と同じく人の良い笑みを浮かべて、拒絶をお首にも出さず、綻びがない。

「あいつ。すごい助かったって言ってたよ。『一組の江波さんに話しかけられた』って驚いてたけど」

「驚くようなこと?」

「いや、江波さん、僕らと違って優等生だし。今までほとんど接点がなかったから」

 冗談交じりに言う中で、さらりと足された『接点がなかった』という一言が引っかかる。決して嫌味な言い方ではないが、こちらが近付いた理由を探っているよう、というのは穿ち過ぎだろうか。

 だが、つつけばさらに警戒が強くなりそうだ。気付かなかったように振る舞うべきだろう。

「お節介かとも思ったんだけど……」

「全然。何かあったらまたお願いするよ」

 そんな事を言っておきながら、西末が江波に頼み事をする日は来ないだろうと直感する。

「西末くん、今日はどうしたの?」

「いや……また鍵を忘れちゃって。朝、机の上に置きっ放しで出たから。忘れちゃいけないと思って、目立つところに置いたのに。二日連続で同じ失敗なんて、自分でも呆れる」

 西末は頬を掻きながら、決まりが悪そうに言った。

「西末くんって、意外とうっかり屋さん?」

「ばれた? 実はそう。あーあ……今日も親父が帰ってくるの、待ってないと」

 苦笑を浮かべ、芝居がかった仕草で肩をすくめる。

「まあ、全部自分の所為だから、仕方ないよね。江波さんは気にせず入ってよ? 昨日より寒いから、風邪ひくよ」

 透夏を気遣うようなことを口にして、さり気なく家に入るよう誘導してくる。上手な話の切り上げ方だ。マイルドに追い払おうという意図が感じられて、その頑なさには逆に感心した。

 西末の格好は、昨日と似たり寄ったりだった。ブレザーはなく、シャツとカーディガンが一枚だけ。頬や手の指が、寒さで色を失っている。その様子があまりにも哀れげで、何か役立つものはないかとポケットを探ったが、中身はハンカチとティッシュペーパーだけだった。

「ごめんね、今日はカイロ持ってない」

「え……いやいや、お気遣いなく。気持ちだけで」

 これは本当に驚いている顔だ。西末にとっては予想外の申し出だったらしく、目を丸くして首を振る。

 何もせずに自分だけが家の中に入るのは躊躇われた。かといって、透夏がこれ以上留まることを、彼は望まないだろう。

「あ、マフラー使う?」

「そりゃあ、ありがたいけど……」

「じゃあどうぞ」

 断られる前に、自分が着けていたものを少し強引に首に巻いた。体が強張ったのが分かったが、強く抵抗されることはなかった。

 されるがまま受け取っておきながら、本人は浮かない顔だ。顔を上げて躊躇いがちに口を開く。

「……いつ返せばいい?」

 その一言に、逡巡の正体が詰まっていた。教室に届けに来て、とでも言えばどんな反応をするだろう。興味はあったが、結局無難なところに落ち着く。学校で距離を取り間違えると、周りから変に勘ぐられるから面倒だ。特に男女間だと。

「明日、靴箱にでも入れておいて」

「それでいいの? 分かった」

 安堵を滲ませる瞳を見て、少しの悪戯心が湧いた。昼間、露骨に避けようとした意趣返しだ。去り際にごく普通のトーンで告げる。挨拶と間違うぐらい、さり気なく、毒を含んで。

「学校で、私と話すの嫌でしょう?」

 再び目を丸くした彼をそのままに、透夏は手を振って踵を返した。



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