追想A【階段の少年】(1)


 江波えなみ透夏とうかは、幼い頃から人の心を読むのが得意だった。

 誤解しないでほしいのだが、別に人間離れした特別な力を持っているわけではない。ただ、昔から人の顔色を伺う子供だった、それだけだ。

 目は口ほどにものを言う。他者の表情の中でも、目は膨大な情報を透夏に教えてくれた。視線の向かう先、まばたきの回数、瞳の揺らぎ――とりわけ負の感情を秘めた視線は感じ取りやすい。

 最初に透夏が西末悠のことを意識したのは、やはり彼の目を見たときだった。



 身体を少し縮めて足早に歩く。髪が肩よりも短いせいで、首元が風にさらされる。

 透夏は使い捨てカイロを手に握り締めて、指先をこすり合わせた。動きの鈍さが少し和らぐ気もしたが、手首から入る風はどうしようもない。ポケットに手を突っ込むような行儀の悪い真似はしないけれど、している人の気持ちもよく分かる。

 十一月末にもなると、そろそろ防寒具が必要だ。制服のプリーツスカートは、冬用の厚手のものに変えたが、裾から入る冷気が足を冷やす。タイツが禁止されているのは不便だ。上着の下にはセーターやベストの類を着ても良いことになっているので、帰ったら出しておこうと決意する。それから、マフラーも。

 やっとの思いでアパートに帰り着いた。一刻も早く、部屋に入りたいと思っていた。

 だから、彼を見つけたのは本当に偶然だ。

 アパートの二階へ続く階段の、影になった仄暗い場所で動く影を見た気がした。猫か何かだと思い、恐る恐る覗き込む。

 猫ではなかった。少年が一人、シャツにカーディガンだけの薄着で座り込んでいたのだ。知っている顔だった。二学期の初めに転校してきた、西末にしずえはるか

 それまでの透夏にとって、彼はあまり接点のない人間だった。同じアパートに住む隣人だが、近所付き合いのようなものはない。通っている中学校こそ同じだがクラスは別。話したこともなかったかもしれない。そんな彼に話しかけてみる気になったのは、ほんの気紛れと、少しだけ彼の様子を奇妙に感じたからだった。

 俯いた顔は白かった。血の気の失せた頬もそのままに、一体どのくらいの時間そうしていたのか。本や音楽プレイヤを使っているわけでもなく、ただ時間を消費しているだけ。単なる暇つぶしなら、ここまで自分自身を追い詰めなくてもいいように思う。手足は力なく投げ出されたように伸び、瞳だけが、薄い暗がりの中で爛々と光って見えた。

 気になるのは山々だが、そろそろ帰宅するかもしれない母のことがちらりと頭をかすめた。腕時計を見る。いつもより早い時間だ。逡巡の末、少々の寄り道は問題ないと判断し、声をかけてみることにする。

「西末くん、だよね? どうしたの、こんなところで」

 不意打ちの声に、西末は驚いた様子だった。一瞬だけ透夏の方を見て、声を掛けた相手があまり接点のない隣人だと分かると、すぐに視線を逸らした。

「……別に、関係ないでしょ」

 答えた声の素っ気無さを、透夏は少し意外に思った。ほとんど付き合いがないとはいえ、学校の中で見かけることぐらいはある。少なくとも学校での彼は、屈託なく笑い、友人と悪ふざけをしたりじゃれあったりもする普通の少年だった。どちらかといえば人懐っこくて社交的なタイプだと感じていたが、目の前の西末の様子は普段のイメージとはかけ離れている。

「家、入らないの? 今日かなり寒いよ」

「……江波さんこそ、入りなよ。僕のことは気にしなくていいから」

 透夏の名前を思い出すのには少し時間がかかったらしい。そして、名前を思い出したからといって親しみやすい態度にはならなかった。取り繕うこともしないその態度は、乱暴でこそないが、透夏を容赦なく跳ね除けようとする。

「でも、顔色悪いよ。ここ日が当たらないでしょ」

「そうでもないよ」

 長くも短くもない前髪の下からこちらを窺う目は、ひどく静かだった。暗く光る水面に似た穏やかな目。その表面には苛立ちも苦痛も見られない。けれども、その奥には底知れない何かが潜んでいるように感じる。そしてそれは、確かにこちらを警戒し、鋭く睨めつけた。

 こちらの動きを冷静に俯瞰するような視線に気付くと、下手に動けなくなる。野良猫と目があった時の居心地の悪さと同じだ。近付いた瞬間に、あるいは目をそらした隙に、逃げられてしまいそうで。

 しかし、秘められた感情を探る前に、その瞳に色が戻る。西末は希薄だった表情を掻き消し、柔和な笑みすら浮かべてみせた。あからさまに取り繕われたことには気付いたが、西末の正体を諦めきれずに問いかけを重ねる。

「どのぐらい外にいたの?」

「一時間ぐらいかな。今朝、鍵を忘れてさ。親父も仕事だから締め出されちゃって。だから、帰ってくるまで待ってんの。ホント勘弁して欲しいよ。自業自得だけどさ」

 西末は急に饒舌になった。普段通りの人懐っこい笑みを浮かべ、透夏の問いかけに答える。先ほど感じた仄暗いものは、スイッチを切り替えたように姿を隠してしまった。

 なるほど、と透夏は一人で納得する。学校での彼はよそ行きの姿らしい。こうも巧く隠されると、顔見知り程度の透夏にとって、これ以上の詮索は不可能に近い。ささやかな好奇心を満たすのを諦め、世間話に徹することにした。西末がよそ行きの仮面を被るつもりなら無視はできないはずだ。

「お母さんは?」

「あ、うち、母親いないから。父子家庭」

 気にはしていない口調だったが、家庭事情に踏み込んだのは良くなかった。相槌を打つにとどめ、話題をそらす。

「お父さんのお仕事、何時まで?」

「もうすぐ終わると思うよ。僕が凍える前に帰ってきてほしいんだけどな。このままだと氷漬けになりそう」

 軽快に冗談を口にする西末は、さっきまでとは別人のようで、透夏がこれまでに知っていた彼そのものだった。明るく笑う年相応の少年に、白昼夢という言葉すら頭をよぎる。

 西末は自分の腕をさすり、白い息を吐いた。鼻の頭が赤くなっている。

「カイロあるけど、いる?」

 どうも本当に凍えてしまいそうに見えて、透夏は思わず口走っていた。西末は少し驚いた様子だったが、好意を跳ね除ける気はないらしい。

「いいの? かなりありがたい。本気で凍えそうだったし」

「いいよあげる。私、もう家に入るから。風邪ひかないようにね」

「ありがと。助かるよ」

 西末は使い捨てカイロを受け取ると、話は終わりだと言わんばかりに別れの挨拶を口にした。じゃあまたね、と代わり映えのない文句がやけに空々しい。

 それまでの張り詰めた武装のような笑みに、安堵が僅かに混じる。西末が最後に見せた隙だった。だが、綻びが見えたところで、そこをつつくには透夏の時間が足りない。もうすぐ母親が帰ってくる。

 透夏は機械的に同じ言葉を返し、家のドアを開けた。中に入って、ちらりと後ろを振り返る。ドアが閉まる直前に、隙間から見えた横顔はもう、こちらを見てはいなかった。


***


「ただいま。あら、暖房つけてないの」

 母は、いつも通り疲れの滲んだ様子で帰宅した。

「私一人だったし、さっきまで火を使ってたから。つけようか」

「つけていいわよ。お母さん先にお風呂入ってくるから」

 荷物を置いて風呂場に向かう母を見送り、夕飯を温め直すことにした。味噌汁の鍋を、一口しかないコンロに置いてつまみをひねる。掃除はこまめにしているが、古くなった所為か、なかなか火がつかない。

 台所の流しの前に、すりガラスの窓がある。外はすっかり暗くなっていた。

 西末は、流石にもう家に入っただろうか。



「それでね、そのとき先生が……」

「そうなの」

 何かと忙しい母だが、夕飯は一緒に食べてくれる。勉強のことや友人のことを話し、母が相槌を打つ。夕飯の時間が少々遅くなっても、この時間が透夏は好きだった。

「そうそう、来週末はお母さん出張なの。日曜日まで帰れないから、戸締りに気をつけるのよ」

「はあい、分かってる」

 慣れた返事をしながら、透夏は頭の中で週末の献立の算段をする。どうせ一人で食べるなら、多少は手を抜いてもいいだろう。

「そうだ、お母さん。私のセーターがどこにあるか知ってる? そろそろ着て行きたいんだけど」

「知らないわよ。クローゼットの中じゃないの?」

「冬服やマフラーと一緒にあると思ったんだけど、見当たらなくて」

「小さくなって捨てたんじゃない?」

 母は思い出そうとするような素振りも見せずに言い切った。そう言われると、不思議とそんな気がしてくる。

「ないなら、新しいのを買ってもいいわよ」

「本当? ありがとう」

「あんまり派手なのを買ったら駄目よ。それから、安っぽいのも駄目。いいものを買えば長く着られるんだから」

「分かってる。校則違反はしないよ。安物も買わない」

「それならいいけど」

 食後、服代と食費にと一万円札を手渡された。多過ぎないかと尋ねると、母は「いいものを買いなさいって言ったでしょう」と念を押すように言った。少なくとも、近所の量販店では納得してもらえそうにない。中学生一人でも入れそうな店を考えるが、思い浮かばなかった。母に着いてきてもらった方が、間違いが無いだろう。いつになるやら分からないのが問題だが。

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