通り魔(3)
優也が市立病院に到着したのは、午後二時を回った頃だった。
電源を切るためスマートフォンに手を伸ばすと、タイミングを見計らったかのように、新着通知が表示される。ついでなので、見舞いの前に、未読のメールやメッセージに目を通すことにした。午前中からのものを含めると四件ほど溜まっている。
その中でも一際目を引いたものがあった。直前に届いたメッセージだ。
曰く『短期間で稼げるお得なお仕事★ 連絡は下記番号まで』。文面は完全に詐欺やスパムメールの類である。勿論、すぐに削除して無視を決め込む気だった。……メッセージの送り主を見るまでは、の話だが。残念ながら、よく知っている人間からだ。
送り主に心当たりがあっても、文面が醸し出す胡散臭さは誤魔化しようがない。もっとも、送り主自体が胡散臭い人間なので、仕方がないような気もする。
まともに相手をするのと無視をするの、どちらが面倒かを考えた末、潔く送り主に電話することにした。
画面を指で叩いて電話帳を開き、選んだのはとある調査事務所のもの。優也のアルバイト先だ。
メッセージの送り主はそこの所長で、もっと言えば、江波透夏の過保護な同居人。世間話の俎上に挙がったその日に連絡してくるのは、果たして勘がいいだけで済ませて良いものか。江波に盗聴器でも仕掛けているのか、といった邪推さえ頭をよぎる。
「やあやあ、優ちゃん。いい仕事あるんだけど」
二コール目で電話口に出た所長は、挨拶もすっ飛ばして本題に入ろうとする。いくら言っても改められない馴れ馴れしい呼び方は、もう諦めた。
まともに取り合えばペースを乱されるのは分かっていたので、先手を打つことにする。
「どーも所長。浮気調査なら断るわよ。あんな修羅場はもうこりごり」
前回優也が引き受けたのは、調査事務所ならではの案件だった。この男が斡旋する仕事は大抵、実入りはいいがあまり大きな口で言える代物ではない。口車にのせられ、仕事を選べない事態は避けたいものである。
あっはっは、と電話の向こうで男が爆笑するのが聞こえた。こちらは本気なのだが、飄々として掴みどころがないのがこの男だ。
「この前は悪かったって。今回は違うよ。可愛い女の子のボディーガード」
「ボディーガード? そーゆーのもやるんだ」
純粋な疑問だったが、所長の声が僅かに苦笑を滲ませる。
「いや、ごめん、公私混同。透夏ちゃんの家がさあ、あの辺なんだよ」
続いた町の名前を聞いてピンときた。
「ああ、通り魔事件の」
「そうそう。俺も仕事で家を空けることが多いから、常に一緒にいられる訳じゃないし、流石に心配でね」
同居人のことを苦々しげに口にする後輩の顔が思い出された。
「本人はそういう過保護なとこがウザいって言ってたんだけど」
「透夏ちゃんは照れ屋だからねえ」
どこか恍惚とした甘い声音に、引き気味で言葉を返す。
「多分そういうのがウザがられてるんじゃない?」
「辛辣だなあ。まあそれでも心配なもんは心配だし。ねえ、頼まれてくんない? バイト代は弾むから」
所長の性格はともかく、依頼理由は優也にとって納得できるものだったし、個人的にも江波の事は気にかけている。ここまで聞いて断る気は起こらなかった。
「いいよ、引き受ける」
「ホントありがたい! 助かるよ、優ちゃん」
大袈裟に喜色を表す様は、人心掌握術の一つだと分かってはいても、まんざらでない気分になる。しかし、続いた言葉には耳を疑った。
「じゃあ、クノちゃんがいない日はよろしくね」
「え、何、クノさんも? あたしだけじゃなくて?」
不意打ちのように別の所員の名前が出てきて、目が点になった。アルバイトの優也とは違い、名前の挙がったクノさんは、正真正銘の正所員だ。公私混同に二人も、しかも一人は正所員を投入しようとしている事実に愕然となる。
「いやー、それクノちゃんにも言われた。だって、予防は大事じゃないか」
昼間こそ、同居人をネタに江波のことをからかったが、確かに過保護にも程がある。優也はげんなりして電話を切り、心の中で後輩に詫びを入れた。
優也が病室へ顔を見に行くと、想像していたよりも佐藤は元気そうだった。右の脇腹を刺され、怪我こそ完治に時間がかかるが、命に別状はなし、後遺症もなし。
結局優也は、犯人への恨み言や愚痴を聞きながら果物の皮を剥く羽目になり、気付けばかなりの時間が経過していた。
「そういえばアンタ、まだ江波ちゃんのこと好きなわけ?」
優也は帰り際に、ふと思い出して投げかけた。しつこくするのはやめてやれ、ぐらいのことは言うつもりだったが、大した意図はない。
しかし、あからさまに佐藤の顔が青ざめた。
「……もう近付かねえよ」
続いた言葉に拍子抜けする。
お調子者で、多少強引でも場の空気を上手く作るのが、優也から見た佐藤の印象だった。たとえこっ酷く振られても笑って聞き流しそうな男が、あっさりと撤退を口にしたことを疑問に思う。
「結構強気だったくせに、どういう風の吹き回し?」
「いや、いいとは思ってたけどさあ……お前、口硬いよな?」
「何、どういうこと」
唐突に変わった空気に自然と優也の声も小さくなる。
「口止めされてるんだよ、警察に」
「は? 何事?」
佐藤は、視線を落ち着きなく彷徨わせた後、覚悟を決めたように口を開いた。
「昨日の犯人な、顔は見てねえけどさ、声は聞いたんだよ。俺を刺したあと、わざわざ耳元で言ったんだ」
――江波透夏に、近付くな。
小倉美幸は、スマートフォンを片手にベッドに寝転がった。夕飯も風呂も済ませ、あとは寝るだけの状態である。
一緒に住んでいる母親は毎週見ているテレビドラマに夢中だ。途中で呼ばれることもないだろう。
アドレス帳を開き、友人の名を検索する。目当ての名前は比較的上の方に表示された。
『江波透夏』
画面に表示された通話ボタンを押しかけて、直前で躊躇う。外出中か、もしくは、同居している男が傍にいるかもしれない。迷った末にメッセージツールを立ち上げた。
『透夏、今大丈夫? 電話していい?』
既読のマークが付くと、あまり時間を置かずに着信があった。
「もしもし、透夏。急にごめんね」
「別に平気。どうしたの?」
「うん、大した用事があるわけじゃないんだけど。今、家?」
「そうだよ」
「……あの人は?」
恐る恐る同居人の所在を聞くと、透夏の微かな笑い声が受話器越しに耳を掠めた。
「いないよ。多分仕事中。女のところかもしれないけどね」
さらりと付け足された棘のある言葉に、乾いた笑いが漏れた。男の女癖の悪さは美幸もよく知っている。
「透夏と暮らすようになって、
「どうかなあ」
フォローを入れてみたものの、本心でないのは丸わかりだったらしい。
「あの人にとっては持病みたいなものだから。そう思わない?」
案の定、透夏からは苦笑交じりの言葉が返ってくる。しかも、その評価はこの上なく妥当なもので反論の余地もない。そういう最低な男なのだ。
「そろそろ半年だっけ。うまくやってる?」
美幸は、自分でもおかしな事を言っていると感じていた。先程の酷評から考えれば、透夏と男の関係は尋ねるまでもない。
「喧嘩しながら、なんとかね。いつまで続くか分からないけれど」
既に終わりを見据えたような返答に嘆息する。男については、正直に言って全く期待してなかった。だが、透夏も透夏だ。諦めが早すぎる。
「続けなよ。続けた方がいいよ」
「何? 急だね」
「そんなことない。これでもずっと心配してる」
季節はもう冬だ。
透夏が男と同居を始めて半年。そして、タイムリミットが迫っている。
「そんなに心配しなくても、大丈夫だよ」
「あの人とのことだけを言ってるんじゃないよ。そうじゃなくて」
「だから大丈夫だって。ご飯もちゃんと食べてるよ?」
不自然に明るい声を聞いてすぐに、取り繕われたのが分かった。
透夏はきっと、美幸が電話した理由を悟った上ではぐらかしている。
「じゃあ、そろそろ切るね」
一方的に途切れた通話に、何度目かの溜め息を吐いた。訊きたかったことは訊けずじまいだ。それでも、確信するには充分だった。あの男に、透夏の心は奪えない。
美幸は、少々期待していた。透夏が、たった一人の親友が、誰かに心を預けられるようになればいいと。たとえ、相手が今の同居人でなくたって構わない。誰でも良かった。透夏が全部忘れてしまえるなら、本当に誰でもよかったのだ……唯一人を除いて。
もう時間がない。透夏には、過去への執着から解放されて欲しかった。
西末悠が透夏の元へやって来る、その前に。
リビングに行くと、振り向いた母親が泣き腫らした目を美幸に向ける。
「テレビ、終わったの?」
「うん、聞いてよー! ケンとリリコが同棲解消してね、リリコはずっと幼馴染のことが好きだったんだけど、ケンはずっと前からそれに気付いてて、それで」
近くにあったティッシュボックスを差し出すと、母は勢いよく鼻をかむ。
「もー、絶対来週も見る。みゆちゃんも一緒に見よーよ」
「んー、やめとく。どこがいいのか分かんないし」
「えー」
不満げな母を横目に、美幸は冷蔵庫を開けた。年の割に若い横顔には、まだ涙の跡が残っている。
毎週一喜一憂する母が美幸には理解できなかった。いくら感動的でも、所詮はフィクション。甘さも苦さも人工的な匂いが鼻につく。一人で美幸を産んで育ててきた母が、今更虚構の恋愛に何を求めているのだろう。少なくとも美幸の父親に未練があるわけではないだろうけれど。
「ママも物好きだなあ」
「えー? 何―?」
「何でもない」
二人分のお茶を汲んで、母の隣に座った。
つけっ放しのテレビには、十一時からのニュースが流れている。昨夜の通り魔事件が、飾り気のないテロップとともに報道されていた。
ニュースキャスター曰く、犯人は依然として不明。
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