嘘つきの再会は夜の檻で
土佐岡マキ
Prologue
平日の県立図書館は人影もまばらだった。老人や中年女性が数人ほど、書棚の傍で本を眺めている。貸出カウンターには係が一人座っていたが、貸出希望者がいないため、その視線はコンピュータの方を向いて事務作業を進めている。
新聞特有の、薄くザラリとした紙面を指先でなぞる。古紙とインクの匂いは濃さを増しているが、ここ数年の間は、ほとんど誰にも触れられなかったに違いない。それなりの経年劣化はあるが文字の輪郭ははっきりしていて、古い情報も当時のままに読み取れた。
毎日大量に発行される新聞や雑誌だが、同じだけの量が実にあっけなく処分される。わざわざ全て保管しているのは、図書館ぐらいのものだ。文字通り、保管。新鮮さを失った紙面は目を通されることもほとんどなく、ただ書庫に眠る。たった今広げた新聞も、古びた他の本たちとともに数十年かけてゆっくりと朽ちていくのだろう。
きっとどんな出来事も、こうして媒体とともに忘れられてゆくのだ。
忘却は自然なことであり、人が生きる上で健全さを保つ機能の一つ。大抵の人間は、新しいことに興味を持ち、古いことは忘れていく。そうしなければきっと、生きていけないからだ。喜びも悲しみも、全て背負うには重すぎる。
しかし、忘れたくても忘れられないことがある。また、その逆で、忘れたくないのに忘れてしまうことだって。
例えば、自分の人生を変えるような出来事なら、人は忘れられるのだろうか。
透夏にとってそれにあたるのは、ひとつしか思い浮かばない。
***
時の流れは速いもので、あの事件からもう八年が経つらしい。経つらしい、とこういう風に言い回しが曖昧になってしまうのは、透夏自身の記憶も曖昧だからだ。
何しろ事件が起こった前後は、その日付すら特に意識はしていなかったのだから。
当時の新聞・雑誌・報道番組などの各種メディアは、連日に渡って『事件』に関する情報を吐き出し続けていた。それらの情報は正確に真実を述べたものだったかもしれないし、世間に迎合して脚色されたものかもしれない。
実のところ、現時点で透夏が知っていることは、先述したメディアから得た後付けの情報がほとんどだった。
当事者として第三者からの追求を受けたこともある。しかし、あの日に関する記憶はどうにも断片的で、証言しようにも重要な要素が欠けているように感じていた。とある週刊誌の言葉を借りるなら、『痛ましい経験』をした所為かもしれない。
それ故、あの日に関する出来事とは、どこか他人事のような距離感を保って八年の日々を過ごしてきた。
あの日のことは、どうでもいいことの方がかえってよく思い出せる。
蒸し暑い夏の日だった。外はまだ明るかったが、母親が帰ってきていたから、それなりの時間だったはずだ。
古いアパートの台所には磨りガラスの窓があって、鱗のような凸凹模様が入っていた。その窓から入る西陽がきつくて、目をうまく開けられなかったのが記憶に残っている。
いつもなら飾り気のない部屋の角に、その日は何故か花束が投げ捨てられてあった。ぐちゃぐちゃに踏み荒らされて無残なそれは、場違いなほど甘ったるい匂いをさせていた。戸も窓も閉め切っていたから、息苦しくて胸焼けを起こしたのだった。部屋の中は蒸し暑かった。ベタベタとまとわりつくような空気が不愉快で、とれたシャツのボタンは後で縫い付けようと思っていて。それから、もう一つ。
初めて唇に触れた他人の熱は、鉄錆の味だった。
あつい。
もう一方の手が透夏の顔に伸ばされ、目尻を拭ったから、そこで初めて自分が泣いているのに気が付いた。本心を隠すのに長けた彼が、そのときはどうも途方にくれた迷子犬のようで、無性におかしかった。状況が違えば、彼のそんな様子を茶化して笑い声のひとつでも上げたかもしれない。
気まずい空気のまま、互いに取り繕う余裕はなかった。いつもの彼は、思ってもいないことを平気で口にする癖に、このときに限っては巧くいかなかったらしい。常なら饒舌になる彼が、何も言わなかった。言えなかったのかもしれない。追い詰められていた。誤魔化しようがないほどに。
懸命に言葉を選んでは言い淀んで、透夏の印象に残っているのは一言だけ。
「ごめん」
この他には何も言わなかったように思う。言い訳じみたことすら、何も。
彼がどういう意図で謝罪したのかは未だに分からないままだ。それどころか、そう言った彼の表情も、自分がどう言葉を返したのかも、透夏は覚えていない。
意識を失って次に目覚めたとき、彼――
時々怖くなる。自分の頭の中には、あの日の真実なんてもう何も残っていないのではないか、と。だが、何かが頭を掠める瞬間も確かにあるのだ。想起のきっかけは様々で、その度に期待して、真実に届かず落胆して。
閉ざされた記憶をこじ開けるには、まだ足りないものがあるのだろう。
***
児童書コーナーの近くで一組の親子を見かけた。若い母親が、笑い声を上げた娘を居心地悪そうに嗜めている。
自分もあんな風に母親と図書館に来たことがあっただろうか。もしかすると、幼い
母は透夏の唯一の家族だった。
そして、今はもういない。
あの日、母が死んだ。殺された。
容疑者の名は西末悠――透夏の友人だった。
□□新聞 ××年七月二十日
『アパートで隣人母娘を殺害・暴行 男子中学生に事情聴取』
十九日の午後六時十五分ごろ、市内のアパートの住民から、「激しく争っているような物音が聞こえる」と通報があった。
警官が現場に駆けつけたところ、江波ゆり子さん(三十八歳・事務職)が自宅で血を流して倒れているのが発見された。ゆり子さんは病院に搬送された後、死亡が確認された。ゆり子さんの腹部には刺し傷があり、死因は失血死と見られている。
また、同じ部屋に倒れていた娘の江波透夏さん(十五歳)も病院に運ばれたが、命に別状はない。透夏さんの顔や体には殴られたような後があり、警察は殺人及び傷害・暴行事件として捜査を開始した。
事件後、現場の近くに住む男子中学生(十四歳)が「自分がやった」と証言しており、警察は事件に関わる重要参考人であるとして詳しい事情を聞いている。
***
透夏は新聞を返却し、通い慣れた図書館を後にした。事件に関連する記事をコピーしようと思っていたが、結局やめた。新しく気付くようなことも無く、記憶を取り戻す鍵にはなりそうもなかったからだ。
透夏が持っていない鍵を握っているとしたら、あとはもう西末しかいない。
今更、西末と会うことを前提に考えているのは、透夏自身も奇妙に感じていた。透夏は八年前の彼しか知らない。メディアが語る、少年犯罪者としての彼しか知らない。透夏の人生を変えた彼しか知らない。
だが、母を奪ったことへの憎しみは不思議と湧かないのだ。その根拠となる記憶すら、あの日に置いてきてしまった。それさえ取り戻せたら、彼に対して何か言うことが見つかるかも知れない。
西末とは一つ、約束をしていた。今となってはそれが有効かどうかも分からない。だが、もし有効なら、西末は必ず透夏に会いに来る。
約束通り会いに来たなら、そのときは――
十一月に入り、夜が早くやってくるようになった。五時にもなると辺りは真っ暗だ。早めに点いた街灯が、チカチカと頼りなく明滅している。足元がよく見えない。
頬を打つ風に肌寒さを感じ、透夏はシャツの襟元を強く押さえた。
歩を進めるたびに枯葉がザクザクと音を立てる。並木の葉はほとんど落ちてしまっていて、あちこちに伸びた黒い枝が夜空を裂いていた。
もうすぐ、冬が来る。
もうすぐ、会える――はずだった。
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