通り魔(1)


 家の中の暖かさにほうと息をついて、恭二きょうじは通勤カバンを下ろした。十二月半ばにもなれば、車庫から玄関先までの短い距離を歩くだけで頬が凍ったようになる。手袋を脱ぎ、そのまま着けずにいたのも失敗だったかもしれない。

 かじかんだ指先の、不自由な手指の感覚を引きずって何度も擦っていると、奥から足音が聞こえてきた。母が出迎えに来たのだろう。

「ただいま」

「おかえりなさい」

「ん?」

 遅れて帰宅の挨拶を告げると、答える声がいつもと違う。恭二は、予想外の出迎えに一瞬動きを止めた。見慣れたエプロンを来て奥から顔を出したのは、母ではない。

「お邪魔してまーす」

「美幸、何でいるんだよ」

 驚いたトーンで名を呼ぶと、目の前の女は、まるで悪戯が成功した子どものように微笑んだ。

 小倉おぐら美幸みゆきは、恭二が高校時代から親しい付き合いを続けている相手で、俗で率直な表現をするなら彼女というやつだ。今夜は会うはずだっただろうかと、冷や汗を滲ませたところで、こちらの様子に気付いたらしい美幸からフォローが入る。

「買い物にいったら、まき子さんに会ってね、誘われたの。今晩はすき焼きだからぜひ寄っていきなさいって」

 その話を聞いて安堵する。恭二が約束を忘れていたわけではないらしい。

「突然で悪かったな」

「全然。すき焼きなんて久しぶり。お肉たくさん食べちゃう」

 美幸は時々ではあるが、こうして食卓に交ざることもある。母のまき子が無理に誘ったのかと心配したが、嫌々という風に見えないのは安心材料の一つだ。

 会話の間に美幸は、恭二が脱ぎ散らかした革靴を自分の靴の隣に並べ、それが終わると何かを催促するように手のひらをこちらへ向けていた。

「上着、吊るしておくねー」

 ジャケットを脱いで手渡すと、美幸は勝手知ったる様子で部屋の奥に向かっていった。

 恭二は先に台所に向かった。台所の方からは、包丁の軽快な音に混じって鼻歌が聞こえる。きっと思わぬ客人を捕まえた母が、機嫌よく夕食の準備をしているのだろう。いつも黙々と食べる夫と、何を出しても気のない返事の息子に比べたら、「美味しいです!」とニコニコしながら食べる美幸の存在は嬉しいに違いない。

「母さん、ただいま」

「あら、恭二。あんた今日は早いのね」

「ああ、まあ……美幸、来てたんだな」

「そうそう。スーパーでバッタリ会ってね、久しぶりにご飯食べにいらっしゃいってことになったの」

「何、また強引に誘ったわけ?」

「失礼ね。そんなことないわよ。すき焼き食べたいって言ってくれたもの」

「母さんの迫力に負けたんじゃない?」

 軽口を叩きながら、こちらを睨む母親を尻目に冷蔵庫から缶ビールを出す。しかし、プルタブを開けようとしたところで、缶は恭二の手から取り上げられて宙に浮く。いつの間に近くに来たのか、美幸の手が缶を持ち上げていた。アーモンド型のぱっちりとした目を細め、唇を尖らせて茶化すように言う。

「もう、そんなこと言ってると、恭ちゃんのお肉全部貰っちゃうぞ」

「美幸ちゃんグッドアイデア。母親に向かってこんな口を利く嫌味な息子には、白菜だけで十分よ。遠慮なしに食べなさいね」

「わ、まき子さん大好き」

「ま、嬉しい」

 屈託なく笑う美幸に、まき子も釣られて笑い声をあげた。

 母のまき子は口が達者で少々強引なところがある。人によっては煩わしく感じることもあるだろうが、美幸はそれなりに仲良く付き合っているらしい。

 結託した女達に口で対抗するほど命知らずではない。分が悪いと悟った恭二は、やれやれと首を振ると、着替えをしに奥へ引っ込んだ。

 恭二がラフな服装に着替え、今度こそ喉を潤したところで、二回続けてチャイムが鳴った。続いて、はあい、と家人のように返事をする美幸の声。一言二言と言葉を交わし、客人はどうやら家に上がり込んだらしい。

「何、他にも誰か呼んでたの」

「そりゃあ私だってね、美味しいって言ってくれる女の子達がいた方が、作りがいがあるってものよ。あんたはいっつもこっちの苦労も知らないで……」

 始まった母の小言を聞き流しつつ、美幸の後ろから現れた姿に視線をやって、息を飲んだ。

「こんばんは。お邪魔します」

「さっきメールしたの。透夏も来てって」

 美幸の言葉を聞くまでもなかった。間違いようがない。一つ年下の従妹だ。

 前回家に来たのはお盆だったから、四ケ月ぶりという計算になる。その時よりも頬の輪郭が固くなり、少し痩せた気がする。眉にかかる程度の長さだった前髪も少し伸びて、今は額の真ん中で分けられていた。

「透夏、もっと頻繁に帰ってこいよ。ちゃんとメシ食ってんのか」

「食べてるよ、一応」

「一応って。それ絶対食べてないだろ」

 軽口こそ叩けているものの、恭二は久々のやりとりに少し緊張を覚える。透夏の短い返答はいつものことで、特別に素っ気ないわけでもない。しかし、どうやったら上手く話せるのかを思い出せなかった。

 透夏が上着を脱ぎ、長い髪を纏めて席に着くまで、恭二は何となくぼんやりとした気持ちのままつっ立っていた。



 父親は帰りが遅くなるらしい。結局四人ですき焼き鍋をつつくことになった。男一人、女三人で食べ切るには荷が重い量だ。しかも、母や美幸は話に夢中で箸が止まりがちになっている。

 他愛もない話に花を咲かせる二人を尻目に、恭二は黙々と箸を動かしていた。火の通った野菜や肉が煮えすぎる前に取り皿によそいながら、ちらりと斜め向かいの透夏を見る。まき子や美幸の話に相槌を打ってはいるが、積極的に言葉を発するわけではない。どちらかというと食事に専念しているようだ。箸で豆腐を一口サイズに切り分け、卵を絡めて器用に口に運んでいる。

「透夏、肉も食えよ」

 恭二の発言を皮切りに、それまで世間話に夢中だったまき子の関心が透夏に向けられた。

「そうそう、一人暮らしの間の食生活、叔母さん結構心配してたんだから。自炊してるの? ちゃんと三食摂ってる?」

 訳あって透夏は、中学三年の途中から高校卒業まで、この家で一緒に暮らしていた。大学進学を機に家を出て、大学院に進んだ今では滅多に顔を見せない。話題に上る回数も減っていたが、やはりまき子も気にはかけていたらしい。

 透夏は自分に向いた会話の矛先を曖昧な笑みで躱しながら、勧められるままに具を取った。取り皿がすぐにいっぱいになったが、まき子は更に盛り付けようとして固辞される。

「うちにもなかなか帰ってこないでしょう? 美幸ちゃんはよく会うの?」

「院で見かけることはあるんですが、顔を合わせてゆっくり話すのは久しぶりです。結構忙しいみたいで」

 恭二にとって、これは意外だった。透夏と同じ大学院に通っている以上、美幸はもっと頻繁に会っているものだと思っていた。大学時代は恭二も同じところに通っていたが、その時は何かにつけて一緒にいたような気がする。

「透夏、今日も急でごめんね、無理させちゃった?」

「ううん。バイトもなかったし、ちょうど良かった」

 透夏は薄く微笑む。まき子が眉をひそめて言った。

「大学院ってそんなに忙しいの。アルバイトも多いみたいだし、心配だわ。学費とか生活費とか、遠慮しないで言いなさいね」

「ありがとうございます。貯金もあるし、なんとかやっていけてます」

「あら、そう? ならいいんだけど……」

「何かあったら遠慮なく頼れよ」

「うん、ありがとう」

「やだ。ちょっと、ねえこれ」

 その時、隣に座った美幸が恭二の服を引っ張った。何かとそちらを見ると、美幸の視線は別の方向に釘付けになっている。つけっ放しのテレビが、夜のニュース番組に切り替わっていた。ニュースキャスターが冷静に、しかし僅かな憤りを滲ませてトップニュースを取り上げているところだ。テロップに物騒な文字が一瞬見えて、思わず身を乗り出す。それに釣られてテレビを見たまき子が、甲高く大袈裟な声を上げた。

「まあ、通り魔ですって。近くを変な人がうろついてるなんて、怖いわねえ」

「落ち着けよ母さん、近くったって駅二つぐらい離れてるだろ」

「だって」

「ねえ……これ、透夏の家の近くじゃないの?」

 落ち着かない様子のまき子に、美幸の発言は火に油だった。悲鳴のように引きつった声が耳に刺さる。

「本当なのっ」

「はい、同じ町内ですね。もしかして見かけたことある人かも」

 取り乱すまき子に対し、透夏は落ち着いて言葉を返す。しかし、その答えは一層不安を煽る結果となった。顔を顰めて声を失うまき子に、美幸からフォローが入る。

「最近物騒だから、透夏も気を付けてますって。アパートの入口オートロックだし、バイトも遅くなるときは知り合いが送ってくれるって。ね?」

「うん、叔母さん、大丈夫だから」

「そう? でも、本当に気を付けないと。ね、恭二、ちゃんと二人とも車で送ってあげなさいよ」

「うるさいなあ、言われなくてもそのつもりだって」

 尚も不安げなまき子が再びテレビに目をやるその横で、透夏が美幸に向かって口を動かす。音にならない声は、おそらく『ありがとう』だ。美幸も、まき子に悟られないように小さく頷き、笑い返していた。



 後部座席に透夏と美幸。助手席は空っぽ。この三人で車に乗れば、こういう配置になるのは分かりきっていた。

 後ろでは他愛もない会話が続いている。よく話のタネが尽きないものだ。美幸の話に笑いながら相槌を打っていた透夏が、ふと声を潜めた。

「さっきは叔母さんの手前、ああ言ったんだけど。あの人、知ってる人なんだよね」

「あの人って?」

「テレビに出てた人。通り魔に……」

「刺された人!? うそっ」

「本当。同じゼミの先輩」

「えー、同じ大学? こわっ」

 透夏の声は、知り合いが刺されたにしては、落ち着いたものだった。だが、内心はきっと動揺しているに違いない。まき子の前では明かさなかったことを、恭二と美幸に話したのは、心細さからかもしれない。

 近くのコンビニの前で降車しようとした透夏を、二人がかりで説き伏せて家の前まで送った。

 透夏が住んでいるというアパートは特に新しくもない普通の造りだった。中学生まで透夏が暮らしていたアパートに、雰囲気が似ている気がする。一階エントランスの扉はオートロックだというが、防犯カメラはなく、管理人が常駐しているわけでもないらしい。セキュリティ面は少し不安だ。

「本当に大丈夫? 私泊まろうか?」

 美幸がした提案に透夏は首を振る。

「大丈夫。美幸の家だってそんなに遠いわけじゃないでしょ。お母さんきっと怖がってるよ」

 母のことを出されて美幸が黙る。図星を突かれたらしい。

「だから早く帰ってあげて」

 見送る様子の透夏に窓だけ開けて声をかける。

「本当に、何かあったらいつでも連絡してこいよ。見送りはいいからすぐに入れ」

「うん、おやすみ」

「おやすみ」

 ウィンカーを出した後、ちらりとバックミラー越しにアパートの方を見た。透夏はまだ階段の前で立ち止まっている。

 そのまま車が発進するまでずっと、こちらを見ていた。

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