26.会いたかった人
観念し、マサキは力を抜いた。しばらく前から、誘うような流れに取り巻かれていることに気がついていた。
意識を委ねようとしたマサキの耳が、タキの声を捉えた。
『奴ら、ナズナさんのところに』
『俺が行く。タキ、お前はユズに知らせろ』
『了解。気をつけて』
遠ざかっていく二人の遣り取りにマサキは、踏みとどまろうと足掻いた。流れは彼の意思に構わず、静かだが有無を言わさぬ強さでマサキの意識を運び去っていく。
(待て。行けば殺される。とにかくお前だけは逃げろ)
あらん限りに叫んだつもりだが、口いっぱいに詰まった何かに遮られ声が出ない。駆け戻ろうにも、靴底が捉えることのできるものがなかった。
もがくうちに、ようやく足先が何かを蹴った。が、今度は明らかに物理的な力で腕を引かれた。
「ダメ」
聞き覚えのある声。相手を見定めようとしてバランスを崩し、マサキは後ろに倒れた。水音と飛沫を感じるが濡れた感触はない。相手もまた、倒れた衝撃で拘束を緩めた。相手より先に、とマサキは体を起こした。
「戻らせてくれ。あの子が危ない」
マサキは胸の上にのしかかる重みを払いのけようと腕を上げた。
「諦めて」
凛とした制止に、まじまじと、自分を引き止めているものの姿を見つめる。彼女は、乱れた栗色の髪を細い指で掻きあげマサキを睨んでいた。
「無理に戻れば、マサは永遠に狭間を彷徨う悪魂になって、浄化できなくなっちゃう」
「しかし、ハジメが。いくらなんでも、尋常じゃない相手だ。行かせるわけにいかない」
「分かってる。見ていたから」
彼女は目を伏せた。そっと、マサキの頬に手を当てる。
「でも、私たちはもう、見守るしかできないの。もし何かができるのなら、あんなにマサに苦しい思いをさせなかった」
涙を浮かべる姿に、マサキは自分の身体を見下ろした。
至近距離からの発砲に吹き飛ばされたはずの指がある。無数に刻まれた刃傷の痕跡も綺麗に消えていた。ただ、すでに身体的特徴になっていた右手甲の古傷は残っていた。
座り込んだ腰の辺りまで、とうとうと透き通った水が流れている。水流が肌を撫でる感触はあるのに衣服は濡れない不思議さに、何度か手で水を掬った。川上も川下も、対岸すら見えない。目を凝らせばただ、白というより何も見えず目が痛んだ。
(たどり着いて、しまったんだ)
地郷では、死んだ人の魂の案内人として、すでに彼岸へ旅立った魂の中でただひとり、死者が最も逢いたい人が、この世界の境を流れる川に現れると言われていた。
座り込んだ膝の間の流れに手をついている懐かしい人の姿を見つめた。彼女は記憶のままに若く、勝気な眼差しでマサキを見ていた。
やはり、自分が最期に逢いたかったのは、彼女をおいて他に居なかった。
「サクラ」
ようやく名を呼ばれ、サクラは静かに微笑んだ。
「あなたは十二分にあの子のため尽くしてくれた。後は、任せるしかないわ。私たちの役目は終わったのよ」
礼を囁かれ、堪えきれずマサキは華奢な彼女の肩へ腕を回した。緩やかにうねる栗毛が頬をくすぐる感触も懐かしい。
「ずっと、逢いたかった。本当なら、もっと早く」
漏れ出た本音に、サクラが腕の中で何度も頷いた。
足元を水が流れる。透き通っているのに、川底は砂なのか石なのか、分からない。ただ、何も履かないナズナの脛をくすぐり、濡らすことなく過ぎていく流れがどこまでも続いていた。
意識が離れる直前に、ハヤトが呼ぶ声を聞いた。彼は約束を守り、戻ってきてくれた。しかし、彼の声を聞いた直後、ナズナの意識は強い流れに攫われてしまい、気がついたら悠久の流れの中に立っていた。
(あたし、死んだんだ)
それでも、後悔していない。脅されても、最期まで狩人の言いなりにならなかった。あの男が垣間見せた悔しそうな顔は見ものだった。
未練はある。
ハヤトに出会えてからの日々は、喜びに満たされていた。花火のように鮮やかで儚いものだったが、幸せだった。叶うものなら最期に、礼を伝えたかった。
もう、側で慰めることすらできない。ただ、遠くに彼を感じ、見守るしかなかった。
せせらぎに混じって、細くハヤトの泣き声が聞こえていた。そっと、ナズナは胸を押さえた。
(ごめんね。一緒に生きられなくて)
小さく水が撥ねた。数歩前に、懐かしい人が佇んでいた。透き通るような白い肌を縁取る、艶やかな黒い髪。
「お母さん」
迷わずナズナは、広げた母の腕に飛び込んだ。優しく撫でられる髪は、男の手から逃れるため自ら切り落とす前の長さに戻っていた。腹部や胸に刺さったはずの矢も矢傷も消滅している。
生前もそうであったように、母は優しくナズナを呼んだ。
「いい人に出会えたのね」
ナズナは頷いた。
途端に、ハヤト恋しさに涙が溢れた。彼を守るため選んだ道とはいえ、本音を言えばもっと長く共に生きていたかった。それに。
腹部に手を当てる。ここに宿った命もまた、消えてしまった。
母は、何も言わず髪を撫で続けてくれた。懐かしい母の胸で、ナズナは幼い子供に戻ったように泣きじゃくった。
「いい人だった。優しくて、強くて、脆くて、危うくて。あたしのことを大切にしてくれて、あたしの大切な人だった」
彼はナズナを幸せにしてくれた。しかし、彼に生き続けていて欲しいと願うあまり、自分は彼を不幸にしてしまったのではないだろうか。
幼い時から、数多の犠牲の上に生きていた彼は、何より自分のために犠牲がでることを嫌っていた。そうと知りながら、やはりナズナは、あの男に彼の情報を渡したくなかった。
遺された彼の哀しみは、いかほどか。もっと時間を稼ぎ、彼と共にここへ来たほうがよかったのではなかったか。
「あたし、彼に酷いことをしてしまった」
涙目で見上げると、母は悲しそうな笑みを浮かべて首を横に振った。
「何が幸せなのかは、その人自身が決めることよ」
「彼は、ハヤトはこの先、どうなってしまうの?」
助けるには遅かったにしても、彼は約束通り戻ってきてくれた。しかし、小屋を完全に包囲した狩人が、ナズナを矢で射った後大人しく引き下がったと思えない。狂気じみた狩人の男が見せた残忍な笑みを思い出すと身震いが止まらなくなった。
「彼は、無事なの? あたし、彼がすぐにこちらに来るなんて望んでない」
「それは、誰にも分からないことよ」
優しく諭された。でも、と母はナズナの額に自分の額を合わせた。ずっと見上げていた母の額が、成長した自分と変わらない高さにある。
「誰にでも、願うことはできる。その願いが、ときに届くこともある。テゥアータの力を持った彼なら、感じることもあるかもしれないわね」
「力を持っている?」
ナズナは首を傾げた。意味深な笑みを返した母の両手が、ナズナの手を包み込んだ。記憶のままの、肉付きが薄くひんやりとした優しい手。
「選択肢は、まだ彼の掌中にあるわ。どうなるかは彼次第。ナズナも一緒にここから見守りましょう」
「一緒に、て」
尋ねた刹那、ナズナは感じた。自分が彼を想うように、無数の願いのようなものが辺りに漂っている。目に見えず、音もなく、感触も無い。だが、不思議と確かにそこにあることを感じる。テゥアータの力とは、このようなものなのかと漠然と考えた。
たくさんの想いが、彼を見守っている。
熱いものが胸の奥底から湧き起こった。ナズナは振り返った。背後もまた、細かい靄が光を乱反射させたように仄かに明るく、白い虚空が続いている。
「ハヤト」
叫び声は、どこまでも吸い込まれていった。
「あたしは、あんたと逢えたこと感謝してる。あんたは生きて。幸せを掴んで」
吐ききった息を吸い戻し、両手を口の脇に添えた。腹の底から、声を張り上げた。
「すぐに来たりしたら押し戻すからね!」
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