21.過去からの援護

 喜びで、体がはちきれそうだ。屋根を打ち付ける雨音が強くなるにも関わらず、彩羽の中では抜けるような青空が広がっていた。


「約束、する」


 彩羽の答えに、ハヤトも満足そうに頷いた。


「実は今日、そのことを話そうと思って来たんだ。だから、用意はある」


 ただ、とハヤトは表情を曇らせた。


「少し待てと、言われた。その間だけ、今まで通り、何もなかった振りをして仕事をしていて欲しい」


 誰に言われたのか。気になるが、カゲの仕事に関わる人物なのは確実だろう。踏み込んではいけない一線を感じ、彩羽は問いを変えた。


「少し、って」

「そんなに長い間じゃない、とのことだ。もうしばらく雨が続くのを願っておけと」


 今年の春の雨は、例年に比べて日数も降る量も多い。耕作に携わる村人ばかりか、食材の値上げを懸念する町の者も、早く止むことを願っている。

 それを、続くよう願うとは。

 首を傾げる彩羽に、ハヤトも首の裏を掻きながらため息をついた。


「何を企んでいるんだかなぁ、あの人は。ま、悪くはしないと信じるしかないけど」


 あの人とやらを信用するしかないが、彼の呆れ半分、怪訝半分の表情をみると、近い未来、何に巻き込まれるのかと心配になった。


 彩羽の顔が不安で雲っていたのだろう。目が合うと、ハヤトは例の、自信に満ちた笑みを浮かべた。


「大丈夫。ただ、他の誰にもこのことを悟られないよう、口は封じてくれ」


 彩羽は彼にしがみつき、嬉しさを堪えきれるか心配しながら頷いた。




 彩羽が願う、願わないに関わらず、雨は続いた。


「嫌ね。このままじゃ、店が沈んじゃう」


 可能な限り調味料を棚に上げるよう女たちに指示を出しながら、宮美が眉の端を下げた。流花町がある中州は、勢いを増す濁流に囲まれて平常より小さくなっていた。


 客足もまばらだった。


 稼ぎが減る、と不平を言うことはできない。逆に、このようなときにすら来店する客の家族は花街の女を酷く憎んでいるのではないかと考えると、落ち着かない。かといって、折角足を運んでくれる常連を門前払いにすることもできず、宮美は店にあるだけの食材で出せる料理は何か、調理係と相談していた。


「大丈夫なんですかね」


 さすがの沙月も、いつもの勝気な表情を出せず店主の意見を求めた。店主も、すっかり落ち着きをなくしていた。意味も無く歩き回り、あちらこちらの壁を叩いたり天井を見上げたり、一刻としてじっとしていなかった。


「こればかりは、どうにも。ミカドのお力で雨雲を払っていただきたいものだ」


 もしミカドにそのような力があるなら、ミカドこそテゥアータの民ではないのか。彩羽は密かに思いながら、灰色に塗り込められた景色を見やった。


 雨が降り続くよう願えと言われたからには、これは吉報に違いない。が、川縁の桜の根元が水に沈んでいるのを見ると、不安を通り越して恐怖を感じる。

 手の甲の焼印に囲いがある女たちの部屋は、川に張り出すよう建てられていた。そのため、一部はすでに床から水が上がっていた。宮美の計らいで、奥の間のひとつが避難場所としてあてがわれたが、店そのものが流されないか不安だ。


 酒場に散らばって座る数名の客も、川の増水に脅かされ始めた。


「こりゃ、早めに退散しないと橋が流されちまいそうだな」


 二人連れの客が、そそくさと会計を済ませて雨の中を走っていった。


「雨季とは言え、今年はまたよく降りますね」


 初老の客は、このような事態になってもゆったりと酒を楽しんでいる。空いたテーブルを挟んで彼の言葉を聞きつけた中年客が、酒の器を片手に頬杖をつき、降りしきる雨を眺めていた。


「村に被害が出なければいいのですが」

「ああ、あちらこちら、崖崩れが頻発してますからね」


 初老の客も応える。

 雨は、細く長く、店の屋根を濡らし続けていた。


 突然、奥の間に通じる廊下から鈍い音が響いた。


 店主が青い顔で、カメのように首をすくめた。女たちは怖がって、なんとなく沙月の周りに集まる。


「て、店主」


 宮美ですら、青ざめた顔で彼の指示を求めた。万が一に備えて酒場の隅に控えていた女守衛が、そろりと立ち上がる。


「様子を、見てきます」

「わ、私も、行くぞ」


 足を震わせながら、店主も彼女に続いた。不安そうな顔をしながら、宮美も続く。


「みんなは、ここで待っていなさい。頼んだわよ、沙月」


 女たちを任され、沙月は喉を大きく上下させた後、頷いた。


「なにがあったのかしら」


 古くから勤める女が、さりげなく初老の客にすがる。彼もまた、白い眉の下の目を奥の間への入り口へ向けていた。


 奥の間から、店主の細い悲鳴が響いた。つられて、酒場の女たちが悲鳴をあげた。


 見兼ねたように、中年客が立ち上がった。


「ちょっと、見てきます」


 咄嗟に彩羽は彼の後を追った。客が女の案内無しに奥の間へ入ることは許されない。あちらには守衛がいる。何かあっても彼女が対処してくれるはずだ。ここは、客を引き止めるべき。


 理性の声に耳を塞ぎ、彩羽は彼の前に立つと鋭く言った。


「ご案内いたします」

「頼む」


 野次馬根性と蔑まれても仕方ない。怖いもの見たさが先立ったが、ひとりで様子を見に行くのは気が引けた。だが、宮美の客である常連の彼が付いてくるなら心強かった。


 甲高い店主の喚き声は、続いていた。増築した、廊下の最も奥の部屋からだ。開いたままの扉が、蝶番を軋ませて揺れ動いている。


 このまま進んでいいのか。躊躇い足を止める彩羽の脇をすり抜け、客が先に進んだ。


「どうされましたか」


 部屋に駆け込む彼の服が、風に靡いた。


 意を決して、扉を盾にして室内を覗き込んだ彩羽は、あ、と声をあげた。

 まだ新しかった壁が、無残に崩れ落ちていた。降り続いた雨が漆喰の間から滲みこみ、厚く塗りこめた土壁を脆くしていったのだろう。中の骨組みが露になっていた。雨風が吹き込む。


 しかし、店主の嘆きの対象はそれだけではなさそうだった。


 彼は、崩れた壁の一部を抱え込み、浴びせられる宮美の問いにわけの分からない弁明を繰り返していた。まるで正気の沙汰ではない。


「何が」


 守衛に問うが、彼女もまた、武器である棍棒の端を両手で握ったまま首を傾げていた。

 店主の前に仁王立ちになる宮美の近くに行くと、彼が抱え込んでいるものが僅かに見えた。壁土に半分埋もれるように、何かある。


 呆れ果てた顔の宮美が、腕を組んだ。が、思いなおしたように濡れた床へ膝をつき、店主へにじり寄った。


「あなたの仰る通り、それがただの壁土の節約として埋めたものなら、なにも隠す必要もないじゃないですか。ねぇ。それを、見せてくださらない? 私の勘違いかもしれませんし」


 甘い声でささやきながら、じわじわと店主との距離を縮めていく。


「この場で色仕掛けか」


 中年客が肩をすくめたのが、すぐ隣に感じられた。


 店主の慄き方は異常だ。抱えた包みは余程のものに違いない。彩羽も気になった。降り込む雨も気にならないほど注意を奪われた。

 ふと、客が動いた。


「ちょっと失礼」


 店主の脇から腕を伸ばし、簡単に包みを持ち上げる。すり寄る宮美にすっかり気をとられていた店主は、突然出来た腕の中の空洞に、しばらく気が付かなかった。


「お、お客様困ります。それは機密事項で」


 すがりつく店主の腰は、床から離れられなかった。震える指先の遥か高みで、客が包みの汚れを無造作に手で払う。

 現れたのは、油紙の表だ。幾重にも重なるそれをはがしていくと、帳面が数冊出てきた。

 宮美の目が、刃先のように細められた。


「ここにあったのね」


 客から差し出された帳面の中を検め、彼女は勝ち誇った笑みで彩羽を振り返った。


「彩羽、朗報よ。青蘭が残した財産をあなたの売り上げに計上すれば、あなたの借金は残り僅か。この調子で半年も勤めれば店を出られるわ」


 彩羽は、秋くらいに宮美が耳打ちした言葉を思い出した。


 探し物をしている。


 彼女が手にしているものが、目的の物なのだろう。


 不意に背後から声がした。


「ほうほう。役場勤め当時の謎が、これで解けそうですな。亡き青蘭の遺産の計算がどうにも合わなくて、退職後も夢に見ておりましたから」


 初老の客が人の良さそうな顔に笑い皺を刻み、繰り返し穏やかに頷いていた。彼の後ろを見れば、扉の縁に女たちの顔が並んでいる。

 店主が、泡を吹かんばかりの悲鳴をあげた。


 宮美は、帳面を初老の客に渡した。ページをめくり、彼は床に這い蹲る店主に、あくまでも優しい眼差しを注ぐ。


「で、どうされますか。素直に訂正申告をして追徴金を支払われるか。それとも、こちらの女性方に訴えられ、地郷公安部のお世話になるか。証人ならほれ、ここに十名以上はおりますからな」


 幾つもの目が、店主に集まっていた。咄嗟に逃げ出そうとした彼の肩を、中年客が流れるような動きで押さえ込んだ。

 観念した店主は、小さくうずくまった。


「ご、ごめんなさい」


 怒る気も失せる哀れな声が、雨音に半分かき消されていた。


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