20.待ち人

 ハヤトの隣で満開の桜を見たい。


 願ったところで叶うはずもなく、七日降り続いた雨で花はほとんど散ってしまった。客の靴に張り付いた色あせた花弁が室内で乾き、酒場の床ばかりか奥の間の廊下にも点々と春の名残を刻んでいる。


 新参の澄鈴すみれが客を見送った後、沙月へ嬉しそうに話しかけていた。


「さっきのお客様、私の身を請けてくださるって」


 澄鈴は、村の娘だった。近年頻発している崖崩れによって畑も家も流され、領主へ税を納めることが出来なくなったため流花へ売られた。幼い時から陽の下で過ごしていた肌は浅黒かったが、愛嬌がある。調理や繕い物が上手で、辛いことをやり過ごす我慢強さもあった。しかし、世間に疎いため、どこか楽観的なものの見方をする女だった。

 沙月が、にこにこと応じた。


「あらぁ。すごいじゃない。良かったわね」


 人の良さそうな、穢れなど全く無いと見える笑顔が実は、薄っぺらい紙の仮面であることを彩羽は知っている。本音では、男の軽口をすぐ本気にする澄鈴の純粋さを嘲っているにちがいない。


 そのようなことを未だ知らない澄鈴は、頬を高潮させ、すぐにも忌まわしいこの身分から抜けられるのではないかとはしゃいでいた。


 彩羽は酒の載った盆を手に、静かなため息をついた。

 少し良かったからと、社交辞令として身請けを口にする男はごまんといた。本気にしては、後でこちらが傷つく。


(変に期待させないほうがいいのに)


 しかし、と考え直す。


 今朝まで、売られた身を嘆いて沈みこんでいた澄鈴が、幻想によってでも元気を取り戻したのは良い傾向なのか。

 その辺りの人のあしらいは、何事も生真面目に受け取る彩羽より、実家の商売でたくさんの人を相手にしてきた沙月の方が長けていた。


 澄鈴のことは、沙月に任せよう。口を出すのを止めにして、彩羽は薄布を重ねた入り口を潜った。 


 注文の酒は、収穫量の少ない赤米から醸し出したものだ。ランプの光を透かしてほんのり桜色に揺れる。その名も「桜舞」という、期間限定の一級酒だった。

 客に出すのは今夜が最後。明日からは、暦も先夏となる。


 春の間、ついに待ち人は現れなかった。


 白い花輪の前に立ち、深呼吸をした。客は先に通してあると言付かっている。

 吸い込んだ息を、細く長く吐ききった。心を沈める。頬の筋肉を引き上げて自然な笑顔を作る。こうして「彩羽」が出来上がると、ようやく扉をノックした。


「彩羽でございます」


 ゆっくり頭を上げた彩羽は、すんでのところで盆を取り落とすところだった。


「よ」


 軽く手を挙げた姿に、足が震えた。色眼鏡越しの柔らかな眼差しに、胸の奥から涙が込みあがった。


 どうにか机に盆を置くと、堪えきれず彼の袖を握った。


「もう、来てくれないのかと」


 申し訳なさそうな弱い笑みに、不安もまた頭をもたげた。

 カゲとして、彩羽を消しに来たのか。

 伸びてきた腕に引き寄せられ、肩に埋められた頭を緊張しながら受け止めた。短く固い茶色の鬘の毛先が頬を刺激する。


「もう、来ないつもりだった」


 耳朶をくすぐる彼の声に、目を閉じた。耳を寄せた彼の肩から、鼓動が聞こえる。夢ではない。彼は、本当にここに居る。


「俺のせいで、彩羽を危険にさらした。悲しい目にも遭わせた」


 ごめん、と続いた謝罪に、彩羽は慌てて首を振った。

 謝らなければならないのは自分の方だ。彼が災いをもたらすのは、彼のせいではない。


「あたしこそ、謝らなきゃ。疑って、信じることができなくて」

「それが普通だ。俺が、甘かった。あんたなら信じてくれると、思い込んでいた」


 でも、とハヤトは少し笑ったようだ。


「許してくれて、嬉しい」


 背に回された腕が、強まった。首筋にかかる息が熱い。

 飲み込むように詰まり、深く吐き出される。


(泣いているの?)


 細い肩も小さく震えている。


 どんな炎の中でも、果敢に危険を顧みず立ち向かう勇ましさ。時に嫌味を交えながらも前向きな楽観的な姿。私情を抑えて仕事を完遂させる責任感。そのような印象は影を潜めている。


 下手に触れば崩れてしまう、砂細工のような脆さ。不安定さ。

 むしろ、今腕の中で震えている方が、本来の飾らない彼のような気がした。


 何を言っても、つまらない慰めになってしまいそうだ。

 彩羽は、そっと身を引いた。顎を上げ、涙が伝う彼の頬に口付ける。


 やや躊躇った後、酒の器へ手を伸ばした。縁へ唇を当てた。紅が薄く付いた方を彼へ向け、軽く掲げた。

 意図を汲んだのだろう。彼は恥ずかしそうに袖で涙を拭くと、彩羽の手ごと器を持った。紅の名残に口付けるように薄桜色の酒を飲んだ。


「注文が酒だから、あんただと思わなかった」


 酒に濡れた唇を指先でなぞる彩羽に、ハヤトは、見慣れた顔で笑った。


「仕事じゃないから」


 心臓が、いっとき動きを止めた。再び動き始めたかと思うと、必要以上に速い。腹の奥が、煮え湯を垂らされたように熱くなる。


(だめ。だって、あたしは)


 体中を巡った熱が吐息の温度も上げた。


「あたし」


 こみ上げる言葉を押さえつけることが苦しい。声を震わせる彩羽を、ハヤトが訝しげに首を傾げて見つめる。先を促す眼差しに、腹の底から感情が噴出してきた。


 彼を待つ間、幾人もの客の腕の中で押し込めてきた想い。花街に生きる女として、たとえ一瞬でも抱いてはいけない感情。


「ずっと、あんたを待っていた。もう離れたくない」


 彼がどのような表情をしているか、知るのが怖い。顔を彼の胸元に押し当てた。頬に感じる、少し速い鼓動。服を通して伝わる温もり。微かに焦げたような匂いは、火薬の匂いだろうか。

 背に回された細い腕を、永遠に解いて欲しくない。


「あたし、もう、あんた以外の男に抱かれたくないよ」


「そんな」


 あからさまに困惑した彼の口調に、彩羽は奈落の縁をみた。


(いくらハヤトでも、受け入れられないよね)


 花街の客として、受け止めてはいけない言葉だから。


 頭では理解できても、心が収まらなかった。ハヤトが必要としてくれる限り、彼だけの自分でいたい。


 彩羽、と呼ぶ声は、優しかった。


「俺といるのは、危険だ。それに、外に出たからといって、ずっと一緒にいられるわけじゃない。仕事があるし、場合によっては逃亡し続ける必要だってある。仲間の協力を得たとしても、今のように守り続けることも難しい。あんたには、なんの防御力もないんだから」

「そう、だよね」


 何かと理由を並べて、傷つけないように配慮してくれるだけ、ハヤトは優しい。男によっては、女が本気になった途端に慌て、挙句の果てに罵倒して帰るのがオチだ。


 このまま、閉じられた籠の中で愛しい人の来訪を待つしか、彩羽の生きる道はない。わずかな日差しを待ちわび、日々の嵐をやり過ごすしか。


「それでも、いいのか?」


 付け足された問いが、彩羽の胸の奥でぱちんと弾けた。


 聞き返すため顔をあげると、ハヤトは真剣な顔をしていた。


「もちろん、俺もあらゆる手を尽くしてあんたを守る。だけど、完全に、との保障はない。危険から逃れる手段を教えることもできるけど、簡単に身に付くものでもないし。多分、あんたが考えているよりずっと厳しい生き方が始まる」


 彼の身体に刻まれた、数多の傷跡。常に本来の身を隠している鬘と色眼鏡。

 来店した狩人の男や蓮華に誘い出された路地の暗さが、彩羽を震えさせた。

 それでも。


 一筋の、金の光。細いが、確実にそこにある力強い温もり。


 湧いてきた唾を飲み込んだ。震えをねじ伏せ、意を決して頷く。


「それでもあたしは、あんたのために生きたい」

「それは、断る」


 断固とした拒絶が、再び彩羽を萎えさせた。

 愛しい人のために身も心も捧げたい。愛するとはそのようなものと思い描いていた。それを受け入れてもらえないというなら、どうすればいいのだろう。


 下唇に歯を当て考える彩羽の両頬を、ハヤトの手が包み込んだ。


「ここから出たら、あんたは自分のために生きるんだ。俺のためじゃなく。それが約束できないようなら、断る」


 額を突き合わせ、ハヤトは上目遣いで彩羽の答えを待っていた。


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